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続・盗まれた降臨神話ーー『日本書紀』神武東征説話の新・史料批判 古賀達也


古田史学会報 2002年 2月 5日 No.48

盗まれた降臨神話

『古事記』神武東征説話の新・史料批判

京都市 古賀達也

  はじめに

 古田武彦氏は、その初期三部作のひとつ、『盗まれた神話』(現在、朝日文庫)において、景行天皇の九州大遠征説話や神功皇后の筑後平定説話などが九州王朝の史書からの盗用であったことを明らかにされた。同時に、神武天皇の実在とその東征説話がリアルであったことも論証された。この著作の出現によって、日本の古代史学はようやく「シュリーマン以後」の段階、すなわち神話を歴史的事実の反映と理解し学問的に史料批判する段階へと進んだのである。
 他方、そうした氏の記紀神話史料批判の成果に基づいた上で、『古事記』神武東征説話における、熊野迂回から大和突入までについての説話が、果たして歴史事実であったのか否かの検証と史料批判の必要を感じていた。というのも、神武ら武装集団が、熊野から紀伊半島のあの険しい道無き道を縦断して大和盆地に突入し、かつ、軍事的勝利をおさめることなど、わたしにはちょっと想像できなかったからである。こうした疑問を、十年近く抱き続けてきたのであるが、ようやく『古事記』神武記の史料批判により、熊野から吉野へ至る一連の記述中に、九州王朝の天孫降臨神話(糸島・肥前侵略)からの盗用の痕跡のあることが判明したので、ここに報告する。


  一

 『古事記』の神武東征説話を読んで、まず疑問に感じたのが、神武その人の呼称が三つ混在していることであった。一つは、「神倭伊波禮毘古(いわれひこ)命」であり、今一つは「天神御(みこ)子」、そして「天皇(または神倭伊波禮毘古天皇)」である。この三つの呼称は次のように使い分けられている。
 まず、神武記冒頭の高千穂宮で兄の五瀬命と東征について諮る場面に神倭伊波禮毘古命と記されている。そして、日向から筑紫、豊國宇佐、竺紫岡田宮(一年滞在)、阿岐國多祁理宮(七年滞在)、吉備高島宮(八年滞在)を経て、速吸門(はやすいのと 鳴門海峡)から青雲の白肩津(しらかたのつ)に突入し、銅鐸圏の勢力である登美能那賀須根毘古(とみのながすねひこ)と日下の蓼津(たてつ)にて戦闘を交える。そこで、兄の五瀬命が負傷し、南方(みなみかた)から血沼(ちぬ)海へ敗走する。ちなみに、この蓼津から南方への敗走ルートは、弥生時代後期の河内湾の地形に対応しおり、後代の造作でないことを古田氏が『盗まれた神話』で論証されたことは著名である。
 その後、神武たち兄弟は紀國の男之水門に至るが、そこで五瀬命は絶命する。その墓は紀國の竈山(かまやま)に作ったと記されている。なお、神武達の行動は、日向から岡田宮までは、「日向より發たして筑紫に幸行」「豊國宇佐に到り」「遷移りまして、竺紫岡田宮に一年坐しき」と表現されており、その後は「上り幸でまして、阿岐國多祁理宮に七年坐しき」「遷り上り幸でまして、吉備高島宮に八年坐しき」「其の國より上り幸でましし時」とあり、九州を出て銅鐸圏に突入するまでは「上る」という表現が用いられている。この「上る」という用語は、後に大和を「都」として「天下を治めた」という大義名分から選ばれた用語である。
 さて、五瀬命を失った神武は、紀伊半島を迂回し、熊野村へ到る。その様子が次のように記されている。

 「故(かれ)、神倭伊波禮毘古命、其地より廻り幸でまして、熊野村に到りましし時、大熊髪(ほの)かに出で入りて即ち失せき。爾(ここ)に神倭伊波禮毘古命、にはかに遠延(をえ)爲し、及御軍(みいくさ)も皆遠延(をえ)て伏しき。」

 以上、熊野村までの神武は神倭伊波禮毘古命と記されている。そしてこの後、熊野の高倉下が登場し、神武らを助けるのだが、ここからは「天神御子」と神武の名前は変わる。次の通りだ。

