和田家文書に使用された美濃紙追跡調査(東日流外三郡誌案内)

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平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)


出土していた縄文の石神 地に落ちた偽作キャンペーン

古田史学会報 1996年10月15日 No.16
「 平 成 ・ 諸 翁 聞 取 帳 」 東 北 ・ 北 海 道 巡 脚 編

出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)

京都市 古賀達也

 「歴史は脚にて知るべきものなり」。秋田孝季によるこの至言を今回ほど痛切に感じたことはなかった。九月十四日より始まった東北・北海道の旅は、数々の発見と出会いと感動に満ちた十日間となった。恐らくは同様の道筋を孝季もたどったに違いない。私の場合は文明の利器、鉄道と自動車に頼ったのだが、短期間に広範囲の移動が可能な反面 、多くの見落としと聞き落しがあったに違いない。それでも数々の学的収穫に恵まれた。
 江戸時代、文字どおり自らの脚で歴史を訪ねた孝季らならば、比較にならぬほどの更に多くの知見を聞きつくし書き遺したことは、現存している和田家文書の膨大さからもうなづける。
 孝季に倣って綴り始めた「平成・諸翁聞取帳」。今編は東北・北海道巡脚編。お世話になった当地の方々に感謝を込めて、ここに報告する。

  五所川原図書館にて

  旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
 昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
 合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量 からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面 に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
 これが同連載を閲覧しての率直な感想だ。まことに開米氏は貴重な証拠を私たちに残されたものである。
 図書館ではもう一つ収穫があった。昭和五十年発行の『続高楯城物語』、編著者は柳原与四郎氏。こちらも和田家文書(『東日流外三郡誌』も含む)の紹介と、それに基づく高楯城史の研究発表が中心をなしている。柳原氏は和田喜八郎氏など地元の有志とともに高楯城史跡の保護と調査研究をすすめられた人物である。
 同書にも高楯城関連の和田家文書などの紹介が多数なされているが、中でも注目すべきこととして、当時、木村実氏がそれら古文書の書写 をされていた事実が記されていることだ。たとえば「殉者火葬記」という高楯城落城のことが記された文書を掲載し、その後に「之は四十三年九月木村家古文書から写 しとして木村実氏の書である。続いて木村氏の写し書きがあり討死した人名が一巻の古書に遺されていたという事であった。」と、木村実氏が古文書の書写 をされていたことが記されているのである。もちろんそれは「偽作」などとは無縁。コピー器が今ほど普及していなかった当時としては達筆者による書写 は当然の行為と言うべきであろう。ちなみに、「再建」された高楯城の展示室には、木村実氏よりもたらされた文書が六卷ほど存在している(案内していただいた野宮喜造氏の説明による)。末尾に「和田末吉」という署名が見えるので、和田家文書明治写本を戦後に再書写したものと思われる。もちろん筆跡は末吉や長作のものではなく、なかなかの達筆であった。

