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さてそれでは、最後のテーマに移らせていただきます。さきほど言いました「丹波・但馬の旅」でおもしろい問題にぶつかりました。
まず若狭湾の気比(けひ)大社、京都の気多(けた)神社。ここへ行きまして感じたことは、どうも「ケ」というのは、神様を意味するのではないか。
記・紀には二種類の神様がある。そのテーマは有名な話です。わたしの先輩の梅沢伊勢三さん。『古事記』と『日本書紀』だけの研究で一生を終わったという方です。その方の研究で明らかにされたことは、記・紀の大多数の神は、あえて言えば七・八割の神は、「カミ」と呼ぶ。あとの残りの二・三割、この比率は私の理解ですが、その神は「チ」と言う。アシナズチ、テナズチ、オオナムチ、ヤマタノオロチ。「チ」というのは神様を意味する言葉である。神様を「カミ」とよぶ言語圏と、違う言語圏では神様のことを「チ」と呼ぶ。このような研究をなされて、この結論に反対する人はほぼいないという状況になっています。
ところが、それ以外にもまだ神様がいる。それが「ケ」である。気比(けひ)大社の「ケ」。この「ヒ」は太陽の「日 ヒ」だとは思いますが、「比」という字を書いていますが。次が京都府宮津市の籠(この)神社の豊受(トヨウケ)大神の「ケ」。この「トヨウケ」の「ヨ」・「ウ」も接尾語・接頭語ですから、本体・語幹は「ケ」。「トヨウケ」の「ケ」。それで考えてみれば、「オバケ」の「ケ」。「タワケ」の「ケ」。我々の世界では、罵倒語に「ケ」の神様をたいへん使っている。
それで「ケ」の神様は、例の『東日流外三郡誌』。これを偽書であるとつまらないないことを言った人がいるが、とんでもない話です。それはともかく、この『東日流外三郡誌』に登場する重要な言葉に、「ツボケ」という言葉がある。津保化(つぼけ)族という人々がよく出てきますが、そこに同じ「ケ」の神様がいる。「ツボ」というのは、私は土器のことだと思います。縄文時代に土器と言ったはずはありません。呼び名がなかったはずもない。やはり「ツボ」と言った。それに神様が宿ると考えて「ツボケ」と言ったと、今も思っています。さらに最近、私が考えたことは有名な遮光型土器。あれが「ツボケ」の中の「ツボケ」ではないか。明らかに神様であることは間違いありません。これも一つの仮説として述べておきます。とにかくツボケ族の「ツボケ」が「ケ」の神様であることは間違いがありません。
そうしますと「君が代」も終着点は、苔牟須売(こけむすひめ)という「ケ」の神様です。
君が代は 千代にやちよに さざれいしの いはをとなりて こけのむすまで
この「千代にやちよに」という言葉にも、さきほどの二・三割の「チ」の神様が存在します。「チヨ」という神様が居られる。福岡県福岡市県庁前近辺に千代。八千代というと、それを広くして言っています。それから糸島郡に移って細石(さざれいし)神社、それからその神社の南隣が井原(いわら)遺跡。井原は岩羅(いわら)です。もう一つ言いますと背振(せぶり)山脈の第一峯が井原山(いわらさん)、第二峯が雷山(らいさん)。そこに見事な鍾乳洞があります。「いわほ(岩穂)」はおそらく、その鍾乳洞に関係するかと思うのですが。それからさらに細石神社から西に行きますと、唐津湾の船越というところの桜谷若宮神社。ここに苔牟須売(こけむすめ)神が祭られている。すぐ北側に観光名所として芥屋の大門(けや の おおと)という非常に雄大な玄界灘に向かっている海の洞窟がある。その「ケ」の神様の社(やしろ)である「ケヤ」に対し、それと対を成し接頭語がついて「コケ」。その「コケ」と呼ばれる神様・苔牟須売(こけむすめ)神の、「こ」は接頭語。「越こしの国」などの「こ」、「け」は、芥屋(けや)、もののけ(物の怪)と同じ“け”である。「こけ」は地名。植物の苔(こけ)は当て字である。芥屋の大門という海の洞窟。「けや」に対して、それと対を成す「こけ」と呼ばれる地帯、地名だと思う。
む ー牟 主たる、主人公という意味
す ー須 鳥の巣、本来人間の住むところも「す」です。鳥栖という地名がある。「住む。」と動詞もある。
