『古代に真実を求めて』第七集へ
王朝の本質 ーー九州王朝から東北王朝へ 1・2・3 へ
一「邪馬台城」の発見
二 紙の発見 ーー『東日流外三郡誌』明治写本,三 アメリカという国,四 東アジアの日本 ーーズーズー靺鞨
古田武彦
古田でございます。さっそくですが、最近の問題から話をさせていただきます。司会の古賀さんが紹介の『東日流外三郡誌』に語られている「邪馬台城」の問題から入らせていただきます。
『東日流外三郡誌』については偽作である。そういう説が流れていますが、わたしから言いますと、とんでもない話です。偽作説そのものは、後世に名を残す大ポカであると思います。東奥日報などの最近の新聞も、繰り返しこの問題を扱っています。もっとも考えようによりますと現地の新聞が『東日流外三郡誌』が偽作だということを、一面に載せたり囲み記事に載せたり、繰り返し巻き返し行っています。ですが、それはやはり言っている本人たちが不安であるからだと思います。不安だから繰り返し、繰り返し言っていないと安心できないのでしょう。それらの記事も持ってまいりましたが、古賀さんにお預けしておきますので、関心のある方はご覧下さい。
しかし青森の現地の人々は、それに惑わされずというか、地道に熱心に『東日流外三郡誌』の読書会や研究会を続けられています。研究会は五年を越えております。それを聞きましてわたしは感銘を受けまして、それなら私のほうには、『東日流外三郡誌』の史料があります。明治写本のコピーがありますので、それを提供してお話してもよいと申し上げたわけです。
もちろん研究している方々は、活字本をもとに研究しておられます。活字本の『東日流外三郡誌』は、最初に載りました市浦(しうら)村史のものや、次に弘前におられる藤本光幸さんが中心になって編集された全集。その次に東京の八幡書店で全六冊の本になって世に出ました。比較的短い間に選集や全集が出て、その意味ではひじょうに幸せな本なのです。そのような活字本をもとに研究されています。ですが私のところには、それ以外の史料がたくさん、わたしの家に来ております。それは東京の昭和薬科大学を七年前に退職するまで、十二年間おりました。そのときに和田喜八郎さん。当時御存命でしたが、彼が繰返し厭になるほどたくさんの明治写本を、箱に入れて次々と狭い研究室が一杯になるほど送ってこられた。七年前昭和薬科大学を辞める前に、お借りした資料は全部返さなくてはと考え、古賀さんや高田さんに手伝っていただいてコピーをぜんぶ取りました。とてもわたし一人ではコピー出来ないほど膨大な量でしたが、お預かりしたものは全部返さなくてならない。そう考えまして三月の末の退職するまぎわには、すべて宅急便で和田喜八郎さん宅に送り返したことを覚えております。もちろん、これは『東日流外三郡誌』の明治写本と言われるものです。それらを完全にコピーできました。これらの史料は活字化されたものだけではなく、「北斗抄」・「北鑑」・「丑寅風土記」といわれ活字になっていないものや、それ以外にも活字化されていない貴重な史料も、かなりの量がわたしのところに来ております。
だから『東日流外三郡誌』を研究されている青森の方々に、全部は無理ですが活字化されていて興味を持たれたものや未発表の史料などを提供し、お話したいと申し入れました。そうしますと早く来ていただきたいと催促され、今回は六月十七日から二十一日まで五日間連続して行いました。毎日午後一時から夕方まで、そして夕食を済ませて六時から九時まで学習会を行いました。それで『東日流外三郡誌』に集中攻撃を行い、大きな成果を上げることが出来て、しかも飛び入りの収穫もありました。
その成果の一つが「邪馬台城」の問題です。これは発見されたのは玉川宏さんという公務員の方で、わたしの熱心なファンの方と聞いておりました。それで昨年お会いいたしましたが全く予想通りの方でした。のみならず亡くなった和田喜八郎さんに対して、的確に「長短」を指摘された方です。和田さんはたいへん「短所」のある方です。
それを言い出すと一時間ぐらい喋っても話は尽きないですが。しかし同時に、祖先から伝えられた古文書を非常に大切にするという「長所」も間違いなくあった。それがあったから、いくら「短」があっても私はお付合い出来た。玉川さんも青森におられた方ですから余計にそうでしょうが、そのような和田さんの「長短」を的確に指摘されて把握しておられ、まったく私と同意見なので驚きました。
