2008年 8月12日

古田史学会報

87号

「遠近法」の論理
再び冨川さんに答える
 古田武彦

2祭りの後
「古田史学」長野講座
 松本郁子

『越智系図』における
越智の信憑性
『二中歴』との関連から
 八束武夫

「藤原宮」と
大化の改新について I
移された藤原宮記事
 正木裕

5 伊倉6
天使宮は誰を祀るか
 古川清久

6彩神(カリスマ)
シャクナゲの里6
 深津栄美

 

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伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点 正木裕(会報86号)

「藤原宮」と大化の改新について I  II III


「藤原宮」と大化の改新について I

移された藤原宮記事

川西市 正木裕

I はじめに

 古賀達也氏は四月、五月の古田史学会関西例会において大化二年正月条の「改新の詔」は、持統天皇の九州年号大化二年(六九六)に発した「建郡」の詔勅が、書紀の大化二年(六四六)に移されたものであり、また同記事中の「凡そ京には坊毎に長一人を置け」以下の条坊制の創設記事は、六九四年十二月に遷居された「藤原宮(京)」についての記事だとされた。
 本稿では大化期の書紀記事中の種々の「宮」に関する記事が、通説のいう子代離宮等の「難波の仮宮」ではなく、藤原宮と考えられる事、またこの「記事移動」は登場人物にも及んでいる事を示す。

 

II大化二年に「条坊」はなかった

 先ず古賀氏が指摘された、藤原京を示す条坊制の創設記事は次の通りだ。
A■大化二年(六四六)春正月甲子朔(略)初めて京師を脩め(略)凡そ京には毎坊(まちごと)に長一人を置け。四坊に令(うながし)一人を置け。戸口を按(かむが)へ検め、姦*しく非しきを督し察することを掌れ。(略)凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。
     姦*は、姦の異体字 JIS第4水準ユニコード459E7
 この条は、前年(大化元年)十二月の「難波長柄豊崎宮遷居」記事の直後にあるところから、一見前期難波宮の記事であるかのように見える。
 しかし、その文章は、後掲の通り養老戸令、置坊長条とほぼ同じであるから、養老律令(七五七年制定)の基本とされる大宝律令(七〇一年制定)の知識が無くては書けない事が広く認められている。 注(1)
 何より「条坊制」は藤原京から(除大宰府)であるので、条坊制についての記事を尊重すれば、A記事は藤原京遷都の六九四年以降の事実である。
 また「郡」は藤原宮木簡により七〇一年以前は全て「評」であることが確認されている事から、「浄御原令または大宝令により書き変えられた(岩波補注)」との説が有力だが、それでは「郡制は何時施行されたのか、何故その事が書かれていないのか、また何故わざわざ書き換えたのか」との謎は残ったままだった。
 この事を解明したのが古賀発表だ。
 古田史学から、大化記事は九州年号大化期から持ち込まれたとの説が立てられてきたが 注(2)、今回の発表でこの立場は一層強化される事となった。
 すなわち、「大化二年(六四六)正月のA記事中の『条坊制』施行は藤原京しかありえず、よって『書紀大化二年』ではなく『九州年号大化二年(六九六)』の記事と推測される。また『郡とせよ』とあるのは同時期の近畿天皇家(持統か)により発せられた『建郡の詔勅』となる。つまり、『書き換えられた』のではなく、そもそも『郡』と書かれていたものが、そっくり書紀大化二年に移されていた」ということだ。
 大化二年に『建郡の詔勅』を移したために、以後の書紀の記述で、評を郡に書き換える必要が生じたのは当然の事となろう。

 