むすー 人が住む主たる場所、大集落や中心地を指すと考えます。
め ー売という字ですが、 当然女神、女神中心は縄文の神である。
以上列記したように、君が代は出発点は千代。終着点は船越。途中の神名をつなげてある「神名道中すごろく」のような歌である。その証拠にこの歌が歌われた博多湾の対岸の志賀島。そこの志賀海神社の春と秋の祭礼に、この君が代が歌われるというより語られる。地の歌。
この「道中すごろく」のように、「ケ」の神様は一番えらい。「カミ」の前の神様。「チ」の前の神様。
つまりツボケ族の「ツボケ」の神は、一番古く偉い。「君が代」の神様の前に、「ツボケ」の神がいる。ですから『東日流外三郡誌』を嫌って、偽書にしたい人の気持ちは分かりますが、嫌っていても事実は事実です。
さらに考えてみますと「チ」についても、「この いこぢな やつ。」と言います。あれは「チ」の神様。つまりカミという新しき神の時代になったのに、いつまでも古い「チ」の神にしがみついている保守的な新しい時代を知らない肩ひじをはった奴。
おもしろいのは青森県津軽周辺では、子供をしかるときは「このツボケ!」と叱る。この言葉は子供がぐずぐずしているとか、複雑なニュアンスを含んでいますが、ですがとにかく怒られていることには間違いがない。青森ではこのように言われて怒られなかった人は少ないと思います。このような例は辞書には書かれていない。
もっと凄いのは宮城県仙台です。古田史学の会仙台の佐々木広堂さんが子供の時、親に怒られた言葉が、なんと「このエゾ!」。罵倒語。親が子供をしかる言葉です。もっと南に行きまして、四国愛媛・土佐あたりでは、「このトウジン!」と叱る。四国足摺岬に唐人駄馬がある。この唐人も中国の人の意味の唐人ではない。和歌山にはトウヤやトウバンがある。「トウバン」という言葉、これも中国語ではない。これも神様の役が「トウバン」です。和歌山熊野には、有名なお灯(トウ)まつりがあり、「灯」の字を当てて神社でも説明されているが、私は失礼ながら違うと思う。ともしびの「灯とう」なら、中国語で倭語ではない。それに中国語に、あまり「お」は付けない。お神社、お宮殿とは言わない。例がほとんどない。敬語は倭語に付けるのが大部分である。そうすると、この「トウ」は神様の「トウ」です。そのように考えます。
違う意味で、「うちのカミさんが・・・」「おトウさまが・・・」と使いますが、これらの語源もなにか関係があるのではないか。なにかの参考になるかもしれないので付け加えておきます。
ついでに付け加えますが、『万葉集』とちがって『古今和歌集』を研究する人は圧倒的に少ない。その中で、研究の質・量ともに最大の方に久曽神(きゅうそじん)さんという方がおられる。今度考えてみますと、この方の元の名前は、「くそがみ」ではないか。この「クソ」の「ソ」も神様ではないか。ですからその「クソ」にただの「クソ」ではないと「神」を付けてあります。「ク」は神聖な・不可思議という意味のほめ言葉ですから、この「クソ」は不可思議な神聖な神様という意味に理解できです。そうしますと『東日流外三郡誌』では、津保化(つぼけ)族の前に、阿曽部(あそべ)族という人々が居ました。阿曽部(あそべ)族の「ソ」も神様ではないか。「ア」は接頭語です。そうしますと「ソ」が神様なら分かるのです。木曽の御嶽山の「ソ」。九州阿蘇山の「ソ」。対馬の浅芽(あそう)湾。京都府舞鶴湾は、明治維新までは阿蘇海といわれていた。するとこれらの「ソ」はすべて神様。「ソ」は阿曽部(あそべ)族の神様の呼び名。わたしの父親は高知の出身ですが、喧嘩するときは「こなくそ!」と相手に言うそうです。これもやはり罵倒語ですが、この「クソ」もおなじ神様の意味ではないか。津保化(つぼけ)族の前の阿曽部(あそべ)族の神様。
以上私のいま言っていることは常識論であって、各言語にはそれぞれの種族の神様が居る。無神論の種族・人々はいない。各種族・各言語ごとにそれぞれの神様の呼び名がある。そういう話なのです。
次に誰でも知っている「イザナギ・イザナミ」についてですが、これは鯨のことである。勇魚(イサナ)取り。長崎県五島列島では、現在でも勇魚(いさな)祭りという、ゴンドウクジラをまつった勇壮なお祭りが行われる。そうしますと、男は「ギ」、女は「ミ」をつけて言いますが、じつはこれは鯨を神格化したものではないか。
