『倭人伝を徹底して読む』(目次) へ
『古代に真実を求めて』第七集王朝の本質2 五 放射能年代測定と実年代
「倭人」と「倭国」という問題をわたしが取り上げたのは、実は松本清張氏が書かれた『古代史疑』(中央公論社、一九六八年/中公文庫、一九七四年)の中で、わたしにはどうも意味がわからなかったテーマがあったからです。それは、松本氏が、「倭人」と「倭国」というのは別なのだとされている点です。松本氏は、『清張通史』I(講談社、一九七六年/講談社文庫、一九八六年)の中でもこの問題を再び力説されています。
その松本清張氏の提起とは、「陳寿は南朝鮮にあるほうは『倭』とし、日本列島の倭国伝は『倭人』と題名し、両者の混同を避け、その区別を明瞭にしたと思うのである」ということです。
この意味するところは、三世紀には南朝鮮の一角も北部九州も倭の民族が居住しており、両地域は同一文化、生活圏であった。しかし両者は別の倭、つまり倭種の国が二つ存在していた。そこで陳寿は、東夷伝を書くにあたって、両者を区別するため、南朝鮮を「倭」とし、日本列島のそれを「倭人」と書き表わしたということです。そしてこれを混同するから多くの混乱が生じている。従来の学者は皆そうだということを主張しておられます。松本氏は、その後学者に会うごとにこの主張を繰り返されたらしく、『清張通史』ではその点が細かく書かれています。たとえば北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金錫亨という古代史学者が日本へ来られたときも、この意見をのべて、意見を求められました。金錫亨氏は、「興味深いご意見ですね。課題にして考えてみましょう」という返答でしたが、この後何の答えもありません。また韓国の著名な学者である金元龍氏にも同じように質問されたけれども、「非常に興味深いご意見ですので考えさせていただきます」ということだけで、その後何の返答もないといいます。
ただ上田正昭氏が、その著作(『大王の世紀』日本の歴史2、小学館、一九七三年)の中で松本清張氏の説を非常に注目すべき見解であると書いて、評価していますし、また井上秀雄氏も、『古代朝鮮』(日本放送出版協会、一九七二年)の中で松本氏と大体似たような意見をのべておられます。ただ井上氏の場合は、九州の倭と、朝鮮半島の倭とは両方倭と呼ばれているが、これは同じと必ずしも考えるべきではない、別のものだ、混同してはいけないという言い方です。ともあれ実質的、結論的には、言わんとしているところは一致しています。
ところが、この井上説に対して松本氏は、井上秀雄氏の独創ではなく、私の方が先だと書いておられます。何となく興奮が伝わってくるような文章です。要するに、松本氏が非常にこの問題に執着していて、自分はこれだけ一生懸命になっているのに、誰も反応を示してくれないという思いがひしひしと感じられます。わたしも自分の説に反応がないといつも残念で仕方がない。松本氏の気持がよくわかります。
そこでわたしとしては、松本氏が言っておられることを理解できないというのでは困るので、この問題をこのさいしっかりと考えてみようと思ったわけです。
なぜわたしは『古代史疑』のときわからなかったのかということを自分で考えてみると、要するに「倭」と「倭人」は常識的に考えて別であるはずがないと考えていたからです。つまり、「倭」というのは国の名であり、その国(=倭)に住んでいる人間が倭人であるというのは、言葉の構成から考えても当たり前のことです。「倭人」と「倭」が別ものではおかしいというのが、わたしの初歩的な判断でしたから、松本氏が力説すればするほど理解の上で混線してきていたのです。実際に用例からいっても、そういう用例は多く、たとえば、
(項王)夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃すなわち大いに驚いて曰く「漢皆已に楚を得たるか。是何ぞ楚人の多きや」と。項王則ち夜起き、帳中に飲す。
これは『史記』項羽本紀に出てくる有名な文章です。秦の始皇帝が亡くなったあと、秦をうち倒すべく各地で反乱が起こります。その中でナンバーワン的な実力を持っていたのが、楚の項羽です。そしてその次が劉邦(沛公、のちの高祖)でした。彼等は、共に協力して秦を滅ぼし、項羽は楚王となったのですが、のちに劉邦と不和になり戦って咳下(がいか)に囲まれます。そのとき、夜更けて四面の漢軍中に盛んに楚国の歌の起こるのを聞き、「何と楚人の多いことか、味方であったはずの楚人が寝返ったのではあるまいか」と驚いて、もはやこれまでと思った項羽は、立って帳(とばり)の中に入り、別れの酒を飲みます。そして「力、山を抜き、気、世をおおう。時、利あらず、騅(すい)、逝かず。騅の逝かざる、いかんすべき。虞(ぐ)や、虞や、なんじをいかんせん」とみずから詩を作って歌い、「英雄に涙あり」という話につながっていくのです。ここのところで「楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」となっています。「楚」という国があって「楚人」になる。こうした例は、『史記』『漢書』だけではなく、その前の『戦国策」などにも類例は多い。『十八史略』でもそうです。
