批判のルール -- 飯田・今井氏に答える 古田武彦(会報64号)
原初的宗教の資料批判 ーートマス福音書と大乗仏教 古田武彦 へ
「磐井の乱」はなかった 古田武彦(共に『古代に真実を求めて』第8集)へ
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「トマスによる福音書」と「大乗仏典」
古田先生の批判に答えて
千歳市 今井俊圀
今回古田先生から、「古田史学の会・創立十周年記念講演会」に参加しての私の感想文に対してご批判をいただいて、正直なところを言わせてもらえれば、まずはビックリしたの一言につきます。
私は先生のご研究を批判したつもりがまったく無く、ただ講演会で拝聴した「トマスによる福音書」における「変成男子説」の大乗仏典への伝播説に対する、その時点までに私が知り得た数少ない知識を基にした私の感想を述べたものだったからです。その点において、“微妙な文明間の「伝播」の問題では、もう少しきめ細かく思考の吟味を加えてほしい”とおっしゃられても、資料を調べまくり、思考に思考を重ねての論文では無いので、無いものねだりをされましても、私としてはただ困惑するばかりなのです。
しかしながら、たとえ感想文であっても、相手の立論の全体、そしてその「論理の核心」をしっかり受け止め、自分の立場を鮮明にして、一語一句もおろそかにしてはいけないとの、先生の私に対する叱咤激励と受け止めて、今後の勉学に生かしたいと思います。
その上で、改めて、何故あの講演会の時にそう感じたのか、またその後少々勉強したこと(私は地方に在住しており、仕事もありますので限られた時間と資料でしか勉強できませんでしたが)を含めて述べたいと思います。
まず私の立場を鮮明にしたいと思います。先生は「変成男子説」の伝播を「トマスによる福音書」から「大乗仏典」の方向でお考えのようですが(さらにその淵源を「トロヤに敗れた「アマツォーネ」にお求めのようですが)、私はその逆もあり得るのではないか、あるいはその両方ともに可能性があるのではないかという立場です。(私は仏教徒ですので心情的に「大乗仏典」から「トマスによる福音書」への伝播説に傾いてはいますが)
さて、この「トマスによる福音書」なるものは、一九四五年一二月にエジプトのナグ・ハマディという小さな村から発見された羊の皮でカバーされた十三冊のコプト語パピルス古写本の中のコデックスIIと整理番号を付けられたもので(以下「ナグ・ハマディ文書」とします)、各写本を補強するためにその裏側に張られた厚紙表装に用いられた手紙や領収書の日付から、この写本の成立年代の下限が三世紀であるとされています。この「ナグ・ハマディ文書」自体の中味(原本)の成立は、荒井献氏等によると、二世紀半ば、あるいは二世紀初頭とされていますが、先生は一世紀前半とされています。何れにせよ、この「ナグ・ハマディ文書」は後代の写本であるということです。その「原本」が発見されていない現時点において、「ナグ・ハマディ文書」が「原本」と百パーセント・イコールであるとは断言できないのではないでしょうか。つまり、「大乗仏典」やほかの思想等からの伝播あるいは影響の可能性も有るということです。
先生が指摘されている、「ナグ・ハマディ文書」の「七八」や「九八」が示す「Q資料(マタイ・ルカ福音書)」よりの先行性や、荒井氏が指摘される「一一四」(「変成男子説」の出てくる)の「どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば。天国に入るであろうから」の「天国」というトマスになじまない表現(トマスはこれを「父の国」・「御国」に言い換えていた)がユダヤ人キリスト教の伝承に帰するという見解(注1)から導き出される結論は、この「ナグ・ハマディ文書」には、「トマスによる福音書」の「原本」と後代に加筆されたもの・影響を受けたものが混在しているということです。先生はグノーシス派のイデオロギーから「トマスによる福音書」を理解しようとする方法は、妥当性を欠いている。とされていますが(注2)、それはあくまで「トマスによる福音書」の「原本」とグノーシス派との関係の上において成立する論であって、この「ナグ・ハマディ文書」においては必ずしも成立するとは言えないのではないでしょうか。