分かりやすいのは、エジプトでの鰐の神様。鰐(わに)のミイラを夫婦・子供の「聖家族」として崇め祭っていた。神格化していた。エジプトの博物館でフランス人の一団が来て、その説明を聞いて大笑いしていた。馬鹿にしたような笑い方でした。我々はその説明を直前に聞いていたから、どこで笑ったか、よく分る。わたしの考えから言いますと、彼らフランス人の笑いは、無知の笑いである。教養のない笑い。なぜかと言いますと、彼らフランス人にとっては、「聖家族」というのはイエスキリストの家族のことである。イエス・ヨセフ・マリア、その三人を呼ぶことを、子供の時から教会で教えられていた。教え込まれている。だからワニごときを「聖家族」とは、何と野蛮な下らない話だ。そういう馬鹿にした笑い方だった。
しかしこれは、まったく逆です。なぜならエジプト人にとっては、「エジプトはナイルのたまもの」のたとえ通り、ナイル川は大自然のシンボルである。そのナイル川のシンボルは、そこに生きているワニである。だからワニを神として祭ると言うことは、ナイル川の大自然の恵みに感謝して祭るということで、迷信でもなんでもない。それで鰐(わに)を「聖家族」として崇めている。この考えのほうが古い。
聖書(バイブル)は、出エジプト記から始まっているから、新しい。人間を「聖家族」にするという考えは新興宗教です。なぜなら人間を自然のシンボルにする。そういう考えは、言いにくい。人間を「聖家族」にする。そういう考えは新しいし、(本当は)ばかばかしいと言われるに決まっている。しかしそこから、あれだけの偉大なる大宗教が誕生したのです。それはけっこうなことですが。
同じように、日本列島に黒潮が流れてきている。黒潮の「クロ」も、神聖さを表しているようですが、その黒潮のなかには鯨がいます。漁民にとって大自然のシンボルはその黒潮であり、その潮の流れのシンボルが、そこに住む鯨です。ですから鯨を神格化して神にして崇め、大自然の恵みに感謝するものであろう。それでイザナギ・イザナミ。
ところがそれに対して、もう一つの神様がある。それはアラ神。これはアラという魚がいます。下を見てください。木村さんから提供された『さかな大図鑑』です。
『さかな大図鑑』週刊釣りサンデー発行
クエ(ハタ科) Epinephelus moala (Temminck et Schilegel) DXI, 14 15; A III, P18
外洋に面した岩礁の棚や洞穴などに、昼間すみついている。通常は単独で生活している、水深い数十メートルの漁礁に、数十センチのクエが群がっていたとの見聞もある。魚食性であるが、一~二週間に一回摂取している可能性がある。水族館の観察では薄暮活動型で、空腹になるに連れて、夜間の活動頻度が高くなる。体側の六本の斜横帯は成魚で不明瞭になる。雌から雄に性転換すると思われる。五〇~八〇センチ(一五〇センチ)。
分布:本州中部以南~南シナ海。
関東の釣り人はモロコと呼び、九州ではアラという。モロコやアラも、同じような名前をもつ別種のお魚がいるのでややこしい。サシミにしても、ナベにしても最高で、マダイなみの高級魚。南紀や九州ではクエ料理を目玉にする店もある。
クエという魚がありまして、かなり大きな魚です。ところがその魚を九州ではアラという。(図2)ほかにアラと呼ぶすこしクエより小さい魚がいますが、その魚とは別です。
ところで昨年の五月末、松本深志高校時代の教え子である降旗康雄君が、特攻隊の映画『ホタル』の入場券を送ってきました。それで見に行きましたが、その中で高倉健が、特攻隊をやめてから智覧(ちらん)、そこで漁師をしている。天気がよい、会話の中で、「今日は天気がいいな、アラでも取れそうだな」「そうだなアラが取れるかもなあ」という会話がされていました。それを見て、あっと思いました。薩摩でも、そうか。
アラは近海の大きな魚。アラ神というのはそのアラを神格化した神ではないか。それをもったいを付けたのがアラハバキ。ちょうど天照神(あまてるかみ)を、敬語をいっぱい付けてアマテラスオオミカミとしたように。「アラ」に広いという意味の「ハ」のダブリ言語(南方型)に、柵・城の「キ」をつけてアラハバキと称した。本体は「アラ」の神。
