2008年 6月 6日

古田史学会報

86号

1 洛中洛外日記
第174話 2008/05/03
古写本「九州年号」の証言
 古賀達也

2 伊倉いくら 5
天使宮は誰を祀るか
 古川清久

3自我の内面世界か
 俗流政治の世界か
『心』理解を巡って(三)
 山浦純

伊勢王と
筑紫君薩夜麻の接点
 正木 裕

5「白鳳以来、朱雀以前」考
『続日本紀』神亀元年、
聖武詔報の新理解
 古賀達也

「トロイの木馬」メンテナンス
 冨川ケイ子

私の古代史仮説
 水野孝夫

 

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白雉年間の難波副都建設と評制の創設について 正木裕 (会報82号)

「藤原宮」と大化の改新について I 移された藤原宮記事 正木裕(会報87号)

常色の宗教改革 正木裕(会報85号)

薩夜麻の「冤罪」 I II III


伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点

川西市 正木 裕

I 伊勢王記事の分析について

 書紀には「伊勢王」が白雉元年(六五〇)から持統二年(六八八)にかけて別表の通り都合十回登場する。本稿では書紀の三四年遡上現象や万葉歌から、「伊勢王」が白雉期に活躍した九州王朝の天子である事を示す。以下書紀記事を順次分析する。

 

II 「天下巡行」記事(1)(2)について (→は三四年遡上)

(1) ■天武一二年(六八三)→大化五年(六四九)
十二月甲寅朔丙寅(一三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分(さか)ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。
(2) ■天武一三年(六八四)→白雉元年(六五〇)
冬十月己卯朔(中略)辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。
 この天武末期の伊勢王の諸国巡行と諸国境界確定記事は三四年遡上した孝徳期(難波宮時代)の「評制施行」を記すものだったと考えられる。詳細は「古賀事務局長の洛中洛外日記第一四〇話『天下立評』二〇〇七/八/二六」他、私の「白雉年間の難波遷都と評制の創設について」(『古田史学会報』八二号・二〇〇七/一〇)「常色の宗教改革(同八五号・二〇〇八/四)で既に触れたので略す。

 

III 「東国に向る」記事(3)について

(3) ■天武一四年(六八五年)→白雉二年(六五一)
冬十月・己丑(一七日)、伊勢王等、亦東国に向る。因りて衣袴を賜ふ。
 この記事は次のことから伊勢王が六五一年九州王朝の難波遷都に伴い、筑紫から難波に遷居・移動した記事であると考えられる。

( 1)白雉改元記事の分析

 書紀では、伊勢王は白雉改元行事で輿を担った人物として描かれている。
(5) ■白雉元年(六五〇)二月・甲申(一五日)、朝庭の隊仗、元会儀の如し。左右大臣・百官人等、四列を紫門の外に為す。粟田臣飯蟲等四人を以て、雉の輿を執らしめて、在前ちて去く。左右大臣、乃ち百官及び百済君豊璋・其弟塞城・忠勝・高麗の侍医毛治・新羅侍学士等を率て、中庭に至る。三国公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穂・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を執りて、殿の前に進む。時に左右大臣、就きて輿の前頭を執き、伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執きて、御座の前に置く。天皇即ち皇太子を召して、共に執りて観す。皇太子、退りて再拝みたてまつる。
 白雉元年は書紀と九州年号(以下《九》とする)で二年ずれる。白雉改元記事は、古賀達也氏が九州王朝の史書の《九》白雉元年(六五二)から切り取られ書紀白雉元年(六五〇)に移されたもので、六五二年の一月から三月頃の事と解明されている。(1) 本来九州年号の改元年の記事だったということは、白雉改元は九州王朝の事業で、そこに登場する伊勢王は九州王朝の人物となる。