先生は、大無量寿経系列の「最初」とみなされる「平等覚経」には「変成男子」の思想がなく、次の「大阿弥陀経」に至って「変成男子」思想と「光明」思想が出現するとして、「大無量寿経」の場合も「トマスによる福音書」の影響とみなす可能性が高いとされていますが、先生もご指摘の通り「光明」思想には「ゾロアスター教」(BC七世紀ころイランで成立)という先行思想があります。イランからパレスチナへ、さらにそこからトマスによってインドへと伝わったと考えるよりも、アレキサンダー大王の遠征によりイランから北インドへ伝わり、その地で成立したとされる「大阿弥陀経」に影響を与えたと考える方が地理的に見ても合理的ではないでしょうか。つまり、「光明」思想と「変成男子」思想は別々のルートから伝わり、「大阿弥陀経」において一つに結実した可能性もあるのではないでしょうか。
では「変成男子説」はどこからの影響なのでしょうか?「変成男子説」は「浄土経」だけではなく、「大宝積経」(注3)、「大方等大集経」(注4)、「般若経」(注5)等があり、その「般若経」のなかでも最も成立が早いとされる「道行般若経」(注6)はBC一世紀には南インドで成立していたとされています(注7)。つまり「般若経」等の他の「大乗仏典」からの影響の可能性が高いということです。私は「大乗仏典」からの「ナグ・ハマデイ文書」への影響を考えていましたが、「トマスによる福音書」の「原本」への直接の影響の可能性も出てきました。つまり、インドへ渡ったトマスがその地で既に成立していた「変成男子説」に出会い影響を受けた可能性もあるということです。
先生は大乗仏教成立史の全体像を見るときに、従来の原始仏教からの一変が生じた最大の原因をアレキサンダーの一大遠征と征服・統合・支配とされています。政治・経済・軍事等に限らず宗教思想の世界にもその影響があったことは否定できない事実でしょう。仏像の成立は彼の遠征がもたらした最大のものと言えるでしょう。しかしながら、この「変成男子説」を見る限り、その影響であるとは必ずしも言い切れないと思われます。残念ながら、浅学なる私にはギリシャのそして西アジアの宗教・思想哲学の中に「変成男子説」を見出すことが出来ません。(単に私が知らないだけなのかもしれませんが)。先生は、「男子のシンボル」をもつアテナイの女神像について言及されていますが、あれは「両性具有」を示すもので「変成男子説」とは別の思想ではないでしょうか。ギリシャ神話には男女両性をそなえた神ヘルマフロディトスがいて、ヘルメスとアフロディテの息子であり、泉のニンフ、サルマキスに恋され、彼女と一体となったため、男女両性をそなえることになったと説かれています。そして、その立像は、BC四世紀中ころから作られるようになったとされています。
では「大乗仏教」はどうして成立したのでしょうか? そして「変成男子説」は?
釈迦滅後、部派仏教と呼ばれる時代、上座部と呼ばれた人びとは釈迦の教法に対する分析的な理論研究に終始し、修行僧として僧院の中で生活し、自ら阿羅漢(小乗教の声聞の最高位)となることのみを目的として、人びとの救済という仏教本来の立場を忘れ、釈迦を人間離れした存在として神格化し、人間はとても仏にはなれない、阿羅漢の境地でさえも男性の出家でなければ得られないとし、当時のインド社会の差別主義、極端な女性蔑視に影響されて、女性と在家に対するあからさまな差別を行うようになったとされています(注8)。そしてそういう中から、女性は仏にはなれないとする「五障説」(注9)も生まれたとされています。
しかしながら、釈迦自身は「生まれによって賎しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」(注10)、や「男女の区別があるが、しかし人の本性に差別があるのではない。男が道を修めて悟りを得るように、女もまた道を修めれば、然るべき心の道筋を経て、悟りに至るであろう」(注11)との説法にもある通り、身分、性別、出身、僧俗等々のあらゆる差別からの開放を目指していたのであり、すべての人びとの救済を理想としていたのです。事実、釈迦は育ての親である摩訶波闍波提比丘尼(マハー・ハジャーパティ)や出家以前の妻であった耶輸陀羅比丘尼(ヤショーダラ)の出家を認めており、その後も次々と尼僧が誕生したとされており、「テーリーガーター」に出てくる尼僧の数は九十二名とされています(注12)。当時のバラモン教では出家は男性に限られており、画期的な出来事であったとされています。中村元氏は「尼僧の教団の出現ということは、世界の思想史においても驚くべき事実である。当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて尼僧の教団なるものは存在しなかった。仏教が初めてつくったのである。」(注13)としています。
