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『盗まれた神話』 第七章 天孫降臨地の解明 へ
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(古田史学会報第四八号)へ
宗教の壁と人間の未来(『神の運命ー歴史の導くところへ』)へ
古田武彦
さて第三番目のテーマに入らせていただきます。このテーマは一月には入りまして私自身が思いもよらないと言いますか、驚天動地を味わったテーマなのです。
まず地図(図1)をご覧ください。これを見ましたら、多くの人は「ああ、あの話か。」と思われる。私の著作の第三番目の本、『盗まれた神話』(朝日文庫)から取りました地図でございます。これは景行天皇が九州を遠征した神話がありますが、これを地図で表すと、このようになるのでございます。
出発点は、山口県防府市の周防の娑麼*というところです。そこから兎狭(宇佐)、京(みやこ)、大分と行きまして、そこから宮崎県日向に向けて侵攻をはじめる。そこから襲の国(鹿児島県)へ行きまして、そしてまた日向へ帰りまして、今度は児湯(西都市)、夷守(小林市)、襲(そ)の郡(人吉市)へ侵攻しました。そして九州の西岸部へ出まして有明海沿いに北上しました。最後筑後川沿いに行きまして二十番浮羽に出ました。ここで終わりになっている。そして日向に行って大和に帰ったと書いてある。
麼*は、麼の異体字。JIS第四水準ユニコード9EDB
ところが、この話、おかしい。第一に、これだけの大遠征が『日本書紀』には書いてあるのに、『古事記』にはまったくない。これが、まずおかしい。次は、最後に二十番筑後浮羽まで来ておりながら、その北側、筑前という九州の一番中心地に立ち寄らず、はい! さよなら、と帰っているのがおかしい。三番目に浮羽から日向に行く道筋がまったく書いていない。あれだけ大遠征を書きながら、日向に行く道筋がまったく書かれていない。これもおかしい。それに大遠征の地名はそれだけくわしく出ているのに、『日本書紀』景行紀の、その前後に出てくる説話が、まったく詳しくはない。そこだけ孤立してくわしい。そこだけくわしいのは、別に取り扱いに困らない。詳しくても別に良いではないか。そう言われるが、やはり史料を取り扱う人間としては変だなあ。史料をよそからもってきてはめ込んだのではないか。そのような不安感をいだかせる。
それで結論としては、この話はほんらい景行天皇とはまったく関係のない話である。この話の主人公は、大和から来たのではなくて、ここでは書かれていない筑前から。博多から。そこを出発点としている。
それから話を元にとばしましたが、元にもどして言いますと山口県周芳から出発しまして、九州東岸部や南岸部では闘いを行っている。ところが西岸部の有明海沿い・筑後川流域では、歓迎、歓迎、歓迎ずくめ。これも大和を原点とすればやはりおかしい。この大遠征を、博多近辺の筑前を原点としますと話が成り立ちます。つまり筑前を支配していた王者が、次に筑後や肥前・肥後を支配し、こんどは、九州全土を支配しようと、九州東岸部や南岸部の征伐を決行した。そういう行程なら分かりやすい。それを主語をバッサリと抜いて『日本書紀』景行紀にはめ込んだ。『古事記』にはまったくない。これを書いたときは、自分でもこんなことを言っても良いのかと、疑問に思った。しかし、論理のおもむくところそう考えざるをえない。そう考えて『盗まれた神話』では、この通り書いた。
もう一度言いますと、筑前の前ツ君という人物が、そこを中心にして九州東岸部・西南部に侵攻して、そこを支配下に治めた。すでに福岡県・熊本県・佐賀県あたりは支配下になっていたらしい。そのうえさらに、九州南岸部を征伐して九州一円を支配下に治めた。そういう話である。このように理解すると、この説話はひじょうに良く分かる。そのように論じたわけでございます。
仲哀紀(岩波古典文学大系 日本書紀 上 P三二四)参照
八年の春正月の己卯の朔壬午に、筑紫に幸す。時に岡縣主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞りて、[矛象]め五百枝の賢木を抜じ取りて、掛け、九尋の船の舳に立てて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剣を掛け、下枝には、八尺瓊を掛けて、周芳の沙婆の浦に参迎ふ。魚鹽の地を献る。因りて奉して言さく。
