倭人伝を徹底して読む』 第三章 倭人伝以前の倭 へ

『古代に真実を求めて』第七集
王朝の本質 ーー九州王朝から東北王朝へ ・2・ へ


<講演記録> 二〇〇三年六月二九日(日) 於:大阪市 毎日新聞社ビル六階研修センター

王朝の本質2

九州王朝から東北王朝へ

古田武彦

 五 放射能年代測定と実年代

 後半は、まず、どうしてもお話ししなければならない問題から入らせていただきます。実は一昨日、山田治さんにお会いして、この問題をお伺いしていました。この方は京都産業大学の物理学教授であった方で昨年停年退職された。放射性炭素(14C)年代測定を専門として仕事をされていた方です。佐賀県菜畑(なばたけ)遺跡の縄文水田の放射性炭素年代測定を、紀元前(BC)一〇〇〇年であると、早くからその年代を出されていた方です。
 だから何をいまさらの観がありますが、今までの事情をお伺いしたいとお電話いたしました。お会いしたいと電話いたしますと、「古田さんですか。お懐かしいです。」とご返事され、京都駅で二時間お話をお聞きすることが出来ました。山田治さんは(古代史は)戦国時代です。今までの考古学年代はご破算にして考えなければならない。そのように言われました。
 それで五月二十日の新聞発表、十九日の国立歴史民俗博物館(歴博)の衝撃的発表を、実はわたくしは、人を介して五月五日に聞いていました。電話でお知らせいただきましたが、その時は、“何をいまさら”ニュースになるのだと思いました。わたしなどは以前から繰り返し、弥生時代の始まりが紀元前三百五十年ぐらいからではおかしい。放射性炭素年代測定で、紀元前千年の測定値が出ているのだから、それによって考えなければならないと言ってきたわけです。大阪朝日カルチャーセンターでの話や東京の講演会でも言ってきました。
 とにかく二十日に新聞社、いっせいに出ました。しかしわたしが見てがっかりしたのは、ほんらい二〇・三〇年前にとうぜん物理学者が、その結果を出しているわけです。そのことはノータッチ。先ほどの山田治さんが佐賀県菜畑(なばたけ)遺跡の測定値を出しておられます。また更にはわたしが『ここに古代王朝ありきーー邪馬一国の考古学』(復刊 二〇一〇年 ミネルバ書房)に、坂田武彦さんの測定値を掲載しています。わたしと同じ名前の坂田さんは「放射性炭素年代測定の鬼」と言われた方です。考古学の方からは無視され続けられた方で、わたしとお会いしてまもなく亡くなられた方です。今回、考古学の方が放射能年代測定を取り上げるのなら、以前に言われた方もきちんと取り上げていただきたい。
 それから内倉武久さんが書かれた『太宰府は日本の首都だった』という本。変わった題名の本ですが中身はたいへんまともな本です。そこにも放射能年代測定の問題を扱っています。それによれば、現在の考古学の編年と放射能年代測定の結果が大幅に食い違っている。とくに近畿ではある程度合いますが、九州では軒並み違っている。九州では考古学編年より放射能年代測定の値が軒並み古い。ですから九州では考古学者に聞くと、放射能年代測定の値はダメです、地磁気が違うから九州ではダメです。そのように言われてきた。何回もその話を聞いた。
 ところが内倉さんは、そのようなことはない、と言われた。当たり前ですが。逆に言うと、同じ形式の考古学編年の土器が、近畿では放射性炭素年代測定の値とほぼ同じだが、九州では合わない。九州では同じ形式の考古学編年の土器が、放射性炭素年代測定の値の方が高くなっている。つまり古いということです。そうすると土器の伝播の方向、矢印はとうぜん九州から近畿へとなる。現在考古学者は、土器をすべて近畿から九州へ伝播していると主張している。この考えも、考えてみたらおかしい。なぜなら近畿で始めて独創的な土器を発明したという人は誰一人いない。それに、その土器と一緒に出土する銅器・鉄器が中国・朝鮮半島から来たことはだれもが認めている。それなのにいきなり九州を飛び越して近畿に来た。それから九州に伝播した。九州の人は中国・朝鮮半島の影響は受け付けないけれども、近畿の影響は喜んで受け付ける。ざっくばらんに言えば、そういうことになる。そんなことは口先で言えないこともないけれども、そんなことが果たしてあるか。人間の常識、理性で考えたらおかしい話です。