ここからは私の論理の組み立て方ですが、とうぜん近海の魚を取るのが最初の漁場である。やがて遠海に拡大していった。そうなりますとアラ神は古く、イザナギ・イザナミは新しい神であるというテーマが発生する。
そうなりますとアラハバキは九州。しかも九州では魚の名前は「アラ」。しかも『東日流外三郡誌』では、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟はアラハバキを奉じて、九州から津軽へ来たとわたしは理解しています。
そこから先、「丹波・但馬の旅」で議論していました気比大社の摂社である角賀(つぬが)神社の祭神、ツヌガノアラシトに関連して、アラヒトカミの問題もありますね、と福永さんに言われ調査を約束した。これは調べてみるとおもしろいですね。この問題も角賀(つぬが)神社の前で、議論しているうちに出てきました。
天皇は現人神(あらひとがみ)である。そういう言葉を、私ら戦前(第二次世界大戦前)生まれの者は、いつも聞かされていた。しかし『日本書紀』・『古事記』を調べてみると、意外や、そんなに出てこない。『古事記』はまったくゼロ。出てこない。『日本書紀』も神代の巻、神武紀はゼロ。はじめて出てくるのが、景行紀。
『古事記』では倭健(ヤマトタケル)は東北へは行ってはいない。『日本書紀』では日本武尊(ヤマトタケル)が東北へ行っている。それもいきなり「吾は、現人神の子なり。」といきなり宣言すると、皆が驚いて平伏する。蝦夷(えみし)が、はいつくばって頭を下げる。それは日高見国であり、そこから帰ってきた。このように書かれている。
アラヒトカミの問題に関連して、先に言わせていただくと、その次に行くのが有名な「吾嬬アズマはや」の話。碓井峠。『古事記』ではヤマトタケルが浦賀水道を視て、嘆いた。この話があります。この話は、近畿では誰も不思議には思わないが、関東では必ず質問がでる。あの話がおかしい。なぜかと言いますと、だいたい碓井峠から、浦賀水道や東京湾はぜんぜん見えない。行ってみた。予想通り。地図で見ても、見えないと考えていて、行ってみて予想通りやはり見えない。それ以上におかしいのは、左手の下方にアズマがある。東京湾の方向を見て、「吾妻アズマはや」と言うわけです。言って悪いことはないが、違う方向にアズマがある。九〇度違った方向に「吾妻アズマ」が密集している。変である。やはり現地に行かなければならない。吾妻町へ下りて泊まりました。その時は、ひじょうに調子よく、行けばすぐに答が分かった。土地の人に聞くと、「我々が碓井峠と呼んでいるのは、列車が通る碓井峠や、その北の元の碓井峠ではありません。今の鳥居峠を指して呼んでいます。」と言われた。吾妻川に沿って信州に上がるところに鳥居峠がある。それを指して、われわれは「碓井うすい峠」と呼んでいます。そのように言われた。
ここから先はわたしの考え方です。推定です。男の神様が、信州へ行く。何を目的に行ったのか。信州は縄文時代はメッカです。諏訪の阿久遺跡(縄文時代後半)から有名な配列された石の遺構(環状集石群)がでて、周辺から集まっていた痕跡がでてきた。当時は遺跡ではない。あの遺跡に神様がお集まりになったという神話が存在していても不思議ではない。ですから鳥居峠に来て振り返る。目の下に、吾妻川があり、吾妻(アズマ)がある。吾妻姫が祭られています。ここから信州に下れば、吾妻(アズマ)は見えない。ですから、そこで「アズマはや」とつぶやいてもなんの不思議もない。ですからピタリと合います。
『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケル)なら、奥さんはたくさんいる。「弟橘おとたちばな媛はや」と言わなければ、「吾嬬はや」では、どの奥さんか分からない。へ理屈を言っているようですが、そのような疑問がありました。しかし今のように考えれば何の疑問もない。ですから明らかに、現地の縄文神話を切り取って張り付けている。この問題は、『神の運命』(明石書店)で論じていますが、それが、アラヒトガミの話の直前にある。