その玉川さん、この方が「今回、邪馬台城を見つけました。」と報告された。この見つけました、という報告。これには注釈がありまして、昨年私が青森に行きましたとき、別の二つのチームから調査した話を聞いております。初めのチームは、成田さんという方をリーダにした二名のチーム。もう一つは佐藤さんという方をリーダーにした五・ 六名のチーム。この二つのチームが、別々の水脈・ルートをたどって同じ「邪馬台城」に到着された。このお二人のリーダの話をお聞きして「邪馬台城」がそこにあることは間違いない、そのような感じをもちました。それらのお話をお聞きになった玉川さんが再度何回もアタックされて今回の発見となった。今回で七回目のアタック。東北の人は本当に粘り強いですが、今回間違いなく現地に到着されました。そして、この「邪馬台城」の証拠として、切りとられた五角形の石材を持ち帰られた。
(後の懇談会での追加報告。この石は柱状節理の岩で、ある方向に切ることが出来る石材です。この石材の石切場は、対岸方向の陸奥湾の東海岸にあります。おそらく船で運んだのでしょう。)
このような石を持ち帰るのも、本当はいろいろな法律がからみ難しい問題がありますが、今回は研究のためにお借りし、皆様に研究していただくためにお見せしております。遺跡の遺物を勝手に持ち帰ってもいけませんし、自然の風致の風物も、勝手に壊してもいけません。そのあたりは公務員の方ですから注意して対応して頂いて、お借りしてきました。(会場に石を展示。)
それで結局「邪馬台城」とは何かと言いますと、これは『東日流外三郡誌』のハイライトの場所なのです。『東日流外三郡誌』をお読みいただければお分かりのように、秋田孝季が一番探し求め続けていた場所が「邪馬台城」なのです。彼はそれを探しあぐねている。一回、見つけたと思った飛鳥山。これは高さ一〇〇mぐらいの山で青森市の近郊西はずれ、そんなに遠くない。地図に書いてみますと、ここが陸奥湾(青森湾)の一番下の左。ここに五角形の人工の要塞らしきものがある。これも『東日流外三郡誌』に出てくる。これは現在、地元の方々が報告して青森県の遺跡地図に番号が付いて掲載されています。これは何物か、又いつの時期か不明であるけれども、自然のものではなく人が作った要塞らしきものがある。ところが秋田孝季は、最初飛鳥山に「邪馬台城」を発見してたいへん喜んでいます。
また『東日流外三郡誌』には飛鳥山の「邪馬台城」に関する記事も大変多い。ですが秋田孝季は飛鳥山が「邪馬台城」とは、どうも違うのではないか、疑問を持ち始める。さらに研究と探求をかさねて大倉山に「邪馬台城」を探し求める。この山そのものは、高さ五百メートルぐらいで大した高さではないが、地形的に好都合というか、切り立った断崖というか、簡単に近づけない自然の要害。地形の利を持ったところだ。その大倉山の近くに真の邪馬台城を発見してたいへん喜んで書いている。
これも一言言っておきますと、『東日流外三郡誌』偽書説の人が取り上げたことがあります。「邪馬台城があった。あった、あったと言って喜びながら又探している。偽作の証拠だ。」と書いている。ですがこれは、わたしから見ますと本物の証拠です。なぜなら偽作なら、あった、あったと書いて、また探す必要はどこにもない。このように矛盾していることを書く必要はない。それを初め見つけて喜んでみて、また別の場所を探す必要はどこにあるのか。最初から整然と書けばよい。『東日流外三郡誌』では、このように二つ邪馬台城があるように書いてある。今度、その真の「邪馬台城」が見つかった。いろいろなチーム。成田さんチーム。もう一つは佐藤さんチーム。そして玉川さんチーム。その意味では三番目です。このようにいろいろなチームが、探求に探求を重ねて、遂に邪馬台城に到着された。
ですが玉川さん自身は非常にクールでした。今回の学習会の時に、今日お見せした石を持ってきて頂きましたが、これからが勝負です。これから何回でも行って調べ尽くすつもりである、とご報告いただきました。今は草が一杯茂っていまして、お回しします「北斗抄」の図のように、全体が五角形で出来ていることが写真を撮っていてもよく分からない。おそらく十一月頃になると、草が枯れて全貌がハッキリ分かると思います。そのように玉川さんは言われました。