 しかし放射性炭素年代測定の値を信用して考えたら、九州から近畿へ土器が伝播した。その土器と同じく出土した銅器・鉄器が中国・朝鮮半島から伝播した。これなら理解できる。第一外国人が、今までの説に、目を白黒する。その目を白黒にすることが、以前から三・四〇年と考古学会・古代史学界を拘束してきた。ですから山田治さんが、(古代史は)戦国時代です。今までの考古学の年代は、ご破算にして考えなければならないと言われたのは、その意味です。
 ですが、この間の五月二十日の発表。これを、わたくしは、変な日本語ですが、「そのとおりだけれど、おかしい。」と考えています。それはNHKでの発表を見ていて、怒るというより笑った。そしてあきれたのですが、とにかく(弥生時代の始まりが)五百年遡(さかのぼ)ったと発表したわけです。ところがそこから変化なし、弥生人はのんびりしていたようです、とそのアナウンサーは言いました。言った人もお腹の中で、なんとなく変な気持ちで喋っていたと思います。だって五百年間変化無しで、他に何もしないで米作りだけをしていた、という変な人間がいたでしょうか。第一わたしが高校の教師をしていたときは、弥生は忙しい。六百年の間に米作りを行い階級も作り国も作った。みんな作った。そのように生徒に教えていた。今まで弥生人は忙しかったと言っていたのに、一転して弥生人はのんびりしていた。そのような言い方にならざるを得ない。五〇〇年間何も発展しなかった。そのようにこれから言わねばならない。言わされる先生方は大変です。しかし、この問題は分かり切ったことです。五〇〇年間何も変化しなかったか。そんなはずはない。しかもこの水田稲作という事件は、日本列島の歴史の中でも、滅多に起きないショッキングな大事件ではないか。その大事件を経験して、あとは何も起きない。五〇〇年おとなしくして過ごします。そんな馬鹿なことは絶対にない。外国人なら一言でナンセンスと言うに決まっている。本当にばかばかしい話である。
 つまり、わたしの言っていることの意味はお分かりでしょう。この五〇〇年遡(さかのぼ)るというのは、もう認めざるを得ない。しかも加速器質量分析(AMS)を用いた放射能年代(14C)測定法では、かなり精密な年代が出ます。土器周辺の炭素ではなく、土器自身にこびり着いている微量の炭素を採取すれば明確に答えが出ます。機械は一台に何億とかかるようですが。アメリカには二〇台ぐらいあり、日本にも数台あるそうですが。それに対して、信用できないと言ったらそれこそ笑われる。
 それで、今まで縄文水田と言っていたもの、それは五百年遡(さかのぼ)らせましよう。後はしかし従来の考古学編年を動かしませんよ。そのような形で発表された。だから五百年のんびりした隙間ができる。だから弥生人はのんびりしていますね。しかし、このようなことが、本当にあると思いますか。
 今までの話は、弥生人という人間の立場から見ておかしいという話ですが、今度は自然科学の目で見ますと、縄文水田だけ五百年遡(さかのぼ)らせる。その一点だけ放射能測定を信用しておいて、他にたくさんある放射性炭素年代測定の値は従来どおり信用しません。そんなやり方で世界中通りますかね。今までの新聞はそのやり方で、今まで通しています。かつ、それで現在も進行中です。朝日や毎日や読売が一斉に又そのようであるというのも恐いことと思いませんか。わたしは五月二十日に共同会見があるという話を五日に聞きましたが、聞いたのは遅いと思うのです。現役でないので。大学の関係者なら三月・四月から聞いていると思う。そうでありながら新聞発表は似たか、寄ったかのコメントしかない。その新聞発表に対して、いまさらおかしいと思うが、物理学の世界では、以前からかなり早い事が指摘されている。そういうコメントはなかった。山田治さんのコメントは無かった。坂田武彦さんの先だった仕事に対するコメントも全くない。それに内倉さんのコメントもない。
