二〇〇一年七月一日 日曜日 懇親会
大阪・天満研修センター 5階
飛鳥皇子が中心テーマで、人麻呂が飛鳥皇子について歌っています。それだけでなく飛鳥皇子の奥さんや母親の立場、いろいろの立場で歌っています。ところが飛鳥皇子という人が何者かという問題があります。飛鳥皇子の名は今日説明しました九州筑後の祭神や地名にでてきますが。
それで中兄皇子とは天智天皇のことですが、中兄皇子という名前は内向きの名前です。天智天皇とは、対外的、外づらの名前となります。その点で、その飛鳥皇子とは内向きの名前で、外向きの名前では、一体何者か。人麻呂は飛鳥皇子やその奥さんや、お母さんに対して歌を作っています。その飛鳥皇子とは本当はいったい何者か。飛鳥皇子という祭神もあり飛鳥という地名も、九州筑後にあったから実体はあると考えます。これも例を一つづつ挙げて述べるとおもしろいけれども時間の関係で、結論から述べますと「飛鳥皇子」という人物は、最初もしやそうではないかと思った「筑紫の君・薩夜麻」です。
私は、「飛鳥皇子」という人物は、初めは三輪君根麻呂(みわの きみ ねまろ)ではないかと考えていた。白村江の戦いでは、前軍・中軍・後軍とありますが、前軍に書いてあるのが上野毛(かみつけ)君稚子、中軍が三輪君根麻呂、「君」と書いてあるのが、二人居まして、そのどちらかでないかと考えていましたが、しかしそれを越えた存在である。
白村江の戦いでは、海の戦いの前に陸戦があり、行方不明になったものが六人居り、その中で「君」と書いてあるのが、二人居まして、最初そのどちらかではないか。
岩波古典大系に準拠
『日本書紀』天智紀
三月、前将軍上毛野(かみつけの)君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣して、二万七千人を率て、新羅を打たしむ。
「三輪君」というのは、奈良県の地名にありますように、大和飛鳥の人と考えられていますが、「三輪」という地名は福岡県甘木市にもあります。彼が飛鳥皇子ではないかと考えて一回原稿を書いて渡しました。
しかしもう一度「日並皇子」をめっぐて考え直してみて、これはおかしいと気が付いた。
簡単なことですが、もし「筑紫の三輪君」のことであると考えてみます。彼が捕虜になったという話はない。そこしか出てこないから死んだのかもしれないが、そういう話もない。
より積極的には、『万葉集』百九十九番の歌のように壬申の乱の時には、彼飛鳥皇子の招きによって東の兵が来た。(ただしこの歌そのものは白村江の歌である。) 万葉の長歌の先頭にそのように書かれている。その歌の主役は飛鳥皇子である。もし飛鳥皇子の招きによって東(関東)の兵が来たのなら、無理にそう考えられないこともないが、それにしても「三輪君」では役不足ではないか。
さらにもっと全体像から見ると、「三輪君」なる者が飛鳥皇子として祭神に祭られていたとしますと、「筑紫の君・薩夜麻」が祭られている形跡はなくなる。「筑紫の君・薩夜麻」はもちろん「三輪君根麻呂」より上位
である。
もう一つ積極的には「筑紫の君・薩夜麻」は明らかに行方不明・捕虜になっている。しかし「三輪君根麻呂」に対してだけ人麻呂は歌を作っている。奥さんや母親の立場で、「三輪君根麻呂」にばかり人麻呂は歌を作っている。これは理屈としておかしい。もちろん理屈としは、「筑紫の君・薩夜麻」に対して作った歌を『万葉集』は採用しなかった。そのように言えば言える。しかし『万葉集』はあれだけ前書きを作り替えて再利用・悪用している。ですからもし「筑紫の君・薩夜麻」に対して作った歌があれば、いくらでも作り替えて採用できる。ですが飛鳥皇子以外に、他に再利用した形跡はない。飛鳥皇子一本やりで作っておいて、それもやはりおかしい。
そのように、いろいろ巡りめぐって戻ってきて、このように最初もしやと思っていた筑紫の君・薩夜麻に戻ってきた。
それで結論として
「飛鳥皇子」は筑紫の君・薩夜麻である。
そのような結論に落ちつくのです。詳しくは本で詳しく書いてありますので、ご覧ください。
そうであれば、現地伝承で祭神として飛鳥皇子が祭られている。筑紫の君・薩夜麻の筑紫で現地伝承が存在しないことにも対応する。また近畿天皇家が、飛鳥皇子が筑紫の君・薩夜麻だから、その「飛鳥皇子」を中兄皇子・天智天皇とイコールで結んでいることとも対応する。
そうすれば飛鳥皇子の招きによって東(あずま 関東)の兵が来たのなら理解できる。
実際は「三輪君根麻呂」が関東の兵を裏で呼んでいてもよい。しかし大義名分上は、筑紫の君・薩夜麻が呼んだというのが適切である。そのように落ちついてきた。
