『古代に真実を求めて』第五集へ
神と人麻呂の運命1・2・3 へ
二 州柔(つぬ)の歌(講演、下にあります。)
講演記録 二〇〇二年一月一九日 大阪市北市民教養ルーム
古田武彦
古田でございます。天気が良くてよかったと思っております。またなつかしいお顔を拝見して再会できたことを喜んでおります。
さて、その後ぞくぞくと新しいテーマが出てきましたので、それを中心に話をさせていただきます。昨年東京古田会の主催で行われた「丹波・但馬の旅」に同行させていただきました。十九名の方と行きましたが、このような旅もよいですね。バスの中・見学の途次に会話をかさねながら、いろいろ新しい発見がありました。
そのなかの一つが姥捨(おばすて)伝説。あれもどうもおかしいのではないか。姥捨(姨捨とも表記)。場所は言わなくても分かると思いますが、長野県の松本市と長野市の間、千曲川沿いの杭瀬下(くいせけ)という、すこし長野寄りのところにあります。姥捨山、正式の名前は冠着(かむりき)山というところ。そこに姥捨伝説があります。作家・深沢七郎さんの『楢山節考』として有名になりました。これに、私はなにも文学として、けちを付けたり批判する気はまったくありません。文学はフィクションですから。しかし私は、これは歴史事実というか、歴史的伝承としては、この話はおかしいのではないか。このように考えはじめた。
なぜかと言いますと、「老人」と言いますのは村の生き字引です。しかもまさかの時の生き字引です。たとえば黒沢明監督の『七人の侍』。どうも強盗団がこの村にも押しかけてきそうだ。どうしたらよいか。そこで老人に相談しますと、「むかしもそんなことがあった。野武士を雇ったことがある。」と言われ、村でやりましょうということになった。そこで侍を雇って防いだ。老人がまさかの生き字引であることが見事に語られております。学校や百科事典がある時代ではないですから、農民にとっては老人が、いざというときの生き字引になる。そのようなまさかのときの生き字引である老人を、もう要らないから捨ててしまえ。そのような考え方を、はたして農民がするでしょうか。これが、まずおかしい。
それから姥捨(おばすて)というからには、女であるおばあさんを捨てる。しかし私が言うのですから間違いはないですが、だいたい役に立たないのは爺(じじい)のほうです。本業というか仕事を離れると家の中で壁を見てばかり。うろうろしていても何の役にも立たない。おばあさんのほうはたいへん役に立つ。職場が家庭ですから、家中では名人クラス。若いお嫁さんでは太刀打ちできない。ですから捨てるのは、じじいから捨てればよい。しかし爺捨(じじすて)伝説というのは聞いたことがない。もっぱら姥捨伝説。これもおかしい。
それから信州ですから、山は奥が深いだろう。しかし日本列島で、信州以外は山深いところは少ない。そこではどうしたらよいか。もし捨てるのなら海岸。捨てる時がくれば海岸の断崖に、親を連れて行って突き落とせばよい。そうしますと日本中のいたるところの絶壁に、親を突き落としたという伝説がなければならない。しかし、そのような話は聞いたことがない。それでは信州の人だけ特別に親不孝か、人情がうすいか。私も信州に縁があって松本深志高校で六年間教師をしていました。その経験からしまして、しかしまったくそんなことはない。私が何かやると駆けつけてもらっていて、あれくらい人情深い人々はいない。ですから信州の人だけが、とくに人情がうすいというようなことは考えられない。
それから、もしも親を捨てるようなことがあれば、このことは各家、各家にとって、ものすごい痛切な伝承なわけです。わたしの家では、むかし何歳になればどこへ捨てに行った。何代前に、こういうことがあった。どこの山の崖に捨ててきた・・・。それはどんな伝承よりも、それは胸を掻きむしられる家々の、最大の伝承ではありませんか。それがあったら、今は柳田国男、折口信夫など民俗学の大家のお弟子さんがたくさんいます。その方々が記録しないはずがない。これはどうでしょうか。ですから、やはり姥捨という事実はないのではないか。
もし仮にそのような事実があったとしても、あまり誉めた話ではない。内緒にしたい話ではないか。それを駅名(姨捨=おばすて)や、まして地名にするというのは、絶えざるコマーシャル。地名というのは一番のコマーシャル。なぜそんなことを威張ってコマーシャルをする必要があるのか。おかしいのではないか。それで私はこの話は、いかがわしいと感じた。