 内倉さんには朝日新聞がコメントしても良さそうなものだ。朝日新聞社が知ってはいないということは万に一つもない。内倉さんは朝日新聞社内に『太宰府は日本の首都だった』(ミネルバ書房)という本を、必死になって配り歩いていた。そのようにお聞きしております。
 また草野善彦さんという方が今年初め『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的展開』(本の泉社)という、放射性炭素年代測定が題に入っている本を出された。彼は内倉さんの本を繰り返し引用されまして、放射性炭素年代測定の値を理解するには、古田のいう九州王朝という概念を入れて理解しなければ解けないということを論理的に述べておられる。ですから放射能測定法で、弥生時代が五百年遡(さかのぼ)るという事実は、九州王朝という概念を理解することなくしては理解できない。そこに往かざるをえない。
 一言だけいいますと、銚子塚古墳。そこから黄金の鏡が出てきました。福岡県糸島郡二丈町にあります。玄界灘に面した糸島半島の付け根にある唐津湾沿いのところ、一貴山銚子塚古墳とも言います。後漢式鏡が黄金で張り詰めてある。今風に言えば金メッキされた鏡です。日本ではほとんど例がないと言ってもよい。あと一、二別の時代の鏡には金メッキしたものもありますが。そこを発掘したのは有名な京大の小林行雄さんです。その調査報告書では、この鏡は五世紀初め、場合によっては四世紀末の鏡だと書いています。しかし放射性炭素年代測定法の趨勢で考えますと三世紀になる可能性がある。年輪年代測定法でも大体百年ぐらい遡(さかのぼ)る。それで西晋の滅亡の直前という時期の可能性があります。
 これを端的に言いますと、そこに塗られている金は何物か。その金は卑弥呼(ひみか)がもらった金八両ではないか。鏡々とみんな考古学者は言っているけれども、もっと大事なのは金です。この時代の中国では、鏡はお化粧道具です。中国ではどの家でも一枚ぐらいある。しかし金八両は中国でも貴重品です。しかも金は腐らないから、どこからか出てこないほうがおかしい。しかし弥生の遺跡からはどこにも出てきてはいない。唯一あるのが銚子塚古墳の、今流に言えば金メッキした鏡。金メッキするのも技術が要ります。そのころの日本人に金メッキする技術があると思えない。とうぜん中国から技術者を呼んできて金メッキしてもらったはずです。この黄金鏡に対して、この時代近畿から金メッキした鏡は出てきましたか。黒塚をはじめ、あれだけたくさんの鏡が次々出てきたと報道したではないですか。ですがその中に黄金鏡はありましたか。ぜんぜん出ないではないですか。
 そうしますと日本では変わっていて家来が黄金鏡を持つのだ。御主人は銅鏡で我慢するのが日本の偉いところだ。そう言った人が居たのかどうか知りませんが、そうは言えないから何も言えない。ノーコメント。そうは言わなくても小林行雄さんの判定どおり五世紀初めの鏡だとしても、五世紀初めは近畿が中心であると言うことが、おかしいことになる。ホケノ山古墳などから、五世紀以後の鏡は、たくさん近畿で出ていますが、黄金鏡は出ましたか。出ないでしょう。ところが九州には出土している。しかしこれが三世紀になると、いよいよ問題となる。わたしはあの鏡は、卑弥呼(ひみか)が中国からもらった金八両と関わりがあると考えています。