大体、中国の歴史書の主要部は帝紀と列伝の二つになっていて、量的にその大半を占めるのが列伝です。ある有名な人名を挙げ、その人の伝記のような形で書いてあります。そして人名があると、必ずその人の出身の地名(郡県)を挙げるというしきたりになっています。
いまでも中国へ行く手続き書類は、名前の次に出生地を書くようになっています。本籍とも現住所とも少し概念がちがう。恐らくここから来ているのでしょう。こういうルールからすると、「倭人」は「倭出生の人」という意味に考えざるをえない。松本氏の古代史に対する熱心な取り組みには、深く敬意を表するのですが、残念ながら松本氏のそうした考え方は、漢文の基本ルールから見て具合が悪い、といわざるをえないと思います。
では、なぜそんなことを松本氏ともあろう方がお気付きにならないのか。今度改めて松本氏の書かれた文章を読み直して再確認したのですが、要するに「倭人伝」という言葉に問題があるのです。ほかのところは高句麗伝、韓伝、穢*伝となっており、高句麗人伝とか韓人伝、穢*人伝とはなっていない。倭のところだけが倭人伝になっている。これが第一に松本氏が疑問とされた所以のものです。その解決を求めて松本氏が二番目に見つけたのは、倭人伝以前の「韓伝」に出てくる四回の倭です。それが次の(2)から(5)の四つです。
(1) (正始四年)冬十二月、倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す。(魏志、三少帝紀、第四、斉王)
(2) 韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す。(魏志、韓伝)
(3) 国に鉄を出す。韓・穢*・倭、皆従いて之を取る。(同右)
(4) 今辰韓人、皆褊*頭、男女、倭に近し、亦文身す。(同右)
(a) 瓠公ここうは未だ其の族姓を詳つまびらかにせず。本もと、倭人。初めて瓠ひさごを以て腰に繋つなぎ、海を度わたりて来る。故に瓠公と称す。(『三国史記』新羅本紀、始祖赫居世、三十八年)
(b) 脱解、本、多婆那たばな国の所生なり。其の国は倭国の東北一千里に在り。(同右、第四代、脱解尼師今)
(5) 弁辰は辰韓と接す。・・・・其の賣*盧とくろ国、倭 と界を接す。(魏志、韓伝)
褊*は、褊の異体字。
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
このような『三国志』の表記は、確かに一つの理解の方法にはちがいないのですが、その場合、松本氏の認識の盲点が一つありました。それは(1)の「倭国女王俾弥呼」です。これは、斉王紀に出てくる文章で、しかも『三国志』の中で一番最初に倭が出てくる個所でもあります。中国の歴史書の書き方は、玄ず帝紀があって、その次に列伝、最後に夷蛮伝があるというのが普通です。ただ『三国志』の場合は、ほかと比べて少し変形になっていて、中国を「魏志」「呉志」「蜀志」の三つに分けています。「呉志」「蜀志」には当然ながら帝紀も夷蛮伝もありません。帝紀や夷蛮伝があるのは「魏志」だけです。そういうところが、『史記』や『漢書』などとちがっているのですが、基本的には同じです。というのも『三国志』の中心は「魏志」だからです。その「魏志」は、まず帝紀、続いて列伝が全体の九〇パーセントほどを占め、最後に夷蛮伝がついています。そして夷蛮伝の一番最後に出てくるのが倭人伝です。ところが「魏志」の一番先頭の帝紀に一回だけ倭という字が出ている。それについては松本氏は全然ふれていない。『古代史疑』でも『清張通史』でも気づかれていないようです。そこにははっきりと「倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す」と出てくるのです。