それでは一体なにか。あれは姥捨(おばすて)伝説、本来の意味を取り違えているのではないか。まず姥(オバ、もしくはウバ)ですが、女の神様、その女の神様に使える巫女(みこ)ではないか。この場合、若くとも年をとっていても関係はありませんが巫女(みこ)を「ウバ オバ」と言っていたのではないか。次は捨(ステ)の「ス」ですが、あれは「住む」という動詞がありますが、その動詞の語幹が「ス」。現在は「ス」と言いますと、鳥の「巣ス」ぐらいにしか使いませんが、昔は人間の住んでいるところも「ス」だった。その証拠が兵庫県須磨・明石の須磨(すま)です。「住ス」は住まいの意味ですが、「マ」は日本語に多い接尾語です。九州の例では鳥栖(とす)という駅があります。このように日本語には多い。「テ」は簡単でして「周辺」を指す言葉です。たとえば井手さんという名前。これは井戸を管理する役目をしていた名前です。その井戸の周りに住んでいたから、それをほんらいは誇りにした名前です。同じく松本市一番の商店街は「縄手通り」。ほんらいは神社があってそのあたりに注連縄が張ってあったから「縄手」。この前大阪高槻で講演しましたが、公民館のあるところが「磐手」。磐のあるところ。このような例は日本中つぎつぎ、あげることができる。
ですからここは信仰の場所「姥捨おばすて」、本来の意味は、巫女(みこ)さんたちの住んでおられる信仰の場所。そういう意味の地名ではないか。
それでは、なぜ信州か。なぜ女性の神に仕える巫女(みこ)さんなのか。これも結論から先に言いますと、縄文時代の神様は女の神様です。いつも言っていることですが縄文時代は土偶が出ます。この土偶の九五パーセントはオッパイがある。女性なのです。ですから縄文時代というのは女中心の時代です。するとやはり、その女性の神様に仕える人も女性です。巫女さんたちが、神に仕えるのです。
日本の神社で神に仕える人の多数は女性の巫女です。そして男性の宮司さんが威張っているというか、中心になっています。あれは巫女さんたちが縄文の姿。それが弥生以後、男性が威張ってきた。それを示している神話が、『古事記』神代の巻のイザナギとイザナミの話です。「あなにやし 良い男だ。」と、イザナミが先に言った。後でイザナギが「あなにやし 良い女だ。」と言った。そうすると障害をもった子ヒルコができた。だから流した。それで、どうして障害のある子ができたのか、天神(あまつかみ)のところに相談に行っら、それは男が先に言わなければダメだ。女が先に言ったから失敗したと。それで男が先に「あなにやし 良い女だ。」と言い直したら、うまくいった。この話です。
この興味深い話は、女性中心の時代から男性中心の時代に転換した弥生の神話です。縄文時代は、女性中心におこなうのが自然だった。ところが、それだったら失敗する。男性中心に転換する時代につくられた神話である。それでは神様を祭るのに全部男性で取り仕切ればよいのか。それはできません。神に仕えるのは女性です。縄文以来の伝統が生きている。それが日本の神社の姿である。それまでは女性が神様を祭っていたので、男性だけでは納得しないだろう。なんとなく男性の宮司だけでは居心地が悪い。それで女性の巫女も生き残った。妥協の産物である。本来は時間帯が違っていて、女性ばかりが早い段階。男性が遅い段階。男性が遅い段階で入ってきたから巫女(みこ)さんが必要である。
元に戻り、この「姥捨おばすて」という地名は、縄文時代に巫女さんたちが住んでいたあるいは、お祭りを行っていたところである。そのように理解すればよい。そうすれば日本全国各地にウバ・オバという地名はたくさんある。東方地方にはウバダニ、ウバガヤ。九州にはウバズカ。そういうように、たくさん姥(ウバ)地名があるのに、爺(ジジ)地名はない。なぜ無いのですかと問われれば、弥生以後の地名とすれば説明不可能である。しかし弥生より前の地名とすれば、「ウバ」という地名の説明ができる。
それに縄文土器がたくさん出てきていることはご存じの通りだ。しかし土器ばかり出てきて、その土器を使った人々の地名や神の名前は蒸発して消え去った。そんな馬鹿な話はあり得ない。当然地名に縄文語はとどめられている。この考えは当たり前と言えば当たり前のことです。ですが多くのいまの人々は当たり前のことと思っていないし、学者の方々も異議をとなえられる。ですが私は、地名に縄文が残っているという例は、いくらも挙げられる。
