2003年10月10日

古田史学会報

58号

1、『平家物語』の九州年号
  古賀達也

2、突帯文土器と支石墓
  伊東義彰

3、太安萬侶その四
苦悩の選択
  斎藤里喜代

4、二倍年暦の世界5
『荘子』の二倍年暦
  古賀達也

5、高天が原の神々の考察
  西井健一郎

6、市民タイムス
善光寺如来と聖徳太子

7、連載小説「彩神」第十話
  若草の賦(1)

8、いろは歌留多贈呈
鬯草のこと
事務局便り

 

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善光寺如来と聖徳太子の往復書簡 -- 九州年号の秘密 古賀達也(会報58号)

「安徳台」余話 『平家物語』の九州年号 古賀達也(会報58号)

「安徳台」余話

『平家物語』の九州年号

京都市 古賀達也

 会報 No.五七にて安徳台遺跡をご紹介したが、その安徳台という地名の由来について、那珂川町の学芸委員の方におたずねしたところ、安徳天皇が都落ちしてこの地に一時滞在したことによるもので、そのことが『平家物語』にあると御教示いただいた。そこで、岩波の新日本古典文学大系『平家物語』を購入し、読んでみた。
 巻第八の「緒環(をだまき)」冒頭に次の記事が見える。

さる程に、筑紫には内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、いまだ宮こも定められず。主上は岩戸(いわど)の諸境大蔵の種直が宿所にわたらせ給ふ。人ゝの家ゝは野中・田なかなりければ、あさの衣はうたねども、とをちの里とも言ッつべし。内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿(注(1) )もかくやとおぼえて、中〃ゆうなる方もありけり。

 この「諸境大蔵の種直」の諸境とは少卿のことで、この地方を支配していた原田種直である。安徳天皇は原田氏の居城の一つ岩門城へ迎えられたと思われるが、この岩門城は安徳台の東南に位置する城山中腹にあった。従って、この記事から安徳天皇が安徳台に居たとは断定できない。しかしながら、江戸時代に安徳台が御所の原と呼ばれていたことが『筑前国続風土記』に見えることから(注(2) )、安徳台にいつの時代か天皇が居たことをうかがわせる。おそらく弥生時代の倭王が起居していたものと思われるが、後に安徳天皇と結び付けられたのではあるまいか。
 その一方で、安徳台が本当に安徳天皇の名前から付けられたものかという疑問も残る。もしかすると、安徳という名前の倭王がいたのではないかとも思われるが、今のところ推測の域を出ない。
 というわけで今回必要あって、初めて『平家物語』を通読したのだが、その折九州年号の「金光」が『平家物語』に記されていることを「発見」した。巻第二の「善光寺炎上」中の次の記事だ。

 百済の御門斉明王、吾朝の御門欽明天皇の御宇に及で、彼国よりこの国へ移らせ給ひて、摂津国難波の浦にして、星霜ををくらせ給ひけり。常は金色の光りをはなたせまし〃〃ければ、これによッて年号を金光と号す。同三年三月上旬に、信濃国の住人おうみの太善光と云者、都へのぼりたりけるが、彼如来に逢奉りたりけるに、やがていざなひらせて、ひるは善光、如来をおい奉り、夜は善光、如来におはれたてまッて、信濃国へ下り、水内の郡に安置したてまッしよりこのかた、星霜既に五百八十余歳、炎上の例はこれはじめとぞ承る。

 九州年号「金光」の元年は五七〇年(欽明三一年)で、六年まで続いている。『平家物語』成立は十三世紀初期から中頃とされているので、現存する九州年号史料としては比較的古いものである。ここでは「金光」が善光寺如来の来歴にかかわって紹介されているが、『善光寺縁起』にも金光を初め、いくつかの九州年号が散見される(注(3) )。現存の『善光寺縁起』が十四世紀中頃(一三六八年頃)の成立であることから、それよりも早く『平家物語』成立以前に、少なくとも平安時代には九州年号を伴った原「善光寺縁起」が存在していたことが想定できる(注(4) )。また、こうした史料事実は、九州年号を鎌倉時代偽作とする一元通念学者の見解が誤っていることを示すものでもある。
 ところで、『平家物語』の記事では、善光寺如来が信濃に持ち込まれたのを金光三年(五七二)とするが、『善光寺縁起』を初め、現存する善光寺関連史料では、いずれもその年次を願転二年(六〇二)のこととする。『平家物語』の記事と異なるのである。この場合、より成立の早い『平家物語』の記事を重視すべきとも考えられるが、この点、今後の研究課題としたい(注(5) )。

(注)

(1) 斉明天皇、あるいは天智天皇が西征した際に筑前朝倉に営んだという、丸木造りの仮の御所。おそらく、九州王朝の天子(薩夜麻か)の行宮だったのではあるまいか。
(2) 『筑前国続風土記』では安徳台を原田種直の館としている。また、安徳台の中央に御所の内という字地名が一町ばかりあり、これを安徳天皇皇居の跡也と云うと紹介している。
(3) 続群書類従本『善光寺縁起』によれば、次の九州年号が見える。喜楽元年、師安元年、知僧元年、金光元年、定居三年、告貴七年、願転二年、命長三年、命長四年、白雉三年。
(4) 日蓮文書『三輪宗御書』に「善光寺流記」という史料が引用されている。引用部分には九州年号は見えないが、これも原「善光寺縁起」の一つではあるまいか。なお、日蓮は九州年号を知っていたとする論文「日蓮の古代年号観──中世文書に見る古代像」(『市民の古代』第十四集、一九九二年、新泉社刊)を筆者は発表しているので、参照されたい。
(5) 平安末期の成立とされる『扶桑略記』に「善光寺縁起」が引用されているが、それには九州年号は見えず、善光寺如来が信州に安置された年を推古天皇十年(六〇二)四月八日と記す。


 これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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