「穴門より向津野大済に至るまでを東門とし、名護屋大済を以ては西門とす。没利島・阿閉嶋を限りて御宮とし、柴嶋を割りて、御[扁瓦](みなへ 彌那倍)とす。逆見海を以て鹽地とす」まうす。既にして、海路を導きつかへまつる。山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。水門に至るに、御船、進くことを得ず。則ち熊鰐に問ひて、曰はく。「朕聞く。汝熊鰐は、明き心有りて、参来り。何ぞ船が進かざる。」とのたまふ。熊鰐奉して曰はく。「御船進くこと得ざる所以は、臣が罪に非ず。是の浦の口に男女の二神有り。男神を大倉主と曰す。女神をば兎夫羅媛と曰す。必ずに是の神の心か。」まうす。天皇、則ち祷祈みたまひて、挾杪者倭國の宇陀の人伊賀彦を以て祝として祭らしめたまふ。則ち船進くこと得つ。皇后、別船にめして、洞海、(洞、此をば久岐と云ふ。)入りたまふ。潮涸て進くことを得ず。時に熊鰐、更還りて、洞より皇后を迎え奉る。則ち、御船、進かざることを見て、惶じ懼まりて、惣に魚沼・鳥池を作りて、悉に魚鳥を聚む。皇后、是の魚魚の遊を看して、忿のこころ、稍に解けぬ。潮の満ちるに及びて、即ち岡津に泊まりたまふ。又、筑紫の伊覩(いと)縣主の祖五十迹手、天皇の行すを、聞りて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門の引嶋に参迎へて献る。・・・・
景行記十二年九月
其の状を察しめたまふ。ここに女人有り。神夏磯媛と曰ふ。其の徒衆甚多なり。一國の魁帥なり。天皇の使者の至ることを聆きて、磯津山の賢木を抜りて、上枝には八握剣を挂け、中枝には八咫鏡を挂け、下枝には八尺瓊を挂け、亦素幡を船の舳に樹てて、参向て啓して曰さく、・・・・
ところがこの問題にさらに続きがあります。そのレジュメの仲哀紀、これは仲哀天皇が、近江から来たという。そして山口県下関、そこで歓迎を受ける。岡縣主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(くまわに)という人物に歓迎を受けた。そのとき船の上に、榊を立てて、上枝には白銅鏡をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけ、いわゆる三種の神器をかけて歓迎した。
この話、どこかで見たなと思っていましたが、それは先ほどの景行の九州大遠征の中に出てきます。そうしますと本来はこれは一連の話ではないか。もちろん『日本書紀』では、片方は仲哀紀、片方は景行記。ぜんぜん時代が違う。話の内容はそっくりです。ほんらい一連の同じ話ではなかったのか。この契機になりましたのが、次の景行天皇の話です。
景行紀(岩波古典文学大系 日本書紀 上)
十七年の春三月の戊戌の朔日己酉に、子湯県に幸して、
愛しきよし 我が家の方ゆ 雲居立ち来も
倭は國のまほらま 畳づく 青垣 山こもれる 倭し麗わし
命の 全けむ人は 畳薦 平群(へぐり)の山の 白橿が枝を 髪華(うず)に挿せ 此の子
是を思邦歌と謂う。
『古事記』景行記
其れより、幸行でまして、能煩野(のぼの)に到りましし時、國を思ひて歌曰ひたまひしく、
倭は國のまほらま たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし
とうたひたまひき。又歌曰ひたまひしく、
命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白檮が葉を 髪華に挿せ その子
とうたひたまひき。此の歌は國思び歌なり。と又歌曰ひたまひしく、
愛しけやし 吾が家の方よ 雲居立ち来も
とうたひたまひき。此は片歌なり。此の時御病甚急かになりぬ。
この同じ歌が、『古事記』では、倭健(ヤマトタケル)が三重県から大和に帰る直前に歌っている。歌の順序が少し変わっていますが、この歌です。景行天皇と倭健は親子ですから、同じ歌を親子で別に歌ってもかまわない。そう言えば言えないこともないが、何か割り切れない。私はこの歌は、死の直前に歌ったいうすごい条件設定で感激していた。しかし全然、死のまぎわの歌ではない。そのような歌ではない、そのあたりも少しおかしいし、良く考えたらもっとおかしい。
最後の「平群の山の 熊白檮が葉を 髪華に挿せ その子」では、平群(へぐり)が到着点。つまり負傷もせず、命も別に落とさないで無事に到着すれば万々歳。そこへ女・子供が迎えに来ているようである。白檮(しらかし)の葉を、子供さんの髪にさしてあげなさい。子供さんからさしてもらう。そういう逆の解釈もできますが。どのような解釈であっても平群(へぐり)が、到着点であることはまちがいがない。そういう歌になっている。ところが大和に平群(へぐり)はあります。ですが場所が悪い。べつに土地そのものは悪くはないが、奈良県の中では大阪府との境のほうであって、飛鳥や桜井を終着点にするのなら話は分かりますが、なぜわざわざ平群(へぐり)へ行かなければならないのか分からない。ここがなぜ到着点か。ここから、かれらが平群(へぐり)から、出発した話も全くない。