とするとどうなるのか。中国の読者は、まず「倭国女王俾弥呼」という言葉にぶつかります。“三国の時代に「倭国」という国があり、そこの女王俾弥呼が使を遣わしてわが国に奉献して来た”という基本観念が頭に入れられる。そして最後の夷蛮伝にきて、韓伝に入ると、先ほどの(2)から(5)にいたる四つの倭の話が出てくる。まず(2)では、「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」とあって、読者は「ああ、あの帝紀に出てきた俾弥呼の国たる『倭国』のことだな」と当然理解するはずですし、また筆者もそう理解してほしい、と思っている、と考えなければならない。すると韓地が接しているのは「俾弥呼の倭国」ということになります。接するという場合は、海を隔てて接することをいう言い方はありえませんから、陸地で接しているわけです。もし海が間にあってもいいというのであれば“九州の西岸は中国の大陸に接している”ということになりますが、そういうことは誰も言わない。「接する」というのは、陸地の上で接していることなのです。それは、大陸国家に住む中国人の概念からしてみても当然のことです。
そして次に「国に鉄を出す。韓・穢*・倭、皆従いて之を取る」と出てきます。“国”というのは韓国の中の一部でしょうが、そこで鉄を出している。その「鉄を取る」という倭は、やはり「俾弥呼の倭」のことで、もちろん取りに行くのは「倭国の人間」です。ということは、読んでいる方は、“俾弥呼は鉄を非常に大事にしていて、倭国というのは、鉄器類(刀剣・農耕具など)をつくっている国だな”というふうに理解します。それだけではなく彼等(韓・穢*・倭)は、物を市場で売買するときにこの鉄を中国における銭(せん)と同じように使っているという話が出てきます。中国では、すでに当時貨幣経済が出来ていて銭で交易されていました。ところが、韓・穢*・倭では、まだ通貨制度が出来ておらず、通貨の代わりに鉄を使っていたのです。中国では、一つの国を理解するときに、まずその国の経済状態を見ました。どういう経済状況の下で、彼等は生活しているかを見た。なかなか合理的な観察の仕方です。そして「俾弥呼の女王国は鉄を通貨として経済を行っている国である」と、「倭人伝」に入る前の「韓伝」から布石を打ってあるわけです。
さらに「今辰韓人、皆褊*頭、男女、倭に近し、亦文身す」とあります。辰韓(のちの新羅)人は、みな褊*頭(編*上げ頭)で、男女とも倭に近い。地理的に近いというだけでなく、風俗、習慣、人相において倭人と近しい関係にあるということです。そしてまた文身(入れ墨)していると。これもやはり重要な記事です。この場合の「倭」というのも当然帝紀に出てきた「俾弥呼の倭国」です。
最後に「弁辰は辰韓と接す。・・・・其の賣*盧国、倭と界を接す」と出てきます。これも非常に大事な記事です。弁辰というのが、韓地の中にある。弁辰は、洛東江沿いの弁辰の地の中にある賣*盧国で、倭と界を接している。つまり「俾弥呼の倭国と国境を接している」というのです(この問題はのちにも出てきます)。
穢*は、禾偏のかわりにさんずい偏。JIS第3水準、ユニコード6FCA
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第3水準、ユニコード番号7006
これは五世紀のはじめに成立した高句麗好太王碑にも同じことをしめす文章が出てきます。その碑文というのは、新羅の国王が高句麗王(好太王)に訴えて来た言葉で直接法の形で記録されているものです。倭人という言葉からはじまって、「其の国境にやって来て、非常にわれわれを悩ませている」ということを新羅王が高句麗王にのべています。「其の」というのは、倭人を受けるしかない代名詞で、それはつまり倭人の脅威ということになる。「国境」というのは、片一方だけでは国境にならないのであって、両方に国が接していてはじめて「国境」になるわけです。するとこの場合、片方は「倭」、もう片方は、明らかに新羅です。新羅王が「自分の国と倭国の国境に倭の兵士たちがやって来てわれわれを脅かしている、何とかしてほしい」と高句麗の好太王に訴えているわけです。ということは、倭と新羅とは国境をもって相接していたという状況がわかります。しかもこの場合大事なのは、言っているのが新羅王で、言っている相手は、倭にとって不倶戴天の敵のような好太王ですから、嘘を言う必要は全くない。倭と国境を接していないのに国境を接しているなどという嘘を高句麗王に報告する必要は全くないわけです。つまり倭から見ればこれは、敵側の証言であり、敵がさらにもう一つの敵に報告している証言であって、この証言は疑う余地がない。しかも第一史料としての金石文なのでこれは非常に重要な証言だとわたしは思います。好太王が活躍したのが、四世紀の終わりの頃で、碑が出来たのが、五世紀のはじめ(四一四)です。これはちょうど倭人伝の証言内容とぴったり一致しています。賣*盧国というのが具体的にどこか指せないのですが、洛東江近辺の小さな領域でしょう。こうしたことから、この接しているという状況が、三世紀から四、五世紀にかけて同じ状態で続いていることがわかります。