 もちろんあの古墳自身は卑弥呼(ひみか)の墓ではありません。おそらく血縁ではないでしょうが卑弥呼(ひみか)の時代から、それほど遠くない子や孫の時代のお墓と思います。あの古墳も前方後円墳ですから。ですから土器の編年だけでなく古墳の編年も大きく変えなければならない。土器編年だけ遡(さかのぼ)って古墳の編年は元どおりです。そんなことが通るはずがない。無理なのです。それが分かっているから二・三週間かけて調整した。古田などには絶対コメントさせてはいけない。わたしなどは朝日新聞社から出した『ここに古代王朝ありき』で、坂田武彦さんの測定値を掲載して、考古学編年の見直しを力説しています。わたしが朝日新聞でコメントを出しても何の不思議もない。
 皆さんもお気づきでしょうが、これは申し合わせというより“談合”で調整に時間がかかった。古田であるとか、内倉であるとか、草野であるとか、そういう連中のコメントは一切アウトだ。そして縄文水田だけ認めて後は一切認めない。あるいは考古学界は、これを十分承認していない。そのようにコメントをする人たちだけを選んで報道する。そういう体制作り・コンクリート固めに時間がかかった。わたしは、そのように思っている。
 この事件を一言で言えば、非常にすばらしい事件であるけれども問題を含んでいる。論理的には再検証、今までの考古学の編年を見直さなければならない。それで関係する話題を三件ばかり挙げてみたい。
 二十数年前、兵庫県芦屋市夙川の辰馬考古資料館へ行きました時の、帰りの光景です。銅鐸の展示があり見に行きました。駅まで歩いて帰るのに十分ぐらいかかります。帰りがけに十数名の集団と、期せずして一緒に、駅に向かって歩くことになりました。盗み聞きするつもりはありませんが、公道での会話ですから自然に一団の人々の会話が聞こえてきます。一団の中心にいる年輩の人に向かって、若い人が尋ねて話題を出しました。今放射性炭素年代測定が行われていますが、あれは信用できるでしょうか。一団の中心にいた人はにべもなく、あんなものは相手にしてはいけない。あれを信用しているようでは学問と言えないと答えました。その後駅に着くまで、えんえんと皆で放射性炭素年代測定の悪口を喋っていました。それは京大の考古学関係の学者でした。わたしは偶然後ろから、公然たる盗み聞きをする形となりました。このような雰囲気なのかと感じました。
 二番目に記憶にあるのが、十数年前。博多と太宰府の間にある福岡県春日市で講演した時です。講演の前でしたが、一人の方が面会されて放射性炭素年代測定について、いかに信用できないか力説された。わたしは、いやそんなことはない。この放射性炭素年代測定法に長所もあるが短所もある。しかしこの放射能測定の値を問題の基礎として考えなければならない。問題があればその都度調べれば良い。そのように言いました。しかし彼はそこであきらめず、外国の学者などの名前をあげて、いかに放射能年代が信用できないか、講演の二・三分前まで、しつこく食い下がってわたしを説得しようと試みられました。わたしはへきえきし、そんな話は講演の後にして下さいと言ったことがあります。
 さらにもう一つお話しすれば九州歴史資料館に行った時です。展示物を見ていますと放射性炭素年代測定の値が書かれている紙が貼ってあるのを発見しました。一階の一番端のしかも膝の下ぐらいに片隅にまとめて小さく、この展示館の中の代表的な展示物でしょうが放射性炭素年代測定の値が書かれている紙を見つけました。わたしはびっくりしました。日本の考古学博物館で見たのは初めてです。外国へ行けば、アメリカやヨーロッパそして中国の博物館は全てと言っていいほど表示してある。しかし韓国と日本では表示されていない。そういう有名な話がありますが。それがここでは表示されてあるから驚いた。現れた館長の田村圓澄氏に、ここに放射性炭素年代測定の値を表示してありますが、凄いことですと言いますと、なかなかうるさいことですなあ、笑っておられました。つまり、それぞれの実物に表示すると日本の考古学関係者から反対が出るから、ぎりぎり最低限それも出来るだけ見えないところに、まとめて貼るという、なかなかの苦心ですが、勇気ある行動です。その一例だけで、他の博物館では見ることが出来ない。これが日本の博物館の実態です。なお田村圓澄氏は法然の研究をされていた高校教師時代の同僚で、後に九州大学の教授になられ、そのときは九州歴史資料館の館長でした。