わたしが最初玉川さんに会ったとき言いましたのは、写真にとっても全体は撮れないでしょうから、グライダーに写真機を付けて上から全景を撮ったらどうかと提案しました。
高知県の土佐清水市の遺跡を調査したときにおこなった方法ですが。玉川さんは、それなら大丈夫です。わたしの職場では、仕事でいつも航空写真を撮っています。専門の若い人もいます、と言われました。ですから、そういうことも考えられていると思います。つまり玉川さんは十重二十重に証拠を固めるまでは、「本当に邪馬台城かどうか分かりません。わたしは醒めています。」と、嬉しいから余計に心臓に氷を当てて興奮を抑えているようです。
ですが、わたしは三チームから報告を聞いていますので、大倉山の近く、そこが秋田孝季の探し求めた「邪馬台城」である。つまり『東日流外三郡誌』の心臓部である「邪馬台城」を、発見できたと思います。わたしは行っていませんが、そのように考えます。
それで初めは、たいへんな難所であると考えていました。わたしなども年を取っているから、この邪馬台城へ行くのは無理だ、と初めは言われました。ですが出来たら足を鍛えて行きたいと思います。それほど行くことは難しいことはないと思います。今玉川さんからお借りした金木町の地図をお回ししますが、海側から阿弥陀川に沿って二時間歩けば大丈夫行けます、と言われました。今度は場所を完全に把握しておりますから、と七回目の自信を覗かせておられました。今回「邪馬台城」の絵が載っているのが「北斗抄」のコピーです。それらをお回しします。もちろん「北斗抄」は、活字化されていません。明治写本の実物がございますが、今は藤本光幸さんのところにあります。
他にも関連のお話も、たくさんありますが、もう一つお話しいたします。『丑寅風土記』という、全六冊という厚くなかなか内容が充実したまとまった記録があります。
この先頭に和田末吉が、佐々木嘉太郎という紙問屋の御主人に対して感謝の言葉を書いてある。つまり寛政原本が古びて破損してきたので和田末吉が筆写しています。 それが出来たのは、 もっぱら和紙を提供していただいた佐々木嘉太郎さんの、おかげであると、感謝の辞を筆写した文言の中に書き連ねている。
和田末吉は、明治・大正時代に五所川原にあった紙問屋から、不用になった大福帳を貰ってきて、それに『東日流外三郡誌』を筆写している。大福帳はお金の出入が延々と書いてあるだけですので、二・三年経つと要らなくなる。和田末吉は、その大福帳を再利用して「丑寅風土記」などを筆写している。
それでわたしは、佐々木さんが経営していた紙問屋さんを探したら、その明治の紙と同類の紙が見つかるのではないか。そのように見当を付けていました。ですが今回の研究会に参加しておられた五十嵐さんという方から、「佐々木さんの家は、火事でぜんぶ焼けました。ですからその方法は駄目です。」と言われていました。
ですが、わたしはそこからもう一回食い下がって考えました。確かに佐々木さんの家は焼けて、そこには何も残っていない。それは確かです。ですが用済みのものを和田末吉さんだけに配って、他の人には配っていないのか。もちろん文書を写すのに使ったのは和田末吉さんだけでしょうが、それぞれの用途に、障子張りや他にも使ったのではないか。当時の紙は貴重ですから。その中の一番多いのが和田末吉ではないか。もちろん頭の体操では、貰ったところが全部火事になって焼けた。他は無い。そう言えないことはないけれども、まずそのようなことは無いのではないか。また貰った人が全部五所川原の人とは限らない。それを追求すれば同類の用紙は、あるのではないか。そうお話しした。そうすると、やはり地元である。すぐ反応がありました。「佐々木嘉太郎さんのお孫さんがいます。現在の青森市長です。」と言われ、すぐコンタクトを取っていただいた。
それで最終日に、わたしと五十嵐さんと会長の敦賀さんが行って、お会いすることが出来ました。会長の敦賀さんは、以前から市長さんとお知り合いであり、それが役立った。敦賀さんは自分の住んでいる町内会の副会長ですが、その下にいくつも組があります。その組の中の、一つの組長さんが市長さんである。つまり市長さんは同時に町内会の組長さんで、敦賀さんの配下である。(笑い)組長への就任の依頼に行ったのが敦賀さんだった。それで、なごやかに明治写本の『丑寅風土記』を、市長にお見せしてお話しした。そこに(お爺さんの)佐々木嘉太郎の名前があり、なつかしそうなお顔をされ、私どもの問合わせにお答えいただいた。お孫さんですから。