これに関連してぜひ付け加えなければならないことは、八丈島という伊豆諸島の一番奥にある大きな島の問題です。そこに丹那婆(たんなば)伝説があります。これは八丈島に海の津波というか洪水があり、全島消滅した。そのとき船の舳先(へさき)にしがみついていた女性、丹那婆(たなば)一人が助かった。全島民死んで、彼女一人が残った。実は二人である。彼女は妊娠していてお腹に子供がいた。やがて彼女のお腹の中から、男の子が産まれた。その二人の子孫が現在の島民である。そのような有名な丹那婆(たなば)伝説が八丈島にある。
この話・伝説を私は行ったとき聞きましたが、「まてよ!」と今回考え直した。考え直したのは、八丈島が全島海に沈んだことは本当にあるのか。私の感覚では、八丈島にもかなり高い山がある。ですからあの高い山まで全島海にしずんだということはないのではなかろうか。それで島の教育委員会の方、もちろん土地の方に聞いてみた。「全島、海に沈んだ形跡はあるのでしょうか。」と尋ねますと、「さあ? そんなことはないですよ。」と、常識通りのお答えがあった。
それで、私は何を言いたいか。全島沈んだという話はウソ。ありえない。それでは何が沈んだか。そこで問題になるすばらしい縄文遺跡がある。倉輪(くらわ)遺跡という遺跡です。この「倉くら」は神聖な祭りの場を意味する「クラ」という縄文語。「輪ワ」も「三輪」などと同じく祭りの場を意味する縄文語。その二つの言葉が組み合わさった非常によい言葉です。その倉輪(くらわ)にホテルを作りました。そのホテルの隣を、プールを作るために掘りました。そこは一方が海に面していて、三方が山にかこまれている平地です。掘ったら、すばらしい縄文遺跡が出てきた。この倉輪遺跡は二つの意味ですごい。一つは時間帯が縄文の前期から中期。皆さんご存じの青森県三内丸山。これは縄文前期から中期です。前期から中期ですから、三内丸山と同時期です。これが一つ。もう一つは出てくる土器がすごい。広大な日本各地の土器が出てたくさん出てくる。関東地方はもちろん、東海、近畿、北陸、東北地方からの土器がぜんぶ出てくる。あんな狭いというか、猫の額のようなところ。そこから各地の縄文土器が、ぜんぶ出てくる。これは何かと言えば、今言った各地から、ぜんぶ船に乗ってこの島に集まってきていた。そういうことである。まさに人々の結集の原点。のちに出雲に神無月に神々が集まるという話があります。それよりずっと早い時期に倉輪(くらわ)に人々が集まって来ていた。そのような痕跡が出てきた。その実物が市庁舎を改造した、小さいけれども充実した資料館に展示してありました。(今、そのホテルは倒産)
それから先は私の考えです。洪水があって「沈んだ」のは、この倉輪(くらわ)遺跡ではないか。当時は遺跡でなく神聖な祭りの場である。縄文前期の中心だったこの倉輪(くらわ)が全滅した。いわゆる縄文海進、氷山の氷がとけて海の水位が上がったことがあります。とうぜんあの倉輪(くらわ)遺跡も沈んだ。その遺跡は、そんなに海から高くない。その時に巫女さんでしょうが、彼女一人が残った。その話ではないか。
これも私は好きな話です。お母さんと、あと息子がいれば、ほかに誰もいなくても、人間は再び勢いを取り戻す力を持っている。そういう活力を示す。すごい話でしょう。
次に「丹那婆たなば」とは何かという問題ですが、「丹波・但馬の旅」のときに「丹波たんば」は、「谷葉タニハ」の音韻が変化したものだと説明書きがありました。私はこれなら理解できると考えました。舞鶴など丹波地方は谷が多いですから。そして「葉」そのものは木の葉であり、広い場所を言います。谷々がたくさんある広い場所が「谷葉タニハ」です。それが音韻変化して「丹波たんば」になった。この説明はひじょうによく分かる。ですから水がひじょうによい。水が若狭のほうに水がどんどん集まってきます。お水取りでも、わざわざ奈良から若狭に水を取りに来ます。
それで「丹那婆たなば」の「丹タン」は、ほんらいの「谷タニ」が音韻変化したものです。「那 ナ」は、これは周辺・あたりを意味している。福岡県博多でも「那ノ津」がありますが、水辺の「津」の周りの土地を「那 ナ」と言います。(「太那(たな)<大いなる水辺の地か>」)。陸でも、海でも川でも、水辺の場所を「ナ」と言います。