それに関連して筑紫の君・薩夜麻が捕まったのは最初の数年間考えていたのは、唐の軍隊が筑紫(太宰府)に来たときであると考えていた。なぜなら捕まったという記録がない。一番捕まる可能性があるのは唐の軍隊が直接太宰府に乗り込んで来たから、そのときに捕まったのではないか。第一番目にはそう考えていた。二番目に、そうではないと考えてきたのは、筑紫の君・薩夜麻の奥さんの歌。これもまさか『万葉集』から出てくるとは考えませんでしたが。女性の歌があって、ここに「白雲潟・・・」と天の下の人々が慕っていると天子の位
取を示している歌があって、自分の旦那が九月に決着が着くといって出ていったが、九月になっても帰ってこない。これは筑紫の君・薩夜麻の奥さんの歌である。そうしますと筑紫(太宰府)で捕まったという考え方はペケである。(白村江の戦いという)海の戦いの中で捕まった。そういう考えを最近まで持っていた。
ところがそれもどうも、それもおかしい。そのように考えが進んできた。それは「飛鳥の皇子」をいったん「三輪君根麻呂(ねまろ)」とイコールで結んでいた中で考えてみますと、筑紫の君・薩夜麻の存在を考えて見ると「白雲潟・・・」でも九月・九月と書いてあり、決戦が九月である予想していたことは分かりますが、いつ出発したとは書かれていない。七・八月頃出発したとも考えたが、それは書かれてはいない。書かれてはいないということは、むしろ最初の陸戦の段階で出発した可能性がある。例の倭王武の有名な上表文にあるように、倭王は良くも悪くも先頭に立って戦う伝統がある。あの時も陸戦の段階で、すでに筑紫の君・薩夜麻が先頭に立って戦っていなければならない。その時は臆病風に吹かれて違う方法をとったと考えるよりも、先頭に立って戦っていなければならない。そんなことはそのときは当然前軍、中軍、後軍の六人の将軍の上に筑紫の君・薩夜麻がいて、先頭で戦っていなければならない。それが飛鳥皇子=筑紫の君・薩夜麻とつながったときに解決した。そのように考えてきた。
こちらは勝手に白村江の戦いという海の戦いで、捕虜になったと考えていたのではないか。薩夜麻は海の戦いで捕虜になったのではなくて、陸戦で捕虜になったのではないか。いつ捕虜になったかは不明だが唐との戦いの最後は、百済の柔城(つぬ
)城が唐によって滅ぼされたときが、最後の終結である。その戦いは十月の初めですが、別
にその最後の戦いで捕虜になってもかまわないが、最初の段階で出発していたのではないか。
岩波、日本古典文学大系に準拠
『日本書紀』天智紀 二年
九月辛亥の朔丁巳に、百済の州柔(つぬ)城、始めて唐に降ひぬ。於。是の時に、国人相謂りて曰く。「州柔降ひぬ
。事奈何(いかに)ということ无(な)し。百済の名、今日に絶えぬ。
それと長い間、私は
「飛鳥皇子」は筑紫の君・薩夜麻ではない。
そのような考えをずっと持っていました。
それは「飛鳥皇子」を大王と呼んでいたからです。飛鳥皇子のお母さんの立場に立っていて人麻呂は「君・王」と呼んでいた。それ以外では大王と呼んでいます。
私の考え方では、
「天子は大王ではない。」
そういう定式がありますが、その考えでは不等式となり、それで考えていた。「飛鳥皇子」は大王であって、天子ではない。この考え方は、『人麻呂の運命』(原書房)いらい何回か出ています。
ですから
「飛鳥皇子は天子ではない。」
そういう考えが先行していた。
ところがこの件と関係があるか無いか分かりませんが、おそらくどこかでつながっていると思いますが、横田さんにインターネットの接続でお世話になった。私の家に来ていただいて苦労して接続していただいたが、メールが孫のところへどうしても送れなかった。あとでもう一度確認したらこれは私の方が間違っていて、孫のメールアドレスのLとTが間違っていた。一字でも間違っていたらつながりません。
つまり私が何を言いたかったかといいますと、基礎データが間違っていたら論理的に進めれば進めるほど間違う。基礎データが間違っていたら、何もならない。
どうもこの問題はまったく同じで、筑紫の君・薩夜麻は九州王朝の天子だ。そのように考えていました。筑紫の君・薩夜麻は大王ではない。この考えは確かにウソではない。位取りとしては、大きくは間違っていない。
ところが、そのことと実際に筑紫の君・薩夜麻が天子になる儀式を終えて、白村江の戦いに出ていったのか。そのことは別である。つまり天子になるというのは、何も親父さんが亡くなったら自動的に天子になるのではない。やはり天子になるというのは承認というか、みんなの前でそれ相応の儀式を行わなければならない。それで天子になる。
そうしますと薩夜麻がそういう儀式を行って白村江の戦いに出ていったか。あるいは、それは行わずに唐との戦いに勝ったら、九月の勝利の日に儀式を行うということで出ていったかもしれない。そこまで私どもは分からない。
「筑紫の君・薩夜麻が天子である。」