『日本書紀』ではその前に、この東北の話がある。この話がおかしいのは、この話以前に、各地でさんざん「吾は、現人神の子なり。」と言われていなければおかしい。しかしそんな話はゼロ。まったく出ない。『古事記』はゼロ。『日本書紀』でも、この話以前は、まったく出ない。それを今まで見慣れたように、「現人神の子」と名乗るのが、おかしい。
それでは「吾は、現人神(アラヒトガミ)の子なり。」と宣言すると、皆が驚いて平伏するのはなぜか。蝦夷(えみし)たちは「アラヒトガミ」をよく知っている。なぜならば「アラヒト」は、「ヒ」は太陽の日(ヒ)、「ト」は入り口・戸口の意味で、「アラ」は、荒覇吐(アラハバキ)の「アラ」である。それの敬称です。ですから「吾は荒覇吐(アラハバキ)の神の子である。」と、日本武尊(ヤマトタケル)は言っている。「荒覇吐アラハバキの神」でしたかと、蝦夷(えみし)たちは言っている。今までさんざん攻撃されていたから、抵抗してもダメだと思った。「アラハバキ」の名前を出せば、水戸黄門の印篭のように平伏した。その話である。この話が東北で、やはりいきなり出てくるのは、現地神話を切り取ってはめ込んだものだ。
これもひとこと言っておきますと、『万葉集』にアラヒトガミの唯一の例があります。
『万葉集』一〇一九番から一〇二一番
石上 布留の命は 手弱女の 惑ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣じもの 弓矢囲みて 大君の 命畏み 天離る 鄙辺に罷る 古衣 真土の山ゆ 帰り来ぬかも
大君の 命畏み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我が背の君を かけまくも ゆゆし畏し 住吉の 現人神(原文は荒人神) 船舳に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず
この歌は、石上乙麻呂が土佐の国に流されたときの歌です。このとき大阪住江(すみのえ)の住吉大社のアラヒトガミに、波があれないようにお守りくださいとお願いしている歌です。航海の無事を祈願しています。これは住吉大社の三神が祭神です。それが現人神(アラヒトガミ)。住吉大社に確認しますと、そのとおり、お呼びしていますと返答がありました。三神の上筒、中筒、底筒というのは、近海の海域をそのように呼んでいます。遠海の海域ではない。そうしますと、近海の大魚は、「アラ」神。そうであるなら住吉大社のご祭神が、さきの「ヒト」という敬称をつけた近海の大魚を敬称した「アラヒトガミ」。この呼び名がよく分かります。近海の大魚である「アラ」神を神格化しています。九州博多にもあります。住吉大社もおなじご祭神です。
以上この歌が、近海の大魚を「アラ」神と表現した、一番ストレートな例である。
もう一つ、アラヒトガミを表現した有名な例は、『日本書紀』雄略紀の例です。これは記述ははぶきますが、雄略天皇が葛城の山に登っていたら、こちらにそっくりの人が近づいてきた。何ものか名乗れと言ったら、「現人(あらひと)ノ神なるぞ」と答えた。
「アラヒトガミ」について、まとめますと、ほんらいは近海の大魚が「アラ神」。それが東北へ行って『東日流外三郡誌』の世界となり、「アラ神」を尊称して荒覇吐(あらはばき)の神となり名をとどろかした。それが『日本書紀』景行紀に表れています。第二次用法として、人間のかたちをした神の例として、『古事記』にはありませんが、天皇ではないけれど人間の形をした神として『日本書紀』雄略紀に表れていた。おおまかな、これが「アラヒトガミ」の総体図です。それを戦争中は手前勝手に、天皇は現人神(あらひとがみ)である。人間であっても神様である。唯一の万世一系である。そのようなイデオロギーで固めた説明をしてきてきた。
この場合は、じつは『日本書紀』の前史料に、『東日流外三郡誌』の史料がある。もちろん『東日流外三郡誌』そのものは、寛政年間に秋田孝季が類従本として各地の各神社・仏閣を回って収録したものです。ですが、その各神社・仏閣の元伝承をハサミで切って張り付けて日本武尊(ヤマトタケル)の台詞(せりふ)に仕立て直していた。このように考えられる。このようなことから見て、『東日流外三郡誌』の内容は、ひじょうに危険をはらんでいる。だから放っておいたら危ないと警戒したのも無理はない。だから偽書説の人が、いっしょうけんめい走り回った気持ちが分かるような気がする。今でも偽書説で頑張っている人がいるが、もう歴史の真相をひっくり返すことは出来ない。そのように考えています。
