和田家資料  

二 紙の発見 -- 『東日流外三郡誌』明治写本
古田武彦講演(王朝の本質)『古代に真実を求めて』第七集 へ
寄稿

和田家文書「北斗抄」に使用された美濃和紙を探して

岐阜市 竹内強

 和田家文書と出合ったのは、二〇〇三年六月に大阪で行なわれた古田武彦氏の講演でした。そこで古田氏は「和田家文書の明治写本と呼ばれるものの中に岐阜で作られた美濃和紙が使用されている。それは、和田末吉氏が明治大正期に五所川原にあった紙問屋『又上』の主人佐々木嘉太郎氏から不要になった大福帳を貰ってきて、その和紙に筆写したというのです。更に北斗抄の中に岐阜の紙問屋の判子が押されているものが沢山発見された。この紙問屋を探して、この紙がいつまで作られていたか、この判子はいつ頃まで使用していたかが判れば、和田末吉氏の言っていたことが証明できる。」
 講演終了後、「私は岐阜に住んでいます。一度調べてみましょうか。」と申し出ていた。こんな大変なことを素人の私が申し出たことを今思えば、冷汗の出る思いです。
 古田氏から渡された九枚の「北斗抄」のコピーをよく見ると四つに大別することができる。     
 A、判印の無いもの
 B、岐阜市元濱町山下商店の角印
  常盤の大判、ヤマセの記号(屋号)
 C、岐阜市岡田商舗の角印
  八島の大判、マル小の記号
 D、読みとれない角印白龍の大判、カネトの記号

