古田武彦著作集

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2010年9月刊行 古代史コレクション5

ここに古代王朝ありき

邪馬一国の考古学

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。「はしがきーー復刊にあたって」、「はじめに」、「おわりに」は下にあります。

はしがきーー復刊にあたって

はじめに

 【頁】 【目 次】

  001 第一部 邪馬一国の考古学

 003 第一章 卑弥呼に会った魏使

投げられた骰子/卑弥呼の年齢/卑弥呼に会った魏使/倭都見聞記/倭人伝の焦点/考古学的探究の旅/倭人伝の中の「物」/倭都の可能性

 

 015 第二章 倭都の痕跡

銅鏡の出土状態/矛の女王国/「鏡と冢」の国/長里か短里か/短里論争/考古学の時代区分/多鏡冢の文明/矛と鏡と冢の結合/鉄の古冢文明圏/「五尺刀」の背景/鉄本位制下の倭国/鉄の効用/珠玉とガラスの女王国/絹の倭国/錦の女王/弥生の階級杜会/新しい疑問

 

 058 第三章 三世紀の空白

考古学の物指し/歴訪/前原訪問/わたしの問い/三世紀遺跡の模索/出現せず/時間の軸/相対編年/出土状態の謎/空漠の時間帯/鏡の研究史/富岡の戒め/仮説と定理/三つの論証/科学か神学か/二つの「なぜ」

 

  091 第二部 文字の考古学

 093 第一章 イ方製鏡

「小型イ方*製鏡」の分布/「漢式鏡」の補完/同期補完の視点/富岡四原則/第三項の秘密/文字の道/虚構の「文字初伝」/注目の富岡遺稿/L・V鏡の謎/四原則の崩壊/文字あるイ方製鏡/ゴシック式文字の探究/井原のイ方製鏡/危険な断崖/立岩のイ方製鏡/大型鏡の秘密/富岡四原則の功罪
     イ方*製鏡のイ方*は第3水準ユニコード4EFF、後は論証に直接関係しないので略

 

 133 第二章 三角縁神獣鏡

伝世鏡理論への疑い/富岡の論断/魏鏡の認定/大きな誤断/不明を不明とすべし/中国製か国産か/新しい指針/海東鏡の「発見」/「浮由」の根源/徐州・洛陽鏡/三鏡の実見/劣った徐州・洛陽鏡/臆測と確認/もう一つの可能性/なぜ三角縁か/銚子塚古墳の探究/ここにも、文字あるイ方製鏡/左文鏡の謎/もう一つのアイデア

 

 167 第三章 室見川の銘版

室見川の発見/読者の通報/わたしの史料批判/中国製に非ず/「高陽左」の解明/第二・三句の解明/書体の謎/材質の検査/金版の歴史/倭王の金版

 

  185 第三部 説話の考古学

 187 第一章 大和の空白

大和の空白/反銅鐸勢力の侵入/銅材料はどこから/銅の道/共同体の祭祀物か/銅鐸の源流/神武東征の真否/『記』『紀』のちがい/速吸の門/鳴門海峡の論証/南方の論証/五瀬命と長髄彦

 

 212 第二章 銅鐸圏の滅亡

銅鐸圏の全面消滅/こわされた銅鐸/崇神の大包囲戦/タケハニヤスの系譜/偽入された系譜/『記』『紀』系譜の史料批判/崇神の業績/二人のハツクニシラス論/わたしの再批判/銅鐸圏の全面崩壊/「サホ」とはどこか/玉作りの追放/稲城の正体/勢力圏の挿話

 

  243 第四部 失われた考古学

 245 第一章 古墳の考古学

古墳時代への転換点/九州の連続性/九州と近畿のずれ/二つの「定点」/鏡の変転/巴形銅器の連続と断絶/ヤトタマケル説話の分析/東と西のちがい/石釧の道/埴輪説話/倭の五王の考古学/「天皇陵」への開眼/発掘の大事/宮内庁への手紙/天皇への問い