 話題としてあげたこれらの体験は、わたし自身の体験ですが、しかし日本の実態であると思います。しかも放射能年代測定が信用できないというピーアールは、大学に近い人ほどよく聞かれていると思います。ところがこれを問題の本質を明確にさせれば、この放射能炭素年代測定そのものは単なる測定である。この放射能年代測定の値に対して、良い悪いの議論や、合う合わないの議論は大いに結構です。外国の博物館で、この放射性炭素年代測定の値をおおやけにしているのは、良い悪いの議論を一切受け付けないと言っているわけではありません。あらゆるケースについて、問題が解決し終わったから公表しているのではありません。そんなはずはない。これは自然科学的方法です。ノーベル賞を受賞したリビー博士が考えた方法に基づくわけです。その数値を挙げているわけです。いろいろ問題ある数値が出ましたから、皆さん議論して下さい。そのような立場で公表していると思います。ですから自然科学的方法は日本以外では通用するが、日本では通用しないことはありえない。
 それを日本では考古学との関連でいろいろ問題があるから公表しない。公表しないことが、いかにも慎重であり学問的であるとの印象を与えている。それが大嘘です。外国の例を見ても分かるように議論がないから載せるのではない。議論の基礎として載せなければならない。それを日本がずっと今まで拒否し続けていることが、明らかな事実なのである。しかも今も拒否し続けている。(縄文水田の)一点だけ認めて、後はいぜんとして拒否し続けている。ですから銚子塚古墳の例をあげましたが、神護石の問題も年代が上がっていくでしょう。六・七世紀と言っているのが四・五世紀に上がっていって当然だと思います。今でも年輪年代測定法でも百年繰り上がる。何よりも伝播の方向が、九州から近畿へと、今までの方向とは矢印が逆になる。ですから山田治さんが言われたように(古代史は)戦国時代になりました。今までの考古学の年代はご破算にしてもらわなければ困ります。今までのやり方ではダメだと思います。これは自然科学の研究者から見れば当たり前のことです。率直な意見としてうかがいました。

 それでですね、放射性年代測定が、従来の編年に基づく常識に及ぼす影響を、興味深い例をいくつか挙げてみたいと思います。
 再検証といいましたが、それに対して連続検証。一点だけでなく連続して検証する。そして最後には総合検証に往かざるを得ないわけです。たとえば「倭人、暢草を貢す」の問題。
 後漢代に王充が書いた『論衡』という本に、「周の(成王の)時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人暢(または鬯)草を貢す」という記事があります。これがホントかウソか、倭人はどこにいたか。こういう議論があったわけです。わたしはこれが日本列島の倭人である。それが周へ暢草を持っていった、と考えてまいりました。これに対して、そんな縄文時代に日本列島から中国に行けるハズがない。だから江南の倭人だ。朝鮮半島の倭人だとか、言っておった。それがぜんぶペケ。だって今度の測定結果で、倭人は縄文水田を作っていた九州の倭人ということになるじゃないですか。福岡県・佐賀県の倭人です。周が殷を滅ぼして新しい国づくりをやっと完成した成王の時(紀元前一一〇〇年ころ)、はるかに遠い倭人と越常とがお祝いの品をもってきた。近いところの連中は、周をあんまりいい目で見てくれてなかったようですが、遠い日本やベトナムからはものをもってきた、周公はうれしかったのでしょうね。その話です。