それで市長さんのお答えに、私どもの家は昭和十九年と二十一年の二回、終戦の前後に焼け、何も残っていません、とお答えがありました。しかし私どもの本家に「第一別家」があり、これは符号で「又上またじょう」というのですが、そこも、また家は焼けました。しかし蔵は残りました。だからその蔵にあるか調べてみますと言われました。親戚ですから、このようにご存じです。さらにもう一つ可能性を残しています。当時佐々木さんの番頭さんが居まして、その方のお孫さんが現在自動車販売会社の社長さんだそうです。この方にも、お願いしたいと考えています。そこにも同類の紙が残っているのではないか。なにしろ明治です。古代を探求している人間から見れば、最近の話ではないですか。ねばり強く探求していけば、すぐ分かると思います。これも今回の収穫です。
もう一つだけ致します。今回の学習会では藤本光幸さんが、「北斗抄」(明治写本)の現物をお持ちいただき、わたしはカラーコピーを持って参りました。そしてみんなで、いろいろ調べました。そうすると目のよい方に、この「北斗抄」の最後のところに大きな判子が、いくつも押してあるのを見つけていただきました。調べると、そこには岐阜県の美濃の会社名の判子がいくつも押してありました。つまり和紙は美濃紙なのです。つまり又上さんが、岐阜県から青森県に美濃紙を買ってきて、それを大福帳に使っています。ですから岐阜県へ行って、調べれば分かるのではないか。美濃紙のことを、岐阜県の博物館や美術館に行って郷土史に詳しい方にお聞きすれば、簡単に分かるのではないか。この会社は明治何年までありました。この会社は現在までありますが、この和紙は明治何年まで作っていました。この判子は明治何年まで使っていました。そのようなことが分かるのではないか。
以上、続々証拠が出てきました。わたしも大量の明治写本のコピーを持っては京都に帰りましたが、その後研究から少し遠のいていましたが、また再び研究を津軽の方々と出来て良かったと感じております。
これもつまらんことを、もう一言付け加えますと、今でも偽作説を盛んに言っている方がいる。『季刊 邪馬台国』でもあれだけ出ている。今でも盛んです。これらの人の書かれた資料は貴重な資料だと思う。人間は、あれだけ情熱的に、何の利害に基づいて偽作説を流し続けられるのか。人類の貴重な資料です。もし別の資料があれば、あそこにもあると、お教え下さい。わたしが青森からお持ちした資料は、古賀さんのところに預けておきます。それもご覧下さい。
ついでながら、ここで関心を持ちましたのはシュリーマンの問題です。これは偽作説という程度の問題ではない。シュリーマンは金にあかせて古道具屋から土器を買い込んで、それをトロヤから発掘したと嘘をついて騙している。そういう大詐欺師である。そういう噂が、シュリーマンを生涯苦しめた。そういうことをベッヒャー退役大尉が、雑誌を発行してシュリーマンを攻撃し抜く。シュリーマンはまじめな人だから、それを真剣に受けとめて、ベッヒャー退役大尉をトロヤに招き討論します。ですが相手にとっては、それは問題ではない。シュリーマンの行った仕事に対する評価ではない。このことは岩波文庫『古代への情熱』をお読みになれば、そのことは書かれております。わたしなどは残念ですが、そのことは岩波文庫本でしか知りません。攻撃したベッヒャーさんの文章は読んだことがない。それでオランダにいる難波収さんに頼み、シュリーマンを攻撃していた雑誌を手に入れて読んでみたい。どういう形でシュリーマンを攻撃していたか、『東日流外三郡誌』攻撃と比較してみたい。変な歴史比較学ですが。さいわいドイツ語なら得意なので。とにかく後世に残る歴史資料である。偽作説に対して、そのように考えています。