これは、非常に重要な問題に発展します。当然この好太王碑の時の相手の「倭」というのは、倭の五王の倭です。一方、倭人伝の「倭」は俾弥呼の「倭国」ということになる。すると「俾弥呼の「倭国」と五世紀の倭の五王の「倭」は同じ倭ではないか、という問題をここで示唆していることになるのです。ですから、のちの「任那みまな日本府」問題を論ずる場合には、必ずこの間題の上に立って論議しなければなりません。この問題を除外して、いきなり「任那に日本府があったか、なかったか」といってみても空理空論に堕し、実りのない論議になる可能性が強いわけです。
このように「韓伝」に出てくる四つの倭は、いずれも重要な内容をもっています。これは偶然ではない。『三国志』の著者陳寿という人は、練りに練り、慎重に記述する人のようで、倭人伝に入る前に「韓伝」で俾弥呼の「倭国」に関する重要なデータを出したのです。それがこの四つであると考えていいだろうと思います。
こうして考えてくると、先ほどの松本氏の説は残念ながら否定せざるをえない。わたしとしては、いまのべたような二つの理由、つまり一つは漢文の基本的文法ルールの上から、もう一つは『三国志』の帝紀にはじまる記述のつながりから、倭人と倭国を分離するのは理由がない、やはり倭人とは「倭国の人」であるという、大変平凡な結論にいたると考えます。
とはいったものの、まだおかしな問題が残っています。つまり倭人伝だけなぜ倭人伝と“人”付きであるのかということです。これは、「はじめに」のところですでにふれましたが、これに対して、わたしの解答をもう一度出してみましょう。それは次の記事を見ていただければわかります。
(1) 楽浪海中、倭人有り。 (『漢書』地理志』)
(2) 倭人鬯草(ちょうそう)を貢す。 (『論衡』巻八)
(3) 倭人は帯方の東南大海の中に在り。 (『三国志』倭人伝)
(1)は、従来漢代の倭人のことだという理解がされていましたが、実はそうではないのです。というのもこの文章の一番最後に「 ーーと云う」という言葉で結ばれているからです。「と云う」といわれているということは、これは漢代のことではなく、「周代の話である」ということを言っていることになります。『論衡』で周の第二代成王のとき、つまり周公が摂政をしていたときに、南からは越裳(えっしょう ベトナム)が白雉を献じ、東からは倭人が鬯草(香り高い薬草、霊草)を献上して来た。その話を『論衡』(王充)も『漢書』(班固)も知っていたのでそういう言い方をしたのです。つまり中国の教養人にとって、「倭人」という形で呼ばれる存在が周代以来定着しており、それを背景に陳寿が書いたわけです。陳寿は、何の資料もなしに自分だけの思考で『三国志』を書いたのではなく、それまでの四書五経、『史記』『漢書』『山海経』といった古典の素養の上に立って『三国志』を書いています。もちろん地理書としての性格ももっていますが、これは、単なる地理書ではなく、何よりも歴史書であるのです。だから陳寿は、そういう当時の歴史素養において「倭人」という形で定着している言葉を使い、「あの皆さんご存知の周公のときに鬯草を持って来た(まさに神話的、伝説的な謎の東の人々というイメージで)、あの人々のことが今回わかりました。それを皆さんにお見せしますよ」ということで、「彼等は帯方東南大海の中にいます」そして「彼等は後漢の光武帝から金印をもらった連中です。その連中のところへわれわれの使者は、ちゃんと到着しましたよ」と、なるわけです。そういう歴史書として、歴史的記述として見ると、この「倭人は云々」という記事は、非常に自然で、心理的に納得できます。
ーーさらに付け加えると、このあと里程の問題が出てくるのですが、次々と里程を書いて場所を示しているのも「倭人伝」だけで、ほかの夷蛮伝ではこの類の記載は全くありません。ーー それどころか『三国志』の本伝、つまり列伝の中ですらこうした記載は全くない。「倭人伝」だけに○○里、○○里と書いていて、しかも書く方も感動をこめて書いている。個人的な感動だけではなく、魏・西晋朝の誇りをこめて「倭人伝」は書かれているのです。そういう意味で特別扱いをしています。これから見ても「倭人は云々」という表現が理解できますし、また「倭人伝」と書かれていること自体不思議ではないと考えます。
さて、そこで「倭人伝」以前の「韓伝」に出てくる倭(4)のところで挙げておいた『三国史記』の文章を見てみましょう。ここでも「倭人」と「倭国」が出てきます。
(a) 瓠公ここうは未だ其の族姓を詳つまびらかにせず。本、倭人。初めて瓠(ヒョウタン)を以て腰に繋ぎ、海を度わたりて来る。故に瓠公と称す。
これは、『三国史記』新羅本紀、始祖赫居世、三十八年の項に出てきます。瓠公という人物は、新羅の初期第一代、二代、三代、四代にわたって宰相であった人で、ナンバーワンの実力者でした。その瓠公のことを書いた中に、瓠公はその氏、素性を詳かにしないが、もと倭人で、ヒョウタンを腰につけて瓢然と海を渡ってやって来たと書かれています。なかなか謎めいた人物で、これが「倭人」として描かれている。