 この倭人は九州の倭人です。暢(または鬯)草とは神酒に使う香草です。わたしはそういうイメージをもって、いろいろ調べてきました。そのイメージが、今回の放射性年代測定の結果で確定的になったと思うのです。「倭人、暢草を貢す」が、歴史事実であることがわかった。再度福岡県・佐賀県の神社にもう一回電話を入れて、正月のお酒に何を入れますか、例を聞かなければなりませんが。
 更に同じ事件なのですが、『尚書』の中で、会話に出た周公のことばとして「海偶、日を出す、率俾せざるは罔し」というのがあります。『尚書』は全体の三分の二くらいは周公の話、その周公が晩年に喜びを述べた。「遥かに海の向こうの、太陽の出る国からも、使節団が来た」。「率俾」を諸橋の大漢和辞典で引くと、臣従・臣服という言葉で書いてあった。かって、わたしはそのまま引用した。これは、まちがいだった。これのもとは清朝の康煕字典で、これが臣従・臣服と書いてある。ところがよく見てみると、率の意味は「ひきいる」、俾は「集団」の意味で、率俾は「使節団を率いてやってきた」という意味になる。「家来になりましょうとやって来た。」という意味はどこにもない。臣従・臣服の意味にとったのは、康煕字典は中華原理主義によるイデオロギー訳。それを諸橋大漢和辞典がそのまま、まる写し。それをわたしが、まる写しした。
 うんときわどく言いますと、倭人の方は「こちらの方が先進文明。周の方が反乱に成功したばかりの新参者、その新参者のところへ、古代文明の国から使者が来た」という意識だったのじゃないでしょうか。だから、よけいに周公は感動した。
 成王の摂政が周公。有名な話だが、初代・武王が死ぬときに弟の周公を枕もとに呼んで「成王を助けてやってほしい」と頼んだ。周公はそれを受けて、誠実に成王を補佐した。現在でも周公の人気は高い。
 いらぬ話をしますと、その逆をやったのが天武天皇。兄さんの天智天皇が死んだら早速政権をひっくり返した。天智は死ぬときには天武に、この周公の例を出して、息子を助けてやってくれと頼んだだろうと思うのですが、もしわたしが小説を書くなら、そう書きますね。

 『三国志』に、ヒミカが出てくるのはご存知。わたしは卑弥呼をヒミカと発音します。ですがヒミカのヒの字にニンベンがあることをご存知ですか。『帝紀』の正始四年項に、はじめて「俾弥呼」が出てきます。
 なぜ正始四年というところに出てくるのか。『倭人伝』の使の記事は、最初は景初二年です。次に正始元年、三回目が正始四年です。なのに『帝紀』では正始四年しか出てこないのはなぜか。この理由はハッキリしている。なにかというと、景初二年は倭国側こちらから、行った。正始元年には、天子の命を受けた帯方郡の使がやってきて、詔書を渡した。それに倭王は返事を渡した。詔書を渡したところで、ここで天子と臣下の正式の契約、儀礼が成立した。正式の儀礼が成立した直後が正始四年です。それまでの使と、正始四年の使とは意味が違う。臣下の倭王として承認された立場での使であるというのは格が違う。だから正始四年が正式の格であって、先頭の『帝紀』に書いてある。われわれは『三国志』を『倭人伝』から読むから「卑弥呼」と覚えるので、『帝紀』は三国志の先頭なのです。『倭人伝』はずっとうしろ。筋道論からいえばヒミカは「俾弥呼」が正しい。スジが通っている。
 正始元年項には女王が恩に感謝して、お礼の手紙を出したとある。これも疑問をもつ人が居て、その時代に倭国に文字があったのか、手紙が書けたのか、信じられん、と言われる。この会場にもおられるかもしれない。文字ある遺物のないこの時代に、文字があったはずはないよ、との考えをいわれる方もあるだろう。トンデモナイ。文字は土器や銅器に書くのが本来ではない。東アジアでは紙や竹簡に書くのが本来の姿であって、土器や金属器に現れるのは第二次である。これには、おそらく反対する人はいないと思う。高温多湿で紙や竹簡は残りにくく、われわれがキャッチできない。将来考古学や他の方法の能力が進歩すれば別だが、現在ではそれは仕方がない。仕方がないからといって、それを考古学者が自分たちが認識できなかったものは、なかったことと見なし文字がなかったようにいうのは考古学という学問の限界。どんな学問にも、その時代としての限界がある。万能の分野はない。限界を認識して、明確にものを言うのが本当の学者です。しかし証拠が見つからないからといって、文字がなかったように言うのはウヌボレているだけ。遺物に見当る文字が四世紀にしかないから、それ以前は認めないというなら、それは自己反省を忘れたものです。