二〇〇三年二月にアメリカに行ってワシントンDCにあるアメリカ最大の博物館であるスミソニアン博物館でメガーズ博士と講演を行いました。東京の国立博物館が二十ぐらいの、群を連ねて取り巻いているすさまじい広さの博物館です。ワシントンはニューヨークとは別に作られた政治の町であると共に学問の町です。関連して、なぜスミソニアン博物館が作られたのか。いきさつを少しだけお話致しますと、イギリスの貴族でスミソニアンという人がいた。彼は一回もアメリカに行ったことがない。その彼がなぜか亡くなるとき遺言して、彼の厖大な財産を全部アメリカに寄付する。アメリカに博物館を作って欲しいと言って亡くなった。全額を寄付した。彼がなぜ行ったこともないアメリカを、これだけ評価したのか。逆に言えば、いかにイギリスを嫌ったのか。興味深い謎です。
そのスミソニアン博物館にある研究所の、研究員をしておられて亡くなられたエバンズ博士。その奥さんのメガーズ博士は、同じく同僚の研究員です。そのメガーズ博士にお会いして、博物館にあるエクアドルから持ち帰った厖大な土器・土偶の資料を見せていただき、写真撮影を行った。今度はデジカメで撮りました。不思議なことに日本の考古学者は誰一人、ここに来たことがない。わたしは二回目の見学でしたが。
次の日に研究会が開催され、メガーズ博士がまず報告されて、次にわたしが行いました。その時に非常に幸せだったのは飯塚文枝さんにお会いし通訳をお願いできた。この方は日本の芸術大学系の小・中・高校を出られ、アメリカのミシガン大学考古学科を卒業された。その後二年間中米のコスタリカでボランティアとして、考古学の発掘作業に携わられました。そこで今度はペルー人のすばらしい考古学者とお会いになられ、その推挙でメガーズ博士の元に来られ、学ばれている。九月からは、合格すればニューヨーク州立大学の海洋学科の大学院に修士・博士課程に五年間進まれる予定です。卒業しますと博士号が取得でき、晴れて発掘作業できるようになる。
初めて知りましたが、現在のアメリカは学歴社会で博士号がないと相手にしてくれない。発掘に協力するのは誰でも出来ますが、博士号がないと自分の責任で発掘もできないし論文も発表できない。わたしは無責任にも、大学院に行かなくともメガーズ博士にしがみついて学問の指導を受けほうが良いのでは、と言いました。しかし個人的にメガーズ博士の指導を受けるのはよいが、それでは自分で責任ある発掘などの仕事が出来ない。おそらくメガーズ博士は大学院の博士課程を出てこられたら、一度エクアドルの発掘に行って欲しい。協力しよう。そして自分が命がある限りは指導したい。そのように考えられていると思います。そういうすばらしい女性にお会いできた。
そのアメリカでも、変な話を聞きしました。今回メガーズ博士がたいへん気持ちが落ち込んでおられた。その原因は幾つかありますが、一つだけお話しいたしますとメガーズ博士を攻撃する定説派の学者がいます。定説派というのは、縄文時代に日本から太平洋を渡って南米に来たことを認めない。来たのはすべてベーリング海峡から来たモンゴロイドだけだという説です。その中の一人の学者が論文で、「メガーズ博士の旦那さんであるエバンズ博士は亡くなる前に自説を放棄した。そして亡くなった。」、そういって攻撃された。わたしは「本当ですか。」と妻のメガーズ博士に聞きました。夫のエバンズ博士と私は手紙の交換をしていましたが、わたしはそのような気配は全く感じませんでした。メガーズ博士は、「とんでもありません。」と肩をすくめて直ぐ否定されました。わたしも、「そうでしょう。 自説を放棄した。そのようなことは聞いたことはございません。」と激励しておきました。ですが帰るときに、気が付きました。相手の学者は、なぜそんなことを言ったのか。当然ですが夫人のメガーズ博士も亡くなった後であれば話は簡単である。死人に口無しです。ところが生きていれば、夫人のメガーズ博士が共同研究者として否定するのに決まっている。ところが、その時、相手はどう言うのか。妻の証言は信用できない。つまり裁判の論理です。われわれはアメリカの裁判をテレビで見て知っているように、アリバイを証明するのには妻の言うことは証言力がない。夫のアリバイを妻が証言しても信用されない。アメリカは裁判の国で、現地の人は冗談で言いますが、特にワシントンは石を投げれば弁護士に当たると言われる。交通事故にでも遭ったら、弁護士が俺にやらせろ、と列をなす。そのように言われている。ですから夫の発言の証明を、妻が言っても駄目なのである。
