2003年6月8日

古田史学会報

56号

1、歴史の曲り角(三)
  -- 魏志倭人伝の史料批判
 古田武彦

2、八幡について
  山内玲子

3、古代の遺跡
 新城山に登る
長野邦計

4、『高僧伝』
における寿命記事

 安藤哲朗

5、『新・古代学の扉』
が更に充実
 横田幸男

6、太安萬侶  その三
日本書紀成立

 斉藤里喜代

7、豊斟淳尊と豊国主尊
 西井健一郎

 

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キ国とワ国の論証 -- コの国の発見(会報55号)
拝可美葦牙彦舅尊の正体 -- 記紀の神々の出自を探るii(会報57号)


豊斟淳尊と豊国主尊

記紀の創世神の出自を探るi

大阪市 西井健一郎

許(コ)の国=狗奴国の等式

 宇遅能和紀郎子(うじのわきのいらつこ)が治めたワキ国は、それ以前は許(コ)の国と呼ばれたと風土記にある。このコの呼称に木の字が当てられ、木国と記された。やがてこの木津川流域(淀川流域まで拡大していた様子だが)はキの国と読まれるようになり、オウワと呼ばれた奈良地方と合わせてワキ国となった。
 宇遅能ワキ郎子宮廷の滅亡により木国またはワキ国の存在は人々の記憶から消え、木国の記事は紀伊国のものと読み替えられるようになる。だが、原初のコの国の呼称が記録に残る。ひとつは紀でいう木の祖、。記では句句廼馳(くくのち)、木(こ)の神の久久能知神だ。二つ目は倭人伝の狗奴(この)国とその王、狗古智比狗(ここちひこ)である。このククノチとココチヒコとが同じ存在とすれば、記紀に載る他の神々も出自または実態があった筈だ。その実存の記憶が薄れていき、カビや霧、風や木の神に、あるいは親子や兄弟に、あるいは馴染んだ神の別名にと分類配置されていった。
 そこで、今回は、古田先生が生み出された「一大率の等式」を勝手に借用し、かつ牽強付会を恐れず、日本書紀の神々の出自を探る試行を行った。発想はともかく学問的正確性に欠ける論証に対し、史学の会関西例会のご出席者から手厳しい批判を頂戴したが、めげることなく会報に投稿する次第である。

基盤ができ、土が積もり、王が現れた

 書紀の冒頭、紹介されるのが「國常立(くにのとこたち)尊・國狭槌(くにさつち)尊・豊斟淳(とよくむぬ)尊」の三神である。

 「古天地未剖、陰陽不分、…。…。于時、天地之中生一物。状如葦牙。便化為神。号國常立尊。…。次國狭槌尊。次豐斟淳尊。凡三神矣」。

 これら三神について、利用した岩波文庫本30-004-1日本書紀(一)(以下、文庫本・紀(一)と記す)の補注を要約すると、「國常立尊のトコは床や台の意で、とこしえという言葉ガ生まれたように不変の固定的基盤を指す」、「國狭槌尊のサは早乙女のように神を、ツチは土を意味し、神によって穀物を生む土壌が生じたことをいう」となる。

 國常立尊とは、常世(とこよ)の、あるいは常世を立(建)てた神だろう。常世が具体的な国を指すとは思えない。しかし、神隠れした岩戸の前に“常世の”長鳴鳥を集めるし、少彦名命は大己貴命との国作りを終えて(出雲国意宇郡の)熊野から“常世の”郷にいく。垂仁紀では、田道間守が“常世の”国から非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を持って帰る、とある。常世には外国、あることはわかっているが見たことがない国との概念があるようだ。
 國狭槌尊については、付会する記事が見つからない。ただ、狭土(さつち)と表記されている記の場合、サドと読んで佐渡島と見なすことができなくもない。
 注目の豐斟淳尊について、補注は「豐斟淳のトヨはどよもすへ転じたように鳴る擬音語。斟は酒をつぐ意で、クムともクミとも読める。クムヌは記にある雲野の交代形。別伝にある国野や国主は、斟淳から転じたものだろう」という。
 私には、ここの斟淳とは土壌から生じた穀物で酒を作り皆の衆にご馳走してくれるリーダーの出現をあらわすと映る。また、トヨは豊国を示すとする。そして、クムヌの本当の意味は後述するように違う。この冒頭の三神の創生譚とは、「この世の最初にはまず基盤が生じ、土が積もり、穀物がとれるようになって、酒を作り振舞うリーダーつまり王様が生まれてきた」との、支配者の出現の必然性を説く説話である。書紀が、その最初の王として記載するのが、続く第1の一書に記す豐國主尊である。