そういう考えは、大づかみの位取りであって、事実関係はそこまで分からない。つまり分からないのに勝手に天子と決めつけていた。分からないのに、天子であって大王ではない。そこを勝手に出発点に決めてきた。天子と大王は違うという論理はよいけれども、肝心の基礎データである薩夜麻が、実際に(白村江の戦いに)行くときに、すでに天子になる儀式を行って天子になって出ていったかどうかは不確定というか分からない。そういうことに今回気が付いた。それを分からないのに、「飛鳥皇子は天子ではない。」と勝手に決めつけて、頭の中だけで論理を回転させていた。
やはりメールアドレスが間違っていたという事件と、筑紫の君・薩夜麻が天子であるか否かという問題とはぜんぜん別の事件である考えていましたけれども、この問題に気が付いたのはやはり関係があると思う。
そのようなことで、筑紫の君・薩夜麻は飛鳥皇子(大王)でないという不等号が取れてしまった。それで現在の段階では、薩夜麻=飛鳥皇子(大王)ではないかと考えるようになりました。もちろん完全な断定ではありませんが、いろいろな論証に対して現在では一番説明が可能である。そういう論証の段階に進んできた。
そうなりますとたまりませんね。『日本書紀』では薩夜麻を卑劣漢に扱っている。つまり自分の家来大伴博麻を奴隷にして、身を売らさせてその金で自分はのうのうと早く帰ってきた。実に卑劣な男である。露骨にはそう書いていないが、そのように読めるように書いてある。しかもそのイメージを植え付けるために、名前の薩夜麻を「薩野馬(さちやま)」と、「野の馬(うま)」と書いて卑しめてある。あれは元は、本人がそのような字であったはずがない。それをこの字にして、「飛び出した野の馬と同じように、勝手に出ていって捕虜になった卑しい男」というイメージを文字使いに表現している。大伴博麻に持統が報償を与えるときは、(本当に報償を与えたのが)持統だったか分かりませんが、「薩夜麻」は「夜の麻」とこれなら一応読める字にしている。そういう形で『日本書紀』は扱っている。それだけ帰ってきたときは非字にして卑しめていている。ところが『万葉集』では、人麻呂がその筑紫君・薩夜麻のためにあれだけ心を尽くして一生懸命作った歌を、ぜんぶ(近畿)天皇家に横取りし、持統や天武、その息子・娘の歌にしている。
その例ですが、これは軽皇子のために作られた歌です。軽皇子といいますのは文武天皇のことです。
『万葉集』巻一、四十五番から四十九番
軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂作る歌
(四十五番)
やすみしし,わがおほきみ,たかてらす,ひのみこ,かむながら,かむさびせすと,ふとしかす,みやこをおきて,こもりくの,はつせのやまは,まきたつ,あらきやまぢを,いはがね,さへきおしなべ,さかとりの,あさこえまして,たまかぎる,ゆふさりくれば,みゆきふる,あきのおほのに,はたすすき,しのをおしなべ,くさまくら,たびやどりせす,いにしへおもひて
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
(原文)
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須<等> 太敷為 京乎置而 隠口乃
泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落
阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
校異 登 -> 等 [元][冷][紀]
短歌
(四十六番)
あきののに,やどるたびひと,うちなびき,いもぬらめやも,いにしへおもふに
安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
阿騎乃<野>尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良<目>八方 古部念尓
校異 <> -> 野 [紀]
自 -> 目 [類][紀]
(四十七番)
まくさかる,あらのにはあれど,もみちばの,すぎにしきみが,かたみとぞこし
ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
太 [金][紀] 大
(四十八番)
ひむがしの,のにかぎろひの,たつみえて,かへりみすれば,つきかたぶきぬ
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
大 -> 太 [金][紀
(四十九番)
ひなみしの,みこのみことの,うまなめて,みかりたたしし,ときはきむかふ