(b) 脱解、本、多婆那国の所生なり。其の国は倭国の東北一千里に在り。
これも同じく『三国史記』新羅本紀第四代、脱解尼師今の項に出てきます。この第四代・脱解は、多婆那国というところに生まれた人で、多婆那国は「倭国」の東北一千里にありという。『三国史記』つまり新羅・高句麗・百済三国の歴史を書いた朝鮮半島最古の史書の書き方では、倭国の東北一千里という場合は、多婆那国は「倭国」の一部分なのであって、「倭国」とは別国ではないのです。これと同じような例は、他にいくつも出てきます。だから脱解も、いってみれば「倭人」です。「倭人」の中でも「多婆那国の人」であるということです。「倭人」というのは、非常に広い概念なのです。
この(a)(b)から言えることは、新羅第四代は、国王が「倭人」であり、宰相も「倭人」であるということです。すると先ほどの『三国志』魏志韓伝の(4)で、辰韓人というのは男女とも倭に近しと書いた陳寿の暗示は、ズバリ当たっていることになります。国王も「倭人」、宰相も「倭人」というのですから関係が深くなければおかしい。ですからこの段階の新羅という国は、「倭人」とか「穢*人」「韓人」が寄り集まって一つの国をつくっていたようで、その中で「倭人」の占めている比重はかなりのものだったと思われます。そうでなければ国王と宰相の地位を「倭人」が占めることはできないはずです。
ついでながら、多婆那国というのはどこかということについて結論だけのべておきます。いまの福岡県の遠賀(おんが)川下流から関門海峡一帯であろうとわたしは考えています。というのは、倭国は、博多湾岸を原点と考えていますから、そこから東北一千里というと、ちょうどこの一帯となるからです。ただしこの場合の里程には、長里と短里があって、長里の場合、一里が四三五メートル、短里(周朝代に短里が行われ、そのあと魏朝がこれを復活し西晋朝まで受け継いだ)が七六〜七七メートルの間、約七七メートルです。『三国志』は、この短里で書いてあるとわたしは見ています(なぜこういうことになったかについては里程のところで詳述する)。もしこれを長里で考えると、この話は、全く成り立たない。博多を原点にしてそこから東北へ一千里とすると出雲では止まらず、但馬から舞鶴、下手をすると能登半島まで行ってしまうからです。
なぜそれがだめかというと、脱解の話にはその続きがあります。脱解は、多婆那国王と妃の間に生まれたが、「卵」で生まれました。人間の形ではなかった。母親はこれを大変いとおしんだけれども、父親はこんなものはみっともない、壊してしまえという。母親は壊すにしのびずそっと舟に乗せて沖合に流した。それが最初に金官国(いまの釜山の近辺)に流れ着いた。金官国の人は、こんな不思議なものがと気味悪がってまた沖合へ流した。そのあと新羅の都慶州の海岸に流れ着き、そこで老夫婦に拾われ、持って帰って床の間に置いていたところ、卵から男の子が生まれた。大変美男子で賢く、大きくなって新羅の朝廷に仕えるようになり、二代目の国王に見込まれ、その娘と結婚し、四代目の国王になるというのです。こんなことはありうる話ではありませんが、それを語る人がおり、語られる人がいるのですから、語る人と語られる人の地理感覚に合っていない話というのは、成立しえないのです。つまりいまのようにただ単に沖合に(漕ぐ人がいれば別ですが)流れ着くといっても、多婆那国からその沖合へ流したら金官国へ着き、そこからまた流したら慶州へ着くという、そういう海の知識を持っていなければ、いいかえれば語る人と語られる入が「共通の約束事」を持っていなければ、こういう話は成立しないのです。たとえ「ウソ話」でも「おとぎ話」でも、成立しない。とすると、この海の知識というのは、海流です。対馬海流が西から東へ流れているということだけではこの話は絶対成立しない。東鮮暖流をぬきにしては語れないのです。つまり対馬海流は、壱岐・対馬のあたりで二つに分かれます。その一つが東鮮暖流で、これはウラジオストックの方から下りて来た寒流と朝鮮半島東岸部の中ほどでぶつかり、東へ向い、その一帯(竹島付近)は魚の宝庫になっています。
金錫亨氏も倭国博多説で、この問題に関しても博多を前提にして出雲説を出しておられます。朝鮮半島の人が『三国史記』や「魏志」に出てくる「倭国」を“博多あたり”だというのは、そう考えないと辻棲が合わない事件や説話がたくさん出てくるからです。別に論証はされていませんが、常識的な判断から倭国というのは博多付近として扱われています。金氏は、その東北だから出雲であろう、と論じておられるわけです。
