『古代に真実を求めて』第七集

王朝の本質 ーー九州王朝から東北王朝へ ・3 へ


<講演記録> 二〇〇三年六月二九日(日) 於:大阪市 毎日新聞社ビル六階研修センター

王朝の本質3

九州王朝から東北王朝へ

古田武彦

 六 倭人伝(南宋紹煕本)の写本問題・郡支国

 お手元の資料をごらんください。三国志・原文写真版の一部ですが、片方はわたしの『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫版からとったもの(岩波文庫の『魏志倭人伝、他三篇』のものも写真は同じです)。これは二十四史百衲本(図二)から撮ったものです。そこには「都支国」とある。
 もう一方は、わたしの同じ『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍の初版からとったものです。宮内庁書陵部蔵の写真版です。そこには「郡支国」とあり、「都」が「郡」となっている。(図一)
 この問題は、最初オランダで発見されました。難波収さんという天文学者の方が、わたしの研究を評価してくださって、現地で十人あまりの方を集められて、魏志倭人伝の購読会をもたれた。そして問題に気がついて、電話がかかってきた。「古田さん、あれはどうなっているのですか。三十国の名前で、一方の本では都支国、他方では郡支国となっているのがある。どっちがほんとなのですか?」。わたしは、咄嗟には、なんのことかわからなかった。「調べておきます」と、返事した。
 ところが山中さんという方から、五月四日白鶴美術館に「私の学問研究の方法 ーー魏志倭人伝の研究」という内容で講演に招かれました。しかもその講演の時、『魏志倭人伝』全文をコピーして配りたいと言って、わたしの所に送ってこられた。それを見ていますと、あっと思いました。違うのです。図一『倭人伝を徹底して読む』(大阪書籍)では、「郡支国」とある。岩波文庫本『魏志倭人伝』や旧角川文庫本の『「邪馬台国」はなかった』では、「都支国」とある。「郡」と「都」、明らかに違うでしょう。他はぜんぶ一緒です。筆跡というか書きぶりも同じです。これをオランダで難波収氏が見つけられた。わたしも遅まきながら白鶴美術館の山中さんが、大阪書籍の方からコピーされたから気が付いた。
 これの前後関係、これは分かってみればハッキリしています。岩波文庫本や角川文庫本。これは中国が世界に誇る二十四史百衲本から取ったものです。これは中華民国の学者で張元済さんが編集しました。この人が言うには、中国には良い『三国志』の版本がなかった。ところが日本の皇室書陵部には良い版本があることを知りまして、飛行機で来てこの写真版を手に入れて、二十四史百衲本を作ったと書いてある。ですから二十四史百衲本と東京の皇室書陵部のものとは、同じものだと信じ込んでいた。
 ただし自分を誉めさせていただくと、このような問題が生じたら元本を当たるくせが、親鸞を始めたときからある。いつでも元本に当たる、元へ返るという考えをする。この場合も皇室書寮部へ行きました。いろいろ面倒なことを言われましたが、とにかく見ることが出来ました。また写真版も欲しいと、だいぶこれも粘っていただきました。二ヶ月近くかかって写真版を送っていただいて、わたしはたいへん嬉しかったことを覚えております。だから大阪の朝日カルチャーでの講演では、わたし一人しか持っていないと嬉しがって、これを使わせていただいた。また『倭人伝を徹底して読む』(大阪書籍)にも、宮内庁書陵部蔵を元にして『魏志倭人伝』を載せていただいた。ですから、わたしは嬉しがりのところがある。ところが、それが良かったわけで、百衲本と一字違うと分かった。
 このようになった理由を考えてみましたが、故意とは考えられない。初めは意図ある改竄(かいざん)かなと思いましたが、どうもそうではありません。なぜなら意図ある改竄なら、一大国や対海国を直せばよい。唐代には、壱岐や対馬に直した例がある。あれを直すのが一番目立つところです。日本人でも三十国の国名について、どこの国か分からないのに、まして中国側で分かるはずはない。その分かるはずのない国名を、意図ある改竄をしたとは思えない。現在の写真版製本ではありえないことです。ところが昔の木版や銅版なら起こり得ます。要するに技術者の写植ミス。技術ミス、それで起こったと判断しました。