(2)付加された「伊勢王」

 また輿は一貫して「四人」で担いでいるところ、伊勢王らだけが五人、特に輿の後頭を三人で担いでいるのは不自然、伊勢王が余分なのだ。このことは書紀編纂時九州王朝の史書が改ざんされ、「伊勢王」が付加された事を疑わせる。書紀では、伊勢王も「天皇」も同様に輿を「執」っている。
a伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、執輿後頭
b天皇即召皇太子、共執而観
 「伊勢王」が余るのは、本来bの「天皇」は「伊勢王」であったが、「共執」とあるのを奇貨として三国公麻呂らのa項に「伊勢王」を加え、彼らと「共に」輿の後頭を「執」いだ事にしたからだ。そうすることにより「天皇」は孝徳の事と見えるようになったのだ。飯田満麿氏が「伊勢王と孝徳は入れ替えられている」とされたのは当に卓見だった。(2)

(3)難波遷都に繋がる「伊勢王東行」記事

 ところで(3)の天武一四年十月己丑(一七日)の伊勢王の「東国向」記事を三四年遡上させれば、六五一年十月己丑(二九日元嘉暦による)となり、六五二年春の「伊勢王改元の輿」記事へと連続する。つまり伊勢王は東国に向かった後、改元の輿を執った事になる。そしてその間に六五一年晦日の「天皇難波長柄豊碕宮遷居」記事がすっぽり入るのだ。
■白雉二年(六五一《九》常色五)冬十二月晦、味経宮に、二千一百余の僧尼を請せて、一切経読ましむ。是夕に、二千七百余の燈を朝の庭内に燃し、安宅・土側等の経を読ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮と曰ふ。
 書紀では「天皇」とされているが、この時点で伊勢王が九州から難波に居を移していたとすれば極めて自然な流れになる。「東国に向る」とあるが、筑紫から見れば難波は東国であること、当然だ。それでは何故伊勢王は難波に移ったのか。

(4)六五一年、新羅との関係が急速に悪化した

 書紀白雉二年(六五一)には、新羅との関係が極めて悪化し、討伐の奏請がなされた記事がある。
■白雉二年(六五一)是歳、新羅の貢調使知萬沙食*等、唐の国の服を着て、筑紫に泊まれり。朝庭、恣に俗移せるを悪みて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰はく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、於後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈てて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、易く得べし。」
     食*は、二水編に食。JIS第4水準ユニコード98E1
 筑紫から追い返したのだから、この舞台は「筑紫」。こうした中、天子が戦場から遠い難波に移ることは極めて合理的な行動だ。しかも「難波津より、筑紫海の裏に至るまで相接ぎて艫舳を浮」みて、とは筑紫ではなく難波を本拠と想定した発言だ。難波に居る天子の前面・新羅との間に船団を連ねて威嚇するのは自然だが、筑紫に居る天子の「背後」に軍船を置くというのは考えづらいからだ。

(5)伊勢王は難波から軍事を指揮した

 これを更に裏付けるのが天武一四年(六八五)十一月周防に軍事物資送る、十二月筑紫の防人海中に漂うなどの記事だ。
■天武一四年(六八五)→白雉二年(六五一)
十一月癸卯朔甲辰(二日)、儲用の鉄一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用の物、施*一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。
丙午(四日)、四方の国に詔して曰はく、大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・抛(いしはじき)の類は、私の家に存くべからず。咸に郡家に収めよ。
十二月壬申朔乙亥(四日)、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩ひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端を以て、筑紫に給り下す。
    施*は、方の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41

 三四年遡上すれば六五一年。事態の緊迫を示すと共に、軍事物資を「周芳の総令の所に送す」「筑紫に送し下す」という記述は、天子は既に難波に移り、難波から送った事を暗示するものだ。(六五一年十一月では甲辰は十五日)
 なお、一端は二丈(二〇尺)で、衣一着分。最低四五八人が「海中に飄蕩」った事となる。他所からの布の送付や、筑紫での備蓄・調達もあったろうから、犠牲(被害者)はより多数のはずだ。当時遣唐使船の様な大型船で定員百人程度。軍船なら数十人。この布の数字は、多数の船が一度に沈んだ事を示している。天災か戦闘かは不明だが、大規模な軍事行動が行われたことは事実だろう。
 こうした新羅との衝突に備え、九州王朝は難波副都・難波宮建設を計画し、天子らが難波に居を移した。そうして「難波宮」は《九》白雉元年(六五二)秋に完成する。これが「伊勢王等、亦東国に向る」記事の前後譚なのだ。(3)
■白雉三年(六五二《九》白雉一)秋九月、宮造ること己に訖りぬ。其の宮殿の状、殫に論ふべからず。