 

 281 第二章 隠された島

沖の島の探究/五つの疑い/金銅の海/金銅の龍頭/重量の謎/わたしの観察/観世音寺の古鐘/石穴の論証/長安寺はいずこ/沖の島の財宝の下限/財宝の遺棄/宮司家の断絶/雁鴨池の教訓/白村江の大敗/近畿からの奉献/五弦の琴

 

 314 第三章 九州王朝の都城

太宰府の謎/太宰府の性格/掘立柱の発見/『書紀』の信憑性/蔵司の役割/他京との比較/鏡山氏との出会い/測定の鬼/神籠石の秘密/神籠石の成立

 

335 室見川の銘版測定結果報告書

339 おわりに

343 日本の生きた歴史 (五)

345 第一 大海の長老
349 第二 日本実証主義
353 第三 日の出ずる所
356 第四 南米の倭人
358 第五 若者の頭脳

人名・事項・地名索引

※本書は、朝日新聞社『ここに古代王朝ありき』(一九七九年刊)を底本として、「はしがき」と「日本の生きた歴史(五)」をあらたに加えたものである。
 本書内で引用されている『邪馬壹国の論理』の該当ページには、ミネルヴァ書房刊「古田武彦・古代史コレクション」版のページが記載されている。

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古田武彦・古代史コレクション5

『ここに古代王朝ありき』

  邪馬一国の考古学

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2010年 9 月10日 初版第1刷発行

 著 者 古田武彦

 発行者 杉田敬三

 印刷社 江戸宏介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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©古田武彦,2010     共同印刷工業・藤沢製本

ISBN978-4-623-05217-2

   Printed in Japan

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朝日新聞社版 装偵 多田進(表紙カバー表/海東鏡 裏/連弧文清白鏡拓本 表紙/巴形銅器 扉/井原出土鏡拓本)
       図版 吉沢家久


はしがき ーー復刊にあたって

   一

 この本が出版される直前、朝日新聞社から提案があった。
 「今回の本は、『邪馬壹国の考古学』という題で出したいと思います。」
 出版部の桜井孝子さん。名編集者だった米田保さんの「サブ(副)」として、ささえていた方である。米田さんの引退後、中心となっておられた。
 「いや、今度の本の“前半”はそうですけれど、“後半”はむしろ、四世紀以後のテーマです。『九州王朝の考古学』といった感じ。」
 「しかし・・・・。」
 なかなか、結着がつかない。はじめての経験だった。

   二

 最初の『「邪馬台国」はなかった』、第二回目の『失われた九州王朝』とも、出版局(当時、大阪本社)側の提案、そして決定だった。第三回目の『盗まれた神話』は、わたしの“思いつき”を、米田さんが採用して下さった。
 もちろん、有名なエドガー・アラン・ポウの『盗まれた手紙』からのアイデアだ。もつとも重要な、機密の手紙を、警官たちは各部屋をしらみつぶしに探したけれど、なかった。むなしく引き上げた。ところが、肝心の手紙は、入り口の部屋の、一番目につく位置におかれていた。だから“見のがされた”という「ミステリー」である。
 古代史の探究も、同じだった。古事記や日本書紀の中に、そして風土記の中に、歴史の真相は“赤裸々に”隠されていた。眼前に“突き出され”ていた。だからわたしは書いたに過ぎなかった。それが『盗まれた神話』だった。

