2020年10月12日

古田史学会報

160号

1,改新詔は
九州王朝によって宣勅された

 服部静尚
   編集後記

2,「防」無き所に「防人」無し
 山田 春廣

3,西明寺から飛鳥時代の
 絵画「発見」
 古賀達也

4,欽明紀の真実
 満田正賢

5,近江の九州王朝
湖東の「聖徳太子」伝承
 古賀達也

6,『二中歴』・年代歴の
  「不記」への新視点
 谷本 茂

7,「壹」から始める古田史学二十六
多利思北孤の時代
倭国の危機と仏教を利用した統治
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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『隋書』俀国伝の「俀王の都(邪靡堆)」の位置について(会報158号)
服部静尚氏の「倭国による初めての遣唐使」説への疑問 谷本茂 (会報167号)


お断り:掲載した画像は参考です。史料批判は、実見して下さい。

 

『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点

神戸市 谷本 茂

一.はじめに

 古代逸年号の諸問題に関連して、尊経閣文庫本『二中歴』・年代歴の虫食い部分と国会図書館本の模写形態および当該箇所の朱筆補記「不記」との関連性が、古賀達也氏[注一]により探査、考究されてきた。この虫食い部分について、丸山晋司氏[注二]や林伸禧氏[注三]は「記」と復元すべきとされ、古賀達也氏等は「不記」でよいとするなど、従来から「記」か「不記」かの議論があった。
 この虫食い部分を先人達(十六世紀中葉の實暁、明治期の小杉榲邨など)の復元(解釈)通り「不記」と断定してよいのか疑問が湧いたので、率直にその問題点を述べ、「本来は「不絶」であったのでは?」という仮説を提示する。

写真1③文庫尊経閣文庫本「付記」部分 写真二

 

二.国会図書館本の「不記」部分への疑念

 尊経閣文庫本『二中歴』巻第二・年代歴の当該虫食い部分(「不記」と復元されてきた)について、活字本の『改定 史籍集覧』(二十三)に所収のもの①(一九〇一年刊)、『古事類苑』歳時部・逸年号の項に引用されたもの②(一九〇八年刊)では、両者とも虫食いを示す□を付けずに「不記」と翻刻されている。
①已上百八十四年、年號卅一代不記年號、只有人傳言、自大寶始立年號而已.
②已上百八十四年、年號卅一代不記年號、唯有人傳言、自大寶始立年號而已.
ここで、①の底本は、小杉椙邨(小杉榲邨こすぎすぎむら =一八三五年~一九一〇年)の架蔵本であることを、近藤圭造が編集後記に記している。
 尊経閣文庫本③と国会図書館本(インターネット公開情報)④では、この「不記」の当該部分が、写真一および写真二の様になっている。国会図書館本は、尊経閣文庫本の比較的精密な模写本と思われる。ただし、筆者は両者の実物を未見であり、各写真は、八木書店刊の尊経閣善本影印集成の写真版および国会図書館公開のウェブ版に依った。
 古賀達也氏が指摘されたように、国会図書館本が小杉榲邨に関わるとすれば、そこに傍書朱筆で「不記」と明記(補記)されていることは、先の『改定 史籍集覧』の底本とも関連して、認識の一貫性が認められる。朱筆「不記」が、尊経閣文庫本とは異系統の伝来写本と見なされている實暁本(天理図書館蔵)に依拠して記されたものか、それとも尊経閣文庫本を実見した小杉榲邨自身の判断かは、俄かには決し難い。
 今回の筆者の疑問は、国会図書館本と尊経閣文庫本を比較すると、模写本の国会図書館本の「不記」の「記」の字画が残り過ぎているのではないか?という点である。尊経閣文庫本では「不記」に該当する部分は殆ど残存していない。模写本では、かろうじて「不記」と読めそうな字画が描写されているが、確実に読めるとは言い難い。現状の尊経閣文庫本よりも明治期の模写時の方が虫食い状態が進んでいなかったからであろう、と筆者も一時は納得していたが、改めて、国会図書館本自体を精査すると、「従来の復元(解釈)は妥当だったのか」という疑念が湧いてきたのである。

 

