2004年8月8日

古田史学会報

63号

1、理化学年代
と九州の遺跡
 内倉武久

2、ローマの二倍年暦
 古賀達也

3、「磐井の乱」
古田新見解について
 飯田満麿

4、沖縄新報 社説
新説を無視する歴史学界

5、大年神(大戸主)
はオホアナムチである
-- 記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6、古田史学の会
・創立十周年
記念講演会に参加して
今井俊圀
仲村敦彦

7、創立十周年
 記念講演会ご挨拶
祝辞・報道

8、『十三の冥府』読後感
 大田斎二郎

9、鶴見岳は
天ノ香具山(続)

 水野孝夫

10、森嶋通夫氏に捧げる
 古田武彦

11、浦島伝説
 森茂夫

 事務局便り


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古田史学の会・創立十周年 記念講演会に参加して 今井俊圀 , 「古田史学の会」初見参那覇市 仲村敦彦

批判のルールー飯田・今井氏に答える 古田武彦(古田史学会報六四号)へ
新説を無視する歴史学界ー古田史学の会に出席して(沖縄新報(2004年6月24日)社説 へ

原初的宗教の資料批判 ーートマス福音書と大乗仏教 古田武彦(『古代に真実を求めて』第八集)へ


古田史学の会・創立十周年

記念講演会に参加して

千歳市 今井俊圀

 六月六日に大阪の中之島公会堂・中集会室で行われた、「古田史学の会」創立十周年記念講演会に、「古田史学の会・北海道」の七名の仲間と共に参加した時の感想を述べてみたいと思います。
 当日の朝、地下鉄の淀屋橋駅に降り立った私たちは、偶然にもホームで古田先生と京大大学院生の松本郁子さんと出会ったのです。どうやら同じ地下鉄に乗っていたらしく、松本さんが私たちのメンバーの黒田さんを見つけて声をかけてくれたので出会うことが出来たのです。先生とは、昨年の九州の久留米市の大善寺玉垂宮の「鬼夜」とその翌日の八女市や瀬高町への旅以来で、その後ご病気をされたと聞いていて、皆で心配していましたが、とてもお元気そうでほっとしました。
 さて、記念講演会は水野代表の基調報告で始まり、まず松本郁子さんの研究発表。実は五月二四日に札幌市の北大スラブ研究会での講演のため来道されていた松本さんは、二三日に行われた私たちの勉強会に出席して、同じ内容の講演をしてくれていたのです。ですから、発表の意味がよりよく理解できました。
 会員総会、そしてお昼の休憩後、午後からは古賀事務局長の研究発表。まあ次から次へとものすごいお勉強。本当に感心してしまいます。エジプトのラムセス?世の年齢も二倍年齢であったとか、ローマの執政官編年も二倍年暦であった可能性がある等々の発表をとても興味深く聞きました。
 続いて、内倉武久さんの記念講演。『大宰府は日本の首都だった』とほぼ同じ内容でしたが、九州歴史資料館が一昨年に行った「水城」の地盤固め用の「敷きソダ」の14C測定結果についての報告は私にとってとても重大な意味を持つものでした。その結果とは、中層部は四三○年で、五世紀ころ九州王朝が「水城」を築いたとする古田史学の共通認識を証明するものでしたが、問題は上層部の測定結果が六六○年と出たことでした。
 これは、天智二年(六六三)の白村江の戦いの前に、九州王朝が本土防衛のために増強したとも見ることができますが、六六○年(斉明六年)には新羅・唐連合軍が百済を攻め、百済の義慈王は皇太子と共に連合軍に降って百済は滅亡しています。「書紀」には記述がありませんが、九州王朝は当然かなりの規模の救援軍を送っていたはずで、大規模な土木工事をやっている余裕はないと思います。
 私は、「天智紀」三年の「水城の増築」記事、四年の「大野城・椽城築城」記事、六年の「大和の高安城、讃岐の屋嶋城、対馬の金田城築城」記事は正しいのだと思います。つまり、白村江の戦い後に築かれたのだと、しかし主語が違うのだと。白村江の戦いの後、唐軍の占領下にある九州王朝にはそんなことが出来るはずが無いのは当然ですが、近畿王朝にも出来ないのです。何故ならそれは明白な敵対行動として唐軍に付け込まれ攻撃される恐れがあるからです。しかし、その命令者が唐軍であったならどうでしょう?。当然可能です。では何のために?。白村江の戦いに負け多数の将兵を失ったとはいえ、九州内部にはまだ残存勢力が残っていたはずで、それに対しての防衛のためであり、また、近畿へ亡命した鬼室集斯等の残存勢力と近畿王朝に対するものの二つの意味があったと思います。亡命百済勢力と近畿王朝が手を結び、百済再興を目指して朝鮮半島に攻めのぼる可能性を唐軍は否定していなかったのだと思います。もし仮に九州王朝が白村江の戦いの前に、本土防衛のためにそれらを築いたのだとしたら、大和の高安城や讃岐の屋嶋城を築いた意味がわかりません。少なくとも、白村江の戦い前に、九州王朝が近畿王朝のことを疑っていた形跡は無いのですから。
 最後に古田先生の特別講演。「原始的宗教の史料批判」と題する講演はとても興味深いものでした。
 「トマス福音書」の下限は三世紀で、それはパピルスの表紙の裏が領収書で年月日があって年代が特定出来ること。コプト語ではなくギリシャ語で書かれた部分があり、それは特別な意味を持っていること等々、最近先生がはまっている「トマス福音書」の話はとても興味深いものでした。もし「トマス福音書」が真のイエスの姿を描いているとすると、イエスがローマ帝国やユダヤ支配層のサドカイ派から、ゼーロタイ(熱心党)と呼ばれるユダヤ過激派と同一視され、ローマに対する国家反逆罪で十字架に掛けられた理由が良くわかります。「トマス福音書」の伝えるイエスの言動は、過激派視されてもおかしくない内容だからです。
 また、最後のほうで少しだけ言及された「大無量寿経」や「法華経」にある女性がいったん男性に変身してから成仏するという女人成仏の話が「トマス福音書」からの伝播とする話も大変興味深いものでした。「法華経」の話は「提婆達多品第十二」に出てくる娑竭羅竜王の娘の八歳の竜女が成仏した説話ですが、中国の後秦時代の西域の亀茲国(現中国新疆ウイグル自治区クチャ)出身の鳩摩羅什(三四四〜四○九年)が漢訳した旧訳の「法華経」にはこの「提婆達多品」はなく、唐代の玄奘三蔵(六○二〜六六九年)の訳した新訳にはあるとされています。そうすると、この説話は、五世紀から七世紀の間に成立したと考えられます。
 ところで、トマスは五七年に南インドへ来て、七二年にマドラスで殉教したとされています。そうすると、五世紀の鳩摩羅什の時代にはこの説話は伝わっていたはずで、それが七世紀まで伝わらなかったとするのは少し変だと思います。二〜三世紀頃北インドで成立したとされる「大無量寿経」への伝播なら話がわかるのですが。やはり、「法華経」の説話は「トマス福音書」とは無関係だと思います。なお、蛇足ですが、娑竭羅竜王の話は、蛇をトーテムとする非アーリア系の原住民族の中で、南インドの海洋民は竜をトーテムとしており、彼らはアーリア人から人間以下の畜生扱いを受けていて、その彼らが釈迦教団への入団を許されたことを意味しています。
 講演会終了後、地下の食堂で先生を囲んでの懇親会がありましたが、私の隣の席には「古田史学の会・四国」の愛媛県小松町の今井久さんご夫妻が。同じ姓でしかも「古田史学の会」の会員でもあり、不思議な縁を感じました。
 まだまだ感じたことがたくさんあるのですが、話が尽きないのでこの辺で止めたいと思います。私にとって実りの多い意義深い講演会でした。
      二○○四年六月二五日記