III「宮の東門」は藤原宮から

 この記事が難波宮でない事について述べる。それは大化二年二月の天皇の「東門」行幸記事だ。
■大化二年(六四六)二月甲午朔、戊申(十五日)天皇、宮の東の門に幸す。蘇我の右大臣をして詔せしめて曰く「明神御宇日本根子天皇、集侍る卿等・臣・連・国造・伴造及び諸の百姓に詔はく(以下略・鐘匱の制)。
 「宮の東の門」について、岩波注釈は「子代離宮」のこととしている。注(3)
 しかし、考古学的には次の様に述べられている。
 「平城宮東区朝堂院以前の時代には、東門が存在するかは不明でした。今回藤原宮朝堂院で確認したことにより、藤原宮以後、平城宮東区朝堂院(上層)以前に造営された後期難波宮(なにわのみや)朝堂院、平城宮東区朝堂院下層にも、東西の門が存在していた可能性を指摘できます。
 一方、藤原宮造営以前の宮殿として前期難波宮がありますが、調査の結果からは門が存在する可能性は低く、現状では藤原宮朝堂院東門は朝堂院東西門の最も古い例といえます。」注(4)
 「宮の東門」は前期難波宮にすら無いとされている。いわんや「離宮」にあるとするのは極めて無理があろう。発掘調査では藤原宮の十二の朝堂の外側に、北の大極殿院から伸びる回廊が巡らされていた。東門は北から二番目の朝堂院東第二堂南東に設けられており、天皇は回廊を渡り東門に幸したと思われる。
 東第一堂には大臣が椅子に着座。最大の朝堂である第二堂では大臣に次ぐ納言・参事等の官僚が床に座り執務したと言われる。天皇の命で右大臣が東門付近の第二堂に参集した官僚に詔を発したとする書記の文言と藤原宮の遺跡状況は符号する。この記述は堂々たる朝堂院を備えた藤原宮での出来事として相応しく、「離宮」での事とは到底考えられないのだ。
 ちなみに平安時代の資料によれば東門は「宣政門 せんせいほん」と呼ばれていた。政の詔を宣する場所であった事を示す名称だろう。

 

IV「詔の文体」も藤原宮期

 もう一つ。文体の問題がある。
 この詔を始めとする改新の詔は「『皇極紀』までの歴代の詔勅が「純粋の漢文」なのに『孝徳紀』だけが、『続紀』宣命に繋がるような、和文脈を残す破格の和化漢文である 注(5)」とされる。そして「金石文や木簡、また『持統紀』三年五月詔の惜辞、それから「宣命大書体」の出現や「人麻呂略体歌」の筆録年代についての研究からも、かかる表記の一般化は七世紀の後半、その中でも強いて言えば半ば近く。この判定はほぼ動かないのではあるまいか。(同)」とされ、岩波補注も「果たして、当時のものか、令による表現ではなかったのかという疑問が依然として濃厚である」と記す。
 以上、改新の詔勅は、その文体から、六四五年当時としては不自然である一方、七世紀末の九州年号大化期(六九五以降)、すなわち藤原宮完成(六九四末)以後の詔勅であれば無理なく理解できるのだ。
 従って、この詔勅は考古学上も、国語学上も藤原宮で発せられたもので、それが書紀大化年間(六四五〜六四九)に移されたものだとと考えられる。

 

V「天皇朱雀門行幸」の登場人物も移されていた

 同様に大化五年記事には「朱雀門」が登場する。
■大化五年(六四九)三月の乙巳の朔辛酉(十七日)に、阿倍大臣薨せぬ。天皇、朱雀門に幸して、挙哀たまひて慟ひたまふ。皇祖母尊、皇太子等及び諸の公卿、悉く随ひて哀哭たまふ。
 挙哀(こあい)とは死者の前で哭泣する儀礼だが、この「朱雀門」についても、この時点で存在したとは思えない。岩波注釈も「大内裏の南正門。唐でも日本でもいう。ただしこのころ、大内裏の制が整ったかは疑わしい。」と述べている。
 確かに前期難波宮遺跡でも朱雀門が発掘されている。しかしこの時点は宮完成(六五二)の三年前。朱雀門はできていたとしても、宮も完成していない中途半端な状況で、わざわざ天皇はじめ「悉く」が行幸し儀典を行ったとの推測には無理がある。これも藤原宮の朱雀門と考えるのが自然だ。
 こう述べれば、「書紀では『阿倍大臣』とは阿倍内麻呂(倉梯麻呂)の事で、大化元年左大臣に任命されており、時代があわない」と反論されるだろう。
 しかし藤原宮時点で天皇が弔意を表するにふさわしい「阿倍大臣」が存在する。それは「右大臣従二位阿倍朝臣御主人みうし」で、彼は大宝元年七月に左大臣が空白になって以降、臣下の最高位を務め、三年閏四月「辛酉」朔に逝去 注(6)。彼の逝去なら天皇・皇后が弔意を表しても全く不自然ではない。
 そして書記の阿倍大臣の逝去は大化五年三月辛酉で同じ干支。同年四月に辛酉は無く、大宝三年(七〇三)閏四月「辛酉」朔の記事を、干支付きで大化五年に移せば三月辛酉(十七日)となる。
 なお大化五年は九州年号「常色三年」にあたるので、より正確には「大宝三年記事を九州年号常色三年に移した」となろう。
 書紀は藤原宮のみならず登場人物まで移し替えたのではないかと考えられる。

 