 ナマイキ言ってますが、『倭人伝』を見れはわかるように、魏からあれだけ長文の国書を寄越している。豚に真珠ではないけれど、文字を知らぬ国へ国書を寄越しますか、読めると思うから寄越す。卑弥呼は読めた。卑弥呼自身はそんなに読めなくとも、王朝の文字官僚・インテリは少なくとも読めた。読めたら書けますよ。だから返事の国書を出した。これはウソではない。これは文献というものを、常識をもって正確に書いてあるようにとらえれば、そのようにしか理解できない。
 ですから正始四年の使いは、国書を持って行った。その国書には王の自署名があった。国書に、署名がないことはないことはあり得ない。その国書にあった、この自署名がニンベンのある「俾弥呼」。だから先頭の帝紀に「俾弥呼」と書いてあると見るべきだ。
『倭人伝』では、なぜ卑弥呼か。簡単に言えば、バカにされているのだ。ちょっと言葉が正しくないかも知れませんが、バカにされてますよ。「卑しい」の卑ですからね。ところが俾ならニンベンがある。この場合は、音を表しているだけです。意味は、名詞にすれば「使者」。てよりなによりですよ。「てよりなにより」と変な言い方ですが、おわかりでしょう。『書経』(尚書)に書いてありますよ。当時は本が少ないですからね。ピカイチは『書経』ですよ。それに倭人のことを書いてある本は『書経』しかないです。そこに「率俾せざるは罔し」と書いてある。すごいですね。あの周王朝に使いを送った倭人の子孫として、わたし俾弥呼(ひみか)は、国書を魏にお送りしました。
 もっと突っ込めば、昔の周でも新参の反逆王朝であった。魏もできたばかり、漢帝のもとの第一実力者が、家来が権力を奪って天子を称したばかりの国。それに反して、わが倭国は遠く周に使いを送った。その倭人の子孫であります、そう言おうとしている。実際には「魏のような新参者ではなくて、遥かに古い歴史を担っております」と言おうとした。それが俾弥呼の「俾」の字の意味だと思います。だからイヤだった、感じないはずはない。受けた魏の方では、そこで人偏をのけた!。日本人はおかしいのじゃないだろうか。いやしい「卑」字の方をよろこんで使っている教科書。卑弥呼が教科書に載ったのは戦後ですからね。イデオロギーというか、誇りというか、歴史のイメージは、そのようなものではない。ニンベンのない「卑」の方が楽でよいよ、そんな話ではない。
 「ヒミカ」という題の本を書くことになっていますが、中身にはまだ「卑弥呼」を使ってますが、表題の文字は「俾弥呼」にすべきじゃないかと思っています。そんな古田だからこそ、放射性年代測定について、なおさらコメントを求めないのかも知れません。わたしがコメントを求められたらよろこんで書きますよ。この会場は毎日ビルですが、毎日にだって各マスコミでは考古学者に遠慮して、わたしのコメントなんか載せないようにすると思いますが。
 もうひとつ申させていただきます。ここに持ってきたのは、韓国『咸平草浦里遺跡』(かんぺいそほりいせき)という発掘報告書(韓国語版)です。これは、韓国のヒカリ光州。コウシュウという地名はいくつかありまして、音だけでは区別がむづかしいので、ヒカリ光州と言っております。その光州の大字・咸平、小字・草浦里にある遺跡で、三種の神器が出てきたことで有名です。ハングルに漢字をまじえた報告書をいただいてきた。ところが日本では三種の神器といえば、吉武高木遺跡が一番古くて、弥生中期初、紀元前一〇〇年と言われている。わたしの『古代史・六十の証言』に入っています。それに対して、この報告書『咸平草浦里遺跡』では、紀元前二世紀の初めごろと書いてある。
