2022年10月12日

古田史学会報

166号

1,竹内強さんの思い出と研究年譜
古田史学の会・代表 古賀達也

2,「自A以東」の用法
古田・白崎論争を検証する
 野田利郎

3,九州王朝の天子の系列(下改め3)
『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績
 正木裕

4,『無量寺文書』における
斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸
 別役政光

5,狂心の渠は水城のことだった
 大原重雄

6,「壹」から始める古田史学 ・三十二
多利思北孤の時代 Ⅸ
多利思北孤の「太宰府遷都」
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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九州王朝の天子の系列    正木裕

 九州王朝の天子の系列(下改め3) 『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績 正木裕 (会報166号)../kaiho166/kai16603.html


九州王朝の天子の系列(下改め3)

『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績

川西市 正木 裕

一、『赤渕神社縁起』と伊勢王

1、天武紀に盗用された利歌彌多弗利の法要と伊勢王の即位

 前号までに、倭国(九州王朝)では命長七年六四六の利歌彌多弗利の崩御を受け、常色元年六四七に新天子が即位し、その天子は『書紀』で伊勢王と呼ばれていること、白雉改元や難波宮造営は伊勢王の事績であることを述べた。本稿では常色元年六四七に利歌彌多弗利の法要と伊勢王の即位記念の祭事が挙行されたこと、その事績が「三十四年後」の『書紀』天武十年六八一に盗用されていることを、『赤渕神社縁起』等をもとに明らかにしていく。

 

2、「赤渕神社」と『縁起書』

 兵庫県朝来市の「赤渕神社」(兵庫県朝来市和田山町枚田二〇一四)の『縁起書』には、常色元年、常色三年、朱雀元年、朱雀三年、白鳳九年(注1)などの九州年号が記されていることで知られている。
 「赤渕神社」は『延喜式神名帳』には「但馬国 朝来郡鎮座。祭神は大海龍王神・赤渕足尼あかぶちすくねの神・表米宿禰ひょうまいすくねの神」とある。社伝によると、開化天皇を祖とする日下部宿祢氏に属し、継体代に国造となった赤渕足尼の逝去をうけ、継体二十五辛亥年(五三一 九州年号「教到元年」にあたる)九月に創建されたという。
 表米宿禰は、赤渕神社蔵『日下部宿祢家系図』によると、足尼の五代目にあたり、「長柄豊崎朝戊申年六四八補任養父郡大領在位三年庚戌六五〇年卒」となっている。
 神社には様々な『縁起書』が残されており、二〇一五年に私(正木)と古賀氏・服部氏・茂山氏が訪問し、国里愛明宮司のご厚情により、それらを撮影させていただいた(茂山氏撮影)。『縁起書』には、幾度となく書写された形跡があり、異本も多い。また、虫食いなどによる痛みもひどく、開けられなかった文書もあったため、公的機関による重要性の認識と早急な保全措置を強く望むところだ。(注2)

 

3、『赤渕宮 神淵寺』中の九州年号

 そうした中、判読できる最も古い写本(注3)が『赤渕宮 神淵寺』で、本の末尾には「其の栞略(かんりゃく *案内・紹介)を記す。天長五年丙申(八二八 *天長五年は「戊申」)三月十五日」とある。この写本に存在する九州年号記事は次の六か所だ。
➀孝徳天皇御即位時五畿内定京之条坊門町定田町段定絹布之疋端定年号也常色元年丁未

➁表米宮可然任御託宣有宣旨即表米宮常色元年二月十四日上洛□宝剣与旗注御簀紋木瓜一被副下

③常色元年九月三日忽平悪鬼

④先船之知辺常色元年十一月三日本地御座船寄給

⑤常色元年(注4)六月十五日在還宮為修理祭礼・・・又卯日定縁日十二之御僧禰宜神主十二人宮奴神前祭不断也

①表米朱雀元年甲申三月十五日崩御

 

二、史実を反映する『赤渕神社縁起』

1、孝徳時代に定められた年号は「大化」ではなく「常色」とする

 一見しただけでは寺社の縁起らしく「伝説的」な記事も多いが、『縁起』の九州年号記事の部分を『書紀』と比較して丁寧に分析すると、『書紀』では隠されていた九州王朝・伊勢王の事績を明らかにすることができる。
 ➀の記事の「五畿内定京之条坊門町定田町段定絹布之疋端」で言えば、孝徳時代に「畿内」が定められ「条坊を持つ京」ができ、「班田収授」や「租庸調」という税制も定められたとする。これは『書紀』大化二年六四六の大化改新詔を反映していることが覗える。その一方、『縁起』には、「孝徳天皇御即位時・・・定年号也」とあり、『書紀』どおりなら「大化」とあるべきところ「常色元年丁未六四七」とある。つまり孝徳時代に定められた年号は「常色」だという内容だ。

 