 阿吽寺での新証言

 翌日、津軽海峡トンネルをくぐり北海道の地へ。木古内駅では吉森さんをはじめ北海道の会員の皆さんに出迎えていただいた。三年前、「市民の古代」分裂騒動の時、関西で孤立していた私に、一面 識もなかった吉森氏から激励の手紙が届いたことに始まった親交が、このように北海道の大地での再々会となったことに深い感謝と感動を禁じえない。その吉森さんと共に集われた会員の皆さんの心温まるもてなしが続く、私にとって初めての北海道旅行。ここでも望外の収穫に恵まれたのだった。
 それは松前町阿吽寺でのこと。和田家文書「祖訓大要」を秋田孝季が書写したとされる 安東一族ゆかりの寺院だ。残念ながら「祖訓大要」については火災のため寺伝も残っていないようで不明のままだったが、案内していただいた地元の歴史研究家永田富智氏より貴重な証言を聞かせていただいた。
 永田氏は昭和四六年に市浦村村役場で和田家より届いたばかりの『東日流外三郡誌』二〜三百冊をご覧になっており、しかもそれらが紙質や墨・書体などから判断して明治後期のもので戦後は有り得ないと述べられたのである。氏は私とは違い、和田家文書の資料価値をそれほど高くおいておられないようだったが、それは『東日流外三郡誌』に書かれている内容は古いが、文書そのものは明治期のものであるという理由からのようである。しかし、氏の証言は昨今の和田喜八郎氏による戦後偽作説を否定するものであり、必ずしも完全な真作説ではない氏の証言ゆえに、大きな説得力を持つ。そして何よりも、北海道史編纂の実績を持ち、現在も松前町史や福島町史の編纂に携わり、古文書などを熟知されている氏の経験から来る眼力が、『東日流外三郡誌』(明治写本)の明治期作成をきっぱりと証言しているのである。
 思いがけぬ新証言に驚いた筆者の要望により、証言のビデオ収録や会報への掲載も氏は快諾された。真実は強い。真実を語る人は強い。いささかのためらいもなく、永田氏はビデオカメラの前でもう一度証言を繰り返された。氏の証言により、『東日流外三郡誌』和田喜八郎氏偽作説はますます根拠を持たぬ ことが明かとなったのである(永田証言の詳細は本会報に掲載)。

 森田村石神遺跡の石神

 この旅行中、最大の発見。それは小島英伸氏(京都市在住、津軽出身)により導かれた。発端は八月二四日に遡る。『新・古代学』2集の拙論「知的犯罪の構造」を読まれた布谷道治氏(京都市在住)が小島氏を伴って初めて拙宅を訪ねられた日のことだ。話がはずむ中、津軽出身の小島氏より、森田村石神地区の石神縄文遺跡から隕鉄が出土しており、実物を触ったが間違いなく金属であったと聞かされたのである。
 和田家に隕鉄が伝存しており、それが「天の石神」であること、そして三内丸山遺跡から出土したような六本柱の高層建築物に天地水の石神が祭られていたことを、筆者は会報十号で紹介し、将来同様の遺跡から隕石や化石が出土する可能性を示唆したばかりだったので、小島氏の情報にいかに驚いたか想像していただけよう。
 実は同じ事に気づき、森田村の歴史民俗資料館で石神を既に見ておられた人が他にもおられた。藤本光幸氏である。石塔山例祭の前日、藤本邸に泊めていただいたのだが、私が森田村石神遺跡の隕鉄のことを話すと、藤本氏はすでにご存じで、資料館で以前見たことがあるとのこと。早速二人で資料館へ赴き、石神を探した。資料館には石神遺跡の出土品が展示されており、それは縄文前期から晩期に至る大規模な遺跡だ。あの三内丸山よりも古い時期を含む。
 問題の石神は何の説明もなく展示ケースの中に並んでいた。直径十五センチくらいの丸い白と黒の石が二個、やや卵型のものが二個と、「石神」は知らない人が見ればただの丸い石としか映らない。あるいは縄文式土器の迫力に圧倒されて見落としてしまいそうな様相でさえあった。しかも発掘報告書には出土事実さえ記されていない。係の人にたずねると、「内部見解」は明快だった。「縄文の石神です」と。私が和田家文書のことを話すと、興味を持たれたのか、集蔵庫からお菓子の容器に入った別 の石神を見せてくれた。それは調査のために割られており、外側は白っぽく石のようだが内部は金属結晶で、キラキラと輝いていて錆びていない。かなりの純度の鉄のようだ。そして、その容器には「石神」と書かれた紙が貼ってある。別 の紙片には説明書きがあり、「初代石神。二代三代展示。(4代以降は不定形)」と記されている。ようするに、調査のため割ったものが初代で、展示されている黒い石と白い石が二代目と三代目の石神、卵型のものが四代目以降ということらしい。説明では中期末から後期にかけての縄文式土器と一緒に出土しており、縄文時代の信仰の対象であったことは間違いないとのこと。富山大学の先生から聞いた話として、白っぽい方は「銑鉄」ではないか、黒い方はもっと貴重なものと説明された。
 私が、黒い石神は隕鉄の可能性があるので是非検査してほしい、地球上の鉄であれば、その産地が特定できるかも知れないし、縄文時代に鉄球を石神として祭っていたことは宗教史の面 からも貴重なニュースになることを述べると、それならば調査してみたいと係の方は返答された。
 ちなみに、展示されている二個の石神は底がやや削られて、転がらないような工夫が施された状態で出土している。あきらかに平面 の上に並べたことをうかがわせる加工の痕跡だ。これが縄文の「石神」で、もし隕鉄であれば、恐るべきは和田家文書だ。縄文時代からの伝承を伝えていたのだから。しかし、これは不思議なことではない。出雲の国引き神話が旧石器縄文の神話であったことを古田先生が既に論証されているし、それを証明する黒曜石の出土分布と産地が今では科学的に証明されてもいる。縄文の宝庫である津軽に縄文神話が伝承されていたとしても、それは在って当り前とも言えよう。あるいは石神という地名そのものが、そうした縄文の「石神」の伝統を受け継いだものであろう。地名の伝承力もまた凄いものである。
 他にも、この石神遺跡からは驚くべき発見が続いているようだ。いずれ全てが公表されるであろう。また、同遺跡は近々十年計画で発掘が開始されるとのこと。次に出土するものが、あの三内丸山を凌ぐ可能性は充分だ。楽しみしてに待ちたい。