 京大の李さんに訳してもらったのですが、間違いなく書いてあります。そうすると吉武高木より咸平草浦里が一〇〇年から一五〇年古いことになる。そうすると朝鮮海峡を挟んで三種の神器が両側にあれば、まったく無関係ということはあり得ない。当然両側が繋がっている、と考えるのが人間の理性。そうすると従来でしたら、韓国光州から九州博多へ伝播したと考えることになる。そうなっても、わたしにはなんの抵抗もない。ですが、ちょっとおかしいことがある。何がおかしいか。光州の遺跡で三種の神器はよいが、写真でみられるように同伴した遺物にヘンなものがある。(蟹の鋏のような形と、独鈷のような形の金属器の写真を示す)何でしょう。鈴がなかに入っている。このようなものが取り巻いている。結論を言ってしまえば、おまじないの用具。呪術の道具らしい金属器があって、中に鈴が取り巻いている。ほかにもいろいろ変わった遺物がある。それで光州が古い、吉武高木が新しいとなると、光州から吉武高木へ伝播したとき、そのときに、こんなヘンなものは拭い去って日本で受け入れず、エキスの三種の神器だけをもってきたということになります。しかし、そこまで遠慮する必要が、どこにあるか。ヘンなものと言いましたが、われわれが見て見慣れないからヘンなものと見えるだけで、貴重な神聖なるお祀りの道具だと思う。それを権力者が、光州から博多湾へ持っていくのは遠慮しておこう。だから置いてくる。そのようなことは言葉では言えるが、わたしの頭では理解できない。
 逆なら分かるんですね。素朴なものから複雑なものになった。吉武高木は単純な三種の神器。剣一つ、鏡一つ、勾玉一つだった。この単純なものが韓国へ行ったときには、そこにヘンなものいろいろ付加して、死者を葬ったことがわかる。三種の神器は中心の位置を占めている。いかに重視されたかわかるででしょう。
 従来の編年なら、逆の理解をしなければならない。だから「放射性炭素年代測定の再検討が必要である」と。
 わたしはこれを『古代史の未来』に書いた。ところが今度の放射性炭素年代測定で、三〇〇年遡るだけで、結果が逆になる。まさに矢印は九州博多から韓国光州へとなる。これなら解る。これは日本贔屓のナショナリズムではない。わたしはナショナリズムは大嫌いだ。放射性炭素年代測定は、実はこういう問題を主張している。
 倭地問題ね、韓国は東西は海で限られるが、南は海だとは書いてない。『三国志』は、南は倭地だと書いてある。この話と対応してくる。あるいは『山海せんがい経』では平襄(ピョンヤン)あたりの蓋国(がいこく)は「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」と書かれている。倭は海の向こうだとは書かれていない。倭に住んでいる人が倭人である。海峡の両岸部が倭人の国であるという、当面白い問題に連動してくる、このように放射性炭素年代測定は影響してくる。
 これらは目立つものを、ひとつふたつ挙げただけだが、もうひとつだけ挙げましょうか。
 『論語』では孔子は、「中国で礼が行われず、筏(いかだ)に乗って東夷に行こう」という。この東夷をわたしは倭国と解した。倭国は周の時以来、臣下の礼をとっているわけですから、おかしくない。江戸時代には、たとえば伊藤仁斎などは、京都での講義で、この部分を「日本を指したるなるべし」と書いている。ところが日本人は日本を良いといってはいけないという風潮がある。敗戦後、そうなってきましたね。
 時間がいよいよ迫ってきましたが、これだけは言っておかねばというのをお話ししましょう。

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