 豐國主が支配する国々

 その一書は、台ができ、土に穀物が生じ、そして支配者豐國主尊が現れた、と書く。

「一書曰、天地初判、一物在於虚中。状貌難言。其中自有化生之神。号國常立尊。亦曰國底立尊。次國狭槌尊。亦曰國狭立尊。次豐國主尊。亦曰豐組野尊。亦曰豐香節野尊。亦曰浮經野豐買尊。亦曰豐國野尊。亦曰豐齧野尊。亦曰葉木國野尊。亦曰見野尊」。

 そして、次の第2の一書の終わりに、「葉木國、此云」との原註がある。この豐國主とは誰か。大国を支配する王者が大国主であるならば、豐國を支配する王者も豐國主と呼ばれたに違いない。この一書は豐國が伝承していたものだろう。
 豐國は、ある時代にアマ国からの侵略者オシホミミの子、ニニギとその母の万幡姫、及びそれを担いだ地方豪族の塩土老翁こと長狭によって征服されたと思われる。この豐國主が新来のニニギ系を指すのか、それ以前の土着系を指すのかは不明である。もし、土着系とすれば、神代紀下の天孫降臨の第2の一書には、「国主事勝国勝長狭」と記されているから、彼が当時の豐國主だつたのかもしれない。
 そして、この豐國主の亦の名の神々こそ豐國主が支配していた、あるいは影響下にあった国々または首長である、とした。それらが現在のどこかは比定できないが、豐國内のクムノ・カブノ・ウカブノノトヨカフ・クニノ・カブノ(カジノ)、そしてハコクニとミノが彼の影響下にあったのだ。前者の5カ国は周防灘から瀬戸内にかけてと想定。カブノは同じ神を云い替えた可能性もある。
 この推測は、筑紫政権が大陸や半島との交渉に熱を上げていた間に、豐國が瀬戸内の交易路を押さえていたとの想定下にある。また、後述のハコ国尊=木祖、ククノチ=狗奴国狗古智比狗の等式を時間軸で使えば、3世紀の話になる。同祖とはいえ代を累ね、筑紫と豊とは別政権になつていたと思われる。
 それら瀬戸内の状況は、東播磨の歴史を考える実行委員会編「東播磨の歴史1古代」に載る。同書では「縄文時代には中国山地沿いに各地の土器が発見され、山口などの西国から京都府や滋賀県へ至る物流の中国道添いルートが存在していた」と推定している。一方、「瀬戸内沿岸にも遺跡が多く、淡路島や家島群島にも多い。これらは弥生前期へ継続し、弥生文化が海沿いから川を遡っていく様子がうかがえる」とある。中国道ルートを支配したのが大国主と吉備津彦、この瀬戸内ルートを支配したのが豐國主、というのも今回の仮説の一つである。
 そして注目は明石川河口の播磨吉田遺跡であり、「同遺跡は弥生前期以前の土器が出ず、ここで生活していたのは、弥生以降の九州など西部からの移住者そのものであったと考えた方がいい」と記されている。この記事は、豐國の地方豪族の王子、神武もまたこれら移住者あるいは武装交易者の一隊であったとの推測を可能にする。しかし、注目すべきは後者の2ヶ国である。もし、葉木國が次に述べるように近畿のワキ国、大昔のコの国とすれば、亦として挙げられたそれら神々もそれぞれに出身地を持つと類推できるからだ。