2、『縁起』と『書紀』の「宮修理」は三十四年を隔てて対応

 そして、従前から注目されていたのは、⑤の「常色元年六月十五日在還宮為修理祭礼(*宮に還り在りて、修理をさめつくり祭礼をなす)」だ。常色元年は六四七年だが、『書紀』には、その三十四年後の天武十年六八一に諸国に「神宮修理」の詔勅が出された記事がある。

◆天武十年六八一の春正月壬申二日、幣帛(いはひのみてぐら *神への捧げもの)を諸の神祗(じんぎ *天つ神と国つ神)に頒あかちまだす。癸酉三日、百寮の諸人拜朝庭(みかどをがみ *朝廷に参拝)す。丁丑七日・・大山上草香部吉士大形に小錦下の位を授け、仍りて姓を賜り難波連と曰ふ。(略)己丑十九日に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理をさめつくらしむ。
 このように、『書紀』では天武十年六八一正月に、諸国の寺社に幣帛が頒れ、「諸国に神の宮の修理」が命じられている。ただ、『書紀』で正月に幣帛が頒れた記事は皆無であり(注5)、また諸国に神の宮の修理を命じたこともないから、何故この年に朝廷を挙げて大規模で前例の無い内容の神事を挙行するのかは不明だ。
 この「理由」を明らかにする手掛かりが、古田武彦氏の「持統の三十一回の吉野行幸は、三十四年前の九州王朝の天子の佐賀吉野への行幸を盗用し繰り下げたものだ」とする指摘にある(注6)。『縁起』の常色元年六四七の「宮為修理祭礼」は天武十年六八一の「神の宮修理」の三十四年前にあたるからだ。

 

3、常色元年の前年に九州王朝の天子(利歌彌多弗利)が崩御

 そして、『善光寺文書』には、命長七年(六四六 *常色元年の前年)に、善光寺如来に「済度往生と加護」を願う内容の願文が見える。そこから、古賀氏は、この年倭国九州王朝の天子(『隋書』に多利思北孤の太子とある利歌彌多弗利と考えられる)が崩御したのではないかとされている。そして、命長七年の利歌彌多弗利の崩御は、翌年に九州年号が「常色」と改元されていることからも裏付けられるだろう。
◆『善光寺縁起集註』御使 黒木臣 名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念 命長七年丙子二月十三日 進上 本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘 上 

 

4、倭国(九州王朝)は「常色元年」に法要と即位行事を行ったはず

 そうであれば、倭国九州王朝では「常色元年」に利歌彌多弗利の法要や新天子・伊勢王の即位行事があったはずだ。天武十年六八一正月己丑十九日の「天社地社の神の宮を修理」せよとの詔が、三十四年前の常色元年六四七のものであれば、これは前天子の法要と新天子の即位のための神事となる。

 

5、表米宿禰は「幣帛を賜る」ため常色元年二月十四日に上洛

 また、『書紀』では「天武十年六八一正月壬申二日、幣帛を諸の神祗に頒つ」とあるが、この記事を「干支(壬申)」を保存して、三十四年前の常色元年六四七に移せば、一月に「壬申」は無く二月十五日「壬申」となる。
 そして、『赤渕神社縁起』に表米宮が宣旨により上洛したとあるのは常色元年二月十四日「辛未」だから、「幣帛が頒わかたれる前日」となる。また「百寮の諸人朝庭を拜す」とある「癸酉」は二月十六日となる。つまり、表米宮(宿祢)は「宣旨を受け二月十四日「辛未」に上洛、二月十五日「壬申」に「幣帛」を賜り、二月十六日に「百寮の諸人とともに朝庭に伺候した」ことになる。

 

6、表米宿祢は日下部の一族として恩賞を得た

 さらに、「草香部吉士大形」が小錦下位を授けられた天武十年六八一正月丁丑七日は、常色元年六四七二月二〇日「丁丑」となるが、先に述べたように表米宿祢は「日下部(草香部)氏」だから、この時に日下部の一族として「伊勢王」より剣と旗注はたじるし・御簀みすに「紋木瓜」を賜ったことになる。(*日下部氏の家紋は木瓜)

 

7、「皇祖の御魂」が祭られたのは常色元年六月二十四日「己卯」

 また天武十年六八一五月己卯十一日に、「皇祖すめおやの御魂を祭る」とあるが、通説でも、「皇祖」とは誰か何故この時期に祭るのか不明で、岩波『書紀』注は「祖先に当る歴代の天皇とする説、天皇の祖父の彦人大兄皇子とする説、神武天皇とする説等がある。」とする。
◆天武十年六八一五月己卯十一日に、皇祖の御魂を祭る。
 一方、⑤の表米宿禰が宮に帰還したのは常色元年「六四七 六月十五日(庚午)」で、『書紀』で「皇祖の御魂を祭った」「己卯」は、六四七年だと五月に無く六月二十四日「己卯」となる。
 そして、『赤渕神社縁起』の六月十五日記事の後には、「卯の日を縁日とし多数の僧侶や神官が神前で法要を絶やさず行った」とある(「又卯日定縁日十二之御僧禰宜神主十二人宮奴神前祭不断也」)。何故「卯の日」にこのように盛大な神事を行ったのか不明だが、この「卯の日」こそ『書紀』に「皇祖の御魂を祭る」とある「己卯」にあたるのだ。