 石塔山、盛岡、仙台

 私の旅の後半の収穫は、人々との出会いだった。石塔山では青山兼四郎氏や松橋宮司、和田喜八郎氏をはじめ全国からみえられた懐かしい方々と再会を喜び、岩手大学では岡崎正道助教授と「現代」について語り合い、仙台では佐々木広堂氏や初めてお会いする会員の皆さんと楽しい一夕を過ごした。おりからの台風にもかかわらず、福島県から青田さんも見えられた。古田史学の会設立時からの同志であり、学志の方々だ。偽作論者による口汚い中傷が続けば続くほど、真実と私たちの友情は一層光り輝く。学問の殿堂とは、そのような真実を求めて止まぬ 人々の真心の中にのみ存在しうるのであろう。ラファエロが描いた「アテネの学堂」のソクラテスたちのような。(本編筆了)
   ◇  ◇  ◇
 和田家文書に記された石神や六本柱の高楼については、『新・古代学』2集の古田氏の論文に掲載されているので、参照していただきたい。同書は新泉社より刊行。お求めは書店、または新泉社へ。(編集部)
■ 新 泉 社 TEL03-3815-1662
〒113 東京都文京区本郷2−5−12


古 田 史 学 会 報 へ の 中 傷 に 反 論 す る

地に落ちた偽作キャンペーン 

古賀達也


 世の中には訳のわからぬ人がいるものである。過日、筆者に「ゼンボウ」なるあまり聞いたこともないような雑誌が送られてきた。差出人は偽作キャンペーン一派の原田実氏。また私や古田氏への中傷でも書いて送ってきたのかと思いながら読むと、どうやら「史学博士」の肩書で偽作論(論というよりも古田氏や藤本光幸氏らへの個人攻撃と本会への中傷に満ちた内容)がゼンボウに掲載されたのがよほどうれしかったのか、御丁寧にも送ってくれたようだ。私は寡聞にして「史学博士」などという博士号があったことを知らなかったのだが、原田氏はどこの大学でこの「史学博士」を取ったのであろうか。ともかくも、こうした肩書取得が氏の心根の卑しさの表れでなければ幸いである。
 「学問の優劣は肩書ではなく、論証そのもので決まる」とは、古田武彦氏の言葉だが、原田氏は昭和薬科大学で古田氏の助手をされながら、こうした学問に対する姿勢や倫理はまったく学ばれなかったようだ。
 さて、このゼンボウ9月号掲載の「なぜ原本を出さぬ、詐術にまみれた三郡誌騒動」という同誌編集長署名記事中にも、古田史学会報への事実無根の虚偽情報と中傷がなされていた。また同様の内容が、和田喜八郎氏と裁判で争っておられる野村孝彦氏の陳述書にあり、裁判書に提出されていたことを知ったので、この点について真実を明かにし、本会の名誉のためにはっきりと反論しておきたい。
 偽作キャンペーン一派は会報6号に掲載された、白川治三郎氏(元市浦村村長)による証言記事(『東日流外三郡誌』公刊の真実)の内容が、氏が編集部に送った「手紙」の内容とは「かなりそのニュアンスが違っている。詐術の臭いが強く漂っている。」と中傷する。当方の現地調査などに基づいた主張や証言に学問的に反論できなくなると、誹謗中傷に奔るのは当偽作キャンペーンの特徴だが、いよいよ本会報の編集にまで「詐術」などと論難し始めたところを見ると、偽作キャンペーンも言わば末期症状の様相を呈し出したようだ。