VI大化末年の粛清

 書紀ではその直後大化五年三月、もう一人の大臣、蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで、一族はじめ田口臣筑紫ら家臣とともに粛清され、「大化」が終わり、翌年「白雉」と改元される。
 一方「九州年号大化」は大宝三年(七〇三)で終わり(大化九年)、七〇四年から「大長」年号が始まる。 薩摩の「大宮姫伝説」では、「大長元年(七〇四)」に「天智天皇」が都から大宰府に移り、その後慶雲三年(七〇六)七九歳で薩摩頴娃郡で逝去している 注(7)。これは「天智」であるはずもなく、古賀氏は「『天智』も九州王朝の王であると考えるべき」とされている。
 書紀大化五年に記す蘇我倉山田石川麻呂の謀反が言われなきもの、言いがかりであったことは書紀も認めている。これも、本来は大宝三年(七〇三)の九州王朝系の重臣が粛清された出来事だったのではないか。
 その根拠は「蘇我倉山田石川麻呂の謀反」記事中、律令を前提とした記事が随所に見られる事だ。
(1) 「物部二田造塩を喚して、大臣の頭を斬らしむ」
とあるが「律令制では、衛門府に所属して刑の執行にあたる伴部を物部という(岩波注)」とあり、大宝律令以降のことと疑われる。
(2) 「絞らるるもの九名」とあるが、「律の五刑の一つである死刑には、絞・斬の二種がある(同)」とされこれも律令時代の刑。
(3) 「山田大臣の資材を収む」とあるが、「律では謀反の者は斬、その親子・家人・資財・田宅などは没官とした。山田麻呂の刑がそれと似るのは、同様の刑法があったか、又は律の思想による表現か(同)」とする。
(4) 「即ち、日向臣を筑紫大宰帥に拝す」とあるが、(岩波補注二五 - 二九)は、「後の大宰府の長官、大宰帥にあたる。(略)大宝令の施行とともに(大宰・惣領)は廃止され、大宰帥のみが残された。ここの大宰帥という表記法は、令制による修飾か」とする。
 こうした文章を信じるなら、これら記事は大宝律令を前提としたもので「朱雀門」同様、藤原宮時代の事となろう。
 この粛清を契機に、九州王朝の天子は、今や政治の中枢となった畿内の壮大な藤原宮から追われ、筑紫大宰府を経て、遥か辺境の妻の故郷薩摩に逼塞させられたのではないか。
 大宰府回帰を記念して、年号こそ大長と改めたが、それは九州王朝の最終章であったのかもしれない。注(8)


〔注〕
(1) 養老戸令・置坊長条「凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌倹校戸口、督察姦*非」(大宝令では「倹校」は「按検」)
 書紀記事「凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口、督察姦*非」
     姦*は、姦の異体字 JIS第4水準ユニコード459E7
(2) 例えば「中村幸雄論集 新「大化改新」論争の提唱」(電子書籍・古田史学の会HP「新・古代学の扉」より取得可能)
(3) 岩波注「二二日条(乙卯に天皇、子代離宮より還りたまふ)から見て子代離宮。」
(4) 藤原宮朝堂院東門と東第二堂の調査(奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部二〇〇三・三・十五)
(5) 「大化改新の資料批判」(山尾幸久・二〇〇六・一〇・一塙書房)
(6) 続日本紀「大宝三年閏四月辛酉朔。(略)是日。右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。」
(7) 大宮姫伝説については古賀達也氏の「よみがえる古伝承・最後の九州王朝・鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(市民の古代 第一〇集 一九八八年 市民の古代研究会編・特集二)を参照
 『開聞古事縁起』
一、天智天皇出居外朝之事
 越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日〈大長元年(七〇四)尤歴代書年号〉帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。〈 〉は右注
一、皇帝后宮岩隠之事
 文武帝慶雲三(七〇六)丙未(午の誤りか)春三月八日天智聖帝天寿七十九於此崩御。於仙土陵当神殿也。阿弥陀如来示現帝皇也。(略)
 不幾年其翌年之元明帝和銅元(七〇八)戊申歳六月十八日皇后御寿五十九薨御也。
(山岳宗教史研究叢書十八・修験道資料集II・五来重編・名著出版五九・十二・二五)

(8) 乙巳の変でも蘇我倉山田石川麻呂が登場する。これが同一人物なら、変そのものが藤原宮時代すなわち九州年号大化期のこととなるが、異様に長い名称と、謀反記事での名称が一定しないことから(「倉山田」「麻呂」「山田」「蘇我倉山田麻呂」)、別人の合成であるかもしれない。その場合は乙巳の変と年代的に離れた二つの事件となる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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