   三
 
 「時の氏神」は、米田さんだった。すでに引退して西宮市(兵庫県)で晩年の静寂を楽しんでおられた。出版局(東京本社)から今回の「題」の相談を受けてのアイデアだった。それが『ここに古代王朝ありき』、である。今までの三巻とは、ひとあじちがった“暗示”をふくむ題となっていた。異議はなかった。
 日本だけではない。世界の歴史も、“勝ち残った権力”の意向によって「選択」され、「再編成」される。それを「史実」として“配下”の国民たちに教えこもうとする。それが常だ。近代国家の現状なのである。しかし、冷静な目で歴史を再検証するとき、そこには「矛盾」が生じる。前代やそれ以前のリアル(真実)な歴史が“捨て”られているからだ。あるいは、後代の権力の「都合」に合わせて、大きく“書き直され”ているのである。それが「常」だ。決してそれは例外ではない。
 これが、枝葉末節だったとしたら、まだ“我慢”できよう。しかし、「中心の歴史の流れ」に関するものだったとしたら、それを無視したままで「歴史の再構成」は不可能である。当然のことだ。
 弥生時代の「三種の神器」(剣・鏡・玉)や鉄器・大型鉄製品、さらに絹・綿等、すべてその集中領域は一定だった。博多湾岸周辺である。また、七世紀以前の古代山城のハイライト、「神籠石(こうごいし)」も、「大和」ではなく、「筑紫」を“取り巻いて”いるのだった。これらの考古学的分布の意味するところ。 ーーそれが九州王朝だ。まぎれもなき「古代王朝」の“存在の痕跡”なのである。

   四

 対象は、日本の歴史だ。しかしその探究の方法は、人類普遍の方法でなければならぬ。これが、わたしの学んだところ。村岡典嗣(つねつぐ)先生の学問の根本の立場だった。
 だとすれば、日本を研究の場とし、普遍の学問の立場を貫くとき、それは同時に「日本以外の人類の歴史」を明らかにすべき、その基本の指針となろう。 ーー「日本実証王義」の誕生の扉の中に、わたしはついに今立つこととなったのである。
 今回の復刊に当り、深い御志を示して下さった、ミネルヴァ書房の杉田啓三社長、神谷透・田引勝二・東寿浩・宮下幸子等の諸氏に対して心から御礼を申し上げたい。

     平成二十二年八月九日
                        古田武彦


はじめに

 少年時代、とんぼを追うて山野をかけり、わたしは帰るのを忘れていた。 ーー突如、森に囲まれた壷中の天ともいいたい空間に出た。ーー そこには蒼黒い池の上に、目指す銀やんま・しょうがとんぼが、燃え立つ夕焼けを背に乱舞していたのである。
 今わたしは、四十代より古代史の原生林を十年以上もさまようた末、あの少年の日と同じ、目くるめく思いの真只中に茫然(ぼうぜん)とたたずんでいる。これまでは文献という名の紙の上の分析によって導かれてきた。しかし、今はちがう。考古学という名の物証の光がわたしのたどりきたった道筋をハッキリ照らしている。それを見たのである。
 かつて「邪馬台国」の探究に旅立った日、わたしの前には先人のおびただしい足跡があった。それらのあとからとぼとぼとひとり歩みはじめたわたしのような非力な者に、残された未見の世界など見出されようとは、夢にも思い見なかったのである。
 この点、今も同じだ。いや一層深い孤独の中にわたしはいる。すでに学界の「定道」からはなれ切ってしまったわたしの前に、行く人とてない。ただひとりこつこつと己が足跡を印するだけだ。
 そして今、わたしは邪馬国という名の卑弥呼の都城が博多湾岸に存在したこと、また前二〜七世紀の間、筑紫を中心とする九州王朝が実在したこと、その物証をここに提示することができた。さらに近畿天皇家の成立について、戦後史学の主張と全く相反する新たな証跡をえたのである。わたしの目には、それらは疑いなき証跡のひとつひとつと見えている。それは従来の日本の考古学界の常識を、明確な論証をもって真正面から否定するものだ。
 この論証に対して一般の考古学者たちは、どう答えるであろうか。激烈な批判か、完全な無視か、背後からの嘲笑か。いずれでもよい。
 期するところは、この本を読んだ人ひとりひとりの裁定だけだ。そのとき「お前の論証は大それた錯覚にすぎぬ」と断じられようと、「道理のしめすところ、お前の言う通りだ」と告げられようと、わたしは同じく莞爾(かんじ)としてその言葉をうけいれるであろう。なぜなら、わたしの全力はすでに出し切った。そして今、手の中に残された切札は、もはやないからである。