ですから「丹那タンナ」はほんらい「谷那タニハ」です。倉輪(くらわ)遺跡は、三方が山の谷底の平地で、一方が海に面している水辺の土地でしょう。自然地形と合いピッタリですので、ひじょうに自然な地形名詞です。
最後に付いているのが、ウバのバですが、これはおばあさんではありません。おばあさんでは子供を 生みはしません。中年ぐらいの女性でしょう。これも巫女さんを「婆バ」と呼んでいる例です。ですから「丹那婆たなば」は倉輪(遺跡)にいた巫女さんを表します。そして「丹那婆タナバ」は縄文語である。もっと正確に言いますと、縄文中期末以前の縄文語であるという時間帯を示す貴重な例であると考えます。
以上「丹波・但馬の旅」の中でいろいろ考えましたが、ですがそれは机の上で考えられることである。やはり現地に行って確認しなければならない。私は二十七才まで教師として信州におりましたが、そのときは問題意識が無かった。それで現地に行きました。まずお寺(長楽寺)があり、その和尚さんに話をお聞きしました。つまり姥捨(おばすて)伝説は、ものすごい痛切な伝承なわけです。「わたしの家では、むかし何歳になればどこへ捨てに行った。何代前にこういうことがあった。どこの山の崖に捨ててきた。このような伝承はあるのでしょうか。どうでしょうか。」と、お聞きしました。返事は、やはりそんな話は聞いたことがない。それで「私どもは困っています。そんなことはないと言っても全国各地から問い合わせがある。どこへ捨てたのか。あのような有名な小説もあるのにウソのはずがない。あなたの方がウソを言っている。」と言う。そのように言われ、「無い。」と言っても信用してもらえない。「それで本当に困っています」と。それで私の考えを述べると、「ぜひ文章にして発表してください。助かります。」と和尚さんに激励され、意気投合した。
それと、やはり秋田孝季の名言通り、現地を確認しなければならない。文献だけでは分からない。
それでこの山(姥捨伝説のある岩山。冠着山のことではない)を見て分かったことは、この山そのものは十五メートルぐらいの小山です。そこに登ってみてみますと、美しい千曲川がうねって流れているのが見える。その川の周りに集落が点在している。家が目の下に見える。こんなところで、姥を捨てるはずがない。捨ててもすぐ(自分で)家に帰れる。まして逆に山の近くに元気に住んでいたお爺さんやお婆さんには、日本アルプスは知りつくした山々だ。このような場所で捨てても仕方がない。現地に行けば分かる。
それでこの十五メートルぐらいの山は、山全体が美しい岩山である。もちろん地殻変動で、火成岩が姿をそのように変えたにすぎないですが。
そこから先は私の考えですが、月にこの岩山が反射すると、ひじょうに不思議な乱反射がおこると考えます。乱反射して輝きをおびる。私が見たのは昼間でそれほど目立ちませんが。と言いますのは、ここで芭蕉が俳句を作っています。いまでも旧の八月十五日、現在ですと九月半ば、全国俳句大会が毎年一回ここで行われます。もちろん夜やるのでしょうが。そういう風流な光景がある。ですから江戸時代はもちろん現在でも風流な光景でしょうが、古代の人々には神秘な輝き。月読尊(つきよみのみこと)が祭られています。月の神様の神秘な輝き。このように考えたと思う。だから巫女が、夜祭りでしょうが、お祭りの儀式を行った。
ですから行ってみて良かった。やはり現地に行かなければならない。現地の様子が実によく分かりました。この問題は私にとって、ひじょうにすばらしい収穫となりました。なぜならば個々の例では、何回も論証し、現地も確認しましたが、ここでもまた縄文地名がかなり現代に残っている。しかもウバステだけでなく、ウバダニ、ウバガヤ、ウバズカも縄文地名であることが分かってきたのでございます。それと同時に、中近世にほんらいの意味を忘れて屁理屈、おもしろい屁理屈をつけるということも分かってまいりました。中近世は「スバステとよぶから、婆を捨てたのだろう」。そのような話を作り、それをまた小説家がそれを元に脚色している。そういうことが分かってまいりました。
歌の全体の解説は、「柿本朝臣人麻呂 州柔つぬの歌」をご覧ください。