以上四つのテーマについて、簡単に述べさせていただきました。いろいろ申さねばならないこともございますが、それは多元の機関誌などで発表させて頂いていますので、割愛させていただきます。
(司会水野)
質問を受け付けますが、一問一答でなくて、質問ぜんぶをお受けしてから、全体をお答えするということにしたいと思います。時間配分の関係でそうしたいと思います。
1)ニニギの神話を分解した政治的目的は何かと考えられていますか。
2)人麻呂が歌った州柔(つぬ)の歌についてですが、この歌では州柔(つぬ)は、海辺ではないと理解してよいのか。またこの歌でも「潟はなくとも 鯨魚取り」と書かれていますが、そうしますと先ほどイザナギ・イザナミの問題で、勇魚(イサナ)は鯨(くじら)であると言われましたが、この歌でも勇魚(イサナ)と鯨(くじら)は同じでよろしいのでしょうか。
3)古賀説では、ニニギの天尊降臨したの時の歌が、神武紀に転用されていると。そうしますと神武は大和に来たことは、なかったことなのでしょうか。(神武紀は空白ではないのかどうか。)
4)レジメにある『東日流外三郡誌』の「那智山熊野宮二景」の絵図や「紀州熊野宮之由来」を見ますと、「耶馬台国王」とあります。そうしますと『東日流外三郡誌』を編集した秋田孝季は、邪馬台国は九州ではなく大和である考えていたようですが、それでよろしいでしょうか。
1,まずニニギの神話を分解した目的ですが、とうぜん(元は)九州中心になっています。ニニギが中心であり、九州が中心であるというイデオロギーです。それが天皇家にとっては、ぐあいが悪い。九州王朝はニニギのことだけ言って、後は知らない。そんなことはない。九州王朝がニニギをコマーシャルに使うのは、九州の太宰府とか筑後川付近を中心にしているのは、自分たちこそがニニギの正統なる(権力の)継承者である。その立場から(九州王朝はコマーシャルを)やっている。それが近畿天皇家にとっては、ぐあいが悪い。ですから(創業者である)ニニギという言葉は使っても、実体はみんな解体して、おいしいところはみんな使いましょう。九州王朝の政治的否定という目的があると思います。これは細部にわたりますと、いろいろ考えて説明しなければならないことがありますが、基本は以上の通りだと考えます。
2,次に人麻呂の州柔(つぬ)の歌の件ですが、言われるとおりです。もっと詳しく申し上げたかったのですが、石見の国は海岸に面している。百済の州柔(つぬ)自身は海岸からはなれている。もちろん海岸から山地に入って州柔に行っている。それを渾然(こんぜん)とミックスさせながら、行ったり来たりして歌っている。それが凄(すご)い人麻呂の力量のあふれるところであると思います。一語一語追っていくと、分かってくると思います。
(編集部注、関連講演記録は、「州柔つぬ」の歌としてインターネットにも掲載されています。)
もう一度言いますと、石見の国のツノは海岸沿いである。(都野津町)それをイメージして歌っています。現在自分がいる韓国の州柔(ツヌ)は潟や浦はない。しかし海岸を離れて今、ここに来ているのだ。そのような設定で作られているようでございます。雲居、つまり天子の居るところを離れてきたという表現もありまし、馬に乗って、離れた来たという表現もあります。
「柿本朝臣人麻呂 州柔つぬの歌」(懇親会談話)(二〇〇二年七月十三日記録)へ
3「神武は空白か。」 これが又おもしろい問題で、古賀さんがいっしょうけんめい取り組んで悩んでおられますが。
私としては、神武が大和盆地に来て支配をした。それも、かなり残虐なる支配をした。殺したり弾圧したりしている。それを無罪放免にしたい方はいるでしょうが、しかしその原形が、ニニギにあるということは大賛成。だいたい考えてみましたら、『古事記』『日本書紀』のニニギはおかしい。天孫降臨しましたら、あとコノハナサクヤヒメと海岸をランデブーしているだけです。後は何もしていない。あんな征服者はいない。これは中身がスッポリ抜けています。そのスッポリ抜けているものが、あちこち切って神武紀のここ、景行紀のこちらと使われています。
