2021年4月12日

古田史学会報

163号


1,九州王朝の天子の系列1
多利思北孤・利歌彌多弗利から、
唐と礼を争った王子の即位

 正木裕

2,九州王朝の「法皇」と「天皇」
 日野智貴

3,野中寺弥勒菩薩像銘と女帝
 服部静尚

4,「法皇」称号は九州王朝(倭国)の
 ナンバーワン称号か?
 西村秀己

5,「壹」から始める古田史学・二十九
多利思北孤の時代Ⅵ
多利思北孤の事績
古田史学の会事務局長 正木 裕

6,『古田史学会報』採用審査の困難さ
編集部 古賀達也

 編集後記

 

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「壹」から始める古田史学・三十 多利思北孤の新羅征服戦はなかった 正木 裕

「高良玉垂大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ 正木裕(会報162号)

「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 西村秀己 (会報163号)


「壹」から始める古田史学・二十九

多利思北孤の時代Ⅵ

多利思北孤の事績

古田史学の会事務局長 正木 裕

 前号までに物部守屋討伐、四天王寺・法興寺等の寺院建立、六十六国分割などの「聖徳太子」の事績とされるものは、『隋書』に記す多利思北孤の事績であることを述べてきました。今回は
①「十七条憲法」「冠位十二階」を策定したのは「聖徳太子とされる厩戸皇子」ではなく、『隋書』の多利思北孤であり、
②また太子の真筆とされる『法華義疏』は、第三者の著作を編冊して本文とし、巻頭に多利思北孤の自筆の署名を張り付けたものであることを、古田武彦氏の『古代は沈黙せず』『法隆寺論争』(注1)等にもとづいて明らかにします。

 

一、「十七条憲法」の制定

1、「十七条憲法」とは

 「十七条憲法」は、『書紀』に「皇太子親みづから肇はじめて憲法十七条を作る」とあるように、「厩戸皇子(聖徳太子)」が推古十二年(六〇四)に制定したとされる法典で、「聖徳太子」による「国家統治の基本指針」として、仏教上の権威を敬うこと、政治上の権威(天子)を敬うことを命じ、その職務を遂行するための貴族・官僚の心構えと服務規程を記しています。法令の構成としては、
①(一条及び十三条~十七条)「政治における貴族・官僚の心構え、服務規程」

②(二条)「仏教による統治政策(仏教治国策)の指針」

③(三条~十二条)「天子・天皇を頂点とした官僚制度・統治政策の指針」
となっています。

◆『書紀』推古十二年四月戊辰三日に、皇太子親みづから肇はじめて憲法十七条を作る。
一に曰く、和を以て貴しとし、忤さかふること無き(*争わないこと)を宗とせよ(略)。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり(略)。
三に曰く、詔を承りては必ず謹め、君をば天とす、臣をば地とす(略)。
四に曰く、群臣百寮、礼を以て本とせよ(略)。
五に曰く、餮あじはひのむさぼりを絶ち欲すること(*饗応・財物への欲望)を棄て、明に訴訟を辨さだめよ(*公明・公平に処理せよ)(略)。
六に曰く、悪しきを懲らし善を勧むるは、古の良き典なり(略)。
七に曰く、人各任おのおのよさし有り(略)。
八に曰く、群卿百寮、早く朝まゐりて晏おそく退まかでよ(略)。
九に曰く、信は是れ義の本なり(略)。
十に曰く、忿(こころのいかり *いきどおり)を絶ちて、瞋(おもへりのいかり *いかり・うらみ・ねたみ)を棄て、人の違ふことを怒らざれ(略)。
十一に曰く、功と過を明らかに察て、賞罰を必ず当てよ(*信賞必罰)(略)。
十二に曰く、国司・国造、百姓に斂おさめとらざれ(*独自の徴税禁止)。国に二君非く、民に両主無し、率土の兆民、王を以て主とす(略)。
十三に曰く、諸の官に任よさせる者は、同じく職掌を知れ(略)。
十四に曰く、群臣百寮、嫉うらやみ妬ねたむこと有ること無かれ(略)。
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是れ臣が道なり(略)。
十六に曰く、民を使うに時を以てする(*時宜にかなう賦役)は、古の良き典なり(略)。
十七に曰く、夫れ事独り断さだむべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし(略)。

