DVD「701 人麻呂の歌に隠された九州王朝」の解説へ


英文解説:第三十六歌から第三十九歌

この歌は吉野で持統に(たてまつ)られた歌ではない

 柿本人麿が大和の吉野宮で天皇持統のために作った言われる万葉集三十六番から三十九番の歌がある。しかしながら、これらの歌の通説の解釈には多くの疑問が持たれている。

図1、三十六番から三十七番の歌(英文付き 略)
図2、三十八番から三十九番の歌(英文付き 略)

読み下し文(岩波日本古典文学大系に準拠)

『万葉集』巻一

吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
三十六番
やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも
さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて
朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
反歌
三十七番 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む
三十八番
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に
高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山
山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり
                     [一に云ふ][黄葉かざし]
逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち
下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌
三十九番 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。 八月吉野宮に幸(いでま)す。 四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかを知らずといへり。

(原文)西本願寺本
三十六番
八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛
澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相
秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖
旦川渡 舟<競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
弥高<思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可<問>
反歌
三十七番 雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
三十八番
安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 <芳>野川 多藝津河内尓
高殿乎 高知座而 上立 國見乎為<勢><婆> 疊有 青垣山
神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理
             [一云][黄葉加射之]
<逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立
下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
反歌
三十九番 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

1)、これらの歌自身と注釈は事実において、まったく異なっている。これらの歌自身は、まったく相反する言葉を持っている。
 一番目には、万葉集すべての写本には天皇と書かれていない。版本の事実として三十六番目の歌と三十八番目の歌は、大王と書かれている。この大王という言葉は、ある領域を支配する王を意味する。大王は天皇を意味しない。これらの歌の英訳の領主や首領では、「大王」はを示している。
 二番目には、宮滝には「河内」という(字)地名はない。「激つ河内」と呼ばれるところはありますが、それは川の瀬であって地名ではない。地名の替りにはならないので翻訳できない。
 三番目には宮滝には滝がない。「夢のわだ」とよばれる三メートル程度の水落(みずおち)があるけれども、しかしそれでは滝の替わりにはならない。
 四番目には、吉野川は山の中の上流であり、「激つ河内」と呼ばれるところから船は海に出発できない。

 以上、これらの歌の解釈は事実と異なる。少しも要点を捉えてはいない。吉野で柿本人麻呂が、持統のために作ったということを支持する理由はない。

図3近畿奈良吉野マップ
図4吉野宮滝の光景

2)、柿本人麿がこれらの歌を大和の吉野宮滝で歌ったでないなら新しい視点を置くことがわたしたちに必要です。これらの歌はどこで造られたのか。もし近畿奈良県から九州佐賀県に視点を移すなら、これらの歌に高い理解が得られる。

 一番目は、佐賀県肥前の嘉瀬川の「吉野」の地名の存在です。ーたとえば川の上流に吉野山キャンプ場、下流の有名な吉野ヶ里遺跡です。
 (加えて、「吉野」の字地名が下流域の吉野ヶ里遺跡の近くに存在する。字地名「吉野谷」が上流域に存在する。現在では嘉瀬川はまっすぐ佐賀市に流れています。しかし江戸時代の前までは、右方向に曲り吉野ヶ里遺跡の近くを流れ、筑後川と合流し有明海に注いでいました。)

 二番目には、景勝地である雄淵の滝と雌淵・雄淵の存在です。加えて雄淵の瀬には、「常滑」の名前通りの岩が広がっている。そしてここは江戸時代以前は筏流しの有名な難所でした。そこには悲しい伝説を持っています。そして江戸時代以前はそこから上は、船のみならず舟も上がれませんでした。
(現在そこには、中国の有名な詩人である郭沫若の碑があります。またたくさんの導水路発電所とダム式発電所である北山湖があるために、少しの水量しかありません。)

 三番目には、嘉瀬川には河内の字地名が存在する。古湯温泉には小さいですが「河内」の字地名が存在し、谷の入り口近く鮎瀬には、だれでも理解できる河内が存在する。

 四番目には、嘉瀬川には「鮎瀬」と名づけられた鵜で鮎を捕る瀬がある。三十八番目の歌で、「上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す」と歌われている。
(現在、「鮎瀬」で鮎取りは行われていない。しかし嘉瀬川の下流の「川上」では鮎漁が行われている。)