釈迦仏教の本質から逸脱してしまった上座部の人びとに対して、「釈迦本来の精神に帰れ」とした、大衆部と呼ばれた人びとの興したルネサンス運動が「大乗仏教」と呼ばれているのです。そして、そのような中から、直接「女人成仏」を説いても女性蔑視・女性差別が蔓延している中ではなかなか受け入れられないので、ワンクッションおいた形の「変成男子説」が生まれたとする考え方もあり、私はこの「内因」説(注14)をとります。
そしてこの大乗仏教運動の中から、「法華経」も誕生します。その「法華経」には、「法華三昧経」・「薩曇分陀利経」・「正法華経」・「方等法華経」・「妙法蓮華経」・「添品法華経」の六つの訳本があり(注15)、その内現存するものは「正法華経」・「妙法蓮華経」・「添品法華経」の三つで、最も古い形を残すものとされる竺法護訳の「正法華経」の七宝塔品にも「変成男子説」が説かれいます。(注16)さらに、鳩摩羅什訳の「妙法連華経」には「変成男子説」の説かれている「提婆達多品」が欠けているとされていますが、羅什訳にも「提婆達多品」が存在したとする人がいます。中国仏教界の最高峰とされる天台大師智[豈頁](ちぎ 五三八年〜五九七年)は「法華文句」巻八下「釈提婆達多品」に「羅什が後秦の弘始八年(四〇六年)の夏に訳した法華経は二十八品あったが、長安の宮人が提婆達多品を請い内に留め置いたため、世に伝わったのは二十七品だけであったが、その後、梁の時代(五〇二年〜五五七年)に満法師が、陳の時代に南岳大師(五一五年〜五七七年)が提婆達多品を加えて元の二十八品にして流布させた」と記しています。 (注17)
そうすると、「変成男子説」は、「般若経」→「大阿弥陀経」等の他の大乗仏典→「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という流れで伝わっていったことになり、「般若経」がBC一世紀に、トマスの来印よりも前に成立していたという前提に立てば、「法華経」の「提婆達多品」に説かれた「八歳の竜女の即身成仏」説話は「トマスによる福音書」とは無関係ということになります。(あの感想文の時点では、単に大乗仏典の方が「ナグ・ハマディ文書」よりも成立が早いと考えておりましたので、あのような稚拙な表現になりましたが)
その「提婆達多品」に「変成男子」が説かれているのですが、先生が六月六日の講演会におけるレジュメの中で引用されているその「変成男子」の部分の前の方で竜女が既に成仏しているとの記述があります。それは「文殊師利の言わく、有り。娑竭羅竜王の女は、年始めて八歳、智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の説きたまう所の甚深の秘蔵を、悉く能く受持し、深く禅定に入って、諸法を了達し、刹那の頃に於いて、菩提心を発して、不退転を得、辯才無礙にして、衆生を慈念すること、猶お赤子の如し。功徳は具足して、心に念い口に演ぶることは、微妙広大にして、慈悲仁譲あり。志意は和雅にして、能く菩提に至れりと」という文です。大海の竜宮で弘教して帰ってきた文殊師利菩薩が、智積菩薩の「あなたは竜宮でどのくらいの衆生を化導してきたのか」との問いに「竜宮において、もっぱら法華経を説いて無量の衆生を化導してきた」といい上記の文を述べるのです。それに対して、智積菩薩が「仏の悟りは菩薩が無量劫の間、難行苦行を重ねて初めて得られるもので(いわゆる歴劫修行)竜女が短い時間に成仏したとは信じられない」といいます。すると、その場に竜女が現れ、釈迦に「私は大乗の教えを開いて、苦悩の衆生を救います」と誓います。すると、同席していた舎利弗が「仏になるのには歴劫修行が必要で、さらに女人には五障があり女人は成仏出来ないはずなのに。どうして竜女が成仏出来たのか」と問います。すると先生が引用された「変成男子」のシーン、すなわち竜女は、その場で女性から男性に変身して、三十二相・八十種好という成仏の姿を見せ付け、智積菩薩や舎利弗たちを納得させるというストーリーになるのです。(注18)
これは、「法華経」以外の大乗仏典に説かれた「変成男子」とは少し違いますが、それにしても、釈迦の高弟といわれた舎利弗たちでさえも「変成男子」という姿を見せられなければ、「女人成仏」を信ずることが出来なかったという、女性蔑視・女性差別の根深さを示すものだと思います。