第二のお話は、『万葉集』の柿本朝臣人麻呂の州柔(つぬ)の歌です。これは、前に一度、準備しておりましたが、時間がなくて割愛しました。改めて端的にお話しさせていただきたい。
昨年は万葉に関係する本を二つ出すことができました。一つは四月に『古代史の十字路ーー万葉批判』という本で、もう一つの本は一〇月、これも内容は万葉に関係する本ですが、『壬申大乱』という本を出すことができました。どちらも東洋書林さんから出しています。ところがその二つの万葉に関する本にまだ入っていない、実質的にはそのあと見つけたものですから、それが今日の話でございます。
万葉集・卷二・百三十一番の歌を見ていただきますと、
「石見(いわみ)の海(み) 角(つの)の浦廻(うらま)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津の ・・・・」と、続きます。
この歌の反歌は大変有名でして、
「笹の葉は み山もさやにさやげども 我れは妹思ふ別れ来ぬれば」
この歌を斉藤茂吉が、万葉最高の歌であると絶賛しました。私も旧制広島高校時代に中島先生から、お聞きしたことがございます。それの長歌。
この「角 つの」がどこかについて、通説では、島根県の江の川(ごうのかわ)。そこの河口に江津(ごうつ)市の右側に都野津(つのつ)町、そこであろうと、言われています。「都」という字を当てていますが、語源は「津」ですから、ここでよいだろう。そのように考えられています。この川の上流が、広島県三次(みよし)盆地で私が少年時代を過ごしたところです。江の川(ごうのかわ 支流は馬洗川)で、だいぶ泳ぎました。
それは良いですが、この歌には「浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも」と歌われている。つまり浦はない。潟はない。そのように歌われている。
しかし海岸ですから、とうぜん浦も潟もある。それで万葉学者は、契沖、真淵以来、最近の澤潟久孝さんにいたる全ての万葉学者は、どのように解釈しているかと言いますと、良い浦がない。良い潟がない。「良い」という字はないが、「良い」という字をつけて解釈する。つまり良い浦はない。良い潟がない。「良い」という存在しない字をつければ、言葉の解釈としては理解できます。ですが、やはり歴史は足にて知るべきものなりで、ざんねんながら現地に行きますとダメです。なぜならここの海岸は、出雲もまた浜田の海岸も、同じような海岸です。とくに港がないとか、浦がないとか、潟がないなどと、言われることもない普通の海岸。特に悪し様に言われるようなこともない。特に良くもないが、特に悪くもない。当たり前の海岸である。なぜ人麻呂は、それを「良くない海岸」とするか。そういう意味で歌ったのなら現地では、よく分からない。
それからもう一つは、よく見れば後の長歌(万葉百三十五番)もおかしい。「つのさはふ 石見の海の 言ことさへく 辛からの崎なる 海石いくりにぞ 深海松ふかみる生ふる・・・」となっていますが、「言さへく」という言葉は、言葉が通じないという意味です。それに「辛の崎なる」なると歌われていますが、石見には「辛の崎」がないのです。それで学者が困っています。
それで時間の関係で結論から言わせていただくが、じつは重要な「つの」(角)という言葉があります。これは「つぬ」ではないか。その「つぬ」は、『日本書紀』に書かれている、百済の都の「州柔」です。これは、「つぬ」と読まれています。白村江の海戦、それの半年前ぐらいから陸の戦いが行われています。『日本書紀』斉明紀や天智記にさかんに表れてくる地名です。
はたして「州柔」が「ツヌ」と読めるか。この問題ですが、結論から言いますと、まちがいなく「ツヌ」と読めます。
岩波古典大系の読みを付けたのは、有名な国語学者である大野晋さん、彼に電話をして「州柔」が「ツヌ」と読めると確認しました。一時間あまり電話をしまして、大野さんは、その注釈をつけた当時のことを思い出されながら確認されました。「つ」という字は、もともと「州」という字を略してできた字でもあり、「州」を「ツ」と読むことは、『続日本紀』・『日本書紀』でも幾つも書かれてあり、問題はありません。大野晋さんが読みをつけるとき、考えたのは「柔 ヌ」です。これは漢音で「ジュウ」、呉音で柔和の「ニュウ」と読みますが、ここは呉音である。そうしますと「柔」を「ヌ」と読むほかはない。いろいろ考えられたが、現在でも「州柔ツヌ」と読むことに間違いはない。そういう、ご返事だった。当時の記憶をたどりつつ、話の後半でははっきり思い出されて「州柔ツヌ」と読むことを語ってくださいました。