この歌が決定的におかしいと考えましたのは、「大和は国のまほらま」という言葉です。「大和は国のまほらま・・・」という言葉は、大和盆地を代表する歌として喧伝されてきました。しかし実は「まほらま」という言葉は写本にはなかった。『日本書紀』の古さでは一、二を争う熱田本(名古屋熱田神宮)、北野本(京都北野神社)は「まへらま 摩倍邏摩」となっている。それが後世の写本では、「へ 倍」を「ほ 保」と書き直して、「まほらま 摩保邏摩」としていた。「ま」は接頭語で、「へらま」とは、端の方という意味である。ご婦人方は良くご存じでしょうが鳥の脇下のあたりのことを、「へらま」と言い、ひじょうによい毛皮が取れる。ですから心臓の近くにあって中心ではない。そういう大事な場所というのが「へらま」。それを後代写本は「ほらま 保邏摩」の形に書き直している。古事記は、その後代写本の形を取っている。これはひじょうに良くない。つまり中心というイデオロギーがあって、それに合わないときは写本をなおす。邪馬一国を邪馬台国に直すという同じやり方。やはりほんらいの「まへらま 摩倍邏摩」で理解しなければならない。
この平群(へぐり)は、以前にものべましたが、室見川の中流域にある吉武高木(遺跡)の側。ここは最古の三種の神器が出土したところです。その北側一帯が平群(へぐり)。倭名抄にも出ております。つまり平群(へぐり)に帰ってきたというのは、吉武高木に帰ってきた。そこが終着点。三種の神器の原点。しかも、そこが山門(やまと)。筑後山門は有名ですが、筑前山門もある。ですから、その間が山(ヤマ)と呼ばれる地帯である。つまり吉武高木のように大事なところではないが、それの側としての大事なところの入り口の山門(やまと)。そこに上陸する。だから「山門(やまと)は国のまへらま」。通説のの解釈で問題なのは、「倭は國のまへらま」と言えば、どこをさすか分からなくなる。教えてほしい。ところが、ここ筑紫になると、「山門(やまと)は国のまへらま」で、ピッタリ。最終到着地は吉武高木。三種の神器の原点。ですからみんな三種の神器をもっている。もっていれば、同じ文明圏。三種の神器はシンボルマーク。そういう役割をしている。
仲哀紀に戻り、「穴門からは東門、名護屋からは西門」とありましたが、東の門は下関あたりでよいのですが、同じ下関近くにも名護屋という字地名があるので、そこではないかと岩波古典大系の中には書いてある。しかし、それではバランスが悪い。目と鼻の先の北九州市戸畑地区の名護屋では。ですが名護屋と言えば、有名な名護屋がある。秀吉が朝鮮に渡ったと時の唐津の名護屋。これを西門とすれば、東門は下関。大済(おおわたり)というのは、そんな小さい船が泊まるところではなくて、やはり中心的な港ですよ。そして「穴門からは東門、名護屋からは西門」と言っている中心点はどこか。博多湾岸、吉武高木。ぎゃくに博多湾岸、吉武高木を中心点にすれば、下関は東門、名護屋は西門と全体の配置がピシャリと合う。ですからこの話は、吉武高木を原点とすれば、ピタリと話があう。さて最後のテーマ。
愛しけやし 吾ぎ家の方よ 雲居立ち来も
“はしけやし”を、ふつう“愛しけやし”という字を当ててあるから、日本語はむかし「愛すること」を「はし」と言ったと思わせられているが、そんなことはない。「はしこい子」とは、愛らしい子供のことを言いますか。ちょこちょこ動く、走っている子供のことを言います。「はしけ」という船も、速く動くすばやい船のことです。学者が当てた漢字にだまされてはいけない。原文は表音ですから、もちろん「愛」とは書いていない。。「はしけやし」とは、「速いなあ! スピードがあるなあ!」の意味となる。
次に吾ぎ家(ワギヘ)ですが、『万葉集』では自分の家のことを「ワガイホ」「ワガヤ」と呼びばあいは庶民が使います。「ワギヘ」という場合は、自分のお城・柵(キ)を呼び、ただの庶民は使いません。自分のお城・柵(キ)を「ワギヘ」と言います。この場合は吉武高木ではないでしょか。この「タカギ」の木も、木が生えている意味ではなく、とうぜん弥生の軍事要塞の城です。「ワギヘ」という場合は吾(ワレ)の柵(キ)のあたりです。
そうしますと「雲居立ち来も」。なぜ雲が速いか。入道雲がふさわしい。これも福岡の気象台に問い合わせると、即座に答えが返ってきた。
「船が北の方から来て博多湾に入り、能古島と糸島の間の海を通って、筑前下山門に近ずく船の中で歌っているような歌があるのですが、そのとき雲が速く立ち上がるように歌っているのですが、そのような光景はあるのでしょうか。」
返事としては、
「それは七月から八月後半は必ずそうです。背振山脈という山がありまして、あそこは入道雲が立ち登る有名な山です。七月・八月は、北のあなたが言うコースから見れば、ほとんどそのとおり入道雲が見えますよ。」
私はピタリで、飛び上がりました。ですから、この歌は