以上私の考えを述べましたが、「トマスによる福音書」の「原本」が発見されておらず、「般若経」の成立年代がはっきりと確定していない現時点においては、「変成男子」説の伝播の流れが、何れの場合も可能性があると思われます。
二〇〇四年十月二十三日記
(注1)『トマスによる福音書』P二八六〜二八七、荒井献著、講談社学術文庫
(注2)Tokyo古田会NewsNo.一〇〇、P二三〜二四
(注3)唐の菩提流志訳。方等経典中の四十九種の経典を集め百二十巻からなる。(大正新脩大蔵経巻十一P一〜六八五、大正新脩大蔵経刊行会)
北斉の那連提耶舎訳の第七十二巻には、「彼女皆悉得男身」とあります。(大正新脩大蔵経巻十一P四一四)
大唐の菩提流志訳の第百十一巻には、「成就八法當轉女身」、「是浄信等五百童女人中壽盡。當捨女身生兜率陀天。」とあります。(大正新脩大蔵経巻十一P六二六)
(注4)方等部の経典。北涼(四二一〜四三九)の曇無讖訳、三十巻。他五種類の漢訳がある。(大正新脩大蔵経巻十三P一〜一七三、二一三〜二二五)
第十九巻には、「所將八萬四千亦轉女身得男子身」とあります。(大正新脩大蔵経巻十三P一三三)
第三十一巻にも、「尋轉女身得男子形」とあります。(大正新脩大蔵経巻十三P二一七)
隋の那連提耶舎訳の第三十五巻にも、「尋轉女身得男子身」とあります。(大正新脩大蔵経巻十三P二四一)
(注5)玄奘三蔵が六○二年から六六四年にかけて訳した「大般若波羅蜜多経」六百巻をはじめ、漢訳されたものでも四十種類以上ある。(大正新脩大蔵経巻五〜巻八)。その中でも、一七九年に支迦讖が梵本である「八千頌般若経」を訳した「道行般若経」十巻が原始形態をとどめているとされる。
(注6)大正新脩大蔵経巻八P四二五〜四七八 第七巻には、「是優婆夷後當棄女人身。更受男子形却後當世阿閣佛刹。」とあります。(大正新脩大蔵経巻八P四五八) また、「八千頌般若経」の鳩摩羅什訳である「小品般若経」(大正新脩大蔵経 巻八 P五三六?五八六)の第七巻では、「道行般若経」の同じ箇所が「今轉女身得爲男子生阿?佛土」と訳されています。(大正新脩大蔵経巻八P五六八)
(注7)『仏教史入門』P一二一、塚本啓祥、第三文明社
(注8)BC十六世紀ころから順次成立したとされる讃歌『リグ・ベェーダ』には、「まさにインドラ神でさえこう言った ーー女人の心は正し難いものである。しかも〔その〕知性は実に軽薄である」とあり、また、BC三世紀ころに成立したとされている国民的叙事詩の『マハーバーラタ』には、「女とサイコロと睡眠は、破滅に関わりがある」、「女は本質的に邪悪で、精神的に汚れ、女がいるだけで周りが汚れ、解脱の邪魔になる」、「女は自制することができず、祭祀のうえで不浄である」、「内心は意地悪で、思慮分別に乏しい」、「女は虫も殺さないような顔をしているが、その心では情欲の炎が燃え盛っている」。(『仏教の中の男女観』P一〇二〜一〇三 植木雅俊 岩波書店)。これらとよく似た文が大乗仏典にもあります。「華厳経」には「女人は地獄の使いであり、よく仏種子を断ずる。外面は菩薩に似て内心は夜叉のごときである」とあります。この文は現存の「華厳経」にはありませんが、康頼宝物集巻下には「女人は地獄の使いなり、能く仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し。是れは華厳経の文なり」とあります。続群書類従三十二輯下P二九二
(注9)「法華経」提婆達多品第十二に舎利弗の言葉として「また女人の身にはなお五つの障あり。一には梵天王となるを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり」(大正新脩大蔵経 巻九 P三五)とあり、女性は仏には成れないとする説で、上座部系化地部の『五分律』には「女人は五礙有りて、帝釈天、魔天王、梵天王、転輪聖王、三界の法王と作ることを得ず」(大正新脩大蔵経 巻二十二 P一八六)とあり、上座部系説一切有部の『中阿含経』には「女人は五事を行ずることを得ず。若し女人の、如来として著する所無き等正覚、及び転輪王、帝釈天、魔王、大梵天と作らば、終に是処(妥当なこと)無し」(大正新脩大蔵経 巻一 P六〇七)とあり、『瞿曇弥記果経』には、「〔女人は〕終に五事を得ず。如来にして著する所無き等正覚、及び転輪王と成ることを得ず。〔帝〕釈と為ることを得ず。魔〔王〕と為ることを得ず。梵〔天〕と為ることを得ず」(大正新脩大蔵経巻一P八五八)とあり、これらにその前説を見出すことが出来、小乗教の時代に成立していたとされています。
(注10)『ブッダのことば(スッタニパータ)』P一一七〜一一八、中村元訳、岩波文庫
