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古田武彦講演録1 播磨風土記(『市民の古代』十二集)へ


『市民の古代』第13集 1991年 市民の古代研究会編
ひろば

『播磨国風土記』と大帯考

 

三宅利喜男

 木を見て森を見ない現代歴史家達に対し古田説は正しく森を見ているが、残存する資料がとぼしいため個々の木迄には至っていない。(1)
 天武の「削偽定実」や桓武の焚書、『神皇正統記』によって失われた真実の木を、現存するわずかな資料の中から見つけて行かねばならない。
 『播磨国風土記』揖保郡の条に、「言挙阜 右 所以称言挙阜者 大帯日売命(韓国還上)之時行軍之日 御於此阜 而教令軍中曰 此御軍者 慇懃勿言挙 故号曰言挙前」とあり。ここに出てくる大帯日売命(オオタラシヒメノミコト)は今迄すべて神功皇后とされてきた。九ヵ所出てくる名前には(大帯日売命・三カ所、息長帯日売命・三カ所、息長帯比売命・一カ所、息長帯日女命・一カ所、皇后・一カ所)であり、人名の音読と訓読や異なる字使いは本来、別伝や別系譜を一つにした可能性があり注意を要する。(2)
 『古事記』では仲哀の条、『日本書紀』では仲哀紀と神功紀に書かれている神功事績は本来、橿日宮に伝わる大帯日売伝承であり、景行の九州遠征記事よりはるかに古い。
 香椎廟は『延喜式神名帳』に見えず、民部式に「諸神宮司並に橿日宮」とあり「廟司」を置き「守戸」を定めると書かれていて山陵の扱いである。廟は他の神社とは性格が異なり(廟とは中国の皇帝の祖先の神位を祭る所)大和朝廷に廟の思想が現われるのは桓武天皇以後であり(3)、香椎廟は遙かに古く、『万葉集』に冬十一月大宰の官人等、香椎廟を拝み奉り訖(オ)へて退(マカ)り帰りし時、馬を香椎の浦に駐(トド)めて各々(オノオノ)(オモヒ)を述べて作れる歌。七二八年(神亀五年)、

  ・師大伴卿の歌一首(九五七)
 いざ児等 香椎の潟に 白たへの
     袖さへぬれて 朝菜つみてむ

  ・大貳小野老朝臣の歌一首(九五八)
 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟
     潮干の浦に 玉藻てむてむ

  ・豊前守宇努首男人(ウノノオビトオヒト)の歌一首(九五九 )
 往き還り 常にわが見し 香椎潟
     明日ゆ後には 見むよしも無し

 と歌われている。
 『八幡宇佐宮御託宣集』や『八幡愚童訓』に「住吉縁起云。大帯姫新羅軍之時。登四天王寿山。爾時無寿無像 後令造之。 祈願云。欲降伏隣敵。天王護助給。又以大鈴附榊枝高振呼云。朝底神達乞施神威令降伏敵国」とあり新羅征伐の素材は香椎宮に伝わる大帯日売命伝承で宇佐八幡とは密接な関係がある。社伝によれば養老七年造営とされ神亀元年以後は神功皇后とされる。香椎・宇佐とも本来、仲哀は祭神ではなく(現在は『記・紀』によって香椎宮のみ仲哀を祭神に加える)、神亀元年以前は大帯日売命が祭神である。(4) 宇佐八幡は『延喜式神名帳』によれば宇佐三座(八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫神社)であり名神大社として祭祀にあずかっている。しかし『記・紀』の神功・応神条には全く触れていないし、神代の巻でも宗像三神・綿津見三神は書かれているが、宇佐は記紀成立時点では大和朝廷の神統譜の外に置かれていた。
 神功紀には日朝関係記事も多いが、まるで木に竹を接いだ様相を呈している。神功紀の朝鮮関係記事を『三国史記』で見ると、
1). 新羅五代(八○〜一一二)波沙尼師今(ハサニシキン 波沙麻寐錦)
2). 新羅十一代(二三〇〜二四七)助責尼師今(ジヨフンニシキン)の大将軍干老(宇流助富利智干ウルスホリチカ)二四九年死亡
3). 新羅十九代(四一七〜四五八)納祇麻立干(トツギマリツカン)に表われる未斯欣(ミシキン 未叱喜ミシツキ)(未吐喜ミトキ)のいわゆる朴提上(毛麻利叱喜)の物語