 

2、「十七条憲法」を矛盾なく制定・施行できるのは菩薩天子多利思北孤

 この「十七条憲法」は、よく整えられた政治指針のように見えますが、実際には、国家の統治を行う上で支障となる大きな矛盾をはらんでいるのです。
 それは、二条では「仏教上の権威」を敬えと命じつつ、三条や十二条では「政治上の権威である天子」を敬えと命じていることです。これでは仏教施策と政治施策に対立が生まれることになります。「宗教上の権威と政治上の権威」は、十一世紀~十四世紀におきた、都市や豪族がローマ教皇側と神聖ローマ皇帝側に分かれて争った事件や、我が国の織田信長と浄土真宗顕如の争いなど歴史上絶えず衝突しています。
 中国においても「三武一宗さんぶいっそうの法難」(注2)に代表されるような、皇帝による仏教弾圧事件がたびたびおきています。
 こうした弾圧がおこなわれた原因は、大量の出家による軍籍や正業からの離脱で、徴税や軍事に支障が生じ、乱立した寺院に資材・資金が浪費され経済混乱が起きるなど、国家統治に支障をきたしたことにあります。
 そうした歴史を踏まえれば、「宗教と政治」という二つの権威を「共に敬え」と命じ、矛盾・対立を生じさせずに国家の統治を実施することができるのは、「天子自らが仏教上の最高権威を兼ね備える場合」に限られることになります。つまり、「十七条憲法」は、仏教上の権威者ではない「推古天皇」や、「天皇」ですらない厩戸皇子が制定できるものではないのです。
 そして、「十七条憲法」が制定されたとされる七世紀初頭に、我が国で「仏教上の権威と政治上の権威を併せ持った人物」こそ、釈迦三尊像光背銘の「上宮『法皇』」、すなわち『隋書』に見える「菩薩天子」多利思北孤でした。
 「十七条憲法」は、ヤマトの厩戸らではなく、倭国(九州王朝)の多利思北孤が制定したものといえるでしょう。

 

3、「官僚の心構えと服務規程」は新たな東方統治に不可欠

 そして、多利思北孤は、丁未の乱でヤマトの物部守屋を討伐し、難波・河内を統治下におき、さらに東国に勢力を拡大しようとしていました。崇峻二年(五八九)の東山道・東海道・北陸道への使者はこのことを示しています。

◆『書紀』崇峻二年(五八九)七月の朔に、近江臣満あふみのおみみつを東山道の使に遣して、蝦夷国の境を観しむ。宍人臣鴈ししひとのおみみかりを東海道の使に遣して、東の方の海に濱へる諸国の境を観しむ。阿倍臣あへのおみを北陸道の使に遣して、越等の諸国の境を観しむ。

 こうした多利思北孤にとって、まず行うべきことは、新支配地の統治の為に「官僚機構・体制を整備」し、彼ら官僚に「官僚の服務・心がけ」を示すことであり、そのための「規範・規程」を制定することでした。
 このうちの「官僚の心構えと服務規程」については、先に述べた「十七条憲法」の一条及び十三条~十七条に記されています。ちなみに、この条項は北魏~西魏時代の蘇綽(そしゃく 四九八~五四六)が起草し、西魏文帝の大統十年(五四四)に制定された、『六条詔書』(政治之法六条)をもとに作られたとされています(注3)。「十七条憲法」が『六条詔書』に準拠しているのは、『詔書』が主に地方統治にあたる官僚・長官に向けての条項となっているため、多利思北孤の東方進出に有用だったからだと考えられます。
 ちなみに、『詔書』が仏教に触れていないのは、仏教と政治が対立をはらんで度々弾圧が行われ、また仏教と道教の間でも争いが絶えなかった時代だったからで、「十七条憲法」に「篤く三宝を敬へ」との条項が加わっているのは、多利思北孤が単なる政治的統治のみならず仏教による統治を目指していたことを反映しています。