 それで単なる植字ミスである。それだけなら大したことはないよ。三十国の中の、一国の名前が違っていただけ。そう皆さんも考えられるでしょう。わたしも一時はそう考えました。しかし、良く考えれば、そうではなかった。
 この場合も、どちらが正しいかはハッキリしています。つまり二十四史百衲本は皇室書陵部を写したと、張元済さんがはっきり言っています。ですから違っていれば元本が正しくて、元本を写し間違えたに決まっています。
 それで「郡」の読み方ですが、「クン」の清音と「グン」の濁音という両方の読みがありますが、今の読み方は清音の「クン」を取り「ク」だろう。「クシ」です。『魏志倭人伝』には国名の表記の仕方というおもしろい問題がありますが、時間がないので今は省略します。それで結論から言えば「クシ」という日本語に、それに帯方郡からの別れのような「郡」と「支」という字を当てた。これはわたしの『倭人伝を徹底して読む』でも、「クン」の清音を当てるとなっていますが、それでよかった。つまり「郡支クンシ」を「クシ」に当てた。これは接頭語の「チ」を付ければ「チクシ」となり、「チクシ」は現地の人の読み方で、外部の人は「ツクシ」と読みます。そこのことではないか。投馬(つま)国は、これと同じように接頭語の「サ」を付ければ「薩摩サツマ」となります。
 これは大問題なのです。自分がうっかりしていたものを大問題であると言い切ってしまいますが、他の人もそうなのです。つまり邪馬壱国の三十国は、狗奴国、投馬国、奴国以外の国であると思い込んでた。
 ところが考えてみましたら、七万戸の地帯が、町も村も中心地もない、のっぺらぼうの七万戸、そんなことがあり得るでしょうか。それはあり得ないでしょう。とうぜん、そこには町や村も拠点もあるに決まっている。他の三十国に負けない、あるいはそれ以上の中心地域がなければおかしい。町や村も中心地がなければ、おかしい。ところがわれわれは、ないものと思い込んでいた。あったわけです。筑紫(チクシ)もあったわけです。これは、これから始まる大問題です。たとえば伊都国は邪馬壱国の内部かも知れない。今まで伊都国は邪馬壱国の内部ではないと思い込んでいたけれども、そうは言えなくなってなってきた。投馬国もそうです。そういう判断のでんぐり返りを起こす内容を持っていた。そういうたいへんな意を含んでいること自身を、今までわたし自身が気を付かずにいた。また、だれも気が付かずにいた。
 岩波文庫本には、写真版を二十四史百衲本から載せたという記載がない。わたしの角川文庫本には、二十四史百衲本から載せたという記載が最後にある。しかし二十四史百衲本から、載せるべきではなかった。せっかく東京に宮内庁書陵部蔵という立派な本があるのだから、それから載せるという本来の姿を取るべきだった。二十四史百衲本の名前に押されたと言うべきか、ただ信用していた。それを編集した張元済さんは非常に尊敬している学者ですが、そこまで目が及ばなかった。
 最後にこのような問題に気が付いたのは、なりよりもオランダの難波さん、白鶴美術館の山中さんのおかげ。なによりも今まで気が付かなかったのを、多くの方々のおかげで、版本の異同について、気を付けさせていただいて有り難うございました。

以下 魏志倭人伝資料
(インターネット事務局掲示 二〇一〇年 一二月三十一日 横田幸男)

図一 魏志倭人伝 南宋紹煕本 宮内庁書陵部蔵

『倭人伝を徹底して読む』(大阪書籍)より

図一魏志倭人伝 南宋紹煕本 宮内庁書陵部蔵 『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦

 

図二 魏志倭人伝 南宋紹煕本 二十四史百衲本

『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫版(岩波文庫の『魏志倭人伝、他三篇』

図二魏志倭人伝 南宋紹煕本 二十四史百衲本 『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫版 古田武彦


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