明治天皇が見た九州年号 「太宰府」建都年代に関する考察 -- 九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判(会報65号)
「伊予風土記」新考 古賀達也
久留米藩宝暦一揆の庄屋たち
西溝尻村庄屋六朗左衛門と百姓勘右衛門
京都市 古賀達也
一
江戸時代屈指の百姓一揆、久留米藩宝暦一揆(宝暦四年、一七五四)の指導者の一人、浮羽郡西溝尻村百姓勘右衛門はわたしの先祖である。その墓注1は浮羽町御幸通りの墓地にあり、その正面には、
「宝暦四歳
釈道榮信士
戌八月廿七日」
向かって左側面には、
「俗名古賀勘右衛門 年四拾才」
とある。この宝暦四年八月二七日こそ、一揆の指導者達が処刑されたその日(第一次弾圧注2)であり、次の「断罪書」注3の内容に対応する。
「生葉郡西溝尻村 百姓 勘右衛門
此の者、当春騒動の節、同郡において専ら頭取、御大法に背き郡中を騒がし候重科によって梟首行われ候」
(『石原家記』)
宝暦一揆は上三郡と称される生葉郡・竹野郡・山本郡から勃発し、全藩的に広がったのであるが、西溝尻村の勘右衛門は生葉郡の一揆頭取として中心的指導者であった。また、同村からは勘右衛門の他にも、百姓善次郎・百姓九郎兵衛・百姓太右衛門が「願書作成、教唆」の罪に問われ、過料の刑を受けている。また、隣村の東溝尻村庄屋与三兵衛も一揆に荷担したため死罪となるところを一等減じられ五郡追放となっている。このように、東西の溝尻村は郡内における一揆の中心拠点であったことがうかがえるのである。
二
こうした勘右衛門ら一揆の犠牲者の多くが「百姓」と称されていることから、宝暦一揆の主勢力や指導者は下層農民や貧農であり、彼等と大庄屋や庄屋との対立は激化していたと、宝暦一揆の性格が論じられること常である。例えば次の通りだ。
「闘いの指導者層の面でも、両者では大きな変化が見られた。享保期には決して積極的とは言えないまでも大庄屋・庄屋層はいちおう農民たちの要求の線に添って行動したが、宝暦期の場合は村役人層はむしろ農民の闘争目標となっており、闘いの指導者層は下層農民たちであった。」
『久留米市史』第二巻(昭和五七年)
「極刑が最も多いのは一般の農民であって、梟首八人、刎首六人に及んでいる。断罪書を見ても、一揆の全期間を通じ、闘争の指導的役割を果たし、その主力となったのは、大庄屋、庄屋などの村役人層というより、むしろ村内で彼らと利害の対立が激化し、貧乏化しつつあった下層の農民たちであったといえる。」
『浮羽町史』上巻(昭和六三年)
「次に闘争の指導層及主力という点でいえば、享保期は庄屋、大庄屋は連判から除外されたとはいえ村落内での農民との対立は表面化していなかったし、恐らく庄屋を含む村役人層の指導を推定したとしても誤りではない。これに対して宝暦期では、大庄屋は勿論小庄屋や長百姓すら闘争の目標とされている。(中略)本一揆ではその全時期を通じて闘争を指導しその主力となった。」
向江強「宝暦四年久留米藩の農民闘争」 『日本史研究』一四二号所収(一九七四年)
中でも向江強氏の論文は、同一揆研究における最も周密な研究論文であり、前二書の記述は同氏の研究成果に負っているところが大きいと思われる。これらに記されているように、宝暦一揆における村役人と下層農民との対立激化という構造は、久留米藩全体で見れば、こうした側面が強いことにわたしも異論ないのであるが、上三郡、就中生葉郡に関しては、聊か状況を異にしていたのではあるまいか。というのも、生葉郡の一揆頭取であった勘右衛門、すなわち古賀家は西溝尻村庄屋であったからである。
三
古賀家系図注4によれば、古賀家は星野氏(初代、胤實)を祖先としており、西溝尻村に土着した後、古賀姓(星野胤實より二十代目で古賀家初代、九郎兵衛則昌)を名乗っているが、二代目、古賀六郎左衛門以来、この「六郎左衛門」をしばしば襲名するようになる。ちなみに、勘右衛門の父(六代目)と息子は六郎左衛門を襲名している。また、勘右衛門の祖父は古賀善治だが、曾祖父は六郎左衛門であり、従ってこの間、一代おきに「六郎左衛門」を襲名していることになる。ちなみにわたしは古賀家十四代目(星野胤實より三十三代目)にあたる。
この西溝尻村六郎左衛門の名が、享保元年(一七一六)に成立した「申定證文之事」に見える。巨瀬川からの取水量を取り決めた各村庄屋による証文であるが、その署名部分に「西溝尻村庄屋 六郎左衛門殿」と記されている。すなわち、享保元年当時の「六郎左衛門」であることから、勘右衛門の父に当たる。この文書によっても古賀家が庄屋であったことを確認できるのである。なお、『浮羽町史』(上巻三四九〜三五〇頁)では同文書中の「六郎左衛門」を「六郎右衛門」と活字化しているが、誤読あるいは誤植であろう注5。