日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
日雙斯 皇子命乃 馬副而 御猟立師斯 時者来向
有名な歌ですが、これがぜんぜん駄目です。これは結論から言います。これは福岡県・筑紫、秋月の歌です。
まず「やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子」、この表現そのものが、すでにおかしい。なぜかと言いますと、前書きのとおりに軽皇子のお父さんである草壁皇子のことを指すとすれば、日並(ひなめし)皇子(草壁皇子)は天皇になっていない。皇子です。ですから大王とは呼べない。天皇になる前に死んでいますから。オーバーに言って喜ばせてあげました。そうは言っても、そのように言うこと自体がすでに苦しい。無理がある。
次に「隠口の 初瀬の山は」とありますが、これがある意味で決定的な証拠となります。『太宰管内志』をみてください。
『太宰管内志』
杉本城秋月藩
・・・
などあり、又[武鑑]に黒田甲斐守 某柳間朝散太夫
五万石居城夜須郡秋月 江戸より海陸二百八十八里、
慶長五年ヨリ黒田氏代々之領とあり、
山林景色うるはしく薪水の便よろしき処なり。
此処に入口四ッあり北は八丁口西は長谷山口南は湯ノ浦口東は野島口なり、西なる山々観音山と此山にて隠したれば外よりは見えず
・・・
ですから『太宰管内志』では、長谷山口は観音山で隠しているから外から見えない。「隠口の
初瀬の山は」というのは、初瀬口(長谷口)が隠(こも)って見えない。「秋月」の「月」は津城(つき)であり、港の要害のことですので、固有名詞は「あき(秋)」です。この点も従来の奈良県大和説でおかしいのは「安騎」は子字(こあざ)の非常に狭い領域で、そこでしか狩を行っていないような歌です。それもちょっとピントが外れている。
次に細かいことは、今度出版する本を見ていただければ分かりますが短歌について述べますと、
ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し(四十七番)
真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
この歌について、よくもこのような読みが良くできたと、皮肉で感心しています。上の原文を見ていただければ分かりますが、「黄葉の」という語句は古写本にはない。岩波古典大系をご覧になれば分かりますが、江戸時代に契沖が『万葉代匠記』で「黄」色という字を入れた。「葉」だけなのです。「葉」だけなのに「黄」という字を入れて、それを後の万葉学者がそれに従って「黄葉の」という例はたくさんあるとして、このように詠んできました。しかし私は、それは理解できない。なぜかと言いますと、先ほどの長歌のほうに「夕去り来れば み雪降る」と書いてある。「み雪降る」というのは、どうみても季節は冬である。しかし「黄葉」となれば、季節は秋です。よくも季節を冬と秋を一緒にして満足しましたね。しかも「黄葉」が原文にあれば良いが、無い。契沖が付け加えた「黄葉」というものを、後の学者が引き継いでいます。これには生意気ですがあきれました。
それではこれは何か。人麻呂には、人麻呂歌集(古今相聞往来歌類 万葉集巻十一・十二)がたくさんありますが、一字表記がずいぶん出てくる。「愛 あい」という字をこれだけでなく、「うつくしみ」や「いとしければ」と詠んだりします。このような例はずいぶん出てきます。「思 思えどもあれば」も、このように読まなければつじつまが合わない例がたくさんある。これは一字で何字分も詠んだりする。これも考えたら当たり前で、一人で歌をたくさん作る人であれば、一音一字表記を守っていたら面倒で仕方がない。ですから中心になる漢字・単語を入れたら、後はつなげて読めるように考える。ですから漢字の一字表記は人麻呂歌集にたくさんあることで有名です。
ですから「葉」は一字表記とかんがえます。
それで原文の「葉」を諸橋大漢和辞典を引きますと、「葉」の意味は、名詞は世の中の「世(よ)」や、君が代を表す「代(よ)」を意味する。動詞にしますと「散る」という意味があります。それで両意をかけて、私は「葉(は)」一字で、「散りし世の」と詠めば良いのでは。そのように考えています。
そうしますと読みは
(四十七番)
ま草刈る荒(あれ)野にはあれど散りし世の過ぎにし君が形見とぞ来し
真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
これで意味が通ります。少なくと冬と秋を一緒にしなくとも済む。
もう一つ有名な歌である四十八番が困ります。これは万葉の中でもとくに有名な歌です。詠みの中で名訓というか、優秀な歌の代表にあげられる。
(四十八番)
