古田武彦講演会 二〇〇一年 一月 二〇日(日) 於:大阪 北市民教養ルーム

この歌は佐賀吉野の歌である

読み下し文(岩波日本古典文学大系に準拠)

『万葉集』巻一

吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
三十六番
やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも
さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて
朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
反歌
三十七番 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む
三十八番
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に
高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山
山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり
                     [一に云ふ][黄葉かざし]
逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち
下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌
三十九番 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。 八月吉野宮に幸(いでま)す。 四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかを知らずといへり。

原文(西本願寺本)
(三十六番)
八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛
澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相
秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖
旦川渡 舟<競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
弥高<思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可<問>
反歌
(三十七番)雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
(三十八番)
安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 <芳>野川 多藝津河内尓
高殿乎 高知座而 上立 國見乎為<勢><婆> 疊有 青垣山
々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理
                 [一云][黄葉加射之]
<逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立
下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
反歌
(三十九番)山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

  『万葉集』の問題はおもしろく、急いで述べても仕方がないので吟味してできる限り述べてみたいと思います。
 この歌は『万葉集』巻一巻の柿本人麿の歌です。私も教師の時、学校の授業でも何回もこの歌を扱いましたが大和吉野の歌だと信じて疑わなかった。
ですが私は三年ぐらい前に、もう一度吉野へ水野さんらと一緒に行きました。念押しに調べに訪れた。ところが驚いたことにそこには滝がなかった。「宮滝」という地名がありますから、しかも人麿がこれだけ滝を歌っていたのだから、とうぜん滝があると思い込んでいた。たしかに水が落ちている場所がありましたが、それを日本人は普通滝とは言わない。それを普通水落と言いますが三メートルぐらいのものです。さらに滝があるかを宮滝歴史資料館で聞きましたが、聞いてみてもなかった。
 さらに三十九番の歌。反歌ですが、「たぎつ河内に舟出せすかも」とあるが、しかし吉野では船出はできない。船を浮かべて、ぐるっと回るぐらいの舟遊びはできるけれども、舟遊びを「船出」とは言わない。やはり「船出」という言葉は、その川からかなり下って海に出てこそ「船出」と言える。吉野から和歌山の方へ行って船出はできるか。とても、できない。これはおかしい。そうなってきた。これはどうも奈良県の吉野の歌ではないのではないか。
それではどこだろう。それで九州の佐賀県に吉野というところがある。吉野ヶ里は有名ですが。
それで、なぜ九州の佐賀県に目を付けたかというと、元をなすのは『万葉集』二百三十五番・二百三十六番の歌です。何回も言いましたので簡単に縮めて言いますと、

『万葉集』二百三十五番
天皇御遊 雷岳 之時 柿本朝臣人麿 作歌一首
皇者 神二四座者 之 天雲之 雷之上[入/小]廬為流鴨
皇は 神にし座せば 天雲の 雷の上に 廬せるかも
すめろぎは かみにしませば あまぐもの いかずちの うえに いほり せるかも