 従って、表米宿禰は六月十五日「庚午」に宮に帰り、「修理(宮を整える)」などの準備をして、二十四日「己卯」に、全国的に実施された「皇祖」「利歌彌多弗利」の法要を行ったことになる。また、七月には「天下」に大解除の祭事が盛大におこなわれ、翌月には皇后が経を京內諸寺で説かせている。大解除は『延喜式』に「六月晦大祓、十二月此准」とあるように六月の晦日が通例だが、ここでは七月三〇日で、何等か特別の事情があったと考えられる。また、何故皇后は京内での大規模な説法を行ったのか不明だが、これも「『皇祖』利歌彌多弗利の一連の法要」だと考えれば大解除や説法の意味が分かる。
◆七月丁酉三十日に、天下に令して悉に大解除おおはらへせしむ。此の時に當りて、國造等、各祓柱奴婢一口を出して解除す。閏七月壬子十五日に、皇后、誓願して大に齋をがみして、経を京內諸寺に說かしむ。

 

8、『縁起』の九州年号記事は倭国九州王朝と表米宿禰の事績を示す

 このように、『書紀』天武十年六八一の神事・祭礼等の記事を、「干支」を保存して「三十四年繰り上げ(三十四年元に戻す)」れば、『赤渕神社縁起』の九州年号付きの日付や記事内容と整合することになる。
 結局、『書紀』の天武十年六八一の神事・祭事記事の実際は、「常色元年六四七」に、倭国九州王朝が挙行した利歌彌多弗利の法要と新天子「伊勢王」の即位の神事に関する記事であり、『赤渕神社縁起』表米宿禰はそうした祭事に参画し、恩賞を得たことを記したものだった。
 天武十年六八一記事には「禁色九十二条」の制定や「律令制定・法式改定」などが記され、三十四年前の『書紀』大化三年・九州年号常色元年六四七記事には、「小郡宮造営・礼法・七色十三冠の制制定」などが記されている。次回はこれらの全ては常色元年に即位した倭国九州王朝の天子「伊勢王」の事績であることを述べる。

 

(注1)「赤渕表米両大明神略縁記」に「赤渕明神白鳳九年遷化」とある。九州年号白鳳九年は六六九年。六五〇年に逝去した表米宿禰の次代の人物か。

(注2)撮影させていただいたのは「赤渕宮・神渕寺(六巻)」「赤渕神社縁起校本押印下(十一巻)」「一宮表米太明神御縁記(五巻)」「赤渕表米両大明神略縁記(一巻)」「赤渕表米縁起国司文書曰(三巻)」「赤渕社縁記(二巻)」「多遅摩國造日下部宿禰家譜(十四巻)」『日下部宿祢家系図』(『赤渕神社縁起』は傷みが激しく開けず)など。

(注3)「写」とは書かれておらず、原本は天長五年八二八成立の可能性が高いが、天長五年の干支に誤りがあるので原本の写本と思われる。『一宮表米大明神御縁起』末尾には、➀天長五年丙申(八二八 *天長五年は「戊申」)三月十五日に収録されたのち、➁元禄八年一六九五乙亥九月吉日に書写、③昭和十九年一九四四二月四日に書写と書写の経緯が記されている。

(注4)「元」と「三」は紛らわしく書写誤りが発生しやすい。ここは「三」に近い字形だが、「但州朝来郡牧田郷内高山赤渕大明神表米大明神」には「常色三年丁未六月十五日遷宮」とあり、「丁未」は六四七年常色「元年」。また『赤渕宮 神淵寺』では、初出の年号には「干支」を記し、二度目からは記さないが(*「常色元年丁未」「朱雀元年甲申」「天長五年丙申」)、六月十五日の前に干支は記されていないから初出の「三年」ではない、等から「元」が本来の字と判断できる。

(注5)『書紀』で幣帛が頒れた記事は、歴代天皇の即位年の正月にも無く、天智九年六九十三月(近江宮関連か)、天武五年六七六六月(請雨)・同十月一日(新嘗祭)の三か所のみ。

(注6)『壬申大乱』東洋書林二〇〇一年十月。ミネルヴァ書房から復刻

 

(編集後記、付記)

 会報一六六号をお届けします。一六三号から引用文の日付を干支のルビに、本号からは西暦表示を和暦のルビにしております。見にくいかもしれませんが本来どちらも原文にはないものです。取り敢えず正木稿からの試みです。 西村秀己

 


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