(注11)パーリー語の「律大品」『仏教と性差別』P一九五、田上太秀著、東京書籍
(注12)『テーリーガーター』は、尼僧たちの出身、出家の動機、修行、心境などを述べたものを編纂したもの。『仏弟子の告白 テーラーガーター』のあとがきP三〇三、中村元訳、岩波文庫
(注13)『尼僧の告白 テーリーガーター』のあとがきP一二〇、中村元、岩波文庫
(注14)『法華経の智慧』P一二五〜一三〇、池田大作著、聖教新聞社
さらに、植木雅俊氏は「大乗仏教運動を主体的に担った人たちとして、在家の存在を無視することはできない。それは、出家教団という閉じた社会とは違い、真っ向からヒンドゥー教的な考え方と日常的に接触している人たちであった。女性の成仏をダイレクトに訴えることは、相当の抵抗があったことであろう。それだからこそ、ある程度の妥協的表現もなされたと考えることができる。」としています。(『仏教のなかの男女観』P二一九、岩波書店)
(注15)『法華三昧経』二五六年魏の正無畏訳六巻
『薩曇分陀利経』二六五年西晋の竺法護訳六巻
『正法華経』二八六年 〃 十巻
『方等法華経』三三五年東晋の支道根訳五巻
『妙法蓮華経』四○六年後晋の鳩摩羅什訳八巻
『添品法華経』六○一年隋の闍那崛多・笈多共訳七巻
(注16)「正法華経七寶塔品第十一」に「女曰。今我取無上正眞道成最正覺。速疾於斯。於斯變成男子菩薩。尋即成佛。相三十二衆好具足。國土名號衆會皆見」とあります。大正新脩大蔵経巻九P一〇六
(注17)大正新脩大蔵経巻三四P一一四〜一一五
(注18)「妙法蓮華経」提婆達多品第十二(大正新脩大蔵経巻九P三四〜三五)
〔付記〕
この文書は、日付を見てもお分かりの通り、二〇〇四年一〇月一二日付けの「古田史学会報」No.六四に掲載されました古田先生による私へのご批判を受けまして、直ぐに書き「古田史学の会」事務局へ送ったものです。しかしながら、先生からの、会報への掲載を少し待って欲しいとのご要請により、現在まで発表を見合わせていたものです。
「会報」No.六四を拝見してから、次号の「会報」に掲載していただこうと急ぎ書きましたものなので乱雑なものになっておりますが、あえてそのまま発表いたします。(但し、注については加筆してあります。)。私が何故に「会報」No.六三に掲載されましたあの様な感想文を書いたかは、ご理解いただけると思います。
尚、その後私が知り得ました、新たな情報を付け加えたいと思います。
大阪教育大学教授の山田勝久氏によりますと、中国の洛陽から東へ約八〇キロにある、大力山の断崖に穿たれた鞏県(きょうけん)石窟から二〇〇二年一〇月に発見された、断崖の中腹の壁面に刻まれていた「法華経」の拓本(山田氏が、鞏県石窟保護所の楊明権所長から譲り受けたもの)には、「大魏永平二年春二月造」とあり、西暦五〇九年、鳩摩羅什が死去してから一〇〇年を記念して刻まれたものであるとされています。そして、拓本には羅什訳の法華経普門品の冒頭八八字が刻まれており、氏は、“今日、普門品は二八品中、第二五番目に位置している。しかし、この拓本には、「普門品第二十四」と刻まれていた。このずれは、梵本では見宝塔品に含まれていた提婆達多品を、斉の時代、西暦四九〇年に法献が独立させて一品増やしたことによる。したがって「第二十四」と記された拓本は、羅什訳の原本に近いものであることが分かる。”とされています。(注イ)
これは、私が本文中に書きました、「般若経」→「大阿弥陀経」等の他の大乗仏典→「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という「変成男子説」の伝播の流れの内の、「正法華経」→「妙法蓮華経」→「添品法華経」という流れについての私の考え方が、提婆達多品の独立という問題は別にしても、間違っていなかったことを示しています。因みに、本文の注にも書きましたが、「正法華経」では「提婆達多品」は独立しておらず、「七寶塔品第十一」に提婆達多品に相当する説話が含まれており、「変成男子説」が記されています。また、「添品法華経」においても、山田氏の四九〇年の法献による一品増加説にもかかわらず、「正法華経」と同じように「見寶塔品第十一」に「提婆達多品」が含まれており、「変成男子説」が記されています。(注ロ)