和田家文書「北斗抄」に使用された美濃和紙を探して 竹内強 和田家文書4藤本光幸 北方新社

 以上四種類でその中で店名住所の明記されている山下商店からまず探すことにした。
 岐阜市元濱町は、通称河原町と呼ばれる長良川の河洲にできた町の一角で、有名な鵜飼の舟が発着する所です。この地域は、戦災を免れたおかげで古い街並が残っています。元濱町は、この河原町の西端三十戸程の地域で、昔は紙商や材木商が軒を並べていたそうです。「山下商店を知りませんか、明治時代ここで紙問屋をしていた店なのですが。」一戸一戸聞いて回わって見たのですが、「知りません」「聞いたことないね。」の返事ばかりでした。
 和紙を使った小物を売っている店を訪ねると「昔、和紙問屋をしていた家が近くに有るから紹介してあげるよ。」と親切に案内をしていただいた。その家は、古い商家で黒い格子戸が、かつての趣を残していた。玄関を入ると暗い土間の向うから八十過ぎの老婦人が現われた。山下商店について聞くと「そんな名前の店は知らないね、私は戦前にここに嫁いだが、近所ではそんな店なかったね。」「このあたりは昔は沢山紙問屋が有ってにぎやかでしたよ、私の所も当時は住込みの奉公人が十数人いたから食事の世話だけでも大変だったよ。」
 結局山下商店の情報は何も有りません。
 昔の事をよく知っていた九十才を過ぎた老人もつい三ヶ月前に亡くなった、と聞かされ、百年という時の流れを感じずにはいられません。
 古田氏から資料を受け取ってすでに一ヶ月以上が過ぎようとしていた。調査は一歩も進まなかった。そこで古田氏に一度電話を入れた「いろいろ調べているのですが、百年も前の話は、思っていた以上にむずかしいようです。いいアドバイスがあれば聞かせて下さい。」
 ところが、古田氏からの返事は「君、百年くらい前のことで何を言っているんだ、私はいつでも千年二千年前のことを調べているんだよ。」こう言われると返す言葉が有りません。もう一度調べてみようと決意しました。
 そんな時、一冊の本を発見した。澤村守編集で同和製紙株式会社発行の「美濃和紙 その歴史と展開」である。この本によれば、明治二十五年刊「日本全国商工人名録」に岐阜県内に二十六名の紙商がいた。名前を見たが山下商店の経営者らしき人は載っていない。ところが、明治四十一年版「商工重宝」になるとその数が四十二人に増えている。そしてその中に、山下清一(元濱町)が出ているのだ。やっと見つけたと思ったけれども二つの問題が残った。
 一、山下清一氏が本当に山下商店の経営者なのか。
 二、仮りにそうだとしても、いつから店を開き、いつまで営業をしていたのか。
 この二つの問題を解決しなければならない。コピーを見るとヤマセの記号がある。山下清一の頭文字を屋号にしたのではないのか。
 更に調査を進めると、岐阜県立図書館で一番古い岐阜市の商業者名簿を見つけた。大正五年版である。これには、すでに山下清一の名前は載っていない。結局、山下商店は明治の後半期の短期間元濱町で商買をしていたようである。山下商店については今も調査を続行している。
 山下商店の調査に行き詰まり数ヶ月が過ぎて行った。もう一度原点に帰って考えて見ようと、これまでの資料や調査結果を振り返っていた。すると、明治四十一年版「商工重宝」に岡田兵助(玉井町)が載っている。岡田商舗ではないのか。玉井町は元濱町の東隣、同じ河原町の中なのである。住宅地図で岡田を捜すと、有った。なんと明治四十一年に商買をしていた岡田兵助の名前が有ったのです。
 早速出かけていって、又ビックリです。何と岡田兵助氏の家は、山下商店を捜して以前訪問したあの老婦人の家なのです。岡田兵助氏について質問すると、「岡田兵助は、三年前に亡くなった私の主人です。」「えっ、では明治四十一年の岡田兵助はーーー 」「それは、初代か、二代目でしょう。私の主人は三代目の岡田兵助なんです。」やっと理解できた。
 いろいろ質問してみたが、どうも話がかみ合わない。聞くと今は息子さんが会社を引き継ぎ岐阜市の郊外に会社も工場も移しそこで生活をしているとのこと。電話番号を聞き日を改めて社長と面談することにした。
 数日後、社長の岡田浩一氏と会うことができた。現在会社は「紙兵」という名前で紙ナフキンの製造と販売を行なっている。全国の家庭用紙ナフキンの五十パーセント以上のシェアをほこっている。岡田商舗について質問すると社長は、初めて聞く名前だと言う。初代の岡田兵助は、明治三十年、同じ玉井町にあった紙問屋、松井三治郎商店(マル川)から分家独立した。その後、二代目が跡を継ぐ明治末期には、名前を「マル小兵助商店」と名乗り紙ナフキンの製造販売を始めていたとのこと。
 岡田商舗の印の押されたコピーを見せると「これは、まちがいなく私の家から売られたものです。私は知らなかったが多分、初代が店を始めた頃は、岡田商舗と言ったのでしょう。紙商でマル小の屋号を使っていたのは、岐阜では私の家だけですから。」「紙兵」と社名を変更したのは浩一氏の代になってからということです。残念ながら古い書類や資料は何度かの火災で何も残っていないとのこと。
 Cの八島の大判、岡田商舗の印の用紙は、明治三十年から明治末期までの間に「紙兵」の前身、玉井町に店のあった岡田商舗から売られた美濃和紙にまちがいない。
 年が明け、二〇〇四年二月になっていた。土曜休みを利用して美濃市に出かけた。美濃市にも何度か調査にこれまでも足をはこんでいたが、この日は、和紙試業センターに古い和紙の資料があると聞いたからであった。ところがセンターも土曜休業で閉館中。時間があいたので美濃市の街をブラブラ散策した。
 古い「うだつ」の上がる街並を歩いていると美濃史料館の看板が目に入った。そこは、古いりっぱな建物の商家をそのまま利用していた。日本の音風景百選に選ばれた水琴窟のある家で、そのかすかな音を聞き、店先の帳場、奥の座敷と見て回り、一番奥の資料展示室をのぞいて興奮した。なんと私が探していた、Dの大判「白龍」の版木がそこに展示してあるのだ。よくわからなかった角印も、更に見わたすとあのカネトの屋号の入った判天や提灯があちこちに置いてあるのです。
 係の人に話を聞くと「ここ今井家は、江戸時代からの庄屋で、その一方で和紙問屋も商っていた。当主は、代々今井兵四郎を名乗り明治三十年代に最も栄えたが、昭和十六年子孫が絶えて紙問屋も廃業となり、現在この建物は美濃市の管理となって、史料館として利用されているとのことです。
 これまでの調査の結果をまとめてみると、B、C、Dの紙がほぼ同時期の品物であれば明治三十年から四十年代末のものと思われる。
 この当時岐阜産の和紙は、長良川上流の山村で多く生産されていた。水運を利用し美濃市や岐阜市の河原町に運ばれ、そこで紙問屋に売られた。こうした紙は、何枚かに束ねられて商品となった。この時その一番上の紙にその紙問屋の大判角印が押されたのであろう。そうして再び長良川を舟で下り、桑名まで行き、そこから更に大きな船に乗せかえられて東京や大阪へと向かった。当時(明治後期)岐阜産の和紙の六十パーセントが東京へ二十パーセントが大阪へ残りの二十パーセントが名古屋や地元で消費された。青森の又上も多分東京あたりの紙問屋から仕入れたと思われる。尚、東京日本橋には、「伊勢屋」を名のる美濃和紙を扱う店が六軒もあったそうです。なぜ「伊勢屋」なのかは中継地の桑名があったからと思われる。「又上」は、直接岐阜からではなく、東京の紙問屋から仕入れたのではないかと思います。
 今回の調査の中で重大なことに気付いた。それは、「北斗抄」の明治写本の中に紙問屋の印の押された和紙が沢山でて来たことの意味である。偽書だといっている人の中には、和田家文書の明治写本に使用された和紙が戦後のものであるとか、もし古い大福帳であったとしてもそれは、束京神田の古書店かどこかの古道具屋へ行けば簡単に手に入るというのです。ところが、この和紙は紙問屋の大福帳なのです。先程述べたように、一束にされた紙の一番上かあるいは一番下の一枚で、紙屋は小売りをするとき商品にならないこうした紙を取り除いた。日焼けしたり少し破損した紙などと共に自分の店や自分の家で使用した。米屋、酒屋ではこれは出来ないと思います。和田末吉氏が言うように青森の紙問屋「又上」のご主人、佐々木嘉太郎さんから貰った不要になった大福帳の可能性が極めて高いのではないでしょうか。
 これが、今回の調査でこれまでに判明した結果の結論です。


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