また、『浮羽町史』上巻五七四頁に、「両溝尻村の宝暦騒動関係者のその後」として、次のように紹介されている。
「西溝尻村
(1)田村一太郎宅の南に引き込んだ屋敷に古賀半助という人が居た。其の家が庄屋のあとである。宝暦四年の百姓騒動にかかわって絶えた。その後は長百姓の佐藤某が庄屋になった。今其の子孫は此の村に居ない。」
ここに紹介されている「古賀半助」はわたしの曾祖父、古賀半助昌氏である。このように古賀家が庄屋であったことは疑いない。また、宝暦一揆により庄屋職を解かれたことも、「上三郡荘屋横目長百姓名前人高田畑馬数」に見える次の記事から明らかである。
「西溝尻村
右今高ノ内五九六石 六里 天保十二年丑三月二十三日 庄屋 半九郎 (以下略)」
『浮羽町史』上巻四一二頁
このように、天保十二年(一八四一)時点の庄屋は半九郎と記されており、古賀家系図には見えない名前である。
四
勘右衛門の父、六郎左衛門(六代目)は元文五年(一七四〇)に没しているため、宝暦一揆が起こった宝暦四年(一七五四)時点では、勘右衛門が庄屋職を継いだと考えるべきだが、勘右衛門の祖父、善治も健在であったから善治が庄屋職を再任した可能性もないではないが、常識的に考えれば一揆当時四十歳の勘右衛門が庄屋職を継ぐのが穏当のように思われる。そうすると、断罪書に「西溝尻村百姓勘右衛門」と記された理由が不明である。しかしながら、勘右衛門の古賀家が庄屋の家柄であったことは注目すべきである。すなわち、生葉郡では庄屋である古賀家が一揆の指導者として関わっていたことになるからである。
これは先に紹介した、『久留米市史』などに記された宝暦一揆の性格と大きく異なること自明であろう。少なくとも生葉郡に関しては、あるいは上三郡においては宝暦一揆の時にも、庄屋たちは百姓側に付いたというに留まらず、積極的な指導層の一翼を形成していたと考えざるを得ないのである。このことは断罪書に見える次の記事からもうかがえる。
「梟首 御原郡干潟村庄屋 三郎右衛門」
「打首 竹野郡門上村庄屋 忠助」
「打首 竹野郡野中村庄屋 八郎右衛門」
「五郡追放 生葉郡東溝尻村庄屋
与三兵衛
原村庄屋 小次郎」
「三郡追放 立野村庄屋 八二郎」
「過料 高木村庄屋 源右衛門」
このように、史料上明らかになっているだけでも、各地の庄屋が一揆に関連して処罰されている事実がある。この事はもっと重視されるべきではあるまいか。また、勘右衛門のように断罪書に「百姓」と記されていても、庄屋職あるいはその関係者であるケースもあるのではないか。このことは別の視点からも裏づけられる。それは一揆による打ち壊しの対象と件数である。
『久留米市史』第二巻に掲載されている「打ち崩された家数」(三七二頁)によれば、総数六十件中(全般的闘争段階)、上三郡は僅かに三件のみであり、竹野郡で大庄屋一件が打ち壊されただけで、他は庄屋も長百姓も打ち壊しの対象となっていない。その一方で、弾圧の規模で比較すると、処罰者一七八名中、生葉郡三五名と竹野郡五二名が群を抜いており、打ち壊しの規模とは反比例の関係にある。この事実に対して、猿木繁利氏は「久留米藩領域における百姓一揆の研究」(一九七六年刊)において、次のような疑問を呈しておられる。
「ただ上三郡が騒動の大きい割には被害家屋の少ないことはいささか奇異の感がする。(中略)しかも不思議なことに襲撃個所は上三郡(生葉、竹野、山本)と御井、御井、御原郡は上妻、下妻、三瀦郡に比し非常に少いにもかかわらず、処刑者の大半は生葉、竹野、山本、御井、御原の人々である。」
このように、打ち壊しの件数と処罰者数のアンバランスは、宝暦一揆の性格を理解する上で、庄屋などの村役人と下層農民の対立激化という図式だけでは説明困難である。少なくとも、上三郡においては庄屋などの立場を「村役人」という封建体制下における末端搾取機構という一面だけで捉えるのは誤りであると言わざるを得ないのである。
西溝尻村を例にとれば、その人口は三九〇人(天保十二年)ほどであり、村内には庄屋の古賀家と親戚関係、あるいは遠縁の者が決して少なくないのである。いわば「村落共同体」という体質を色濃く帯びている。そうした共同体に丹波篠山から移封された有馬の殿様は「よそ者」であり、そのよそ者の権力者から人別銀などという過酷な税をかけられれば、共同体挙げての反発が起こるのは当然ではあるまいか。もちろん、大庄屋や庄屋は立場上、おおっぴらに支持することはしないであろうが、少なくとも同情はするであろうし、藩への怒りもわくであろう。あるいは、勘右衛門のように義憤にかられ、自ら一揆頭取となる「庄屋」も出てきて当然である。もし、なければ庄屋たちは身内ともいえる百姓からの信頼を根本的に失ったであろう注6。