はしけやし 吾城家(ワギヘ)の方よ 雲居立ち来も
我々が帰るのを御先祖が歓迎して、なんと早く入道雲が立ち登るのか。
ですからこの歌は、吾城家(ワギヘ)の方向で、入道雲がたち登るのは、速くお帰りと、われわれを歓迎してくれている。私は『盗まれた神話』を書いたときは、浮羽から筑後山門を通って、吉武高木に行くものと考えていました。しかしそれでは、ダメです。浮羽から吉武高木に行くのに、地図で説明すれば下山門(ヤマト)に行く必要はない。ですからおかしいと思っていました。
ですから、海から回って博多湾からはいる。下山門(しもやまと)、平群(へぐり)、そして吉武高木。まさにこのコースになる。海から来ている。そこまでは昨年前、以前から到達していた。詳しくは「多元」など機関誌で論証を詳しく追ってください。
問題は、そこから後。
これも考えてみますと簡単なことですが。吉武高木(遺跡)を「吾城家 ワギヘ」と言っている人物は誰か。最古の三種の神器が存在する場所を、「私の柵」と呼べる人物は誰なのか。ニニギです。九州王朝の初代。分派である(近畿)天皇家も、彼を初代にしていますが。それはニニギノミコトです。
この吉武高木(遺跡)をニニギノミコトの墓だと言った方がいます。(藤井綏やす子さん)私もそれ以前から触れています。「そうでない。」と言う理由はない。しかしそれを証拠立てる銘文が出てきたわけではないので、状況判断から言えば、「ニニギノミコトの墓だと、言っても否定しない。」と、言うことは言っていた。しかし今の判断から言えば、この歌を歌っているのはニニギノミコトだ。
『盗まれた神話』を書いたときの判断は三段階で考えていた。第一段階は、変な言い方ですが、ニニギは降りてきただけ。天孫降臨のみ。「筑紫の日向」に降りてきた。高祖山。そこに日向峠があり、クシフルダケもあります。そこに降りてきた。博多湾ぐらいは支配した。
第二段階は、今度は筑紫とか、筑後とか、肥前とか肥後に征服を広げた。
第三段階で、今度は景行のように九州全土を支配した。そのよう三段階で理解していた。
しかし今考えますと、天孫降臨は征服です。天照(アマテル)を中心として海人族の(女の)親分が、稲作の豊穣の地、(板付遺跡など)をねらって征服し支配した。簡単に言えば、そういうことです。そのばあい、板付遺跡だけを支配して、狭い博多湾岸で私は満足です。筑後とか、肥前とか、ほかは要りません。そういう、つつましやかな態度で、済んだかどうか分からなかった。しかし征服者で、そういう謙虚な存在はあまりいない。とうぜん、支配の領域を広げていっても、不思議ではない。そこから、さらに九州全土に新征服地を広げて行っても、何もおかしくはない。そのようにも言える。ですからニニギが、九州全土を征服した。それも何もおかしくはない。もちろん実際にニニギが九州全土を征服したかどうかは、分からない。しかし少なくとも、のちのちの九州王朝では、「初代ニニギが支配された。」と言い、だからわれわれも、それを受け継いでいる。ですから九州全土は、われわれが支配する権利がある。そう言っても不思議ではない。権力の大義名分として、そのような物語を作って流し、そう主張していても何もおかしくはない。このことに気がついた。
そうしますと問題はさらに進展致します。
『日本書紀』神武紀
三十有一年夏四月の乙酉の朔日に、皇與巡り幸す。因りて腋上の[口兼]間(ほほま)の丘に登りまして、國の状を廻らし望みて曰はく。「妍哉乎、國を獲つること、内木錦の眞乍*國と謂も、蜻蛉(あきつ)の砧(となめ)の如くあるかな」と、のたまふ。是によりて、始めて秋津洲の號有り。
乍*は、乍にしんにょう編。JIS第三水準ユニコード8FEE
神武紀の最後。『盗まれた神話』第六章でのべましたので、良くごぞんじの文章です。私はこれを取り上げて、大和盆地ではおかしいと分析しました。地名などの読み方もおかしい。ところがこれを大分県別府のすぐ後ろの由布院盆地。そこにしますと、あそこだとドンピシャリ。トンボの雄と雌が、舐めあっている形。山上から霧が晴れたときの由布院盆地では、まさにその形。地元の写真館のご主人の方が苦労して山の上から撮影されたものです。その写真は『盗まれた神話』に掲載されています。ですからこの歌は由布院盆地を、山の上から見下ろして歌った歌です。
また「秋津島」は、そこからきた。「秋津島」は「豊秋津」からきた。豊の国の安岐。別府湾のいちばん端の安岐。安岐川があり、空港があるところです。安岐町があります。そのように分析した。
そのように分析はしたのですが、神武天皇でなくて、Xという人物の国見として分析しました。だれかは言っていませんでした。
考えてみましたら、浮羽から別府を通って、関門海峡を通るには、とうぜん由布院盆地に通らなければならない。そうします由布院盆地で国見をしているのは、とうぜんニニギである。『盗まれた神話』以後、三十年ぶりに答えることが出来ました。