それで、その百済の都が州柔(つぬ)なのです。そうすると大事なことは、この都は海岸ではない。海岸からすこし奧に入ったところなのです。そうしますと、この州柔(つぬ)は、自分の恋人のいる故郷の津野(つの)と違って、浦はないけど、潟はないけど。しかし浦はなくてもよい。潟はなくてもよい。わたしは石見にいる津野(つの)のあなたのことを思い続けているだけです。そういう歌なのです。
これなら意味がよく分かります。だいいち「言ことさへく カラの崎なる」という言葉になにも悩む必要はない。ことばが通じない韓国に決まっている。
(百三十六番)「青駒が足掻きを早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける」
人麻呂は、白村江の戦い、(その陸の戦いに、)に出ていって戦っている。かなりの身分のようです。「青駒が・・・」という言葉が出てきますので、一兵卒ではないが、白村江の戦いに出ていっている。(人麻呂の)恋人は故郷の石見に帰っている。そこで作った歌である。
これも研究史をたどってみると、論争と言えるかどうか分かりませんが、おもしろい、かくされた論争というべきものが、交わされています。
それは人麻呂の奥さんが作った歌があります。
(百四十番)「な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ」
もう自分のことは思ってくれぬな、と、こうあなたは言われるが、しかし今度お会いするときは、いつだと分からないのに、どうしてあなたのことを恋い慕わずにおられましょうか。わたしはあなたのことを、いつも慕い、おもい続けております。あなたが自分のことをもう想うな。そう言われても無理です。
長歌のほうは人麻呂が故郷に帰ったあなたのことを、いつまでも想い続けている。後半はそればかり書いています。これに対してこの反歌ですが、賀茂真淵、本居宣長の先生ですが、彼はおもしろいことを言っています。これは人麻呂の晩年の歌。現在の普通の理解では人麻呂は、晩年石見に行ったことになっていますから。年をとった人麻呂が作った。そうすると奥さんと二人とも、たいへん情熱がありすぎる歌です。そこで、この奥さんは、若い妾(めかけ)に相違ない。その意味は、その心は、つまり普通に言われているのは、官僚であって晩年石見の国にいるのなら、仮に大和に行ったにしましても、二・三カ月いないか、それでなくとも一年ぐらいで帰って来るではないですか。それなのに、このような情熱的な歌をかわすというのは、おかしい。だから真淵は考えた。この歌は人麻呂の晩年だから、このように情熱的を女性に燃やすのは婆(ばばあ)ではなくて、若い十代ぐらいの妾だ。その若い妾は、若いから情熱的だ。よく考えた理屈ですね。そのように書いてある。ところが後でこれが論議の種となる。国学者が怒る。真淵先生ともあろう方が、こんな不謹慎なことを言う。とんでもないことだ。とくに明治以後の、有名なかなり国粋的な国語学者がいて怒る。真淵は亡くなっていて論争にもなりませんが。
ですから研究史上で、この真淵の説は存在しているが、なんとなくみんな敬遠されていた説です。しかしわたしから見ると、この説はたいへん意味の深い説です。
たしかに普通の意味で夫婦の対話、石見からたかが大和へ行くぐらいで、このような歌になるはずはない。言葉を正確に観察すれば、そのようになるはずです。ところがそうではなかった。これも前書きは嘘(うそ)です。