しかしわたしは、その方角はいいけれども、長里で千里では舞鶴か能登半島近くへ行ってしまって出雲ではとまらないし、また短里では出雲まではいかない。関門海峡近辺どまりです。また短里だと博多湾岸から遠賀川の下流、関門海峡あたりまでが千里になります。なお大事なことは、出雲だとしたら、そこから卵だけを乗せた無人の舟を沖合に流しても釜山へ流れ着くことはまず無理だと思われることです。風などのこともあって、絶対とはいえませんが、常識的に見て難しい。とすると、この話はどうしても、遠賀川の下流域から関門海峡近辺ということになります。ここからだと東鮮暖流に乗ることができます。もちろんこの場合でも、もう一つ風がプラスしなければなりません。というのは、冬は風が北から南へ吹くので出雲へ行く可能性が強いのですが、春から夏にかけては北に向かって風が吹くので東鮮暖流の方に乗る可能性が強いからです。このようにシーズンによってもちがってきます。
また関門海峡は、潮の干満によっても流れが変わります。瀬戸内海に流れ込む時間帯と、逆に流れ出る時間帯がある。この流れ出る時間帯に流せば、卵を乗せた舟は東鮮暖流に乗りやすい。とすると、卵を乗せた舟が、「釜山→慶州」に流れるのに合う時期は、春夏の季節で、しかも関門海峡の潮の流れが外へ流れ出る時間、ということになります。したがって多婆那国は、大体この関門海峡あたりにあったとわたしは理解しています。
こうしてみていくと、この『三国史記』に出ている「倭国」も、実は、第一次の「チクシ倭国」であるということがいえます。これを「ヤマト倭国」にしたらどうなるか。「大和倭国」から東北一千里というと新潟か山形の方へ行ってしまいます。そこから卵を乗せた無人の舟が釜山へ流れ着くというのは、奇跡に近いでしょう。
東夷伝序文の倭人といってもこれは、正確にいうと倭人とは書かれていません。しかし倭人を指していることは確かです。
又偏師へんしを遣わし、討窮を致し、極遠に追い、鳥丸・骨都を踰こえて、沃沮よくそを過ぎ、粛慎の庭を践ふみ、東、大海に臨む。
これは、朝鮮半島北半部の東海岸に出て来たことを言っています。
長老説くに、異面の人有り、日の出ずる所に近し、と。
中国の長老が語り伝えていうには、非常に変わった顔の人がいる。それは日の出るところに近いところにいると。異面の人というのは、[黒京]面(げいめん 顔に入れ墨)の倭人のことです。「魏志」の夷蛮伝の中で、倭人だけが、そういう風習をした民族として書かれています。この「日の出ずる所に近し」という言葉も、中国側で倭人のことを伝統的に表現した言葉です。『書経』の中には、周公の言葉として「日出ずるところまで、ついに貢物を持って来るようになった」という形の表現があります。それは、倭人が鬯草を持って来た話であるということを前にものべましたが、そうしたことをバックに陳寿は書いているわけです。
遂に其の法俗を采とるに、大小区別し、各々名号有り、得て詳紀す可し。
その倭人のことをわれわれは、詳しく書くことができるようになった。
夷狄の邦と雖も、而しかも俎豆そとうの象しょう存す。中国、礼を失するも、之を四夷に求むるに、猶なお信あり。
野蛮人の国であると見えるけれども、神々を祭る祭器を彼等は持っている。魏の天子に対して、呉・蜀がそれぞれ天子を名乗り、中国の三分の二が魏の天子に対する礼を失っているにもかかわらず、逆に夷蛮の方が魏の天子に対して忠節を誓ってきた。これは、俾弥呼が「景初二年、大夫難升米らを遣わして魏の明帝に朝献す」と、いうことを暗示しているわけです。倭人の方が、魏の天子を天子と認めて礼を尽くしてきた、ということをここで象徴的に表現しています。
故に其の国を撰次して、其の同異を列し、以て前史の未だ備そなえざる所に接せしむ。(魏志、東夷伝序文末尾)
「其の国」というのは、この場合、東夷伝序文なので高句麗とか東沃沮よくそ・穢*・韓などもふくめて理解しても、もちろんかまいませんが、しかしそういう国に比べ、倭人伝は分量的にも内容的にも圧倒的に詳しく、したがって“其”は中でも特に「異面の人有り」を直接的に受けていると考えてまちがいないと思われます。“倭人というのは、伝説的にいろいろといわれてきたけれども、その詳しいことはわかっていませんでした。周代の孔子も漢の高祖も知らなかったし、後漢の光武帝も金印は与えたけれども、漢王朝自身は詳しくは知らなかった。だから『史記』『漢書』を見ても倭人のことはあまり出ていない。ところがわが魏朝、それを受けた西晋朝は、倭人のことを詳しく正史に書くことができるのだ”と、陳寿の、まさに西晋朝の誇りをしめした文章であると見ることができます。
ですから「倭人伝」を読む場合は、この東夷伝を背景にして読まなければいけない、これが大原則になっています。