百姓一揆研究において、「階級」を超えたこうした人間としての側面にもっと光を当てなければならない。わたしはそう思うのである。こうした視点で宝暦一揆を見すえた時、生葉郡の庄屋たちの多くは、基本的には百姓側についた、そう考えなければならないのではあるまいか。藩内の打ち壊し件数、そして西溝尻村庄屋、古賀勘右衛門の墓は、そのことを雄弁に証言しているように思われるのである。わたしの宝暦一揆研究はこうして新たな視界を得て、今まさに始まったばかりである。
(注)
1 勘右衛門の墓は、その形式が寛政年間の墓に酷似しており、従って処刑の約四〇年後に造られた可能性が大きいことを、拙稿「久留米藩宝暦一揆生葉郡頭取 勘右衛門末代記」『耳納』二二四号(一九九八)所収にて発表した。
2 第一次処刑では、勘右衛門を初め十八名が死刑、他一四九名の犠牲者を出している。第二次処刑は同年十月二七日で、更に二十五名が処刑された(『塩足文書』による)。なお、『久留米市史』(昭和五七年刊)や『浮羽町史』(昭和六三年刊)では、二十五名中六名を盗賊・町方として除き、第二次処刑の人数を十九名としている。
3 『塩足文書』(今村武志編)による。同文書コピーを向江強氏(寝屋川市)より御恵与いただいた。
4 星野氏系図や古賀家墓石等に基づき、わたしの父、正敏が作成したもの。
5 『浮羽町史』のこの誤読(誤植)に気付いたのは、父、正敏である。母、和子(書道家)にも見てもらったが、原文には「六郎左衛門」とあることを確認した。
6 古賀家は一揆の責任を取らされ没落したと思われるが、一揆後の宝暦八年(一七五八)に没した勘右衛門の祖父、古賀善治の墓は古賀家墓地の中でも立派なものである。更に、善治の妻(安永五年没、八十一歳。一七七六)の墓も隣にあり、これもまた立派な墓である。これらの事実から、古賀家は庄屋解任後も地元での影響力は衰えていなかったと思われる。何よりも、罪人である勘右衛門の墓が没後四十年ほどに造られたことは、当時の村の人々の気持ちがうかがわれ、感慨深い。
(補記1)
宝暦一揆における溝尻村に関する記事に、各書において異なる記述が見られる。例えば『浮羽町史』上巻五六三頁に、「この溝尻村は享保一揆の時は三月二十七日段階でこの地方の農民の一揆を差し止めたとして溝尻村の庄屋は抗議をうけ、三〇〇〇人が騒いだことのあるところであった。」とあるが、五五八頁の年表では同事件は宝暦四年三月二三日の項に記されている。『久留米市史』第二巻三六九頁の宝暦一揆年表では、宝暦四年三月二三日の項にある。また、向江強氏の論稿「宝暦四年久留米藩の農民闘争」でも、宝暦一揆での事件として紹介されている。『浮羽町史』本文にある「享保一揆の時」とする見解と、いずれが正しいのであろうか。
これが宝暦一揆時の事件とすれば、溝尻村庄屋は東も西も一揆に積極的に加担しており、一揆を差し止めたとする記事は理解しがたい。同事件記事の出典も含めて、識者の御教示を賜りたい。
(補記2)
宝暦一揆の前後は古賀家にとって暗い時代だったようである。勘右衛門の父、六郎左衛門が元文五年(一七四〇)に没しており、この時勘右衛門は二六歳の青年である。そして、宝暦二年には勘右衛門の愛娘が六歳で夭折している。勘右衛門の墓の横に一回り小さな墓があり、正面に戒名と宝暦二年七月十二日、側面に勘右衛門女子年六才とある。従って、勘右衛門は可愛い盛りの娘の死という傷心が癒える間もなく、宝暦一揆の指導者として立ち上がり、刑場の露と消えたのである。そして、勘右衛門刑死の四年後の宝暦八年(一七五八)四月十六日に勘右衛門の祖父、善治が没している。
こうして宝暦年間に古賀家は少なくとも三人が没している。中でも、善治は享保・宝暦という二つの大きな一揆に遭遇し、そして息子六郎左衛門、孫の勘右衛門、曾孫の死を看取らねばならなかった。善治の運命と辛い晩年に同情を禁じ得ない。なお、勘右衛門の息子、八代目六郎左衛門は文政元年(一八一八)十月十六日に没しているが、恐らく七十歳を超えていると思われ、当時としては天寿を全うしたようである。
〔追記〕
本稿執筆直後、石井康夫先生(浮羽郡吉井町郷土史家)より、宝暦一揆の犠牲者の亀山村百姓伴蔵(田中伴蔵)を「庄屋」と記す文書があることを教えていただいた。本稿論旨を支持する情報のようである。
※初出『耳納(みのう)』No.二三八(二〇〇一年八月、福岡県浮羽・三井教育耳納会発行)
これは会報の公開です。
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