妻は自分の利益のために、夫の発言を弁護する。それが裁判の世界では勝つ。つまりアメリカは訴訟社会ですから相手の学者は、学問の世界に裁判の論法を持ち込んでいるわけです。学問の世界にも、そんな裁判の論理を持ち込んできている。日本の『東日流外三郡誌』偽書論者のほうがまだ可愛いな、と思ったぐらいです。
メガーズさんもその意図は分かるわけですから、相手にしないわけです。悪い例ですがアメリカもここまで堕落したかと思った次第です。メガーズさんも、匙(さじ)を投げたわけです。以上アメリカ社会の悪い例をあげましたが、良い例は奨学金制度です。日本でも会社や自治体がアメリカなみの奨学金制度を設けて、優秀な子弟には全部勉学を保証すればよい。そのようになれば日本はまだまだのびる余地はある。それはアメリカへ行って感心したことです。この問題に関連して、わたしはメガーズさんにお別れするときに、「百三十歳まで生きて研究して下さい。頑張って下さい。」と言いました。そうしますと、メガーズさんは「わたしは、そんなに生きたいとは思いません。その時には地球が壊れていると思いますから。」と言われました。わたしは本当におどろいた。びっくりした。メガーズさんに、「百三十歳まで生きていて下さい。」と言ったのは、百二十六歳まで生きている人がいるから、百三十歳まで生きていることは可能であると考えて、元気で活躍して下さいとの意味を込めて言っただけです。それが、あのようなお答えが返ってくるとは思いもしなかった。聞いて、ぞっとしました。
ちょうどイラクと戦争を始める前夜です。盛んに議論をしているときです。これからも戦争や闘いが、絶え間なく起きるでしょう。そういうメガーズさんの考えを、ワシントンが好戦的雰囲気の中での良識ある声として、このお話をさせていただきます。
これは、一月の講演の続きのお話です。今年の九月二日から九日までロシア極東のウラジオストックやハバロスクのほうへ参りまして調査を行います。正確にはウラジオストック周辺の現地人の言語を調べてみたい。つまり日本のズーズー弁と言われるものの淵源は、中国の歴史書に出てくる粛慎・靺鞨族であり、ロシア極東地域ではツングース系の民族といわれる人々ではないか。もちろんモンゴル系が入っていても良い。
わたしの変な言葉では、ズーズー靺鞨。日本国の出雲と東北の言葉の淵源がこのズーズー靺鞨ではないか。もちろん日本国内では、これ以外にも能登半島や各地にも報告されていますが、大きくは、その二つです。その二つの共通の淵源がウラジオストックの方にあるのではないか。九月のシンポジウムに、その報告と調査に行きます。それに合わせて東京古田会の高木さんがツアーを計画されました。どうか皆さんに参加していただきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。現地で新しい発見が出来たらと考えております。
この問題についても、新しい発見を述べたいと思います。
『契丹国史』という中国宋代に作られた本がありますが、その中の地図を見ますと阿里眉(アリビ)国という地名があります。わたしは、この「アリビ」は、「アリ+ビ」であると考えます。「ビ」は接尾語でどういう意味か分かりませんが、あえて言いますと辞書では隅の方の良い場所であると書いてありますから、そういう地形表現があると思います。ですから固有名詞は「アリ」なのです。日本語では有田さんや有村さんなどの名前や地名の有明海があります。「田タ」や「村ムラ」は接尾語ですから固有名詞は「アリ」です。この沿海州の「アリ」と対岸の日本にある「アリ」は同じ「アリ」ではないか。もちろん今は断定する必要はないですが。
なぜ『契丹国史』を持ち出したかと言いますと、出雲風土記の、北門(キタド)の国が、ウラジオストック周辺の国であるとのお話を、昨年東京の講演会で行いました。そのとき質問でお二人の方から「契丹キッタン」と「北門キタド」は同じ国名を表しているのではないか。そういうお話が出ました。まさかと思いましたが、無視は出来ない考えでしたので京大の図書館に行って調べ始めました。そうするとアリビ(国)という地名がありました。