「古田史学の会」初見参

那覇市 仲村敦彦

 大阪の中之島と聞けば、江戸時代の水運、各藩の蔵屋敷、米相場といった言葉が浮かぶ。そして洋館の公会堂(たぶん重文)の姿がちらつく。
 前日、大阪入りした私は大会当日早朝から、その「中之島」周辺探索のため、フラリと出掛けたが、私の宿(淀屋橋近辺・三井ガーデンホテル)から、何と目と鼻の先。これでは早すぎるゾと取って返し、開会一時間半前あたりに、何とかという長ったらしい名前の橋を渡って、件の公会堂に到着。
 胸のリボンが川風に吹かれている世話人を確認後、隣の図書館の喫煙室で一服して、さて開会を待った・・・・・・。
 水野孝夫代表が古田先生の学問の方法について語り、本会の今日に至る経緯について述べられた。真実を求める精神に従うべきながら、その前に己の固定観念(水野氏は信念という語を使ったが)にとらわれている風潮を批判したことは、末席の私、拍手をしたくなったものである。
 松本郁子氏の「古田史学と太田覚眠研究」は、古田先生との出会いから始められ、古田史学の方法論による覚眠研究、日露交流史研究への道を切々と語られた。何ともキャシャな女性ながら、骨太の古田学風で以て更に研究を進められ、いずれは日露古代交流史へも踏み入っては如何・・・と、ひそかに期待を抱いた。
 古賀達也氏の「二倍年暦と九州年号の論理」と、内倉武久氏の「14C年代測定と九州の遺跡」は、両氏がそれぞれ心魂を傾けているテーマ。二倍年暦は中国にも、エジプトにもあり、「世界の古典」から渉猟する必要を説く。ローマやインドにも二倍年暦の可能性を説かれてみると、ア、孔子様の「十有五にして学云々」は、これはやっぱり遅すぎるゾ、二で割れば七、八才。孔子ならそのトシの方がピタリだぞ・・・と、これにも拍手をしたくなった。
 古田先生の「原初的宗教の史料批判─トマスの福音書と大乗仏教─」について、私の拙い文章(のみならず理解力も)で、ホンの一言でも触れるわけにはいくまい。が、古い形に実は真実があり、時代が下るにつれて原形に修正の手が加えられて行く─「後代人・そして権威者」なるものの「イヤラシサ」を想起させた(古田先生はそんな言葉づかいはしていないが)。
 そもそも「壹」を何の検証もなく「臺」にかえた先人、そして予定地至上主義でこれを継承して憚らぬ「学者」に、激しい憤りをまたまた抱いた。・・・そして古田先生の肉声を聴きながら、私は次のことに索
かれて行くのであった。
 李進煕氏の『広開土王陵碑の研究』。─これを徹底的に実証により批判、「改竄」説の非を唱導したのは古田武彦であるが、その李説批判の先鋒かつ大将たる氏をシンポジウムから締め出す。そしてこの碑面の「倭」を大和朝廷か海賊かとして、「九州王朝」論を学問の討議の場から排除する。このようなことが許されている「学界」とは、一体いかなる人種の集いであるか。好い加減に「シミソーレ」(仕候らえ・して下さいの沖縄言葉)という、これは怒髪、天を衝く私の怒りである。

新説を無視する歴史学界ー古田史学の会に出席して -- (沖縄新報(2004年6月24日)社説 へ


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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