新・古典批判 続・二倍年暦の世界 古賀達也(『新・古代学』第八集) へ
『曾子』『荀子』の二倍年暦 古賀達也(会報59号)
新・古典批判「二倍年暦の世界」5
『荘子』の二倍年暦
京都市 古賀達也
本連載3「孔子の二倍年暦」(注1. )において、周代成立の『管子』『列子』『論語』が二倍年暦(二倍年齢)で記されていることを明らかにし、中でも『列子』には人間の最大の寿命を百歳とする記事が見えることを指摘した。次の記事だ。
「楊朱曰く、百年は壽の大齊(たいせい)にして、百年を得(う)る者は、千に一無し。設(も)し一有りとするも、孩抱(がいほう)より以て民/日*老(こんろう)に逮(およ)ぶまで、幾(ほと)んど其の半(なかば)に居る。」(『列子』「楊朱第七」第二章)
【通釈】楊子がいうには、百歳は人間の寿命の最大限であって、百歳まで生き得た人間は、千人に一人もない。若し千人に一人あったとしても、その人の赤ん坊の時期と老いさらばえた時期とが、ほとんどその半分を占めてしまっている。
『列子』(明治書院、新釈漢文大系、小林信昭訳注による)
人間の寿命の限界を百歳とする記事だが、これと同じ認識が『荘子』にも見える。
「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。其の志気を悦ばし、其の寿命を養う能わざる者は、皆道に通ずる者に非ざるなり。丘の言う所は、皆吾れの棄つる所なり。亟(すみや)かに去りて走り帰れ。復(ま)たこれを言うことなかれ。子の道は凶凶[イ及][イ及]、詐巧(さこう)虚偽の事なり。以て真を全うすべきに非ざるなり。奚(なん)ぞ論ずるに足らんやと。」(『荘子』盗跖(とうせき)篇第二十九)
【口語訳】いまおれ(盗跖)は、お前(孔子)のために人の情というものについて話してやろう。目は美しい色を見たいと望み、耳はよい音色を聴きたいと思い、口はうまいものを味わいたいと願い、心の欲望は満たされたいと望むものだ。ところが人の寿命は最高の長生きでも百歳、中の長生きは八十、下の長生きは六十で、病気とか親戚の死亡とか心配ごとの期間を除くと、中間で口をあけて笑える楽しいときは一月(ひとつき)のあいだにやっと四、五日ていどだ。天地の大自然は尽きるときはないが、人間の死は必ずやってくる。有限なこの身を無限の大自然のなかに寄せているのは、忽然とした瞬時のことで、まるで駿馬が戸の隙間(すきま)を通過するようなものだ。己れの欲望を満足させ己れの寿命を養うことのできないようなやつは、すべて道に通じたものとはいえない。お前の話すことはおれにはすべて無用なことだ。とっとと失(う)せて逃げ帰れ。二度というまいぞ。お前の教えは狂気(きちがい)じみてあくせくしていて、いかさまの嘘っぱちの事だ。本来の真実を全うできるようなものではない。とても話しあう値うちはないぞ。〔(
)内は古賀注〕
『荘子』(岩波文庫『荘子』第四冊、金谷治訳注による)
この『荘子』盗跖篇は盗跖と孔子の会話等からなっているが、もとより実話とは考えにくい。しかし、当時の人間の寿命の認識が示された記事であり、百歳を最大として八十歳を平均的な寿命、六十歳を平均よりも短い寿命としている。これは一倍年暦の五十歳、四十歳、三十歳であり、後代の『三国志』に見える中国人の没年齢記事ともよく対応している。(注2.)
荘子は戦国時代末期の人物で、孟子と同時代の人物とされる。(注3.) 従って『荘子』は、周代においてその末期まで二倍年暦が使用されていたとする史料根拠と見なし得るであろう。同時に文献としての『荘子』は前漢の初め頃に原形が成立したと見られており(注4.)、前漢代初頭においても二倍年暦が記憶された可能性も無しとはできまい。
『荘子』には盗跖編以外にも二倍年暦によると思われる老齢記事がある。
「臣は以て臣の子に喩(さと)すこと能(あた)わず、臣の子も亦たこれを臣より受くること能(あた)わず。是(ここ)を以て行年七十にして老いて輪を斬*(き)る。」(『荘子』天道篇第十三)
【口語訳】わたくしはそれを自分の子供に教えることができず、わたくしの子供もそれをわたくしから受けつぐことができません。そのため七十のこの年になっても、老いさらばえて車作りをしているのです。
『荘子』(同前、第二冊)
ここでは七十歳を「老」と表現されており、これは一倍年暦の三五歳に相当することから、現代の感覚からは「老」と表現するには違和感がある。しかし、先の盗跖篇からもわかるように、当時の平均的な寿命とされる「中寿」が八十歳(一倍年暦の四十歳)であったことからすれば、七十歳(一倍年暦の三五歳)が「老」と表現されても、それほど不自然ではなくなる。
あるいは、現代の「老」とは異なった「老」の概念が周代にはあったのではないかという示唆も古田武彦氏から得ているが、今後の研究課題としたい。
(注)
1.「古田史学会報」No.五三。二〇〇二年十二月三日、古田史学の会発行。
2. 倭人伝に倭人の二倍年暦による年齢表記があるが、『三国志』は基本的には一倍年暦で表されている。古田武彦氏の調査によれば、『三国志』に記された没年齢の平均は五二・五歳だが、多くは三十代、四十代で没している。
3. 紀元前四世紀後半。岩波文庫『荘子』、金谷治氏の解説による。
4. 同3.。
インタネット事務局注記2003.11.09
○民/日*老(こんろう)の民/日*は、民の下に日です。
○病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八です。(表示できない。)
○[イ及]は、人編に及です。
○斬*(き)るは、表示できません。
これは会報の公開です。史料批判はやがて発表される、『新・古代学』第一集〜第八集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜十集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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