太安萬侶 その三
日本書紀成立
小金井市 斎藤里喜代
はじめに
『日本書紀』の完成記事は『続日本紀』にある。
養老四年(七二〇)五月二十一日
是より先、一品舎人親王、勅を奉じて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上す。紀三十巻系図一巻なり。
この完成記事には、勅を奉じた日が隠されている。そこで天武朝説、和銅七年(七一四)説、養老二年(七一八)説などがある。
1) 養老二年説は舎人親王が一品になった年を根拠にしているが、完成まで二年ではあまりに短すぎるので、ずっと前から準備していたろうという。
2) 和銅七年(七一四)説は『続日本紀』に和銅七年二月十日、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に詔して、国史を撰せしめたまふ。
とあり、この国史が『日本書紀』だという理解による。『古事記』完成の二年後であり、私の『古事記』は『日本書紀』のひな型説には非常に都合のよい説である。欠点は舎人親王の名も太安萬侶の名もないことだ。
3) 天武朝説は『古事記』は、天武天皇の私的機関で、『日本書紀』は同じく天武の公的機関で、平行して始められ、『古事記』は元明朝に、『日本書紀』は元正朝に完成されたとする梅沢伊勢三説を代表とする。
しかし同じ天皇の二つもの歴史書が同時進行で、編纂されるというのは現代ではありえても、天皇が天武、持統、文武、元明、元正と変わっても延々と続けられたというのは不自然である。。四、五人の権力者の歴史感覚が一致することはありえない。、しかも二つもである。私はありえないとおもう。しかもO・Nラインを突破している。
4) 『古事記』に関しての、私の説は序文にあるとおり、天武朝に『先代旧辞』と『帝皇日継』が出来て、しばらく放っておかれて、元明朝に『先代旧辞』を元にして『古事記』三巻が四ヶ月で仕上がった。
『日本書紀』に関しての、私の説は元明朝のひな型『古事記』完成の二年後(七一四年)に国史編纂の詔が出て八年後の七二〇年に『日本書紀』の完成。七二〇年は元正朝だが元明太上天皇は健在だ。
一、舎人親王と安萬侶
七二〇年の記事を見ていてはっとした。「是より先、一品舎人親王、勅を奉じて日本紀を修む」
「一品舎人親王」「勅」何か引っ掛かった。『古事記』序文を思い出したのである。「天皇詔して朕聞く」「舎人稗田阿礼に勅語して『帝皇日継』と『先代旧辞』を」「臣安萬侶に詔して、稗田阿礼が読める勅語の旧辞を」
舎人稗田阿礼に関しては勅語がセットなのである。紀清人ら、太安萬侶、他の人への天皇の言葉は「詔」なのである。稗田阿礼は『古事記』にしか出ていない謎の人物である。それに舎人親王は天武天皇の息子である。第三子とも第五子ともいう。わたしは舎人稗田阿礼は舎人親王ではないかという疑いがむくむくと湧いてきたのを押さえ切れなかった。
そこで「稗田阿礼は舎人親王のペンネームである」という仮説を立て、今まで解決できなかったいろいろな謎をといてみようと思った。
A「是より先」の謎
「是より先」は何時か
舎人稗田阿礼が舎人親王であったら、天武朝説が正しい。天武天皇が稗田阿礼に勅語している。正確な年は元明天皇によって伏せられているが天武朝にはまちがいない。
しかし天武朝に創ったのは日本紀ではない。その元となった『帝皇の日継』と『先代旧辞』である。そのうちの『先代旧辞』がO・Nラインを越えて、従姉妹の元明天皇に見出されて、日本紀のひな型の『古事記』となった。
B七一四年の国史の謎
国史、これが『日本書紀』であるなら、なぜ舎人親王と太安萬侶の名がないか。
舎人親王は近畿王朝内の『先代旧辞』の作者であって、中国相手の本格歴史書をかくには力不足であった。紀清人と三宅藤麻呂はあきらかに九州王朝の史官である。そうでなければ膨大の中国史書を泥縄式に習得した上に九州と近畿合体の歴史書を近畿王朝の史官が創ることになる。それは聡明な舎人親王にも無理なことである。七二〇年になれば充分に勉強した成果と注文主側の特権で代表者になれる。
太安萬侶は歴史書関係の記事から抹殺されているのだから名が無いのはむしろあたりまえだ。
具体的抹殺例は次のようである。
『続日本紀』には『古事記』の記事自体が無い。『日本書紀』完成記事には舎人親王のみである。
『釈日本紀』にも日本書紀の第一回講義(養老五年)の博士の名が無い。七回の講義が巻一開題に書いてあるが名が無いのは第一回のみである。「或云不注」とのみある。
『続群書類従』巻四百四、日本紀きょう宴和歌では六回の講義が書いてあり、第一回の博士は従四位下太朝臣安麻呂と明記されている。古田氏のよく言う「解っているのにはばかることが有って名をもらせり」のくちだ。太安萬侶が昇進記事のほかは抹殺されている謎はCで解く。
C安萬侶抹殺の謎
ここでなぜ太安萬侶が歴史書関係から抹殺されたかを考えてみよう。
『続日本紀』から抹殺されている『古事記』序文で考えてみよう。そして舎人稗田阿礼が舎人親王であつたらどうであろう。序文の阿礼を天武天皇の皇子舎人親王と置き換えてみよう。そしてそれは敗戦国の史官安萬侶が元明天皇に舎人親王という本名のまま申し上げられる内容であろうか。