 「此の時熊野の高倉下、〔此(こ)は人の名。〕一ふりの横刀をもちて、天神御子の伏したまへる地に到りて献りし時、天神御子、即ち寤(さ)め起きて、『長く寝つるかも。』と詔りたまひき。」 ※〔〕内は細注。

 高倉下から得た横刀により神武(天神御子)は熊野の荒神を切り倒し、窮地を脱する。そして高木大神が天より遣わした八咫烏(やたがらす)の先導で吉野河の河尻から宇陀へ行く。そこで、兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟と遭遇し、そこで兄宇迦斯を殺害する。更に忍坂の大室に到り、当地の土雲、八十建(やそたける)をだまし討ちにする。そして話しは一旦、登美毘古(登美能那賀須根毘古のこととされる)との争いの時点に戻り、その時に天神御子を追って来た邇藝速日(にぎはやひ)との出会いの場面となる。この間、神武は一貫して天神御子と称される。そして、「畝傍(うねび)の白梼原(かしはら)宮に坐して天下を治め」て、東征説話は終了する。

 その後は、神武の婚姻や子供達による後継争いの話しとなり、そこでは単に「天皇」、あるいは「神倭伊波禮毘古天皇」と記され、神武記は終わるのだが、わたしの疑問はこれら三つの呼称の内、「天神御子」にあった。何故、同一人物に対して、何の説明もなく呼称が突然に変化するのか、天照大神の子供でも孫でもなく、五代も後の神武が天神御子と呼ばれるのがそもそも不自然ではないか。この疑問がわたしの中で抜き難く生じたのである。


  二

 白梼原(かしはら)宮に定着した以後、「天皇」の称号で記されるのは『古事記』編者によるイデオロギー上の呼称だ。もちろん、当時、神武が「天皇」と呼ばれていたとは考えられない。従って、近畿天皇家としての大義名分により、神武を初代天皇として史書を著述編纂するのはよく理解できるのであるが、神武記途中の紀伊半島侵略期間のみに現れる「天神御子」だけは理解困難なのだ。この点、通説では天照大神の子孫である歴代天皇を「天神御子」と称したとしているが、これも無理な解釈ではあるまいか。なぜなら、『古事記』に記された天皇で天神御子と呼称されているのは神武のみで、次代の綏靖から推古まで天神御子などとは記された例はないからだ。
 それでは、『古事記』の中で、神武以外に天神御子と称されたのは誰であろうか。それは『古事記』上巻の天孫降臨神話に登場する、文字通りの天照大神の子である天忍穂耳命(あめのおしほみみ)と、その子供で天照大神の孫の天津日子番能邇邇藝(あまつひこほのににぎ)命、この二人である。この親子であれば、天照大神の子供と孫なので、天神御子という呼称も自然である。
 なお、厳密に言うならば「天神御子」に似た表現として、「天神之御子」という呼称も『古事記』には見える。その一つは、邇邇藝命の三人の子供(火照命、火須勢理命、火遠理命、亦の名は天津日高日子穂穂手見命)が木花之佐久夜毘売のお腹にいる時、木花之佐久夜毘売の発言中に見られる。次の通りだ。

 「故、後に木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)、参出(まいで)て白ししく、『妾(あ)は妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。是の天神之御子は、私に産むべからず。故(かれ)、請(まを)す。』とまをしき。」

 もうひとつは、火遠理命と海神の娘、豊玉毘売命との子供の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(なぎさたけ うがやふきあえずの)命がこれもまた豊玉毘売のお腹にいた時、豊玉毘売の発言中に見える。


 「是に海神の女、豊玉毘売、自ら参出(まいで)て白ししく、『妾(あ)は已に妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。此(こ)を念(おも)ふに、天神之御子は、海原に生むべからず。故、参出到(まいでき)つ。』とまおしき。」

 三つめが、大国主との國譲りの場面で、その子供の事代主神の発言中に見える。

 「故爾(ここ)に天鳥船神を遣はして、八重事代主神を徴(め)し来て、問ひ賜ひし時に、其の父の大神に語りて言ひしく、『恐(かしこ)し。此の國は、天神之御子に立奉(たてまつ)らむ。』といひて、即ち其の船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣(あおふしかき)に打ち成して、隠りき。」