 

二、「官位十二等(冠位十二階)」を定めた多利思北孤

1、『書紀』の「冠位十二階」と『隋書』の「官位十二等」

 そして、「官僚機構・体制の整備」施策を示すのが「冠位十二階」です。
 『書紀』推古十一年(六〇四)に「始めて冠位を行う」との記事があり、この「冠位」が、厩戸皇子(「聖徳太子」)が制定した「冠位十二階」だとされています。
◆『書紀』推古十一年(六〇四)十二月壬申五日に、始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮(だいらい)・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智。併せて十二階。並びに当れる色の絁きぬをもって縫へり。頂いただきは撮り総すべて嚢ふくろの如くにして縁もとほりを着く。唯元日には髻花着うずさす。
 一方、『隋書』で多利思北孤が最初に隋に遣使した開皇二〇年(六〇〇)記事に、多利思北孤の国には「官位十二等がある」と記しています。
◆『隋書』王の妻を雞彌きみと号づく。後宮に女六・七百人有り。太子を名づけて利歌彌多弗利とす。城郭無し。内官に十二等有り、一に曰ふ大德 次に小德 次に大仁 次に小仁 次に大義 次に小義 次に大禮 次に小禮 次に大智 次に小智 次に大信 次に小信。員に定数無し。軍尼に一百二十人有り、猶ほ中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如し。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 

2、「冠位十二階」ではなく「官位十二等」が制定された

 開皇二〇年(六〇〇)の遣使はなぜか『書紀』には記されず、かつ、これは『書紀』の「官位十二階制定(六〇四年)」より早い年次です。また、「仁義礼智信」という「五常(儒教で説く五つの徳目)」の通常の配列に従っています。
 さらに、多利思北孤の国の「官位十二等」は、唐代の『翰苑』(注4)に記す我が国の冠位の順位と合致します。
◆ 『翰苑』 (張楚金本文)禮義に因りて祑ちつを標あらわす。即ち智信以て官を命ず。(以下は雍公叡注)括地志に曰く 倭国 其の官十二等あり。一に曰く麻卑兜吉寐まひときみ華言(*中国でいう)大徳なり 二に曰く小徳 三に曰く大仁 四に曰く大仁 五に曰く大義 六に曰く小義 七に曰く大礼 八に曰く小礼 九に曰く大智 十に曰く小智 十一に曰く大信 十二に曰く小信

 これは『書紀』の「冠位十二階」の実際は、『隋書』に記す「多利思北孤の定めた官位十二等」であることを示しています

 

三、『法華義疏』を編冊したのは多利思北孤

1、『法華義疏』に関する古田武彦氏の説

 法隆寺の御物で法華経の注釈・解説書『法華義疏』は、『書紀』推古十四年(六〇六)に、皇太子が『法華経』を「講じた」という記事があること等から、厩戸皇子(「聖徳太子」)の真筆だとされてきました。
 これに対し古田武彦氏は『古代は沈黙せず』の「『法華義疏』の史料批判」において、巻頭の「大委上宮王私集非海本」の二行は「筑紫の上宮王」多利思北孤の自筆(自署)だが、本文は別人の著作で、多利思北孤が収集・編冊したもの(私集)だとされました。同氏は別人の著作である理由として、
①『書紀』に、厩戸皇子(「聖徳太子」)の一大盛事であるはずの「『法華義疏』の著述記事」が無いこと。

②内容が遣隋使時代の天台大師智顗(五三八~五九七)の『法華玄義』や、嘉祥大師吉蔵の『法華義疏』等の法華経に関する著作・研鑽成果が反映されず、南朝梁の法雲(四六七~五二九)の『法華義記』を反映していること。