実は、この歌は人麻呂の若い時の歌、白村江の陸戦に出て行っている歌。身分はあるでしょうが。将校・将軍として行っている。将軍としては言い過ぎでしょうが。それで奥さんは、故郷の石見に帰っている。元はどうも博多あたりにいたらしい。「雲居にぞ」とありますから、天子の側にいたらしいのですが、それが別れ別れになった。それで自分はいま百済の都・州柔(つぬ)に来た。いま自分の恋人は、日本の石見の角(つの 津野)にいる。この州柔(つぬ)は浦はないけども、潟はないけども。海から浦や潟を通ってきたけれど。しかし、わたしは津野(つの)にいるあなたのことを思い続けてばかりである。すでに戦況は、一刻一刻と不利になるばかりであったのではないでしょうか。新羅と唐の連合軍に対して、百済と倭が戦っている。非常に不利になってきている。しかしわたしは、あなたのことを思い続ける。妾説など出さなくともよい。これは非常に優れた歌です。妾さんなら、もう少し、ふざけているというか、コミカルな歌になるのでは。そういう関係でなく二人がほんとうに緊張した関係。「な思ひと君は言へども」という言葉も非常によく分かるではないですか。人麻呂が、俺のことは、生きていると想ってくれるな。死んだと想ってくれ。そうしますと奥さんの歌がピシャッと分かります。
以上、これで人麻呂の歌が、従来の万葉で理解されている人麻呂では、まったく頓珍漢(とんちんかん)である。そのことはわたしの二つの本で、くりかえし述べました。簡単に縮めて言いますと、
万葉集 二百三十五番
皇者 神二四座者 之 天雲之 雷之上尓廬為流鴨
皇は 神にし 座せば 天雲の 雷の上に 廬せるかも
すめろぎは かみに しませば あまぐもの いかずちの うえに いほり せるかも
あまりにも有名な歌です。わたしも戦争中は耳にタコができるぐらい聞かされたあの歌。天皇が現神(あらひとがみ)であるなによりの証拠として憲法の解説にあげられた歌です。あの伊藤博文の『憲法義解』の中で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ。」の根拠とされ載せられていました。しかし歴史を“足にて”知らなかった。飛鳥に行ってびっくりした。現地の雷丘(いかづちのおか)へ行ってびっくりした。高さが十数メートルぐらいの小さい丘です。上がるのに四・五分もかからない。あそこへ上がってみたからと言って、それが天皇が生神様であらせる証拠であるとは、なにをオベンチャラ言っているのか。しかも「天雲の 雷の上に」と書かれてあるが、あんな十数メートルの丘に雨雲がかかるわけがない。大嘘の話。
ところが、これをいま九州雷山(らいさん)、博多の西隣の前原(まえばる)、それと佐賀県との間の背振山脈。その第二峯の雷山(らいさん)。そこに行くと雷(いかずち)神社がある。上社、中社、下社とあり、上社のことを「天の宮あまのみや」、中社のことを「雲の宮くものみや」と呼ぶ。そのことは千如寺というお寺の、江戸時代の地図にも残っている。雷山(らいさん)の高さは九五五メートルだから、三方が博多湾、玄界灘、唐津湾に囲まれていて、いつも雨雲が立ちこめている。わたしも何回も上がりましたが、一日中晴れていたのは一回だけです。いつも雲が立ちこめています。ですから雷山は実際経験から言っても、「天雲の 雷の上に」という通りです。現地伝承でも、天の宮・雲の宮と言っている。それをバックにしての「天雲の 雷の上に」という言葉は、非常に分かりやすい。それに雷山は倭国の代々の王者、このわたしがいう九州王朝の代々の墓地なのです。それを社(やしろ)のかたちで祭っている。だから「皇」は「おおきみ」と読むのではなくて、「すめろぎ」と読むべきです。
神道では、生きているときは人間で、死んだら神様になる。仏教では生きているときは人間で、死んだら仏さんになる。女遊びやばくちで、さんざん家族や人を困らした人間でも、バッタリ死んだら「○○命」と神様になる。その日から神様になる。そういう日本ですから、代々の王者も死んだら神様になっておられる。それで天雲のかかる雷の上に廬(いほり)をしていらっしゃる。実際には雷山にある社(やしろ)を、廬(いほり)と見立てています。
なぜ社を廬と見立てたのか。白村江の戦いで負けて、民の生活はさんさんたるものになった。民の廬(いほり)は、荒れ果ててしまった。しかし九州王朝代々の方々は、社を廬として、平穏にお過ごしになられている。しかし民の廬は、荒れ果ててしまいました。すばらしい歌ですね。要するに、現在のリーダーが、白村江の戦いに出ていって戦った。そのため民の廬(いほり)は、荒れ果ててしまった。しかしあなたがたはそういう馬鹿なことをしなかったから、平穏にお過ごしになられています。ものすごい歌です。五・七・五・七・七の中に、あれだけの歴史や思想をふくめられるのか。
それともう一つ、天武の子供、長皇子を歌ったとされる歌。