 以上の三例に「天神之御子」という表記が現れるのであるが、『古事記』中の出現順番としては事代主神の発言が先である。最初の二例がともにお腹の中の子供のことであることから、「天神を父親とする胎児」の意味ととれる。三例中二例がこうした意味であることから、残る一つの天神之御子も同様の意味を有している可能性があろう。そうであれば、事代主神はまだ生まれてもいない天神之御子(邇邇藝命か)に國譲りすることを承諾したこととなり、この國譲りは武力を背景としたかなり強引な領土要求であったように思われる。

 さて、本題に戻るが、このように『古事記』上巻の天神御子とは天孫降臨を命じられた天忍穂耳命と邇邇藝命を指していた(実際に降臨したのは邇邇藝命)。そうすると、神武記に見える天神御子による戦闘譚も本来は天孫降臨神話からの盗用だったのではないかとの疑いが生じて来るのである。九州王朝による九州内征服説話が『日本書紀』の景行紀や神功紀に盗用されていたことからすると、『古事記』においても同様の盗用がなされていても不思議ではあるまい。
 その証拠の一つとして、神武の兄五瀬命の証言がある。河内湾に突入し、日下の蓼津で敗北し傷を負った五瀬命は次のように述べる(『日本書紀』では神武の発言とする)。

 「吾は日神之御子と爲して、日に向かひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。今者(いま)より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ。」

 ここでは五瀬命は自らのことを神御子ではなく神之御子と言っているのだ。このように、神武記の天神御子は神武らではない可能性が高いのである。


   三

 神武記東征説話が前半の神倭伊波禮毘古命説話と後半の天神御子説話に分けられることを述べてきたが、ここに注目すべき問題がある。古田武彦氏が神武の実在を論証されたとき、その根拠とされたのは次の諸点であった。

1.神武らが銅鐸圏へ突入する前に、吉備に八年間(二倍年暦とすれば四年間)滞在しており、神武が率いた主勢力は吉備の軍隊と思われるが、大和の遺物・遺跡が吉備の影響を強く受けていることが考古学事実として知られており、このことは記紀の内容と対応している。

2.河内盆地への侵入と南方からの脱出経路が弥生時代後期の地形と一致しており、七〜八世紀の近畿天皇家史官の造作ではありえない。

3.大和盆地では後期銅鐸が消滅しており、銅鐸を祭器としない異勢力の侵入の痕跡を示しており、神武東征説話と対応している。

 以上のような文献(記紀)と考古学的事実の一致を神武実在の根拠とされたのであるが、これら三点とも、神武記東征説話の神倭伊波禮毘古命説話部分(1.,2. )と白梼原宮定着以後(3. であり、天神御子説話部分ではない。このことは、天神御子説話部分が神武の説話ではなく、天孫降臨神話からの盗用ではないかというわたしの疑問に対応するのである。

 一方、考古学的事実との一致が見られる神倭伊波禮毘古命説話部分とは対称的に、天神御子説話部分には従来より問題とされてきた箇所がある。一つは神武が熊野から山越えをして「吉野河の河尻」に到ったと記されているが、これは吉野川の位置関係と一致しない。熊野から山越えすれば吉野川の川上になら到着できるが、河尻では妥当でないからだ。本居宣長もこの矛盾に気づき、『古事記伝』において、この河尻は川上の間違いであろうとした。

 この吉野の河尻問題も、天神御子説話が天孫降臨時による肥前侵略説話からの盗用と見れば解決する。近年、古田氏が明らかにした佐賀県吉野こそ壬申の乱の吉野であったとする新説(注1)により、この神武記の吉野河の河尻も佐賀県の嘉瀬川下流域(現、吉野ヶ里遺跡付近)とすれば、穏当な理解が得られるのだ。すなわち、糸島半島に侵攻(天孫降臨)した邇邇藝命の軍隊が、更に肥前(有明海側)へ侵攻したとすれば、そこは必然的に吉野川(現、嘉瀬川)下流域となる。なぜなら、現在の嘉瀬川は佐賀市の西側を南下しそのまま有明海へ注いでいるが、昔は佐賀平野を西から東へと横断していたことが知られており、このため佐賀平野の大半が吉野川下流域に相当するからである(注2)