これから取り上げる問題は、『日本書紀』の史料批判です。この問題を提起されたのは「古田史学の会」事務局長をしておられる古賀さんです。この神武記に昨年より取り組んでおられ、私などがおよびも付かない新しい発見を、次から次とされております。簡単に言えば神武歌謡は、天孫降臨のときのニニギノミコトに対するものではないか。そのように提起された。この発見そのものは古賀さんからお聞きください。(本誌、古賀論文参照)その古賀さんに触発されて、私も取り組んでみました。
『日本書紀』神武紀即位前紀
六月乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。則ち、名草戸畔といふ者を誅す。戸畔、此をば、トベと云ふ。
遂に狭野を越えて、熊野の神邑に至り、旦ち天磐盾に登る。仍りて軍を引きて斬に進む。海(わた)の中にして卒に暴風に遇ひぬ。・・・
古賀さんが提起された中に、『日本書紀』神武紀即位前紀、この一節があります。このなかに、「天磐盾あまのいわだてに登る。」とあります。これは近畿の紀伊半島南端の新宮に「天磐盾」と言われている岸壁がございます。その上には、ゴトビキ岩と言われる岩山があります。このゴトビキ岩から有名な火祭りが始まります。二月五日、火をつけた松明をかざした男たちがここから出発してして行く勇壮な祭。
そこの「天磐盾」の記事、これはおかしいのではないか。この熊野は「天あま」と言われる地帯ではありません。そのように言われた。私はこれに対して、「あま」もいろいろありますからと、答にならない返事を、その時はしていた。それで考えてみると、その通り。古賀さんの言うとおり、この記事はおかしい。
なぜなら『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)で論じましたように、別府湾は、もとは天(海部 あま)と言われた。現在でも北海部郡、南海部郡があり、別府市には天間区がある。ですから別府湾周辺が「天あま」と呼ばれる地帯であったには明らかである。そこに鶴見岳という暴れ火山があり、これが本来の天の香具山であったことを、この本では論証しています。
別府に「登り立て」というふしぎな字地名があることを知った。二カ所ありまして一つは天間区、鶴見岳の後ろにある。もう一つは浜脇区、元別府港の浜脇にある「登り立て」。大分市に近い、お猿さんで有名な高崎山の近く。海岸寄りを登っていくと、関西弁で「どんつき」・突き当たりとなり、そこに自治会長さんのお宅がある。そこが「登り立て」である。すぐ後ろに崖があり、見晴らしよくすぐ海がみえる。別府湾全体を見下ろせる。
そこはせいぜい海抜百五十メートルぐらいではないか。そこからでも、鴎なども見え、絶好の場所です。それで今年一月九日の朝、気が付いたのですが、「もしかしたら、あそこが天磐盾ではないか。」と。全体領域が「天あま」で、「盾たて」がある。われわれは「盾たて」というとふつう武器の盾を思い浮かべるが、崖が垂直に切り立っているのも「盾たて」ではないか。それで「登り立て」と言っている。
私の記憶では家の後ろの崖は岩で出来ていた。それで磐を登ることから、「登り立て」というのではないか。ぐうぜん本をお送りしていた自治会長さんから、その日の夕方お電話があり、岩で出来ていることを確認しました。私はその急な崖の上に登ろうとしましたが、直通の道が削られていたため、時間の関係で止めました。それで登れますかと聞きましたら、「登れます。海がよく見えます。」と、ご返事をいただいた。
そうしますと私が考えますのに、その「登り立て」が、天磐盾(あまのいわだて)ではないか。『日本書紀』で「天磐盾」と言っているのは、別府の一角ではないか。それでは誰が言っているか。ニニギノミコト。
筑後浮羽から来て由布院どまりなのがおかしい。とうぜん別府に来て温泉にも入る。その時国見をした記事です。元の記事、それをハサミで切り取って神武紀へ挿入した。継ぎ合わせた。そのように考えます。
古賀さんに言われて考えたのですが、だいたいこの記事はおかしかった。なぜなら天磐盾(あまのいわだて)に登る意味がない。ゴトビキ岩を見るために登ったというなら分かるが、そんなことは書いてはいない。なぜ天磐盾を登るのかはぜんぜん書いてはいない。新宮ならすぐ横には有名な那智の滝もある。そこにも行った形跡はない。そこで「天磐盾」自身をゴトビキ岩と見る立場(定説)が生まれるわけですが、旧石器・縄文にさかのぼる神聖な霊岩を神武は足で踏みつけることになる。
ところが別府へもってきますと目的ははっきりしています。「登り立て 天磐盾」に登ると海が見える。海が見下ろせ、鴎(かもめ)が見える。地上からは煙たち立つ。
万葉集 巻一 第二歌