さて、次も倭人という言葉は出ていませんが、きます。これは韓伝の前の穢*伝です。“日本列島人”という形で出て
王[斤頁](おうき 魏の将軍)別に遣わし宮(高句麗王)を追討せしめへ其の東界(東の世界)を尽くす。其の耆老(きろう その土地の古老)に問うに「海東復また人有りや不いなや」と。
朝鮮半島の東岸部の中ほどの穢*の古老に、「海東」(日本海側)に人間が住んでいるかと聞いた。
耆老言う、国人(穢*国の人)嘗て船に乗りて魚を捕うるに、風に遭い吹かるること数十日、東のかた一島を得もつ。上に人有り、言語相曉さとらず。其の俗常に七月を以て童女を取りて海に沈む。
穢*(わい)は、三水編に歳。JIS第4水準ユニコード6FCA
穢*の人が、船に乗って魚をとっているときに、風に遭い、数十日漂って、一つの島に流れ着いた。これは先ほども言いましたように、北の方から北鮮寒流が下がってきて東鮮暖流とぶつかる、その海域では魚がよく獲れます。そこへ穢*人たちは、漁に出ていた。ところが荒天で遭難、数十日漂った後、ある一つの島に流れ着いたというわけです。そこはどこかわかりませんが、日本列島の日本海岸であることはまちがいありません。そこでは七月に人身御供の少女を海に沈めていたと。これもリアリティーあふれる記事です。実際日本海側でこういう風習、伝承が残っているところがあります。海神を鎮めるために部落の者を人身御供として海に沈めていた。そこへ異人が流れてきたので、部落の者の身代わりに海に沈めた。しかし全然関係のない、よその人を犠牲にしたという良心の呵責(かしゃく)に耐えられず、その霊を祀るためにこの祠をつくったという類の伝承が、日本海側ではいくつか残っているのです。だからこの『三国志』「穢*伝」の記事は全くの作り話とは思えない。こうしたことは日本海側だけではありません。太平洋岸でも、例の日本武尊が東征のとき、走水海で海神の怒りをなだめるため尊に代わって弟橘媛が海に身を投じた話があるように、いわば日本列島では各地で人身御供の習俗があったのです。そういう問題もふくんでいます。
又言う、一国有り、亦海中に在り、純もっぱら女にして男無し。
海中というのは、日本海の中ということでしょう。そこに女だけの国があると。これも案外リアリティーがあります。というのは、福岡県宗像(むなかた)の沖ノ島に瀛津嶋(おきつしま)姫、湍津(たきつ)姫、田心(たごり)姫という天照大(あまてらす)神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)のうけひ(誓約)で生まれた三女神が祭られているからです。
乃すなわち日神の生む所の三女神を以て、筑紫洲に降らしむ。因りて教えて曰く、「汝三神、道の中に降り居して天孫を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」と。(『日本書紀』神代第六段、一書第一)
現在は、宗像神社の神官が交代で島へ渡って勤めておられますが、昔はそうではなかったと想像されます。女の島であった時期もあったのではないかと思うのです。宗教的な意味において、女しか立ち入ることができない島というのがありえても不思議ではない。現在は反対に女が入ると三女神が嫉妬するというので、女人禁制になっていますが。あるいはまた、大分県の国東(くにさき)半島の沖合にある姫島も女神の島であった可能性がありますし、広島県の厳島(いつくしま)も三女神の島です。面白いことにここでは子どもを宮島で生むと汚れるというので、島を出て生まなければならないことになっていますが、とにかくそんなタブーをもった女神の島というのが日本列島の各地にあります。
又説くに、一布衣を得う。海中より浮き出で、其の身は中国人の衣の如し。其の両袖、長三丈。
これは当然のことで、着物が流れ着いた。中国人の着物のようであると。風に流されれば東鮮暖流に乗って流れ出ることもあります。
又一破船を得。波に随って出で海岸の辺に在り。一人有り、項こう中復また面有り、生れながら之を得。与ともに語るも、相通ぜず。食わずして死す。
其の域、皆沃沮の東、大海の中に在り。
これも非常に哀れな話です。端的にいえば、「シャム双生児」といって、胴体が一つで頭が二つという不幸な奇形児だと思うのですが、それが船に乗せられて流されて来た。彼は言葉はしゃべるけれども、穢*人にはわからない。食料を与えても食べずに死んでしまったという話です。簡潔な文章です、が、あまりにもリアリティーのある表現で、胸の痛む思いがします。しかもこれと対応する習俗が、やはり『古事記』に書かれているのです。
然れども久美度くみどに興おこして生める子は、水蛭子ひるこ。此の子は葦船に入れて流し去りき。(『古事記』二神の結婚)
