“「邪馬一国」と「投馬国」の解明 ”を読んで 石田敬一『東海の古代』137号
「女王國」について -- 野田利郎氏の回答に応えて 石田敬一(会報112号)../kaiho112/kai12004.html
「女王國」について
野田利郎氏の回答に応えて
名古屋市 石田敬一
1 はじめに
『古田史学会報』NO.110(2012年6月10日発行)に、野田利郎氏の“「邪馬一国」は「女王国」ではない -- 『東海の古代』の石田敬一氏への回答”が掲載されました。
拙稿に対して正面から応えてくださったことに心から感謝申し上げます。ありがとうございます。私は真実の歴史を追究する「古田史学の会」の中で、様々な疑問点について議論を重ね、日本の古代史をより確固としたものにしたいと日頃から強く思っています。
それで、昨年の野田氏の論考“「邪馬一國」と「投馬國」の解明”(『古田史学会報』NO.106、2011年10月発行)を読んで、同感に思うところと疑問に思うところを『東海の古代』137号(平成24〈2012〉年1月)に投稿しました。これに対して、野田氏から論点を明確にした上で、ご批判をいただき、たいへんうれしく感じているところです。
まず、『魏志』倭人伝の道筋に関連する部分を再確認します。
倭人在帶方東南大海之中依山國邑 舊百餘國
漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國乍南乍東
到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千里 至對海國
其大官曰狗副曰奴母離 所居絶方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千戸
無良田食海物自活乗船 南北市糴
又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國 官亦曰狗 副曰奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸
?山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆?沒取之
東南陸行五百里 到伊都國
官曰爾支 副曰謨柄渠 有千餘戸
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里
官曰?馬觚 副曰奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日
官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都
水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支次曰奴佳? 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
野田氏は、帯方郡から女王國までの里数行程の一万二千余里が不彌國で終了していると考えられて、不彌國が城砦都市である女王國であり、邪馬壹國は、末盧國、伊都國、不彌國、奴國を含む区域であるという立場で論理を展開されました。
しかし、私は、帯方郡から女王國までの里数行程の一万二千余里が邪馬壹國で終了しており、さらに邪馬壹國は「女王之所都」と記述されているので、邪馬壹(いち)國が女王國であると考えます。こうした考えに立ち、野田氏の指摘に応えます。
2 野田氏の指摘に応えて
(1) 里程について
野田氏は次のとおり記述されます。
「女王國」は「郡より万二千余里にある国」と明記されるから、古田氏の証明された郡から万二千余里にある「不弥国」が「女王国」に該当し、それ以外の国は該当しないことになる。(『古田史学会報』NO110、13頁)
野田氏の論考に「古田氏が証明された・・・」という記述がありますので、あらためて、古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』(2010年5月20日、ミネルヴァ書房)で示された内容について再確認します。里程に関する主旨を簡潔に記せば次のとおりです。
(1) 朝鮮半島の帯方郡から女王國までの距離は、1万2千余里であると『魏志』倭人伝に明記されている。そして「部分里程の総和は総里程である」から、帯方郡から目的地までの行程を全て加算すれば1万2千余里になると考えられる。
(2) 帯方郡から狗邪韓國まで7千余里、狗奴韓國から対海國まで1千余里、対海國の島巡りで8百里、対海國から一大國まで1千余里、一大國の島巡りで6百里、一大國から末廬國まで1千余里、末廬國から伊都國まで5百里、伊都國から不彌國まで1百里、不彌國から邪馬壹國まで0里、あわせて、総計1万2千余里となる。
(3) すなわち帯方郡から邪馬壹國までの行程を足すと1万2千余里となる。したがって女王國は邪馬壹國である。
野田氏は、古田氏が1万2千余里の距離にあるのは不彌國であるとされましたが、(1)~(3)のとおり、古田氏の主張とは異なっています。野田氏の記述は古田氏の主張を部分的に取捨選択したものであって正しくありません。古田氏は『漢書』地理誌の「黄支之南有已程不國 漢之譯使自此還矣」の事例から「南至邪馬壹國」の記述は、邪馬壹國が不彌國の南に接していることを表していると示され、邪馬壹國と不彌國の距離はゼロ、つまり「最終行程0」であるので、郡から1万2千余里の最終目的地は、邪馬壹國であるとされています。まず、この点を確認していただきたいと思います。