 有名な歌ですが戦争中には私はさんざん聞かされた歌です。戦争中は奈良県に行ったことはなかったからそれで済んでいた。しかし奈良県に行ってみて飛鳥に行ってみて、びっくりした。高さがおそらく六メートル前後、歩けばおそらく二・三分で上がれる。そのような低い丘である。その丘に持統や天武が上がって、休憩はしただろう。また休憩所を作って休むぐらいはあったかもしれない。しかしそこで休憩したからと言って、天皇は生神様である証拠である。現人神である証拠である。丘の上で休憩しているからといって「廬せるかも」と言われて、生神様であるからというのは、オベンチャラも良いところだ。そんなことを言われて喜んでいる権力者はいない。それに天武・持統・天智等の天皇が作った歌がありますが、それを見ましてもそんなセンスの悪い人物には見えない。
 それでおかしいと思って考え始めると、たまたま福岡県に、佐賀県との境に糸島郡背振山脈の第二峯にあたる雷山(らいさん)という山がある。そこに千如寺というお寺があり、私は何回も行っていた。このお寺はおもしろい伝承があるお寺でして、二世紀インドから青年僧侶が船で遣ってきた。中国経由でなく直接博多湾にきて上陸して九州で仏教を広めた。そういうびっくりする伝承を持ったお寺があります。ですから関心を持っていたので、雷山のことはよく知っていた。
 その雷山には雷神社がありますが、その上宮を「天の宮(あまのみや)」、中宮を「雲の宮(くものみや)」と言っている。事実ここは玄界灘から近いので、たいてい雨雲がかかっている。私も何回か行きましたが、晴れていたのは一回だけで、他は雨雲がかかっていた。だから「天雲の」は、ここではぴったり。だいたい飛鳥の六メートルの高さの丘に、どうやって雨雲がかかるのか。非常に変だったのですが、ここ雷山は千メートル近い高さの山ですので、事実関係から言っても雲が立ち込める。名前も天の宮・雲の宮という社(やしろ)がある。
 それでこの歌は白村江の戦いの後、人麿が雷山に来てこの歌を作ったのではないかと考えている。
 それで、この歌の解釈です。この歌の先頭をふつう「大君」と読んでいるが、原文は「皇」と書いてあります。ですから私は「すめろぎ」と読む方がよいと考えます。
 「皇(すめろぎ)は 神にし座せば 皇者 神二四座者」の「皇」は、彼らは生きているときは支配者・君主だった。それが死んで神様になって居られる。そのように「皇は 神にし座せば」を理解すれば、これは普通の自然な用法となる。飛鳥で考えると無理に生神さまにして、グロテスクで変な用法になる。

(すめろぎ)、彼らは死んで神様になっておられるから、雷山の上に廬(いほり)をして居られる。

 つまり社(やしろ)を「廬(いほり)」と例えたのがミソで、民の廬は荒れ果ててしまった。この歌では「廬(いほり)」というのは民衆の住まいです。
代々の九州王朝の君主、あなた方が生きていたときにはリーダーとしてリードされて人々は安泰であったけれども、リーダーが誤って白村江の戦いに突入して、そして民の廬は荒れ果ててしまった。しかしあなた方は死者でいらっしゃるから、安らかに社(やしろ)を「廬(いほり)」としていらっしゃいますね。
 そういう短い歌の中に、大変な社会批判をおこなった歌である。
 そのように理解すれば、飛鳥で理解すれば変な歌だったのが、筑紫で理解すれば大変な深みを持った歌に替わる。

 それともう一つ

万葉集241番
皇者 神[入/ 小]介之座者 真木乃立 荒山中[ 入/小] 海成可聞
皇は 神にし座せば 真木の立つ 荒山中に 海鳴りせすかも(海を成すかも)
すめろぎは かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみなりせすかも

 この歌の従来の解釈も、天智の息子長皇子が池をお作りになった。それを海をお作りになったと言って誉めた。そのように誉めたこと、オベンチャラが素晴らしいと万葉学者は書いてある。しかし私は、そのようなことが素晴らしいとはぜんぜん思わない。池をお作りになった。池を作るのは良いですが、それを海をお作りになったと誉める。そんなことを言われてニコニコ喜ぶような、そんなうすのろの権力者が居たらお目にかかりたい。あまりにも、ひどすぎる。
 それで多元的古代・関東に所属されている福永さん。その方のお電話で知ったことですが、「海成可聞」は「海を成すかも」ではなくて、成田さんの「成(ナリ)」ですから「海鳴りせすかも」と読めばどうですか。そのように言われ、私は即座に賛成と申し上げた。
 その「海鳴り」は、しばしば津波や暴風雨の前兆です。比喩としては大波乱・大破滅の前兆である。人麿はおなじ雷山(らいさん)で海鳴りを聞いた。これは、やがてきたるこの世の滅亡。王朝の滅亡。九州王朝を始めたニニギ尊以来の代々の王者が、その死者の亡霊の声が予告しているのであろう。彼は聞き取った。我々には、ただの自然現象としての「海鳴」ですが、人麿はそれを死者のお告げ、しかも王朝の滅亡の予告の声として聞き取った。やはりこれも凄(すご)い歌です。