図5 九州佐賀吉野
図6 佐賀吉野(雄淵の滝、雄淵・雌淵)
図7 佐賀鮎瀬・小副川

 以上の理由により、嘉瀬川を「吉野の河」と呼ぶことは論理的にありえ、かつほかに並ぶところはない。もし人麿が佐賀県(肥前)の吉野で、これらの歌を造ったのなら、彼は大王に付き添ってここに来た。最初彼らは、古湯温泉へ来て川舟を並べて遊び下った。それから彼らは、雄淵の滝で、饗応の櫓を建てて楽しんだ。それから熊川古城に上がって、雌淵・雄淵を見ながら、国見を行なった。そして鮎瀬に出て鮎漁を楽しんだ。それで最後は船に乗り、嘉瀬川を下って(筑後川と合流し)有明海に出た。

図8、三十六番から三十七番の歌(改訂英文付 略)
図9、三十八番から三十九番の歌(改訂英文付 略)

3)、これらの解釈は新しい問題を提起する。それらはスリリングな問題を我々にもたらす。

 一番目には、「河内」という言葉は、水が時々覆われるところの氾濫原(地学用語)、それ自身を表す。(支流と本流の交わるところ、川が曲っているところに「河内」がある。)この「河内」の概念は「激つ河内」の概念に拡張される。加えて「常滑」という言葉も、苔の生えない磨かれた転りまわる石を表している。このように理解すれば言葉を超えて「世の中」を象徴化している。そして世の中の移り変わりを示している。

 二番目には、この歌で「(折)小副川」で示される「<逝>副 川之神母」は、山神に連れ添う川の神にであることは明らかである。(折)小副川川は嘉瀬川に流れ込む。
  加えて、雄淵の滝の上には巨大な巨石群が存在する。(教育委員会の「巨石の森」の標識がある。)大自然を象徴する巨石群です。大王は、山の神と川の神に奉られたのではない。人麿は大自然の神を大王とともに奉った。それから大王を奉った。

 さらにこの節には、別の重要な考えるべきことがある。この歌には、『論語』の一説が素養として含まれている。これは、論語の子罕にある「逝」という言葉である。さらに付け加えれば、「小副川」のみならず「川上」も存在する。このように考えれば、すべてを理解することが出来る。

三番目には有明海が満ち潮の時、嘉瀬川の下流の「鮎瀬」から船が出発したことは確実です。六百六十二年白村江の戦いのとき有明海とくに熟田津(新北津)から、たくさんの船が出発した。なぜなら世界で有名な軍港は、有明海と同じくリバプール、仁川ともに干満の差が大きいところです。
(加えて、平安時代平重衡が行なった日宋貿易は吉野庄から行われた。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

図10、『論語』子罕第九

『論語』巻五 子罕第九 (岩波古典大系に準拠)
一七 子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、
子、在りて川の上(ほとり)に在りて曰(のたま)わく、逝(ゆ)く者は斯(か)く如きか。晝夜を舎(や)めず。

先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの[流れの]ようであろうか。昼も夜も休まない。」


『漢英論語』
昭和四十二年三月二十一日 発行 (非売品)
編集兼発行者
和歌山県高野山普賢院 森寛紹
発行所
和歌山県高野山 別格本山 普賢院
子罕(しかん) 第 九
P57
第六章
○子、川の上(ほとり)に在りて、曰(のたまわ)く、逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きかな。晝夜を舎(す)てず。
(英訳)
VI章。 先生が川のほとりに立っていわれた、「この流れのように過ぎ行く。昼も夜も休まない。」

 


to English Document

この歌は吉野で持統に奉(たてまつ)られた歌ではないへ戻る

論文(万葉の覚醒)に戻る

ホームページに戻る


新古代学の扉インターネット事務局 E-mailは、ここから


Created & Maintaince by "Yukio Yokota"

Copy righted by " Takehiko Furuta "