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
しかし考えてみますと、漢文(原文)とぜんぜん違う。「月かたぶきぬ」にあたる原文は「月西渡 月西(にし)渡(わた)る」です。これは、月の動きとしてぜんぜん違っている。「西(にし)渡(わた)る」は月が地表になだらかに落ちていく様であり、「かたぶきぬ」はたとえば山並みに添って月が動いていくような様である。ぜんぜん違っている。それをお構いなしに口調がよいからと、契沖が「月西渡 月かたぶきぬ」とこれを考えだし、「東の野 野炎(ひむがしの のに かぎろひの)」と真淵が付け加えて完成させた。それを、犬養・澤瀉(おもかた)さんも絶賛しています。
しかし私はこんな読み方をすべきではないと思う。「月西渡 月 にし わたる」と詠むべきだと考える。そこに意味がある。後で総括して述べますので、一度次の歌に行きます。
(四十九番)
日並(ひなめし)の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
日雙斯 皇子命乃 馬副而 御猟立師斯 時者来向
この歌で、日並(ひなめし)の皇子が出ていますから、間違いないと以前は考えていました。ですが日並(ひなめし)皇子という字になっていない。原文には出てこない。
しかも日並(ひなめし)皇子は『日本書紀』には出てこない。草壁皇子しか出てこない。『続(しょく)日本紀』の一行目には、出てきます。草壁皇子とイコールであるという感じで書かれているだけである。そういう意味では日並(ひなめし)の皇子、そのものは固有名詞としては成立しています。
ですが、この歌そのものには、日並(ひなめし)皇子が出てくるから間違いない。そのように考えていたこともありましたが、そのような字は書いてはいない。「日雙」と書いてある。これを私は「日雙 ひならびし」とよむべであると考えています。この「雙(ならぶ)」という字は、鳥が二匹平行に並んでいるという意味です。
ですから読みは
日雙(なら)びし皇子(みこ)の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
「日雙(なら)びし」、これは何かと申しますと、太陽(日)に対して、月が並んでいる。時間がないので結論から言います。『万葉集』二三九番、二四〇番、二四一番で述べました狩の時に亡くなった甘木の大王が、この日並(ひなめし)御子のお父さんである。(草壁皇子ではない。)この甘木の大王(家)は月をシンボルマークにしている。この大王は、太陽をシンボルマークにしている天子と並んで、月をシンボルマークにしている大王です。
その(お父さんである)甘木の大王の狩を偲んで、ここでは飛鳥皇子が狩に来ているところを人麻呂が歌っている。
その設定で、この一連の歌を考えてみます。
結論として、ここで何を言いたいかと言いますと、ここでは太陽は「かぎろい」とあるように、健全です。さんぜんと輝いている。のみならず「月西渡 月にしわたる」。日に匹敵する月も、天空ではやはり健全に西に向かっている。しかしながら月をシンボルマークにしている甘木の大王はすでにお亡くなりになった。そういうことを言うために、しかし天空には太陽(日)とならんで、月は西に向かっている。しかしお父さんはすでに居らっしゃらない。しかも具体的情景として、甘木の西にあるのは雷山である。その雷山にお父さんは葬られている。その雷山に向かって月は西に渡っている。ですからこの歌は雷山に葬られている甘木の大王を偲んでいる歌である。
そのように理解すれば、「隠口の 初瀬の山は」・「安騎の大野」も秋月に一致する。
のみならず今の「かぎろい」と並んで、「月西渡 つき にし わたる」は、月は雷山に向かっています。しかし甘木の大王はすでに居らっしゃいません。そして(飛鳥皇子が)狩をしていたら月は又上がってきて居ります。
ですから全体としてまさに、これらの歌は人麻呂が飛鳥皇子のために、甘木の大王を偲んで作った歌である。
それが大和に持ってきたために、江戸時代の与謝蕪村の詩のような、ただの叙景の歌になってしまった。
それで感心しましたのは有名な『野菊の墓』を書き、斉藤茂吉の恩師である伊藤左千夫。彼がこの歌の評して、「くだらん。まったくこの歌には生命がない。」と言い切り、この歌を何ページもかけて非難している。ここまで言うかとばかり非難している。それに斉藤茂吉が応戦している。ですが、やはり伊藤左千夫が言うとおり、大和で考えれば、実に下らない歌になる。魂のこもっていない歌となる。月が傾いて、それがどうしたの。月はいつも傾いているよ。そのように言うしかない。