不具の子が出来たときは、葦船に乗せて水に流すという習俗があったことを、この神話は語っています。これも中心地は、壱岐・対馬あるいは博多湾岸のようにわたしには思えます。そこから流すと東鮮暖流に乗れる、地理的な位置になるからです。
余談ながら、この沖ノ島に関して付け加えてみたいと思います。それは『日本書紀』神代第六段一書第三の文章です。
即ち日神の生む所の三女神を以ては、葦原の中国なかつくにの宇佐嶋に降くだり居おらしむ。今、海北道中に在り。号して道主貴みちぬしのむちと曰ふ。此れ筑紫の水沼君みぬまのきみ等の祭る神、是なり。
葦原の中国というのは、出雲を中心にして西に筑紫、東は越の国(高志国)をふくむ地域の概念で、大国主命が支配していたといわれる領域です。この葦原の中国の中の宇佐嶋というところに三女神は降りた。とすると、これは先の三女神の話と一緒ではないかとなるのですが、ところが宇佐というのは、大分県の宇佐のことで、宇佐神宮では三女神はここに降りて来たのだと説明板に書いてあります。しかしよく読むと、『日本書紀』にはあくまで宇佐嶋に降りたと書いてある。宇佐という地名は、普通名詞として各地にあります。土佐などと同じで、宇という接頭語に佐がついて、砂地で出来ている島みたいな地域のことを示しているようです。するとむしろここで宇佐嶋といっているのは、大分の宇佐ではなく、三女神を祭っているという沖ノ島などの「島」ではなかろうかと考えられます。これはわたしだけの考えでなく、現在では他にもそういう考え方の人々がいます。
そこで間題となるのは、「今、海北道中に在り」の文章です。岩波古典文学大系その他では「今海北の道中に在り」と読んでいますが、それをわたしは「今、海の北道の中に在り」と読みかえてみました。従来の解釈では、釜山 ーー 対馬 ーー 壱岐 ーー 唐津というルート以外にも沖ノ島を通るルートがあって、それを海北道中といっているのではないかとしてきました。わたしもその解釈しか頭になかったのですが、しかしどうもこれはおかしいのではないかと考えるようになってきたのです。というのは、もしこのルートがあったとしたら考古学的遺跡がなければならない。ところが沖ノ島には宗教的な遺跡としての姿はあるが、人が寄留したような遺物がない。したがって沖ノ島に寄留していたという時期があったとは考えられないわけです。すると、では海北道中の意味するものは一体何か。これは海の北道、つまり東鮮暖流のことをいっているのではないと思い付きました。陸地を通っていく道に対して海流によって行ったり来たりする道。なかでも壱岐・対馬から出雲へ抜ける道を日本海側の人は海の道(海道)と一般に呼んでいるとすれば、それに対して北へ上る道、つまり東鮮暖流を海北道と呼んだのであろうと考えたのです。関東や近畿のような陸地人間は知らないけれども、壱岐・対馬の海域の人たちは当然知っていた道です。この説は、大阪の「市民の古代」の会の西享子さんという方からご指摘いただいた説ですが、わたしにとっても、まさに盲点であって素晴らしいご意見だと思います。というのは、陸でいく場合の名前が全く出てこないのに、海の道というのはよく出てくるからです。出雲の話に海の道を通って筑紫の方から来る話がたくさん出てきます。これはいわば出雲〜筑紫のメインルートです。それにいちいち海の北道とはいっていない。とするとこの道とはちがって、北へ行くのを「海の北道」という言い方ができるのではないかとなる。これは、言葉としても非常にすっきりします。
次の「号して道主貴と曰ふ」とは、三女神が道中の神であるということです。この道路の安全を守る守護神であるという言い方をしています。これは、われわれのイメージとは大分ちがいます。三女神というのは、最高の神である天照大神の子だから偉い存在だぐらいに思っていたのですが、ここではそうではなくて、海の北道の安全を守る神となっている。そうしてみると、前にのべたように、大国主命は港々に女ありで、西は越の国の沼河比売から稲羽の素兎(しろうさぎ)の八上比売、宗像の三女神の長女瀛津嶋(おきつしま)姫といった具合に次々と妻にしているわけですから、まだ出雲を中心にして三女神も港を守る女神に過ぎなかった、決してナンバーワンの存在ではなかったということがいえるのかもしれません。だから瀛津嶋姫を妻にしたことは、大国主が水路権を握ったというように理解してもそれほど見当外れではないと思います。そしてそれを筑紫の水沼君等が祭っていると、こういう形です。
沖ノ島から出土した“おびただしい国宝類”は、それが「近畿天皇家からの奉献物」か、それとも「九州王朝の宝物」か、という問題で、研究史上、一つのキイ・ポイントを提供するものですが、ここでは、神代巻の中の出現の仕方についてのべさせてもらいました。
『倭人伝を徹底して読む』(目次) へ
ホームページ へ