「姓の日下、名の帯、」の類は、もとのまま改めなかったが、皇子の労作を現天皇の命令とはいえ、四ヶ月で添削してダイジェストしてしまつたのだから。どう表現しても安萬侶が舎人親王の上になってしまう。恐れ多いので偽名を使ったと考えて良いのではないか。ここで安萬侶は『古事記』自体の抹殺は思いも付かなかった。
『古事記』自体の抹殺は、舎人親王が死後、崇道尽敬皇帝と呼ばれる様になったとき、つまり称徳天皇天平神護元年(七六五)に決まったようなものだ。歴史書としては『続日本紀』から『古事記』の名と昇進記事以外の安麻呂の名は消えたのである。皇帝が作った『先代旧辞』を敗戦国の史官が、添削したのである。
しかし『日本書紀』作成の総指揮を取った安麻呂の功績は認められて着実に昇進して養老七年(七二三)民部卿従四位下で卒したと『続日本紀』にある。そして面白いことに、『日本書紀』作成プロジェクトのナンバー二と見られる紀清人は終始安麻呂より上の位には就かず、孝謙天皇天平勝宝五年(七五三)散位従四位下で卒した。
二、「先代旧辞」「古事記」「日本書紀」
『先代旧辞』が『古事記』の元となり、『古事記』が『日本書紀』の元となつたという私の説は私の専売特許ではなかった。
それは『釈日本紀』によると、日本紀の講例、第二回目弘仁三年(私記云四年云々)博士、刑部少輔従五位下多朝臣人長(今案作者太・[ママ]麻呂後胤か)( )内割注以下同じ、の弘仁私記序に書いてある。ちなみに弘仁三年は西暦八一二年である。
例の多人長が日本書紀を講義するのに自分の先祖の関わった古事記の講義で代用したと酷評された講義である。しかし私個人の感想だが神代の巻きに限って言うなら古事記をサブテキストに使わないと日本書紀の一書群はすぐには理解できないのではないかと思う。事ほどさように日本書紀は古事記に依存している。少し長くなるが弘仁私記序を引用しよう。
「それ日本書紀は一品舎人親王(清御原天皇第五皇子なり)従四位下勲五等太安麻呂等(王子神八井耳命之後なり)勅を奉じて撰ずる所なり。是より先、清御原天皇御宇之日(気長帯日天皇之皇子、近江天皇同母弟なり)舎人有りて姓は稗田、名は阿礼、年は二十八(天鈿女命之後なり)人為り謹格にて聞く見るに聴慧なり。天皇阿礼に勅して帝王本記及び先代旧事を習わ使む。(豊御食炊屋姫天皇二十八年、上宮太子嶋大臣共に議りて、天皇記及び国記臣連伴造国造百八十部ならびに公民等の本記を録す。又天地開闢より豊御食炊屋姫天皇に至る之を旧事と謂う)未だ撰録せざるに世運り代遷りて豊国成姫天皇臨軒之季(天命開別天皇第四皇女なり)正五位上安麻呂に詔して阿礼読む所の言を撰しむ。和銅五年正月二十八日初めて彼の書を奏上する。所謂古事記三巻なり。清足姫天皇の負衾之時親王及び安麻呂等更に此れ日本書紀三十巻ならびに帝王系図一巻を撰する。(今見るに図書寮及び民間に在るなり)養老四年五月二十一日(清足姫天皇の年号なり)」
ここで『日本書紀』は舎人親王と太安麻呂等が作ったとあり、その元となったのは天武天皇のとき稗田阿礼に習わした帝王本記と先代旧事であり、それは推古天皇の二十八年に上宮太子と嶋大臣が録した天地開闢から推古天皇に至る旧事だというのである。
未だ撰録しおわらないうちに世が変わり、元明天皇のとき安麻呂に詔して阿礼の言を撰録したのが『古事記』三巻である。元正天皇の幼児の時に、更に撰録したのが此れ『日本書紀』三十巻と帝王系図一巻である。と言っている。まさに私の説と同じである。
おわりに
よく言われることだが『日本書紀』には『古事記』の引用が無いという。これは私の「古事記は日本書紀のひな型」説にとっては有利な事実である。この「ひな型」説に立てば引用がないのが当たり前、おおもとなのだから、ことさら書名を出して引用とことわる必要がないのである。
梅沢伊勢三氏も著書『古事記日本書紀の検証』十九ページで「そもそも国初から後代の天皇の物語への連続の大筋は『記・紀』ほとんど同じであり、主要な神々や歴代天皇の名前や治世区分などはまさに「大同」であり、その基本は同一の基盤に乗っているものといわねばならない」と書いているが、その観察眼には脱帽する。九州王朝説を知らないので結論は全然違ったものになってしまうのだが、この観察は正しい。ひな型説に有利な観察である。
舎人の稗田阿礼が舎人親王のペンネーム(仮名)であったなら、これだけの謎が解けるのである。意味不明だった多人長の弘仁私記序が私の説を証明した上に、九州王朝を前提としてよく読めば天皇家のお家の事情が浮かびあがってくるのである。ここでは、思いもかけなかったことに、舎人稗田阿礼は推古天皇までの旧事を習っただけなのである。作っていないのである。ますます舎人親王の本名は出しづらくなるのだ。以上である。
(二〇〇三・三・二四記)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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