しかし秋月で歌えばそうではない。ここで日並(ひなめし)御子のお父さんである甘木の大王が狩で死んだというテーマがある。そこで死んだ父親をしのぶ歌。そして父親が秋月から西の雷山に葬られている。軽皇子(文武天皇)の場合は、お父さんの草壁皇子がべつに大和安騎野(あきの)で死んだわけではない。狩ぐらいは行ったでしょうが。
ですから何のことを言っているか分からない。ただの叙景となって「月西渡 月にしわたる」の持っている意味がまったく違ってきている。月は西に渡らなければこまる。
以上、歌の理解はこれで解決が出来ました。しかし私はげっそりした。軽皇子とは文武天皇のことである。七百一年の時の天皇それ自身。『万葉集』巻一・二は、その時の天皇である文武天皇に献上されている歌と理解できます。他に文武天皇以後の歌はない。それに各天皇ごとに分かれていますから。その歌が実は盗作で、しかも九州の日並(ひなめし)御子と飛鳥皇子(筑紫の君薩夜麻)のために人麻呂が作った歌。それを盗んでおいて、文武天皇のために移し替えた。薩夜麻のために作られた歌を盗んでおいて、『日本書紀』では薩夜麻を卑劣漢扱いした。このようなやり方はやりきれない。実にスキャンダルな問題である。私は別に文武天皇が嫌いだからとか、(近畿)天皇家が嫌いだからというようなことはぜんぜんない。論を進めていくと、このような理解となる。このような事実を、簡潔な形で指摘せざるを得ない。それを日本人が自信を持つために天皇家を何とか悪く言わないように誉めようと言ってもダメですよ。天皇家は出生に関してスキャンダルスな手法を用いた。率直にそう言わざるを得ない。そのことを見過ごすわけには行かない。もちろん日本人はすばらしいとは思っています。縄文人は縄文土器を自然から模倣して作り、人類として発明した。そのことと天皇家は、出生にスキャンダラスな手法を用いたということをごまかすことは出来ない。
それでは時間がないですが、明日香皇子(筑紫の君・薩夜麻)のお母さんの歌について一言だけ言っておきます。
一九六番(読み例)
明日香皇子殯宮の時柿本朝臣人麻呂作る歌一首并に短歌
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に
生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ
枯るれば生ゆる なにしかも 我が嬰児(みどりご)の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば
川藻のごとく
かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に
春へは 花折りかざし
秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず
望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし
御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬしかれかも
[一云][しつつ]
朝鳥の通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば
慰もる 心もあらず
[一云][朝霧の]
そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ
御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の形見かここを
短歌二首
明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし[一云][水の淀にかあらまし]
明日香川明日だに[一云][さへ]見むと思へやも[一云][思へかも] 我が大君の御名忘れせぬ
[一云][御名忘らえぬ]
飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡[一云][石浪]
下瀬 打橋渡 石橋[一云][石浪]
生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙
干者波由流 何然毛 吾<生><能> 立者 玉藻之<母>許呂
臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉
夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春都者 花折挿頭
秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不Q
三五月之 益目頬染 所念之 君与時々 幸而 遊賜之