 

IV 「無端事」記事(4)について

 朱鳥元年(六八六)正月の、高市皇子と伊勢王に対する「無端事」の問いは、三四年遡上した、白雉三年(六五二)の「白雉改元についての下問」であることは既に述べたが、その概要を示す。(「日本書紀の編纂と九州年号」二〇〇七・六月総会資料)
(4)■朱鳥元年(六八六)→白雉三年(六五二)
 春正月の壬寅の朔、癸卯(二日)に、大極殿に御して、宴を諸王卿に賜ふ。是の日に、詔して曰はく、「朕、王卿に問ふに、無端事を以てす。仍りて対へて言すに実を得ば、必ず賜ふこと有らむ」とのたまふ。是に、高市皇子、問はれて実を以て対ふ。蓁揩の御衣三具・錦袴二具、并て施*廿匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端を賜ふ。伊勢王、亦実を得。即ち[白/十]の御衣三具・紫の袴二具・施*七匹・絲廿斤・綿四十斤・布四十端賜ふ。
 考課令集解古記に『多聞博覧之士、知無端、故試以无端大事也』とある(岩波注)。意味は世の碩学の知識の限り無さを試すのが「無端事」だという。
     [白/十]は、白の下に十。JIS第3水準ユニコード7681
 実は書紀ではただ一箇所「無端事」にふさわしい記事がある。それは「白雉改元の吉祥の占い、改元の可否の問いと、その奉答」であり、書紀の白雉元年(六五〇)に記述されている。
 それによると百済君・沙門等・道登法師・僧旻法師ら諸氏は「白雉」がいかに吉祥であるかの「故事来歴」を「博学を傾けて」奉答し、その引用は、岩波解説によれば「後漢書、明帝紀」「芸文類聚、吉瑞部、雉条」「同、水部、海水条」「宋書、符瑞志」とまさに知識の総動員で、これこそ「無端事」といえる。
 ところが白雉改元の記事は先述のとおり古賀氏によって《九》白雉元年(六五二)から切り取られたものとされている。そして朱鳥元年(六八六)の伊勢王の「無端事」記事を三四年遡上させれば六五二年となる。ピッタリ附合するのだ。
 つまり書紀に記す「無端事」とは《九》白雉元年(六五二)の「白雉の吉祥と改元」に関する僧旻ら側近の知識人への最初の問いであり、伊勢王無端事記事は、三四年遡上した王卿らへの後日の問いだった。そして《九》白雉元年と一致するのだから、この改元は九州王朝の事業。下問した「朕」は九州王朝の天子だ。登場人物は入れ替えられている。この記事が六五二年なら六五四年頃誕生とされる高市皇子は不自然だからだ。伊勢王とあるのも別人で、本来は「朕」が「伊勢王」なのではないか。(4)