③「仏教者は国王・王子などの権力に近づくな」等という「不親近ふしんごん」は、太子である厩戸皇子(「聖徳太子」)や、天子である多利思北孤の著述に相応しくないこと、などをあげています。

 一方、巻頭の二行が多利思北孤(上宮王)の自署であることについては、
①「紙質」が、本文は「中国産苧麻」であるのに、巻頭の二行は「国産大麻」であり、かつ「切り貼り」された痕跡が見えること。

②二行は書体が本文と異なり、多利思北孤が遣使した隋代の欧陽詢(おうようじゅん 五五七~六四一年)の筆風の影響が濃厚であること。

③「大委国」はヤマトでなくチクシを意味すること、

等をあげています。

 

2、「大委」は多利思北孤の国名「俀」

 巻頭二行に見える「大委」について、古田氏の見解に私見を加えれば、
①「大」は隋朝の北方音(漢音)で「たい、た」、「委」は「ゐ」で「大委=たゐ」となる。
②そして、『隋書』(列伝)には多利思北孤の国を「俀たい」と表現している。つまり、「上宮王」の自署した国名「大委」と、多利思北孤の国名の「俀」は同じ音となる。

 つまり「大委国」は、阿蘇山が噴火している温暖な九州の国、倭国(九州王朝)をさすことになります。
 なお、紀元五十七年に光武帝から下賜された金印(志賀島の金印)には「漢委奴国王」とあり、「倭」の上古音も「ゐ」ですから、我が国は漢代以来「ゐこく」と呼ばれていたことになります。そこに、多利思北孤は隋との対等外交を主張し、国名に「大」の字をつけてきた、しかし隋はこれを嫌い、音の類似する「俀」と書き換えたのだと考えられます。

 新の王莽は「高句麗」を「下句麗」に(『後漢書』公孫述列傳註)、「匈奴」を「恭奴」、「単于」を「善于」に(『漢書』匈奴伝)改名するなど、中国にとっての名分により、夷蛮の国名を「音の類似する文字に変える」ことがありました。この「大委」と「俀」の関係もその一例となるでしょう。

 

3、『二中歴』細注が示す『法華義疏』は「別人の著作」

 また、『聖徳太子傳記』では「太子十八才(五八九年、九州年号端政元年)の御時、春正月参内して国政を執行したまへり。太子また奏し、六十六カ国に分ち玉へり。」とありますが、『書紀』で厩戸皇子が推古天皇の摂政となり「万機を悉く委ねられた」のは五九三年ですから、端政元年(五八九)に即位したのは多利思北孤であり、六十六カ国分国も彼の事績だと考えられます。
 そして、『二中歴』の細注には、端政年間(五八九~五九三)に「唐より法華経始めて渡る」との細注があります。「唐」とありますが当時は「隋」です。先述の智顗は法華経が最も優れた経典であるとし、五六八年~五七五年まで金陵(南京)の瓦官寺で法華経の講義をおこない、これをもとに弟子たちが筆録し『妙法蓮華経玄義』(『法華玄義』)をまとめています。
 ただし、多利思北孤の最初の遣隋使派遣は六〇〇年で、『法華玄義』が完成したのは五九三年とされ、闍那崛多じゃなくった・達磨笈多だるまぐぶた共訳による『添品妙法蓮華経』の完成は六〇一年とされていますから、端政年間に初めて渡ってきた『法華経』は、四〇〇年に成立した、後代に「最も優れた翻訳」とされる鳩摩羅什くまらじゅう訳の『妙法蓮華経』ということになります。そして、「端政」改元直前の、『書紀』崇峻元年(五八八)に、百済から仏舎利や律師及び多数の僧らが渡来した記事がありますから、その時に『法華経』が齎もたらされ、多利思北孤は、僧等の『法華玄義』以前の釈文や疏を集め『法華義疏』を編冊した可能性が高いでしょう。
 そう考えれば、「聖徳太子」の作とされる『法華義疏』は「南朝系」の解釈が中心で、智顗らの解釈が反映されていないことも説明がつきます。
 結局『法華義疏』は、百済を伝わって齎された、隋代以前の『法華経』とその解釈をもとに、「別人」が記した本を、多利思北孤が収集・編冊したものといえるでしょう。