万葉集 二百四十一番
皇者 神尓介之座者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞
皇は 神にし座せば 真木の立つ 荒山中に 海鳴りせすかも(海を成すかも)
すめろぎは かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみなりせすかも
この歌の最後の部分は、従来「海を成すかも」と読まれてきた。長皇子が、大和盆地に池をお作りになった。それを人麻呂が、おべっかを言って、「池ではございません。海をお造りになった。」と表現した。天皇は生き神様である証拠である。しかも皇子に対して。こんなことを言うのも馬鹿だが、言われて喜んでいるのも馬鹿である。空前絶後のオベンチャラ詩人である。そのように大和では言える。
しかし、それを同じく九州背振山脈の雷山(らいさん)に持ってゆけば映えてくる。同じく「皇スメロギは 神にし座せば」は代々の王者は死んで、神様になって居らしゃる。「真木乃立」の「真木」、ここでは木の美称です。特定の木を言う場合もありますが。「荒山中」というのは、ここでも「荒アラ」が出てきています。今は立ち入って言いませんが、山の中です。次は「海成」ですが、これは「海を成すかも」ではなくて、「海成=海鳴り」です。福永晋三さんという方が提案され、わたしはすぐ賛成した。人麻呂は雷山で海鳴りを聞いた。三方が海ですから。客観的には人麻呂は雷山で、海鳴りを聞いたにすぎない。しかし海鳴りが、津波をはじめとする大自然の兆候であるというのは現代人の認識に過ぎない。しかし古代人はそうではない。その雷山には九州王朝代々の王者が葬られている。その死者の声が「海鳴り」として聞こえてくる。この世の破滅。九州王朝の破滅の声が聞こえてくる。
ここまで凄い歌を、世界中で見たことがない。ゲーテをはじめ、わたしが見た範囲内の詩人では、これだけすごい王朝に対する批判、民衆の声を含んだするどさを持った歌をみたことはない。
そういうことで、ほんらいの位置からぜんぶ大和に持ってきて、天武天皇や持統天皇の息子の歌につくり換えていったので、じつにくだらん歌にさせられてしまった。それだけではなくて、明治以後は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ。」というために、証拠の歌にさせられてしまった。それで兵士たちは戦場に行かされた。これはたんなる文学の問題ですと言うかもしれないが、決してたんなる文学の問題ではない。
最後ですが州柔(つぬ)の歌に関しては、述べたいいろいろな問題があります。「ニギタツ」一つとってみても、これから論じるべき問題はありますが、本日は立ち入らず、これで終わらせていただきます。
質問2のみ掲示。
人麻呂が歌った歌の州柔(つぬ)の歌についてですが、この歌では州柔(つぬ)は海辺ではないと理解してよいのか。またこの歌でも「潟はなくとも 鯨魚取り」と書かれていますが、そうしますと先ほどイザナギ・イザナミの問題で、勇魚(イサナ)は鯨(くじら)であると言われましたが、この歌でも勇魚(イサナ)と鯨(くじら)は同じでよろしいのでしょうか。
次に人麻呂の州柔(つぬ)の歌の件ですが、言われるとおりです。もっと詳しく申し上げたかったのですが、石見の国は海岸に面している。百済の州柔(つぬ)自身は海岸からはなれている。もちろん海岸から山地に入って州柔に行っている。それを渾然(こんぜん)とミックスさせながら、行ったり来たりして歌っている。それが凄(すご)い人麻呂の力量のあふれるところであると思います。一語一語追っていくと、分かってくると思います。雲居、つまり天子の居るところを離れてきたという表現もありまし、馬に乗って、離れた来たという表現もあります。
もう一度言いますと、石見の国のツノは海岸沿いである。(都野津町)それをイメージして歌っています。現在自分がいる韓国の州柔(ツヌ)は潟や浦はない。しかし海岸を離れて今、ここに来ているのだ。そのような設定で作られているようでございます。
勇魚(いさな)取りの、「イサナ」が鯨(くじら)であることは、言われるとおりです。
関連講演記録 二〇〇二年七月十三日
新古代学の扉事務局へのE-mailはここから
制作 古田史学の会
著作 古田武彦