 その研究経験を元にしまして言いますと、その雷山の裏側になるのが佐賀県の吉野です。有名な吉野ヶ里も御座います。その「ヶ里」は「○○村」「○○町」という意味でたくさんあります。ですから固有名詞部分は吉野です。
 ところが、それだけではなくて佐賀県に流れていると言って良い、一二を争う大きな川、嘉瀬(かせ)川がある。その嘉瀬川は現在佐賀市の中を貫流している。これの上流がなんと吉野。その吉野山へ行ってみますと、大きな看板が立った吉野山キャンプ場がある。この調査には江永次雄氏の多大な協力を得ました。
 その吉野山から流れているのが嘉瀬川。その嘉瀬川が現在流れ落ちているのは、下流は直進して佐賀県の中央部佐賀市から有明海に南下している。これは比較的新しい。江戸時代の河川改修で南に真っ直ぐ通した。それ以前は東に向かっていて筑後川へと、そそぎ込んでいた。現在の方向とぜんぜん違っている。江戸時代にはかなり盛んに河川改修がおこなわれたようです。たとえば利根川も河川工事がおこなわれ、本流を西に向けました。その利根川も江戸時代以前には、本流は江戸川で東京湾に注いでいたことで有名です。
(筑後川も、江戸時代まで佐賀県吉野ヶ里の方向に向かって流れて鳥栖の端ぐらいで南下しています。)
 嘉瀬川の江戸時代の地図を、下山さんから送っていただきましたが、なんと吉野ヶ里の近くを通っていた。しかも字地名の吉野の側を通っている。
ですから吉野(山)を源流にして山の中を通り、平野部へ出たところで東を向いて吉野ヶ里を通り海に注いでいる。やはりこの嘉瀬川が「吉野の河」と呼ぶことに、合うということが一つ。
 もう一つは、ここに滝がある。この地図で古湯温泉の下に、雄淵・雌淵という瀬と、雄淵の滝という高さ七十五メートルの滝がある。私が行ったのは一月のかなり水の少ないときでしたが、それでも勢いよく流れていました。これは文句のない滝です。

 それで今回気が付きましたのは、これらの歌は一つのグループの歌ではない。従来は、三十六番から三十九番の歌を一連の歌だと考えていた。しかも奈良県の宮滝という同じ場所で作られたと理解されていた。『万葉集』の注釈でも一つのグループとしてとらえており、私もそう考えていたが、よく読んでみると違う。第一グループのと第二グループの歌に別れており内容が違う。
 何が違うかと言いますと、滝が出てくるのは、初めの第一グループ(三十六・三十七番)です。後の第二グループ(三十八番・三十九番)には滝がない。「激つ河内に」という言葉が出てくるが、それはあくまでも水流が激しいだけで、滝が出てこない。滝が出てくるのは、初めの第一グループだけである。そのことに遅まきながら気が付いた。

 それで後の第二グループの歌(三十八番・三十九番)に特徴があるのは、鵜をつかって鮎をとっている。

(三十八番)「上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す」

 この歌の中では、岐阜県の有名な鵜飼いのように鵜飼船は出てきておりません。下流の方では小網(さで)をもちいる。この小網(さで)は、持つところが狭くて網のところが大きい、竹で作った網である小網。それを何人もの人が下流、ここでは下つ瀬に居て、鮎が下りてくるのを防ぐ。こんどは上流の方の上つ瀬では、人間が瀬に入って、鵜を使って鮎を追い回す。そうやって鮎を追いかける。鮎が鵜に喰われまいと下流に逃げると網で鮎をとらえる。それで鮎が上流に逃げると、今度は鵜で捕まえる。蟹ばさみというか、そういう作戦で鮎をとる取る方法が、人麻呂の歌で歌われている。
 それで佐賀県の地図を見ると古湯温泉へ行く自動車道のトンネル。その雄淵トンネルを抜けたところに、なんと鮎瀬という地名がある。字地名が鮎瀬(あゆせ)。バス停「鮎ノ瀬」がある。近くの橋が鮎ノ瀬橋。この鮎瀬を中心に、バス停や橋がある。ここが瀬になっているから「瀬」を付けたと思う。現在はここでは捕ってはいませんが、下流の大和町川上では、今でも鮎をとっています。ですから現在でも鮎はいます。ただ鮎が通るだけでは「鮎瀬」という名前はつきません。やはり瀬を利用した鮎漁がおこなわれていたから「鮎瀬(あゆせ)」という名前がついている。人麻呂がそれを歌っている。驚きましたね。奈良県の吉野も鮎がいることで有名でしたが、「鮎瀬」にもこの地名が残っている。