 以上のように一世紀から五世紀にわたる四〇〇年の長い時代の出来事すべてを神功紀一代になげ込んでいる。倭女王卑弥呼・壱与を一人の女王として書いているのも同類である。
 大帯日売命の系譜は『八幡宇佐宮御託宣集』所引『聖母大菩薩因縁記』に筑前香栖屋郡御廟香椎大明神其名大帯姫とある。その系譜は〔系図A〕のように書かれている。
 オオタラシヒメは香椎の女王であり、オオタラシヒコの対語ではないかと考えられ、対称は仲津彦ではない。古代社会では対称的男女名が普通である。イザナギ・イザナミのように。『書紀』の景行紀は1).妻子系譜、2).九州遠征、3).倭建の西征・東征、4).蝦夷の神宮奉献、5).東国巡行、である。このうち他王朝記事から盗用を除くと妻子系譜のみで全く影がうすい。『記』の景行条に「又娶倭建命之曽孫、名須売伊呂大中日子王之女、詞具漏比売、生御子、大江王」とある。子の曽孫と結婚出来るはずがない。校注者は系譜の乱れで片付けているが別のところにも倭建の子孫の条に「又娶其入海弟橘比売命、生御子、若建王。・・・娶飯野真黒比売、生子、須売伊呂大中日子王。此王、娶淡海之柴野入杵之女、柴野比売、生子、迦具漏比売命。故大帯日子天皇、娶此迦具漏比売命、生子、大江王」とある。小碓は倭建と別人である。『書紀』は迦具漏比売を見事に消している。倭建とは『常陸国風土記』に十三回も登場する倭武天皇である。(5) 小碓は次に記す「ワケ」系譜〔系図C〕の継ぎ役にすぎない。次の〔系図B〕は九州の倭武の系譜からの盗用ではなかろうか。
 倭建系譜が本来の王記の一部で景行(オシロワケ)が地方官として倭建の曽孫カグロヒメを娶ったのだろうか。

系図AB 『播磨風土記』と大帯考 三宅利喜男


 ワケについては畿内と周辺及び西国にかけて分布するため、朝廷に帰服し王権につながる地位を公認された地方豪族とするが、その中心となる天皇にワケの称号が続く事は絶対矛盾である。大和の王は当時は地方官程度であろう。垂仁の子から反正迄ワケが続く。〔系図C〕まさにワケのオンパレードだ。
 ワケ系図の中に帯(タラシ)のつく別系をはめこんだもので、『記』の神武〜武烈(継体が北陸より上って来る迄)の間はこの三代景行・成務・仲哀を除きすべて××命で始まっているが、タラシの三代のみ××天皇で記事が始まっている。後代の大改造の跡が歴然である。〔系図D〕

系図AB 『播磨風土記』と大帯考 三宅利喜男


 仲哀については紀の一書に御孫尊とあるのはニニギがモデルであり、妻は神功ではなく鹿葦津(カシツ)姫(木花咲邪姫)つまり香椎津姫で、仲哀の死は神代紀のニニギの短命説話が全くふさわしい。
 景行紀と仲哀紀の筑紫と九州平定への出発点が共に周芳の沙婆(サバ)である。『和名類聚抄』によれば佐波郷には達良(タラ)・多良(タラ)の地名があり、その他、多良川(長門)・多良岳・託羅(タラ)峰(肥前)・多良木(肥後)・太良(大隅)等がある。タラシヒコ・タラシヒメの出発点としては佐波(サバ)は大いに意味がある。
「九州神話」は三つの地域神話から成り立つ。
1).最も古い「大国神話」(古出雲神話)は出雲の西と朝鮮南岸の加羅(多羅・倭人伝の狗邪韓国または伽耶)と筑紫を結ぶ海峡地域の神話である。2).つぎに対馬・壱岐・沖ノ島・五島・姫島などの海峡島嶼地の「天国神話」がある。3).筑紫はこの大国・天国の混住地でスサノオ神や宗像三女神は早くから筑紫へ移住した痕跡であり、その後、天国から筑紫に上陸(天孫降臨)本拠を置いた。
 以上が「九州神話」である。(6) 大帯日売命(神功事績)は羽白熊鷲征伐のように神人混在の時代であり「大国神話」と「天国神話」の境目にあり神功紀のように五世紀ではない。
 「東アジアの古代文化を考える会」創立当時(昭和四八年)の事務局長であった明治大学の故鈴木武樹教授が昭和五〇年七月発行の『偽られた大王の系譜』でオオタラシヒコの九州平定談は大和とは全く関係の無い九州の倭王の征服物語であると書かれていた事を思い出す。


(1)(6) 山田宗睦『日本神話の研究』上
(2) 中山千夏『新古事記伝』I
(3) 平野邦雄・飯田久雄『福岡県の歴史』
(4) 塚口義信『神功皇后伝説の研究』
(5) 中山千夏『新古事記伝』II


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