 この本では邪馬壹国を邪馬一(いち)国と記した。やがて小学生も、あやまれる「邪馬台国」に代わって、日本史上重要なこの国名を使いなれる日が遠くないことを信ずるからである。
 ちなみに明代に復刻された北宋本(たとえば静嘉堂文庫本)には、「邪馬一国」と明瞭に版刻されている。
 またこの本では、原則として敬称を省略させていただいた。


おわりに

 わたしは今、一つの仕事をなし終えたと感じている。
 古代史についての第一作『「邪馬台国」はなかった』にはじまり、『失われた九州王朝』『盗まれた神話』へとつづき、『邪馬壹国の論理』(以上朝日新聞社刊)『倭人も太平洋を渡った』(創世記)『邪馬一国への道標』(講談社)の三書ののち、この本に辿り至ったことによって、わたしは自己の古代史像に一つの終止符を打ったのである。
 それはわたしひとりの孤立の歩みであったけれども、それゆえあまりにも多くの人々にささえられてきた。そのことを思うとき、わたしは言いようもない安らぎを感ずる。あるいはその人々はわたしに対し、さらなる探究をうながすであろう。
 思えば、真理の大海の海辺で、きれいな砂粒を掌にすくい上げ、さらさらと一方の掌に落して楽しむ幼児、これこそ探究者の全姿、真の面目である。それゆえわたしは、ふたたび眼を洗って遠い旅に出発するであろう。それは確かだ。だが、ともあれ今は、書き終えた。 ーーそういう深い虚脱の中にわたしはいる。
 静かに見上げれば、わたしをさらにさそう高峰がそびえている。『風土記』という峯、『三国史記』『三国遺事』という峯、『推古朝遺文』『万葉集』、『続日本紀』という峯。『古事記』『日本書紀』にさえ、珠玉はいまだ数多く秘められていよう。
 まして考古学の大海ともなれば、残された世界は、旧石器・縄文以来、見はらす限り、あまりにも広大だ。この本の中では、そのかたはしの糸をわたしなりに、ようやくたぐりはじめたにすぎないのである。たとえば一片の土器ひとつ取ってみても、わたしの目は、それを知るための入口の前にようやく達しただけなのであるから。
 それらの峯々への探究の旅が、わたしにいつの日か許されるだろうか。それは未来の運命を司る神神のみ知るところ、わたしには全く不明だ。
 けれども、わたしは知っている。未来のある日、若き探究者が立ち上がり、さらに貧欲にして一層大胆な検証の斧をふるいはじめることを。願わくばそのさい、一つのささやかな資料として、この本が、彼の、あるいは彼女のハングリーな部屋の一隅におかれてあらんことを。わたしにはそれ以上、望むことはない。

      一九七九年早春 洛西にて     古田武彦

 追  補

  昨年、稲荷山の「鉄剣」銘文の発見が新聞紙上をにぎわせた。これに対し、わたしの九州王朝説否定の物証あらわる、のごとく称する向きがあった。だが、これは果たして真に九州王朝説を否定する性格の史料なのであろうか。わたしは“三か月有余の探究”をへた今、明白に言うことができる。 ーー否、と。
  各学者は、銘文の文面に近畿の天皇名(ワカタケル=雄略)を見出したと信じた。しかし実は、肝心の稲荷山古墳の特殊な埋葬状態を見のがしていたのである。
  すなわち、そこには「主」・副二個の棺が別区画内に葬られてあり、問題の鉄剣は、「主棺」でなく副棺の位置の死者の手にいだかれていたのだ。この事実は、これを正視すればするほど、通説への重大な疑義、やがては明確な否定へと到る道を鋭く呈出している。この点、別著(『稲荷山鉄剣の密室 ーー雄略ではない』〈仮題〉創世記刊)において詳述したいと思う。


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