 次に私が決定的だと考えましたのは、上流からトンネルを抜け鮎瀬を越えたところに、一つの川が嘉瀬川に流れ込んでいる。現在は北山湖というダム湖の周りを水源にした小副川川(おそえがわがわ)という川が二つ付いた変な地名の川が、嘉瀬川に流れ込んでいる。ミスではないかと教育委員会に確認しましたが、現地では間違いなくそう読みますとの返事がありました。小副川(おそえがわ)という字地名があって、その地名を取って川の名前をつけたと思います。

ところが人麻呂の歌。終わりから三行目を見てください。

「逝き副ふ 川の神も <逝>副 川之神母」

 この「<逝>副川」は小副川(おそえがわ)のことである。つまり人麻呂の歌は、この「小副川(おそえがわ)」という地名をバックにして歌っている。
 大事なことは、ここの意味が万葉学者は分からない。契沖いらいの万葉学者、最近の犬養さんまで、「逝き副ふ川の神も」の意味がみんな説明できなくて困っている。もちろん奈良県吉野を背景と考えているから説明できない。しかしここ九州佐賀県で考えますと、小副川(おそえがわ)川をバックにして、使っている。簡単に解ける。
 これを見ましても、奈良県で作った歌ではなく、人麿が佐賀県で作った歌である。それを『万葉集』では奈良県に持ってきて、はめ込んでいる。

 この歌については、特に初めのグループの歌については、古田史学の会水野さんが「常滑(とこなめ)」という言葉をキーポイントにして、別の場所(嬉野の轟滝)を候補地に挙げておられますが、今回は私の理解を申し上げました。

 さて、この歌にはもう一つ重大なテーマが入っていました。
 先ほどの古湯温泉と下の熊川温泉のあいだに雄淵・雌淵という瀬と、七十五メートルの雄淵の滝があると言いました。その雄淵の滝を説明する看板に、山の上のほうに石柱群が有ると書いてありました。それでやめなさいと言われましたが、ぜひ行きたいと登って行きました。そうしますと上にたくさんの石柱群がありました。たとえば笠石のような形。石自体は自然石ですが、その自然石の上に石を載せている。さらにあるところには、石の東側を向いたところを磨いている。今は苔が生えていますが、それを磨いてみたら朝おそらく太陽が出たら反射して輝く。このようなものがありました。それをやはり神聖な石神として信仰の対象にしている。もっと上がって行ったら、もっと立派な岩や他にもたくさんあるかも知れない。今度は温泉に泊まって、上にあがってみようと思っている。とにかく石神が祭られていることは間違いがない。私が見たのは七十五メートルの滝よりも上だから、もっと高く倍以上は高さがある。その上にある。
 これらの石柱群は何なのか。これらの石柱群こそ、山の神や河の神が祭っている対象です。大自然のシンボルの中心の神様です。それを讃える歌を、人麿は歌っている。
 それを従来の解釈では、この歌を奈良県に持ってきたために、石神が吹っ飛んで消えてしまった。それで万葉の解説は持統天皇や天武天皇に、天皇に山の神や河の神がお仕え申し上げている。どの『万葉集』の解説を見ても、そのように解説してある。
 それで澁谷雅雄氏から、鋭い視点で指摘を受けた。私と一緒に対談の本を書いた方で、長老の方です。頑固な方ですが、またそれ以上に鋭い視点をお持ちだ。東京で講演を行い、この歌の話をしました。その後の茶話(さわ)会で澁谷さんから、
「古田さん。私やっと分かりましたよ。」
と言われた。
 私は、「何がですか。」と、そのように尋ね返しましたが、
 「私は人麿は不逞(ふてい)野郎だと思っていました。何が不逞(ふてい)奴と言っても、だって山の神や川の神が天皇にお仕え申すなんて、そんな馬鹿な話があるか。今までこう思っていました。今日の古田さんの話を聞いて、やっと解けました。」
 なるほど、そうです。
 従来の解釈ではそうでしょう。なぜなら山の神や河の神は、天皇よりずっと古くから存在している。その大自然の神が、天皇にお仕えするという馬鹿げた解釈を、従来の万葉学は全て行ってきた。従来の万葉学者は全員一致して、その解説を行ってきた。そうでは、なかった。これらの山の神や河の神がお仕えもうしたのは、この大自然のシンボルとしての石神に対してだった。これは思想史的に、実に重大な問題です。