 葉木國とは、ワキ国である

 このハコクニとは何か。これこそ、宇治のワキの郎子の治めた許の国の原名である。そしてある時代にはククノチや狗古智比狗が治めた国でもある。時代とともに、「ハ」が「ワ」に、「コ」が「キ」に呼び方が変わったものと想像できる。
 前稿でも紹介したが、文庫本・紀(一)の「葉木」の補注に「木(こ)は、乙類koの音が例で、挙(こ)(コ 乙類koの音)という万葉仮名を使っているのは、上代特殊仮名遣に合致する」とある。また、木神ククノチの補注には「ククは木木(キキ)の古形。木kiはko*(木)またはku(木)から後になって転成した音」とある。ハ→ワについては不詳。
 そして、見野は美濃の国である。岐阜県だけでなく愛知県などの濃尾平野を指す。三遠式銅鐸の分布圏である。美濃は記紀にとって不詳の国ではない。出雲に寝返ったため高皇産霊尊の投げ返した矢で死んだ天稚彦(あめわかひこ)の喪屋が、死人に間違われて怒る味耜高彦根に斬られて飛んでいった土地である。神々の時代からその国の存在が知られていたに違いない。
 もし、ワキ国が太古にハコ国と呼ばれていたとするならば、前稿の京都から奈良間のキ国と奈良盆地のワ国とに分けたことは間違いになる。しかもミノが美濃国を意味するとすれば、近江の記載がないことから、ハコ国の範囲は淀川沿岸からその上流の琵琶湖までの、いわゆる畿内諸国の範囲を指し示していることになろう。したがって、畿内のキの語源はハコ国から転じた木国のキにあることすら想定できる。

豐斟淳は豐のクモである

 前述の補注によれば、豐斟淳尊とは豐雲野尊からの転記という。記には豐雲野神と書かれている。本当に豐のクモノ神が原名だとすると、おもしろい疑問が浮かぶ。本来、豐国主と呼ばれる以前、その地位は「豐のクモ」と呼ばれていたのではないか、というものである。
 記紀は、歴代天皇が征伐にあたった反抗的豪族を「土蜘蛛」と表現する。文庫本・紀(一)の補注を要約すれば、「身体の形状が蜘蛛に似ているところからの由来というよりも、津田氏の言う身短くして手足長しということは説話であり土蜘蛛の名からこの説話が作られたという説によるべき」とする。「豊前風土記などには、土蜘蛛が石塁土塁の如きものを作っていたらしく記してあり、また多くの党類をもっているものもあり地方的土豪らしく見えることから土蜘蛛が本来穴居するものとして考えられていたとは思われず、それらは土蜘蛛の名から導き出された物語であろうという。土蜘蛛は大和朝廷に従わなかった地方の首長を、朝廷がエミシの語に蝦夷などの字を適用したのと同じ思想から賎すんで呼称したものと考えてよいであろう」とも書く。
 地方は賎というこの国学者的考察は本当だろうか。記紀を素直に読むかぎりにおいては、大和朝廷への服属の有無にかかわらず、むしろ大和朝が成立する以前は、各地の首長はクモと呼ばれていたと思う。大和朝の祖先がオウワのクモと記されてないのは、他政権から見た呼称が記録されていないから、あるいは当時クモと呼ばれるだけの地位になかったからである。
 ニニギに攻め込まれる前の豐国の首長も、「豐のクモ」と呼ばれていたに違いない。だから、豐雲野という神名になって後世に伝承されてきたのだ。したがって、宋史日本伝に載る天村雲尊や天八重雲尊も、アマ国の部落群の長やアマ国が支配する八重地方の首長の存在が源になっている可能性が大なのである。
 問題はなぜ、書紀の筆頭に第一の王(神)として、「豐のクモ」を挙げたかである。滅亡した九州王朝の兵士や民を融和させるには、同祖としての九州始原神を持ち出すことが必要だったが、天御中主ではあまりにも九州王朝の優越性を認めることになるから、神武の出身地である豊国の創始神を第一に据えてみたのではないだろうか。(終)


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