山常には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 秋津島 浜跡の国は
『古代史の十字路ーー万葉批判』(東洋書林)この本を見れば、ごぞんじのように、だいたい大和の香具山の歌にしてはおかしい。私が言ったのではなくて、各地の読者の方が、一番質問されたのはあそこだった。大和盆地で鴎(かもめ)が見えるのか。海が見えますか。煙がたつのか。近畿の人は言うのもばからしいから言わないが、ほかのところへ行くといつも質問がよく出る。
ですが考えてみますとおかしい。一番おかしいのは通説の先頭の「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山」です。大和盆地で一番めだたない貧相な山なのが天の香具山です。一番とは言い過ぎかもしれませんが、とくかくめだたない。それにこの歌の先頭の原文の「山常」は「大和」とは読めない。「山跡」を「大和」と呼んだ例はありますが、「山常」を「大和」と呼んだ例はない。それで「山常」は「ヤマネ」としか読めない。「山根」なら名前の山根さんや島根県もありますので、たいへん自然です。そうであれば「山根には 群山あれど とりよろふ 」。いろいろな山の中で、きわだって高い山で、すそ野が根のように拡がっている一番中心の山。
ところが別府湾では、地図を見れば、鶴見岳より高い山は九州でたくさんあるが、別府湾から見て、これ以上きわだつ山はない。鶴見岳が断然そびえている。火山爆発で頂上がとばされる前は、さらに高かった。
さらに「豊秋津」。私は、これは「豊」は豊国のことであろう。備前・豊後の豊国。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。そこの港が安岐港である。しかしこの「秋津島」は安岐川の小さな川口の港ではなくて、関門海峡からやってくると、安岐町のところが別府湾の入口になる。そうすると「秋津」は別府湾のことです。
以上この本では、そこまで歌の分析をおこないましたが、その場合も、誰が国見をし、だれがこの歌を歌ったかについては述べなかった。庶民のはずもないが、だれか分からなかった。しかし今回それが分かった。天磐盾に登って国見をしたのは誰か。もちろんニニギである。ニニギなら国見がピタリと当てはまる。別府の王者なら、いつも見ているのに、わざわざ国見はしない。国見をするというのは、ただ景色を見るのではなく、支配した、その宣言の言葉である。そのニニギの歌を『万葉集』は、ぜんぜん違う別の後世の天皇の歌に移し替えていた。
さらに『古代史の十字路ー万葉批判ー』(東洋書林)では、もう一つの天香具山の歌として扱っております。『古事記』にあった歌を引用しております。これは倭健(やまとたける)と美夜受(みやず)比賣の歌として月経の歌として有名な歌です。
『古事記』
其國より科野國を越えて、乃ち科野の坂の神を言向けて、尾張國に還り來て、先の日に期(ちぎ)りたまひし、美夜受比賣の(もと)に入り坐しき。其の美夜受比賣を大御酒盞を捧げて獻りき。爾に美夜受比賣、其の意須比(おすひ)之襴(すそ)【おすひ意須比三字以音】に月經(ツキノサハリ)著きたりき。故、其の月經を見て、御歌曰(よ)みしたまひしく、
ひさかたの天香具山 利鎌に さ渡る[告鳥](くび) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕を 枕かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり
とうたひたまひき。爾に美夜受比賣、御歌に答えて曰ひしく、
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が來經(きふ)れば あらたまの 月は來經往く 諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難(がた)に 我が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立たなむよ
といひき。故爾に御合したまひて、其の御刀(みはかし)の草那藝劍を其の美夜受比賣の許に置きて、伊服岐能山の神を取りに幸行でましき。
ところが月経(げっけい)を歌ったというのは、まちがいです。
「月立たなむ」とは十一月から十二月になるというように、次の月になるということです。新しい月が立つことです。同時に、港の要害の意味の「津城つき」と、(あなたが)港を去って行くことを、かけてある。つまり男のほうが、もうここを、去らなければならない。そう言ったのに対して、女のほうが、そんなことは分かっていますよ。しかしあなたがまた来られるまで、私はとても待ちきれません。もっとあなたに居て欲しい。私の側で次の月を迎えて欲しい。次の月に成っても、もっとあなたに居て欲しい。お願い。お願い。お願い。そのように男をコミカルに誘惑しているというか、嘆願している歌です。