 もう一つ大事な問題がありました。
 先ほどの「逝き副ふ川の神も <逝>副 川之神母」、その「逝」、これが実に気になっていた。「逝」がなぜ出てくるのか分からなかった。地名にも「逝」はない。
 考えていると、これも大変な問題で出くわした。
 いきなり言うと、皆さん驚かれるでしょうが『論語』に出てくる。
 有名な言葉で、孔子が「川に臨んで、逝(ゆ)く者は斯(か)く如きか。昼夜をやめず。」と『論語』の中にある。皆さん帰って見てください。

『論語』巻五 子罕第九 (岩波古典大系に準拠)
一七 子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜
子、在りて川の上(ほとり)に在りて曰(のたま)わく、逝(ゆ)く者は斯(か)く如きか。昼夜を舎(や)めず。
先生が川のほとりでいわれた、「すぎゆくものはこの[流れの]ようであろうか。昼も夜も休まない。」

 「逝」という言葉は『詩経』や『礼記(らいき)』にも出てきます。しかし「逝」と「川」をセットにしたのは、孔子の『論語』にしかない。後にはありますが。孔子がなぜそのようなことを言ったのか。この意味もおもしろいですが、これ自身の意味は時間の関係で省略して、結論として人麻呂がこの歌で「逝き副ふ川の神も」と言ったのは論語を意識している。そのように私は考える。
 それでは、なにか。ここでこの歌の主人公はもちろん天皇家ではない。九州王朝の天子でもない。なぜかと言いますと、この歌では「大王」と書いてありますから。天子は大王ではない。普通に考えれば「大王」と書いてあるから、その領域の第一人者、肥前か筑後かを支配する九州王朝の右腕・左腕のような大王だったと思います。その大王が景色を見に行ったときに、この歌を作っている。その大王は景色を見るために高殿(望楼)を作り、また鮎を捕ったりしているところを見て喜んでいる。
 しかし大王を讃えているように見えながら、過去は実際はより古い永遠の昔から、大自然の中心である石神を中心に、山の神や河の神がお仕え申してきました。鮎も捧げてきました。もちろん現実には河漁師が取った鮎を、神に捧げるのでしょうが。それを山の神や河の神が、大自然のシンボルとしての石神にお仕えしてきました。そのような永遠の過去というか歴史をバックに置くわけです。そして今度は未来。孔子が言ったように、未来はどこへ去っていくか我々には分からない。そういう未来を彼は示している。その永遠なる過去と永遠なる未来の間に、今威張っている大王が居る。威張っているのを誉めているように今見せながら、あまりにもささやかな時の移りの一時(ひととき)に過ぎませんけれども。それがバックに入っている。だから人麿という人は、たいへんな歌人ですね。
 だから目の浅い教養のない連中から見れば、人麿はオベンチャラを言ってくれたと喜んでいるかもしれない。しかし目の利く人から見れば、決してそうではない。人麿は大王を相対的な今一時(いっとき)の権力者としか見ていない。そのようにしか歌っていない。
 人麿の歌の背景に『論語』があった。そのようなことは思いもしなかった。これを見たときは本当に飛び上がりました。
 それで私は、この歌が奈良県吉野ではなくて九州佐賀県吉野であることは、ここではまったく疑っておりません。しかもその背景には、そのような石神信仰、縄文・旧石器にさかのぼる巨石信仰が存在したことも疑うことが出来ません。
 それで兵庫県の西宮の甲山を中心に、またIさんのお宅を中心に巨石が存在することも知りましたが、勉強会を計画しながら出来ていませんが。最近Iさんからお聞きしたお話には、伊豆半島にもすばらしい巨石があるとのことで私も行ってみたいと思って楽しみにしています。
 いままでは『万葉集』の解釈でも、縄文・旧石器の巨石信仰を無視していたために、本当の万葉は見えなかった。聞こえなかった。そのようになるのでは、ないでしょうか。


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