V 「葬儀奉宣」記事(8)について

 持統二年(六八八)《九》朱鳥三年八月の伊勢王の葬儀奉宣記事は白雉五年(六五四)の僧旻法師の葬儀に関するものと考える。まず旻法師の病臥と遷化記事を示す。
■孝徳白雉四年(六五三)
(ア)夏五月 是の月に、天皇、旻法師の房に幸して、其の疾を問いたまふ。遂に口づから恩命を勅したまふ。或本に、五年の七月に云はく、僧旻法師、阿曇寺に臥病す。是に、天皇、幸して問ひたまふ。仍りて其の手を執りて曰はく、「若し法師今日亡なば、朕従ひて明日に亡なむ」とのたまふという。
 六月(略)天皇、旻法師命終せぬと聞して、使を遣して弔はしめたまふ。并て多に贈を送りたまふ。皇祖母尊及び皇太子等、皆使を遣して、旻法師の喪を弔はしめたまふ。遂に法師の為に、画工狛竪部子麻呂・[魚郎]魚戸直等に命せて、多に仏菩薩像を造る。川原寺に安置す。或本に云、山田寺に在す。
     [魚即]は、近似表示。魚編に白の下にヒ。最後に卩。JIS第3水準ユニコード9BFD
 書紀では旻法師の病臥は六五三年とされるが、「或本」では翌六五四年六月とある。彼は大化改新時に国博士となり力を発揮し、白雉改元にも貢献した。また「若し法師今日亡なば、朕従ひて明日に亡なむ」との天皇の言は、両者がいかに親密であったかを示している。一方、伊勢王の葬儀奉宣記事は持統二年だ。
(8) ■持統二年(六八八)→白雉五年(六五四)
八月の丁亥の朔丙申(一〇日)に、殯宮に嘗りて、慟哭る。是に、大伴宿祢安麻呂誄る。
(イ)丁酉(十一日)淨大肆伊勢王を命して、葬儀を奉宣はしむ。
 この記事につき、岩波注では「(天武を)十一月に山陵へ葬送することを宣したか」とあるが、埋葬を「葬儀奉宣」とするのは不審だ。持統二年(六八八《九》朱鳥三)八月丁酉(十一日)を三四年遡上させると白雉五年(六五四《九》白雉三)七月丁酉(二四日)。これが「旻法師」の葬儀なら六五四年六月僧旻遷化、七月葬儀奉宣となり、三四年離れた二つの記事が附合する。
 僧旻法師は白雉改元の吉祥につき奉答している。この改元は先に述べた通り九州王朝の事業で、奉答の相手は、必然的にその天子。「朕従ひて明日に亡なむ」という法師との親密さから、葬儀の祭主は九州王朝の天子=伊勢王であって不思議は無い。
 書紀編者は天武の葬儀を記述する際、《九》朱鳥三年と《九》白雉三年を入れ替え、三四年前の旻法師の病臥記事(ア)と葬儀記事(イ)を剽窃した。その際(ア)の「天皇」は「伊勢王」のことで、本来(イ)も「天皇(伊勢王の意)、奉宣葬儀」であったものを「天武の葬儀」に見せるため「命淨大肆伊勢王、奉宣葬儀」と改変した。これにより九州王朝の天子の事跡を近畿天皇家の事跡に変え、天武の葬儀を飾り立てる事が出来たのだ。
 持統二年(六八八)伊勢王の「天武の葬儀」奉宣記事は、《九》白雉三年(六五四)の九州王朝の天子伊勢王の「旻法師の葬儀」奉宣記事の剽窃だった。

 

VI 「二度の死亡」記事について

 (9)(10)の「重出か(岩波注)」とされている「伊勢王の二度の死亡」記事は、次に述べる理由から斉明七年記事が本来の姿だと思われる。
(9) (斉明七年)六月、伊勢王薨せぬ。秋七月甲午朔丁巳(二四日)、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
(天智即位前記)七年七月丁巳(二四日)に崩りましぬ。皇太子、素服たてまつりて称制す。
(10) (天智七年)六月、伊勢王と其弟王と、日接りて薨せぬ。未だ官位を詳にせず。

 