この場合も、この男は誰かということは分からなかった。書いていなかった。しかし考えてみれば由布院から来て景色を見て、そこから船でさようなら、という酔狂な人間はいるのか。とうぜん九州を回ってきたら別府の温泉にも入る。そのとき遊興をくりひろげるから、女の人が誘惑しても不思議ではない。その時の歌ではないか。
しかもここでは「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君」とある。たいへんな権勢を誇っている。
このごろ古賀さんがニニギノミコトの件を調べておりますが、天神のことを、「あまつかみのこ」と言うのが、研究の出発点だったのです。ですが同時に神武の兄さんが「日神の御子」と呼ばれています。神武たちが東侵し大阪湾から河内湖へ入ったとき兄さんが傷つきます。その和歌山でなくなった兄さんが「日神の御子」と呼ばれています。また、この歌の中でも「日神の御子」と呼ばれています。そうしますとこの歌は、ニニギノミコトの兄弟、あるいはニニギ自身であってもかまわないことになる。この別府の歌は九州大遠征を終わって大歓迎される歌。由布院から来て別府の温泉に入って、そこから船出して筑紫に帰っていく一連の歌である。そうになってきました。
ですから今まで個別に分析していた歌が全部つながってきた。同じ話を、こちらに使い、あちらに使い。ちょうど料理の名人が、おいしい鯛をここは刺身、ここは鍋物、ここは吸物にと、あちこちに使い回してみんな使いきる。それと同じで、とにかく九州王朝の歴史・神話を切っては、『古事記』・『日本書紀』のあちらに張り付け、こちらに張り付け、使いきっている。そういう手法を、記・紀は使っていることが分かってまいりました。今さらながら驚いています。
これだけではないかも知れません。もっともっと出ます。たとえば古賀さんが言いますように、肥前・肥後の『風土記』でも、景行天皇が各地をまわっている。あれもおかしいかも知れません。
同じことは、別の問題でも言えます。『多元』の機関誌四十七号でも述べましたが、雄略天皇と奥さんとの若日下王との恋歌とされているもの。なんとぜんぜん違う。筑後山門の神護石にこもっている兵士の歌。それをなんと雄略が日下での奥さんへの恋歌に背景・解釈を変えて転用している。このようにあちらこちらから、このような問題が分かってくると思います。このように『古事記』・『日本書紀』の製作の手法が分かってきたわけでございます。
ここから先はすこし先回りした話をしたいと思います。まだ解明しているところですが、少しお話致します。
『聖書』の先頭は、「この世界は神様が作った。」となっている。ところが私たちがいま普通読んでいる聖書は改竄(かいざん)本である。本来のヘブライ語の聖書は、「神々 gods」と複数形になっている。これはヘブライ語の聖書で確認しました。ところが英語の欽定訳の聖書は、つくった時単数形に変えています。godsを godと単数形に変えた。あとドイツ語、フランス語、ドイツ語すべて単数形に変えた。日本語は単数複数あいまいだから明確に分かり難いけれども、もちろん教会で話すときなどは、単数形で話され理解されている。
これはなぜなのか。たいへん分かり易いわけです。
元はなぜ複数形だったのか。それについては、あたりまえで、理由ははっきりしています。宇宙を作ったという話は、そういうイメージは、キリスト教になってはじめて気が付いた話ではない。とうぜん楔形(くさびがた)文字の文明の時代が、何千年も続いた。その時代に、この宇宙をだれが作ったという疑問やイメージをもたなかったと思いますか。とうぜんそのような疑問やイメージを持った人はいました。居れば、その答もとうぜん決まっている。「神様が作った。」という答に、当然なります。多神教の時代であるから、とうぜん「神々が作った。」ということになる。砂漠の中の、その時代の常識です。バイブルは多神教の時代にできた。ですから、とうぜん「神々が作った。」と複数形に書かれていた。その中から唯一神であるエホバの神が生まれてくるのですから、話は十分筋が通っている。砂漠の中では、十分すじが通っていた。
ところがヨーロッパという、キリスト教単性社会。私が名付けたキリスト教オンリーの社会。異教をぜんぶ追い出した。多神教の神を全て追い出した。その巫女さんたちを殺し尽くした。魔女と称して巫女さんたちを、何世紀にも渡って、火あぶりにして殺し尽くした。この残虐さは、ちょっと並みではない。それで多神教の神を、全て追い出してしまった。多神教の神を全て追い出したキリスト教オンリーの社会では、「神々」では、おもしろくないというか、筋が通らない。だから断固「神」(単数)に、改竄した。この場合の神とは、エホバの神である。だからエホバの神が、この宇宙を作ったというかたちに改竄した。