簡単ですが、今日のところはその程度にさせていただきます。どうもありがとうございます。
(追加質問1)
ニニギさんの話をたくさん聞いて頭が混線してきたのですが、ニニギさんと「前ツ君」との関係は、どのように理解したらよいのか。
(回答)
これも非常にだいじな質問を頂きました。私の『盗まれた神話』では、『日本書紀』の景行天皇の九州大遠征を、ほんとうに行ったのは誰か。それは分からないですが、その中の歌に出てきている人がそれに当たるだろう。その人物をXとしますと、いちおう「前ツ君」である。そのように書いた。地名・前原(まえばる)に関係するのではないか。そのように考えていました。ですが今日まで、いま述べたような問題の進展はなかった。そこで止まっていました。別府から関門海峡を大回りして海上から筑紫に来る。そのような考えはなかったが、最近気がついた。そうするとあの九州大遠征の主人公はニニギである。そのようになってきました。そうなりますとなぜ「前ツ君」はニニギか。そういうことになります。この理由は二つ考えられます。一つはニニギの出身が前原(まえばる)である。その可能性がある。これはまったくありえないことではない。ここでニニギが生まれたという伝承をもっている神社がある。お母さんが今の前原出身で、前原で生まれた。そのような可能性もあります。
もう一つは、「御前様ごぜんさま」という言葉がある。殿様のことを「御前様」と言う。殿様の名前を言うのはおそれ多いから、「前ツ君」と言う。そういう類かも知れない。これはまだ検証していないので分からない。ともかくわれわれが知っている「前ツ君」というのは通称であって、われわれが知っている歴史的名称はニニギである。われわれは今えらそうに「ニニギ」と呼んでいるが、当時は「ニニギ」と呼んだら首がとぶのでは。そのような間接的表現としての「前ツ君」である。ヒロヒトと昭和天皇の関係に似ている。
糸島半島の北、玄界灘にむかった海岸に「ニギの浜」というところがある。これに何か関係があるのではないか。調べている方がさかんに言われております。そうかも知れませんが、まだわたしは回答は出しておりません。
とにかく私の『盗まれた神話』で、歌の中で「前ツ君」と言われていた存在と、今回ニニギはイコール。言い方は違います。そのようにご理解いただければよいと思います。
(追加質問2)
以前書かれていたかも知れませんが、神武東侵とニニギの天孫降臨のおおまかな絶対年代を。
(回答)
(黒板表示)
従来の考古学編年
BC三〇〇年~BC一〇〇年 弥生前期
BC一〇〇年~AD一〇〇年 弥生中期
AD一〇〇年~AD三〇〇年 弥生後期
年輪年代法を考慮した新しい考古学編年
BC四〇〇年~BC二〇〇年 弥生前期
BC二〇〇年~AD 一年 弥生中期
AD 一年~AD二〇〇年 弥生後期
まず天孫降臨、ニニギですね。(弥生中期の始まり)これが従来はBC一〇〇年とされていた。ところが年輪年代測定法で、一〇〇年ぐらい遡(さかのぼ)るとされております。それによると天孫降臨がBC二〇〇年ぐらいになります。
福岡県では、「前末・中初」ということが、さかんに言われております。これは何かといいますと、弥生前期と弥生中期では、福岡県・佐賀県あたりでは出土物が一変する。弥生前期と弥生中期では、天と地ほど出土物が一変する。それは考古学者は誰でも知っている。しかしそれを、神話とは結びつけていない。「天孫降臨」は南九州だと言っているから。
しかし私はこれはあきらかに、天孫降臨と言う名の「三種の神器」勢力の征服の前後である。こう考えます。これはニニギのことです。神武の方は、これは中期の終わりから大和平野に銅鐸が消滅します。そこが神武の時代になる。そのように考えます。細かく言いますと、いろいろ言わなければならないことがありますが、おおまかに言いますとそうなります。
(終了)
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制作 古田史学の会
著作 古田武彦