VII 伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点

(1)明日香皇子の出征と、父たる「吾大王」

 古田武彦氏は、万葉一九九番歌他の分析から、九州王朝の「皇子」である明日香皇子が唐・新羅との戦に臨むため、朝鮮半島に出征した。また彼は九州王朝の天子筑紫君薩夜麻であろうとされている。(古田武彦「壬申大乱」「古田武彦と百問百答」他)
 そこで注目されるのが明日香皇子の父と思される「吾大王」だ。題詞に「高市皇子尊城上殯宮之時」とある事からすると父大王は天武となるが、内容的に全く合わず、九州王朝の天子と皇子を歌ったものであることは「明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点」(古田史学会報八四号)で述べた。
■一九九番(略)明日香の真神の原にひさかたの天つ御門を畏くも定めたまひて神さぶと磐隠ります 八隅しし吾大王のきこしめす背面の国の真木立つ不破山超えて高麗剣和射見が原の仮宮に天降りいまして天の下治めたまひ食す国を定めたまふと鶏が鳴く東の国の御いくさを召したまひてちはやぶる人を和せと奉ろはぬ国を治めと 皇子ながら任したまへば(略)嘆きもいまだ過ぎぬに思ひもいまだ尽きねば言さへく百済の原ゆ神葬り葬りいまして(略)
 また一六七番歌も同様の内容の歌だ。
■一六七番・日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
・高照らす日の御子は飛ぶ鳥の清御原の宮に神ながら太敷きましてすめろきの敷きます国と天の原岩戸を開き神上り上りいましぬ 吾王皇子の命の天の下知らしめしせば(略)天つ水仰ぎて待つにいかさまに思ほしめせか(略)朝言に御言問はさぬ日月の数多くなりぬれそこ故に皇子の宮人ゆくへ知らずも
 二つの歌の趣旨は凡そ以下の通りだ。
 明日香宮(飛鳥清御原宮)で統治した吾大王(日御子)は、既に崩御(磐隠り・神上り)した。跡を継いだ吾王・明日香皇子は、その直後(嘆きもいまだ過ぎぬに)に、半島出征で死(百済の原ゆ神葬り)又は「ゆくへ知らず」となった。(5)

(2)「吾大王」は伊勢の国を統治

 そしてこの大王は次の万葉歌で伊勢国を統治し、そこには大宮があり、大宮人がいたとされる。
■百六十二番歌・明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし 八隅しし 吾大王 高照らす日の御子いかさまに思ほしめせか神風の伊勢の国は 奥津藻も靡みたる波に潮気のみ香れる国に味凝りあやにともしき高照らす日の御子
■三千二百三十四番歌・八隅しし 和期大皇高照らす日の御子のきこしをす御食つ国神風の伊勢の国は(略)大宮仕へ朝日なすまぐはしも夕日なすうらぐはしも春山のしなひ栄えて秋山の色なつかしきももしきの大宮人は天地日月とともに万代にもが
 従って万葉歌によれば「明日香宮」で統治した「吾大王」は「伊勢王」と呼ばれる必然性があるのだ。

(3)「吾大王」と「伊勢王」の「死」の共通点

 ここに明日香皇子(薩夜麻)の出征直前に逝去した「吾大王」と「伊勢王」が結びつく事となった。しかも逝去の時期は百済支援や対唐・新羅戦(斉明七から天智二)直前の「斉明七年」はピタリ整合する。これは、伊勢王の二度の死亡記事のうち斉明七年が本来の姿だと言う事を示している。
 斉明七年なら九州年号が白雉から白鳳に改元されている。九州王朝の天子の逝去だとすれば改元は当然。また「伊勢王與其弟王」という記述は、あの阿蘇山下の天子、阿毎多利思北孤の「以天為兄以日為弟」=「兄弟統治」を連想させるではないか。
 (6)(7)の天武の葬儀関連とされる「飛鳥寺派遣」と「諸王の事誄す」記事も、三四年遡上で白雉三年(六五二)。天武十四〜持統三年の多数の天武の葬儀関連記事は、天武の他旻法師の葬儀や白雉五年逝去の「孝徳」の葬儀等、白雉期の複数の人物の葬儀記事の集合と考えるが、この点は別途述べたい。
 以上、三四年遡上現象を踏まえると、伊勢王記事は六四九(大化五《九》常色三)年〜六六一(斉明七《九》白鳳一)年に納まる事となった。
 伊勢王は九州王朝の難波宮時代(白雉期)の天子であり、薩夜麻の父大王であったが、斉明七年に死去し、白鳳に改元されたのだ。書紀編者はこれを孝徳・斉明・天武ら様々な「天皇」とすり替え、年次をずらし、或いは文章に装飾を付加してこの事実を抹消した。
 古田氏の万葉歌による明日香皇子の研究や、古賀氏の白雉改元の分析を踏まえた、三四年遡上現象の検討により、九州王朝の天子たる「伊勢王」の事跡がいささかでも復活出来たなら幸いである。