英国が欽定訳の聖書をつくり「神々」を、「神」に改竄(かいざん)した。他の国もそれを真似した。英語も単数形。ルッター訳も単数形。ほかもそうです。正直に言いますと、フランス語は知らないから確認していませんが、本にそのように書かれてあるし、たぶん間違っていないと思います。そういうことです。
このことの意味することは、もっともっと深刻です。たとえばノアの洪水の話があります。この話もとうぜんながら、この洪水を起こしたのは神なのか。神々なのか。つまりこの洪水を見、かつ差配していたのは、神なのか神々なのか。そういう問題が発生します。これは、とうぜん神々です。これには証拠があります。ノアの洪水をあつかった楔形文字の記録が出てきています。
そうであればノアの洪水の話も、とうぜん多神教のなかの話です。ですが聖書の先頭の神を、単数に改竄(かいざん)したものですから、後をすべて複数の神々でなく単数のエホバの神のかたちで説明されている。ノアの洪水もエホバの神が差配した。そういう改竄された神のかたちで説明されている。これはホンのわずかな一例です。そういうかたちで改竄された聖書を使って、現在のキリスト教社会が宣布していることは疑いようもありません。ですからアメリカの大統領が、バイブルに手をおいて宣誓します。あれは改竄された聖書に手をおいています。ヘブライ語のバイブルに、手をおいてはいないと思います。
キリスト教以前の説話を、新興宗教であるキリスト教が、自分につごうの良いように聖書を改竄(かいざん)して使っている。数百万年、数十万年という人類の歴史から見れば、キリスト教がはじまった二千年前は、きわめて最近に違いありません。その新しくできた新興宗教であるキリスト教が、聖書を改竄(かいざん)して使っているということです。
わたしはその手法は、バイブル(聖書)よ! お前もか。そういう感じでとらえています。
そこから先は知識はあまりないから、慎重に言わねばなりませんが、コーランはどうでしょうか。コーランを読めば分かりますように、バイブルが最大のバックをなす教養なのです。バイブルでは、このように言われている。そのようにバイブルでは書かれている。すべてにわたって、そのように書かれてある。もちろんコーランでは、バイブルの言っていることが、それは正しいとは書かれていない。バイブルでは、このように言われているが、アラーの神の本当のおぼしめしは実は違っていて、バイブルは誤解して書かれている。アラーの神の真意は、このようである。つまりアラーの神の考えを原点にして、バイブルの解釈を全て再度行う。イエスもたいへん引用されている。アラーの神がこのように言われたことを、イエスをそれを知らないで、本当のアラーの神の思し召しは、このようである。これは、これですっきりしていますが、これも今のような問題はどうか。
以前に、多摩の中東文化センター、そこでアメリカの考古学者、中近東で永年発掘を続けている方の講演がありました。その講演で、質問しました。「中近東で多神教の楔形文字の時代にあるような説話を、現在でも老人の方々が語られていることがありますか。ありませんか。」とお聞きしました。考古学者ですから意外な質問に戸惑って、少し沈黙し、やがて考えてから答えられた。「あります。」と答えられ、しかしその場合、いつも最後にかならず「・・・と、アラーの神がそのように言われた。」。「・・・と、マホメット様が言われた。」と、その言葉がさいごに必ずつけられます。そのように返答された。最後は一神教の神であるアラーの神が言われたと、付け加えられている。内容はすべて多神教の神の話です。質問してよかったと私は思っています。ですからバイブル・コーランについても、これから十分読ましていただきますが、このような問題が常に出てきても不思議はないと思います。今後いろいろ解明して行きたい。現在こういう状況です。
元に戻り『古事記』・『日本書紀』での改竄(かいざん)はかなりひどい。全体はそのままにして、「・・・と天皇様がおっしゃいました。」と改竄するぐらいなら、かわいらしいが、これだけ時間も空間も滅茶苦茶にして、これは切り取ってあちらに張り付けて使い、あれは切り取ってこちらにはめ込んでいるというのは、なんともやりすぎの感じがしています。現在ではそういう状況まで解明できました。またなにか分かりましたらご報告させていただきます。
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古田武彦講演会 二〇〇二年一月一九日土曜日 午後一時から五時
所:大阪市北市民教養ルーム
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制作 古田史学の会
著作 古田武彦