 次に問題として上げられるのが、神武記天神御子説話に唐突に現れる天照大神と高木神の存在だ。一応、高倉下の夢の中に現れたという形になってはいるものの、神武とは時代(神代と人代)も場所(高天原と紀伊半島)も異なる二神が登場し、横刀や八咫烏を遣わすというのは、歴史事実とは考えられない。これも、邇邇藝命の天孫降臨時の説話とすれば、時代も場所も矛盾せず、穏当な理解が可能となるのである。
 同様の問題として、邇藝速日(にぎはやひ)が天神御子に対して「天神御子天降りましつと聞けり。故、追ひて参降り来つ。」述べており、邇藝速日が天国領域から天神御子を追って自らも天降ったと証言していることから、この部分も天孫降臨説話からの盗用と思われるのである。すなわち、神武らは筑紫から来たのであって、天国から天降ったのではないからだ。更には、邇藝速日(にぎはやひ)の子孫が『新撰姓氏録』では「天孫」系ではなく「天神」系とされていることも、邇藝速日が神武の時代ではなく邇邇藝命と同時代の人物で、天神の一人であることを示している。


  四

 以上、神武東征説話中の天神御子説話を邇邇藝命による天孫降臨神話からの盗用とする根拠を述べてきたが、最後の論証として、神武歌謡の史料批判に入りたい。
 神武東征時に現れる歌を、いずれも神武達の故郷、糸島半島現地の歌であり、その歌を東征時に歌ったものと古田氏は指摘し、これらは「糸島カラオケ」とでもいうべきものとされた(注3)
 たとえば、「宇陀の高城に鴫罠(しぎなわ)張る〜」の歌は糸島半島の宇田川原で歌われたもので、収穫した鯨の分配を歌ったものとされた。大和の宇陀で鯨が獲れるはずもないことから、この理解は当然であるが、今回わたしが到達した新理解では、邇邇藝命たちが糸島で歌ったものが、神武記に盗用されたこととなる(注4)
次の歌も同様だ。

 「意佐加(おさか)の意富牟廬夜(おほむろや) 人多(さわ)に 来入り居り 人多(さわ)に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 今撃たば良らし」
 
 このオサカのオホムロヤが佐賀県のオホの室屋であるとする見解が古田氏より提案されているが、これも邇邇藝命による肥前侵略時の歌と捉えることができる。もしこれが神武東征時の歌であれば、その主勢力が吉備の軍隊であることを考えると、「吉備の子ら」とは一度も呼びかけずに、「久米の子」のみに何度も呼びかけており、臨場感に欠けるのではあるまいか。その点、邇邇藝命による肥前侵略時の歌とすれば、その主力は久米一族であるから、歌の内容とも一致して全く違和感はない。

次の歌はもっとも決定的だ。
 
「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴(とも) 今助(す)けに来ね」

 戦場である伊那佐の山で、島つ鳥に食料補給を訴えている臨場感溢れる歌であるが、この「島つ鳥」の島とは糸島半島の志摩町にあたる地域を指すと考えられることから(注5)、戦場はやはりそこから食料補給が可能な距離の場所でなければならない。従って、奈良の伊那佐(宇陀郡)では何とも間の抜けた歌となってしまう。ところが佐賀県にもイナサがある。それは有明海側の有明町だ。杵島山地の東南に位置する所に稲佐山があり、稲佐神社もある(注6)。ここであれば、糸島から食料補給が可能な地域であり、歌の切実さが伝わるのである。ちなみに、この杵島山地一帯は昔、熊野の里と呼ばれており、北西の山には熊野神社、東側の須古には熊野小路という字地名が現存し、南西には久間町がある(注7)
 神武東征説話にこの邇邇藝命の糸島・肥前侵略説話が盗用された一因に、こうした地名の一致があったからではあるまいか。宇陀(糸島郡宇田川原)、吉野河(佐賀県吉野川、現嘉瀬川)、オサカ(佐賀)、熊野村(杵島郡熊野の里)、伊那佐(有明町稲佐)など類似地名での説話や歌謡が、ばらばらに神武記に盗用されたと考えられるのである。