一番問題になるのは萩原真子(おぎはらしんこ)さんから教えていただいた沿海州の方言地図がある。その中にオロチ語があるとは聞いていたが、沿海州の日本海沿いにオロチ語が分布しているとは知らなかった。もちろん沿海州の日本海沿いといっても、北海道や樺太の沿岸沿いの北よりですが。とにかくそこにはオロチ人やオロチ語をしゃべっている人がいる。そうしますと日本人なら、誰でもご存じの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が、これはオロチ人のことではないか。「ヤマタノオロチ」を蛇だと思っているが、とんでもない大うそです。「チ」は神様のことである。「オロチ」という神様。八個の尻尾は後のこじつけ。「ヤマタ」に対しては、今のわたしの考え方では、「ヤマタ」は「ヤマ」にある田圃(たんぼ)。これに対して斉藤里貴代さんという方が論文を送って下さった。きっかけは「ヤマ」に対しては、NHKの放送の中で有名な縄文文明を論じている佐々木高明氏の論文を取り上げていた。その中に伊豆諸島の八丈島、山陰の隠岐島では、働きに行くことを「山に行く。」と言うのだそうです。これは何かといいますと、縄文時代には山に行って狩りをしたり実を取ったり、あるいは木や草の世話を行う。そのような生産の場所だった。稲作が入って来ていないので弥生のように湿地帯は役に立たない。生産の地は山だった。だから「山に行く。」という縄文語が残っているのではないか。それでテレビを見た斉藤さんはこの「ヤマ」に対して論文を送って下さった。送って下さったのはお分かりのように、邪馬壱国の「邪馬」は、mountainの山ではなく、この「ヤマ」ではないか。われわれは今山に昇るのは、めんどうで食べる物は何もないと考えますが、それは稲作文明の時代に生きているからです。縄文時代には、山こそが生産の地だった。「山に行く。」ことは、「食料を取りに行く。あるいは植えに行く。」ことである。そのような言葉の用法です。
この考えを、仙台の講演でお話しいたしました。そうすると凄いですね。宮城県仙台近辺でも働きに行くことを「山に行く。」という言葉を使っています。すぐ反応がありました。もう一人の方はお母さんが福島県の郡山出身。その方のお母さんも働きに行くことを「山に行く。」と言いますと、そのようにお聞きしました。たまたま、その講演に来られた二例だけですが、東北でも現在働きに行くことを「山に行く。」と言っているところがある。ですからNHKの本の中では伊豆諸島の八丈島、山陰の隠岐の島を例に取り上げられただけなのではないか。他にもあるのではないか。弥生時代の稲作の中心の「田タ」ではなくて、縄文の生産中心の田圃(たんぼ)としての「ヤマタ」である。
われわれには「山田やまだ」という姓はありふれているから、出身地はどこであるか誰も聞かないが今後は確認してみたい。これだけたくさんの山田姓があること自体が、良い意味で問題です。日本人の淵源に関係が深いかも知れない。
それはともかくとして、この「ヤマタ」という言葉は、縄文時代の古い言葉であると言いましたが、それでも縄文語としては新しい言葉である。旧石器時代から「ヤマタ」を作っているわけではない。ですからここから先は頭の体操として聞いて頂ければよいですが、縄文時代前半は山へどんぐりを拾いに行くだけだった。縄文時代の後半は、山を手入れして蕎麦を植えたり、どんぐりの木も植えたのではないか。種を蒔いて手入れをすれば確実に生産が増える。ですから「ヤマタノオロチ」とは「ヤマタ」という先進の縄文の生産の地を持つ「オロチ」族の人々ということである。それを結局忘れ去った時代に、八本の尻尾を持つ蛇という俗説にした。それを採用して神話にした。本来の意味は、縄文のより進んだ生産地を開発したオロチ人という意味である。それが「ヤマタノオロチ」である。そういう作業仮説を提案してみたい。
この提起を古田が言っているからと言って、全部本当だと思ってはいけませんよ。問題を大きく考えていく作業仮説。ですから「オロチ」人と「ヤマタノオロチ」とは関係があるのではないか。これも日本を知らない外国人が考えたら、直ぐに関係があると考えるだろう。われわれは「ヤマタノオロチ」について知りすぎているから、すぐ神話と結びつけているから、オロチ人と直ぐに結びつけてはいけないと考える。しかし日本に関係のない外国人が考えたら、この二つは関係があると考える。日本海の両岸ですから。このようなことを考え始めましたら、 対応するか分からない問題はいくつもある。時間をかけて、ゆっくりと考えたらよいと思う。
(休憩)
新古代学の扉事務局へのE-mailはここから
制作 古田史学の会
著作 古田武彦