御食向 木P之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴
然有鴨[一云][所己乎之毛]
綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬[一云][為乍]朝鳥[一云][朝霧]
徃来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船
猶預不定見者 遣<悶>流 情毛不在 其故 為便知之也
音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将徃
御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此焉
短歌二首
明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有萬思
[一云][水乃与杼尓加有益]
明日香川 明日谷[一云][左倍]将見等 念八方[一云][念香毛]
吾王 御名忘世奴[一云][御名不所忘]
校異
<> -> 朝臣 [金][紀][温]
生 -> 王 [金][紀]
乃 -> 能 [金][紀]
如 -> 母 [金]
預 [西(左筆)] 豫
問 -> 悶 [西(訂正)][金][類][温]
この歌について少しだけ触れておきます。この歌が変なのです。それは前書きが天智の妹に対して歌っている歌と書いてあります。つまり歌はまえがきでは、女性が死んだときに歌われた歌となってますが、実は男性に対する歌である。なぜなら「宜しき君が」とありますが、「君」は、女性が男性に対して言う言葉です。もう一回後の方に「通わす君が」とありますが、この「君」も男性を指す言葉です。最後のところのオウキミ、これはキミと読んだ方がよいと思いますが「王(キミ)」も男性を指す言葉です。ですからこの歌は一貫して男性に対する歌です。ところが前書きの方は、明日香皇女という天智の娘である女性が死んだときの歌です。前書きと歌の内容がまったく男女逆なのです。これを歴代の研究者がどうやって理解していたのかまったく不思議です。歴代の研究史をみても笑ってしまう。そういう問題があります。
それから今度は、次の解釈です。
我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし・・・
吾<生><能> 立者 玉藻之<母>許呂 臥者 川藻之如久 靡相之
これ変だと思いませんか。女性にしても変ですがまして男性ですからよけいに変です。寝(臥)れば川藻のごとく、立てば玉
藻のようにとありますが、これは形容になっていると思いますか。皆さん立って玉藻のような姿をしてください。川藻のごとく寝てください。そんなことは出来ますかね。ところがこれは原文と違う。「我が大君の 吾<王><能>」のところの「王」は「生」です。これは元暦校本・西本願寺本、ぜんぶ供に「生」です。江戸時代の後世写本だけが「王」です。ところが万葉学者は後世写本に従っている。私は元暦校本・西本願寺本に従う方針ですから、それで考えてみますと「生」です。それでは「生」とは何か。これも「生」も、一時表記で「嬰児(みどりご)」、生まれたばかりの赤ちゃんです。これで読みますと
我が嬰児(みどりご)の 立たせば
玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし
吾<生><能> 立者 玉藻之<母>許呂 臥者 川藻之如久 靡相之
これなら分かるでしょう。嬰児(みどりご)が、川の中で玉藻・川藻のごとく育った。
次に、
宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや
宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉
その嬰児(みどりご)が大きくなり青年になって朝宮・夕宮に来ておられたのが、来なくなった。つまり戦争から帰ってこなくなった。
それで、この歌は結論から言いますと、結局赤ちゃんが飛鳥川というところで、産湯に浸かった。お母さんと赤ちゃ産んが、産湯に浸かった。その嬰児(みどりご)が大きくなりその青年になり、朝宮・夕宮に来ておられたのが来なくなった。戦争に行って、帰って来なくなった。それで形見がないので、赤ちゃんが産湯につかったこの場所を形見にしよう。このように決まる。
それを今のように変な天智の娘にしてしまった。このように、ずいぶんひどいことをする。
神と人麻呂の運命 二 州柔(つぬ)の歌(『古代に真実を求めて』第五集)
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