本文中に「変成男子説」が説かれている「大乗仏典」を三つ上げましたが、その他にも「大樹緊那羅王所問経」(注ハ)、「佛説七女経」(注ニ)、「佛説龍施女経」(注ホ)、「佛説龍施菩薩本起経」(注ヘ)、「佛説無垢賢女経」(注ト)、「佛説轉女身経」(注チ)、「順權方便経巻下」(注リ)、「樂瓔珞莊嚴方便品経」(注ヌ)、「佛説心明経」(注ル)、「佛説賢首経」(注ヲ)、「佛説長者法志妻経」(注ワ)、「佛説堅固女経」(注カ)、「華厳経」(注ヨ)等があります。
以上新たに付け加えたものも含めて、私の考えを述べましたが、本文の最後でも述べました通り、「トマスによる福音書」と「大乗仏典」の成立年代の確定がなされていない現時点において、その後先について私が述べる立場にもありませんし、また私にはそのような力もありませんし、またこの文章自体が古田先生への反論文でもありませんので、この文章の発表をもちまして終わらせていただきます。尚、この問題に対して、古田先生を始め、全国の会員の皆様から、ご教示を賜れば幸いに存じます。 二〇〇六年四月二三日記
(注)
イ 二〇〇四年九月九日より毎週一回、計十九回に渡って聖教新聞紙上に掲載された、「鳩摩羅什の跡を訪ねて」と題した山田勝久氏の紀行文。
ロ 「添品法華経見寶塔品第十一」に、「女言。以汝?通力觀我成佛。復速於此。當時衆會。皆見龍女。忽然之間。變成男子具菩薩行。」とあります。 大正新脩大蔵経 第九巻 P一七〇
ハ 姚秦の鳩摩羅什訳。大正新脩大蔵経巻十五P三六七〜三八九巻三に「轉捨女身成男子身」とあります。(大正新脩大蔵経巻十五P三八〇〜三八一)
ニ 呉の支謙訳。大正新脩大蔵経巻十四P九〇七〜九〇九「見七女化成男」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九〇九)
ホ 呉の支謙訳。大正新脩大蔵経巻十四P九〇九〜九一〇「女身則化成男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九一〇)
ヘ 西晋の竺法護訳。大正新脩大蔵経巻十四P九一〇〜九一一「變爲男子形」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九一一)
ト 西晋の竺法護訳。大正新脩大蔵経巻十四P九一三〜九一四「便立佛前化成男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九一四)
チ 宋の曇摩蜜多訳。大正新脩大蔵経巻十四P九一五〜九二一「速離女身疾成男子」(大正新脩大蔵経巻十四P九一九)、「無垢光女女形即滅。變化成就相好莊嚴男子之身」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九二一)
リ 西晋の竺法護訳。大正新脩大蔵経巻十四P九二一〜九三〇「五百女人變爲男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九三〇)
ヌ 姚秦の曇摩那舍訳。大正新脩大蔵経巻十四P九三〇〜九三九「及轉女身成男子身」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九三八)
ル 西晋の竺法護訳。大正新脩大蔵経巻十四P九四二〜九四三「當轉女像得爲男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九四二)
ヲ 西秦の聖堅訳。大正新脩大蔵経巻十四P九四三「可得離母人身。有一事行疾得男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九四三)
ワ 訳者不明。大正新脩大蔵経巻十四P九四四〜九四五「女心即解變爲男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九四五)
カ 隋の那連提那舍訳。大正新脩大蔵経巻十四P九四六〜九四八「捨女人身得成男子」とあります。(大正新脩大蔵経巻十四P九四八)
ヨ 「大方広仏華厳経」六十巻三十四品四二一年、東晋の佛駄跋陀羅訳。(「六十華厳」大正新脩大蔵経巻九P三九五〜七八八)と、「大方広仏華厳経」八十巻三十九品、六九九年、周(則天武后の周)の実叉難陀訳。(「八十華厳」大正新脩大蔵経巻十P一〜四四四)の二本の漢訳が現存しています。「六十華厳」仏小相光明功徳品第三十、大正新脩大蔵経巻九P六〇六に「六欲天中一切天女。皆捨女身悉爲男子」とあります。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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