(注)
(1)白雉改元の史料批判(古賀達也・『古田史学会報』七六号・二〇〇六年九月)

(2)飯田満麿氏は古田史学会関西例会『日本書紀』の中の「伊勢王」二〇〇七・八・一八で「孝徳と伊勢王を入れ替えているのでは」と発表されている。

(3)この記事は本来一年前の白雉二年(六五一《九》常色五)のものか。難波宮が九月に完成し、十月に伊勢王が難波に移ったと考えるのが合理的。また六五二年十二月晦日の「僧尼・燈燃記事」を、六五一年冬十二月晦記事との一年ずれた重複記事と見れば、六五二年の難波宮完成記事も六五一年との疑いが濃くなる。また改元してから遷都と言う順序も逆。遷都に伴い改元することとし、その元号を「白雉」とした。白雉改元の儀式は、同時に難波遷都の儀式だったとするのが自然だろう。
■白雉三年(六五二)冬十二月の晦に天下の僧尼を内裏に請せて、設斎して大捨てて、燈燃す。

(4)「朕(天子)」が伊勢王なら、組み合わせから見て、「高市皇子」は「明日香皇子」、「伊勢王」は「弟王」との入れ替えである可能性が高い。

(5)万葉一九六番歌に「御名に懸かせる明日香川万代までにはしきやし 吾王の形見かここを」とあり、皇子の名が「明日香皇子」で、かつ「吾王」と呼ばれていたことが示されている。

〔伊勢王別表〕

34年遡上や白雉元年のずれを考慮した再構成
番号 西暦年月日 九州(書紀)年号 補正方法
(1) 649/11/25 常色3年(大化5) 34年補正
(2) 650/10/16 常色4年(白雉1) 34年補正
(3) 651/10/29 常色5年(白雉2) 34年補正
(4) 652/2/16 白雉1年(白雉3) 34年補正
(5) 652/1/26.3/27 白雉1年(白雉3) 白雉補正
(6) 652/5/27 白雉1年(白雉3) 白雉補正
(7) 652/9/10 白雉1年(白雉3) 白雉補正
(8) 654/7/24.9/25 白雉3年(白雉5) 白雉補正
(9) 661/6月日付無 白鳳1年(斉明7) 書紀通り
(10) 661/6月日付無 白鳳8年(天智7) 書紀通り

 

伊勢王に関する書紀の記述(書紀の記述年順)

番号 西暦年月日 九州(書紀)年号 記事概要
a→(5) 650/2/15甲申 常色4年(白雉元) 白雉改元の御輿を担う
b→(9) 661/6 白鳳1年(斉明7) 伊勢王薨
c→(10) 668/6 白鳳8年(天智7) 伊勢王弟王、日接し薨す
d→(1) 683/12/13丙寅 白鳳23年(天武12) 伊勢王天下巡行
e→(2) 684/10/3辛巳 朱雀1年(天武13) 諸国堺を定める
f→(3) 685/10/17己丑 朱雀2年(天武14) 亦東国に向(まか)る
g→(4) 686/1/2癸卯 朱鳥1年(天武14) 無端事で亦実を得
h→(5) 686/6/16甲申 朱鳥1年(天武14) 飛鳥寺に派遣さる
i→(7) 686/9/27甲子 朱鳥1年(天武14) 諸王の事を誅す
j→(8) 688/8/11丁酉 朱鳥3年(持統2) 葬儀を奉宣

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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