 

4、『法華義疏』は「仏教治国策」を推進するために作られた

 隋は初代の王「楊堅(文帝)」・次代の煬帝(晋王「楊広」)ともに、智顗から「菩薩戒」を受戒し、各州に僧・尼両寺を創設、各地に僧を派遣し法華経を広めるなど「仏教治国策」を推進します。
 そして、我が国には古来より「六十六部廻国行」という修行があり、これは、「六十六カ国」の霊場に「法華経」を奉納するものです。多利思北孤は煬帝を「重ねて仏法を興す天子」だとしていますから、多利思北孤はこれに先立って六十六国に寺を建て法華経を奉納させたことが十分に考えられます。これを証するように、『書紀』では五九四年に「競って寺が建てられた」と言う記事があります。
◆『書紀』推古二年(五九四)二月朔一日、皇太子及び大臣に詔して三宝を興隆せしむ。是の時に、諸臣・連等、各の君親の恩の為に、競ひて佛舍を造る、即ち是を寺と謂ふ。
 五九四年は九州年号「告貴元年」ですから、まさに各地に寺を建て、智顗が最も優れた(貴い)とした『法華経』を、各地に告げるに相応しい年号だといえるでしょう。
 楊堅は新たに支配下に置いた北斉地域に重点を置き、教化に努めていますから、「仏教治国策」は新支配地の統治に特に有用であり、多利思北孤は、積極的に旧物部領の難波・河内や斑鳩に法隆寺などの拠点寺院を、六十六国に寺を作っていったと考えられます。
 そして、多数の寺を作れば当然ながら多数の僧の養成が必要となり、教義の講習・演習が求められます。その点、特に鎮護国家的性格を持つ『法華経』は重点的に学習され、布教されたもので、「六十六部廻国行」はそのことを伝えていることになるでしょう。

 このように『書紀』編者は、多利思北孤の事績を厩戸皇子(「聖徳太子」)の事績に置き換えたと考えられますが、さらに『書紀』編者は、多利思北孤にとって重要な事件のあった年次に、「過去の記事を差し込んで」その存在を隠すという手法を用いたと考えられるのです。
 それが『隋書』「征戦無し」と書かれる多利思北孤の時代で、多利思北孤が最初に遣隋使を派遣した推古八年(六〇〇)と、上宮法皇の登遐年の推古三〇年(六二二)(岩崎本)に記される「新羅討伐戦」でした。次回はこの二回の討伐戦について述べます。

 

(注1)古田武彦『古代は沈黙せず』(一九八八年駸々堂。二〇一二年ミネルヴァから復刊)。古田武彦・家永三郎『法隆寺論争』(一九九三年新泉社)

(注2)北魏の太武帝(在位四二三~四五二)、北周の武帝(同五六〇~五七八)、唐の武宗(同八四〇~八四六)、後周の世宗(同九五四~九五九)による仏教弾圧事件を言う。

(注3)『六条詔書』(政治之法六条)
一、治心を先とせよ。(地方の行政長官は平静・潔白を心得よ。)
二、教化を敦あつくせよ。(質朴で孝悌・仁順・礼義を重んじ教化せよ。)
三、地利を尽くせ。(農業を重視せよ。)
四、賢良を抜擢せよ。(家柄にこだわらず才能を重視して官吏を任用せよ。)
五、獄訟を恤あわれめ。(慎重かつ適正な懲罰を行え。)
六、賦役を均しくせよ。(平等な徴税を行え。)

(注4)唐の張楚金が編纂し、雍公叡の注が付されている学習用の書。世界中で太宰府天満宮にのみ伝わっており、倭国の都は「邪ななめに伊都に届き 傍ら斯馬に連なる」と、「倭国の都が九州にある」と記している。


 これは会報の公開です。

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