 これに対する反論は極めて簡単明瞭だ。当方には白川氏の自筆原稿が存在するからである。『季刊邪馬台国』五二号に掲載された白川氏らへの誹謗中傷記事(白川村長が秘宝発掘に公費を支出した、など)に対する反論の寄稿をお願いし、その原稿をほぼそのまま会報に掲載したのであり、ニュアンスなど違いようがないのである(白川氏の原稿の一部を掲載したので、会報6号と見比べていただきたい)。
 このように、「すぐにばれる嘘」をつかねばならないほど、偽作キャンペーン一派は追いつめられているのであろうが、それにしても彼らも地に落ちたものである。ことのついでに、「すぐにばれる嘘」の別 の例を紹介しよう。偽作キャンペーン一派の主張に、『東日流外三郡誌』明治写本を書写 した和田末吉「文盲説」というものがある。「親戚筋の話」と称して繰り返し宣伝しているが、これなどもちょっと考えれば「すぐにばれる嘘」の好例だ。
 大正八年に死去した末吉が文盲であったことを知っているとすれば、当時二十才の人でも現在では百才近くの高齢となる。そのような高齢の、しかも末吉のことをよく知っておられる親戚 の方が御健在なら、それこそ教えてほしいほどだ(末吉や長作のことを知りたくて、私は津軽の地を何度も訪ねている)。
 何という名前の親戚か、何才の方なのか。何を根拠に文盲だと判ったのか。偽作論者は、この問いに答えることができないまま、虚言を繰り返すのである。
 これまで度々主張してきたことだが、学問的に偽作論を述べるのであれば、次の諸点に答えねばならない。
 
1. あれほどの大量の大福帳や明治の和紙をどこから入手したのか。

2. 和田家文書に記された古今東西にわたる膨大な情報をどこで調査したのか。

3. 和田家が集蔵している遺物美術品をどこから入手したのか。その費用はどこから出たのか。最近、二度にわたり石塔山に大規模な盗難があったが、これなどもそれら遺物が「本物」であることを犯人たちが認めていた証拠でもある。

4. 和田家文書の内容と和田喜八郎氏をよく知る人たちは、いずれも喜八郎氏には書けるようなものではないと述べられている。喜八郎氏に会ったこともない安本美典氏や斎藤隆一氏らに偽作説などあげつらう資格はない。

 以上の問い全てに具体的に答えられて初めて偽作論は成立の余地があるのだが、あれほど繰り返されている偽作キャンペーン中、これらに明快かつ具体的に答えたものはなく、すべて一方的な推測や虚偽情報の羅列に終始している。そしてそのことを一貫して主張、学問的反論を行ってきた本会報や編集部に対し、事実無根の中傷を続けるのである。このように偽作キャンペーンは社会常識や学問的対面 さえかなぐり捨て、もはや末期症状の状態といえる。真実の前に偽作キャンペーンがひれ伏す日は近い。その時、かくも度過ぎた偽作論者を生んだ日本の学問の方法は大きく見直されることとなろう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail
sinkodai@furutasigaku.jp


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