  おわりに

 これで神武記史料批判によるわたしの論証は終わった。今やわたしには、神武東征中の天神御子説話中に邇邇藝命による糸島・肥前侵略説話が盗用挿入されていることは明白になったと思われるのである。
 残された課題としては、神武記に見える高倉下や兄宇迦斯、弟宇迦斯、八咫烏などの人名もまた盗用であるのかどうか。あるいは、説話のどの部分までが盗用なのか。熊野村から大和へ到る間にあったであろう、純粋に神武その人の行動はどのようなものであったのか。そして、わたしの最初の疑問であった、熊野村からの紀伊半島縦断そのものが史実であったのか。これらの更に厳密な史料批判である。
 また、『日本書紀』の神武東征説話に記された「天神子」 説話も『古事記』と同様の問題をはらんでおり、もしかすると『日本書紀』に記された神武の傍若無人な騙し討ちの数々もまた、本来は邇邇藝命によるものであったかもしれないのである。そうすると、一見平和裏に見えた國譲りや天孫降臨も、実は血なまぐさい侵略そのものであり、その神話がごっそりと神武東征説話に持ち込まれたことになるのだ。そして侵略説話と同様に、『古事記』に見える他の歌謡の多くも九州王朝歌謡である可能性さえも予感されるのである。
 このように、本稿で試みた神武記史料批判の結論は更に大きな問題と史料批判の方法を暗示していると思われるのであるが、それらは稿を改めて詳細に論じたいと思う。
           (二〇〇二年一月十二日)

(注)
1 古田武彦『壬申大乱』東洋書林、二〇〇一年十月。

2 下山昌孝「古代の佐賀平野と有明海」、『多元』四二号所収、二〇〇一年四月。

3 古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年六月。

4 この歌の中に、本来、原注であったはずの「此(こ)はいのごふぞ」「此(こ)は嘲(あざ)笑ふぞ」が、誤って歌の一部として採用されていることから、これは近畿天皇家内で伝わった歌ではなく、別の史料に記された九州王朝歌謡からの引用の痕跡であると、古田氏よりご教示いただいた。この史料事実も本稿の結論を支持するものである。

5 古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年六月。

6 下山昌孝「古代の佐賀平野と有明海」、『多元』四二号所収、二〇〇一年四月。

7 『佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告 第三輯』昭和七年三月。ちなみに、杵島山地の西辺にはおつぼ山神籠石があり、古代から軍事上の要衝の地でっあたことがうかがえる。また、須古の隣には錦江という地名があり、『日本書紀』神武紀に見える、熊野での戦闘の地、丹敷(にしき)浦との関連からも興味深い。


〔補記〕
  神武記に次のような地名説話がある。

 「故、ここに宇陀の兄宇迦斯、弟宇迦斯の二人ありき。故、まづ八咫烏を遣わして、二人に問ひて曰ひしく、『今、天神御子幸でましつ。汝等仕へ奉らむや。』といひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ。」

  ここに見える訶夫羅前(かぶらさき)という地名は、奈良県宇陀には見当たらない。もしやと思い、力石巌氏(古田史学の会・九州、福岡市)に、糸島の宇多川原の近くにカブラザキという地名はないかと問い合わせた所、「宇多川原から4キロメートルほど西の雷山川河口(前原市)に加布羅(かぶら)という地名があり、昔は岬であったと思われる。」というご返事を得た。この加布羅(かぶら)が訶夫羅前(かぶらさき)のことであれば、九州王朝の天孫降臨説話にあった同地名説話が『古事記』に盗用された可能性が高い。ちなみに、『日本書紀』神武紀にはこの地名説話が収録されていないことから、『日本書紀』編纂時において、奈良県にないこの地名説話はカットされたのではあるまいか。

〔後記〕本稿のテーマは、古田史学の会による熊野猪垣調査(十二月二二〜二三日)の車中において、古田武彦・伊東義彰両氏との対話の中で深められものである。記して、感謝申し上げたい。

インターネット事務局注2002.5.20

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 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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