三.両写本の「虫食い部分」と残存部分の解析

 尊経閣文庫本は厚手の紙とはいえ、一枚の紙の表と裏に文字が書かれていて、両側の文字がかなり濃く裏映りしている。通常はこの様な裏映りは印刷を鮮明にするため、減墨処理される場合が多く、八木書店版では、虫食い部分の縁や裏映りを極力消して(薄く処理して)目立たない様にしている。(文書の現況を知るには、あまり適切な処置ではないと思うが、逆に表の文字を鮮明にして判読を容易にするには仕方ない処置である。)
 しかし、国会図書館本は、幸運にも、虫食い部分の縁を(全部ではないが)筆で描いており、学術的にも貴重である。今回、国会図書館本ウェブ版をスキャンして、表の文字に裏の文字の反転像を重ねて、紙の虫食いの状況の再現シミュレーションを試行した。写真三および写真四に示す様に、虫食いの墨跡に合わせて、表と裏(の反転)画像を重ね合わせると、模写輪郭以上に「記」の「己」に相当する部分の上部の欠損(写真四の○で囲んだ部分の右下側)が広かったのではないか、という結果が得られた。「己」に相当する部分の上側は、模写の墨の残り具合とは違って、殆ど欠損(虫食い)していたと判断できる。つまり「己」の右上の「ク」状の筆跡と最後のハネが残存していた状態だったと推測できる。安定した「己」の字画と見なすことはかなり難しい状況ではなかったであろうか。残存の上部の「ク」状の字画と最後のハネを考慮すれば、これは「色」とも読めそうである。

表・裏(反転)の「虫食い」比較

シミュレーション輪郭

写真5 付記付記 写真6 「説」
 一方、「記」の「言」偏に相当する部分の残存字画が他の箇所に出現する「言」偏の字形にあまり似てない部分があることが認められる。写真五、写真六に示す尊経閣文庫本の字の「言」偏の第一画は縦棒なのに対して、模写本の「言」偏の第一画に相当する部分は斜線のようにみえる。また、第四画から第五角への筆の流れも異なっている。さらに、「言」の下部の「口」の筆跡が国会図書館本と尊経閣文庫本とでは異なるが、尊経閣文庫本の残存部分は「レ」とも見える。したがって、写真七、写真八に示す尊経閣文庫本の字の「糸」偏も参照すると、当該欠損文字の偏は、「言」とも「糸」とも見なし得るのではないか。これと先述の「己」の字画の不確実性を併せ考えると、結局従来「記」と復元していた部分の文字は「絶」である可能性も考えられることになる。
 なお、従来欠損部分が一文字分か二文本を実見した先人達(尊経閣文庫の関係者の方々を含む)が「二文字あるように見える」とされている点を尊重して、一応、二文字と認めてよいであろう。そして、二字あったと仮定した場合、模写本には上の字が「不」と読み取れる字形が残っているのであるから、従来通りの「不」と認めてみよう。そうすると、この二文字分は、従来の復元「不記」とともに、筆者の試読案「不絶」の可能性もあることになる。
 もし「不絶」であれば、丸山晋司氏や林伸禧氏が疑問を呈されたような文脈上の問題も容易に解決し、該当文章の素直な理解が得られる。

写真七 「結」結 写真八 「糸妥」

 

四.おわりに

 両写本を実見していない立場で、本稿のような見解を提示するのが妥当かどうか悩んだが、従来の「記」か「不記」かの議論に別の視点を導入し、新しい解読を確立する有望な仮説になるかも知れない、と敢えて投稿した次第である。会員諸兄の御批判を賜りたい。
 本稿の仮説を措定する契機を与えられた古賀達也氏の先行業績に感謝するとともに、丸山晋司氏や林伸禧氏の論考を含め、古代逸年号の研究を鋭意進められている本会会員の皆様に敬意を表するものである。

[注一]古賀達也=「『二中歴』国会図書館本の考察」(ブログ「洛中洛外日記」第一二四二話(二〇一六年七月三一日付)・第一二四三話(二〇一六年八月一日付)、「『二中歴』の史料批判」/『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房 二〇一二年刊)所収(初出は本会報三〇号(一九九九年))

[注二]丸山晋司=『古代逸年号の謎』(アイピーシー、一九九二年刊)五六~五七頁

[注三]林伸禧=「東海の古代」第一九三号(二〇一六年九月)一二頁~一七頁/本会報一四二号(二〇一七年一〇月)十頁  [二〇二〇年七月二八日浄書了]


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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