この古田氏の「最終行程0」説に反論するには、距離の記述を伴わない事例を示した上で、その事例の距離がゼロではないと論ずる必要があると思います。
(2) 目的国について
次に野田氏は、目的国について次のように記述されます。
行路の「目的国」は行路の最後に書かれることは筆者と読者の暗黙の合意であるから、「別称」が先行しても不思議ではなく、里数行程の最後に記述された「不弥国」が「女王国」の本名である。(『古田史学会報』NO110、13頁)
別称が先行することは不思議ではないとの前半部分は野田氏の述べられるとおりと思いますが、「行路の最後」の捉え方が問題になります。
野田氏は里数行程の最後を不彌國に求めますが、2-(1) で示したとおり、不彌國から邪馬壹國は里数行程がゼロであり、邪馬壹國が里数行程の最後です。邪馬壹國で締めくくられていますので、行程の最後に記述された國は、邪馬壹國であり、そこが女王國になります。
行程の最後であるかどうかは、道里、官名、戸数等が記述されている国の中で、最後に記述された国かどうかです。
不彌國は、「百里」「官曰多模副曰奴母離」「千餘家」と記述されています。
次に、投馬國は、「水行二十日」「官曰彌彌副曰彌彌那利」「可五萬餘戸」と記述されています。
そして最後に、邪馬壹國は、「女王之所都」と記述され、その後に、「水行十日陸行一月」「官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?」「可七萬餘戸」が記述されています。さらに続いて「自女王國以北 其戸數道里可得略載」とあるので、戸数、道里が記述されている最後の国が女王國です。それは、邪馬壹國です。そして邪馬壹國だけが「女王之所都」と説明されています。
したがって、邪馬壹國が「目的国」だと思います。
(3) 女王國について
野田氏は「南至邪馬壹國女王之所都」について次のように主張されます。
この句は「邪馬一国」を主体として「女王国」を受けた形になっていない。そのため、「邪馬一国」の領域内に「女王の都」があるとの説明文と解する他はないのである。(『古田史学会報』NO110、13頁)
野田氏は邪馬壹國の領域内に、末盧國、伊都國、不彌國、奴國があって、そのう
ち帯方郡から1万2千余里にある不彌國を都であるとされます。こうした基本的な概念に立って、「南至邪馬壹國女王之所都」の記述が、“「邪馬一国」の領域内に「女王の都」があるとの説明文”であるとされます。
しかし、邪馬壹國の領域内に、末盧國、伊都國、不彌國、奴國があるという概念は『魏志』倭人伝には記述されていません。また、“「女王國」を受けた形になっていない”や“邪馬一国の領域内に、「女王の都」がある”というのは解釈であると思います。
というのは「女王之所都」の「所」は文字どおり、場所を意味します。そして、先述した『魏志』倭人伝の行程が記述されている部分において、次のとおり「所」は、「國」と置き換えることができますので、ここでは「所」は「國」と同意語です。
行程が記述されているうちで、「所」が記述された全ての箇所について確認します。「女王之所都」を除いて、次の4カ所です。
(1). 「今使訳して通じる所、三十國」は、「今使訳して通じる所」が「三十國」の説明文になりますから、「所」は「國」を意味します。すなわち、今使訳して通じる「國」は、三十國であることを意味しています。
「今使訳して通じる國、三十國」です。
(2). 「居る所、絶島にして方四百余里可り」は対海國の状況を表しているところです。「居る所」は対海國であって、対海國という「國」は、絶島にして方四百余里可りであることを表しています。
「居る國、絶島にして方四百余里可り」です。
(3). 伊都國の説明で「郡使の往来して常に駐まる所」の「所」は、郡使の往来して常に駐まる「國」であり、伊都國を意味します。
伊都國は「郡使の往来して常に駐まる國」です。
(4). 「次に奴國有り、これ女王の境界の盡きる 所」の「所」は、女王の境界の盡きる「國」である奴國を意味します。
「次に奴國有り、これ女王の境界の盡きる國」です。
これらの例に倣えば「女王之所都」の「所」は「國」を意味しますから、「女王之所都」は「女王の都する國」です。「女王の都する國」とは、まさしく女王國のことでしょう。女王國を「女王の都する所」に言い換えているわけです。
「南至邪馬壹國女王之所都」は、「南、邪馬壹國に至る。女王の都する國」という意味ですから、邪馬壹國は女王國と考えて間違いないでしょう。さらに邪馬壹國の記述「可七萬餘戸」の直後に「自女王國以北」と記述されているのですから、「女王之所都」をまさに「女王國」で受けているのです。
したがって、邪馬壹國の領域内に女王國である不彌國があるとされる、野田氏の論理は飛躍しており、理解しがたいと思います。
(4) 「自女王國以北」について
野田氏は、「女王國=邪馬壹國」と仮定した場合、『魏志』倭人伝の次のA・B二つの「自女王國以北」の記述から、「女王國=邪馬壹國」ではないとされました。
A 自女王國以北 其戸數道里可得略載
B 自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯(『魏志』倭人伝)
ご批判の要点は2つあり、野田氏は「女王國=邪馬壹國」と仮定した場合、a、b、cの条件のもと、次のd、eの二つの矛盾があるため「女王國=邪馬壹國」では説明できないとされます。
a.Aの記事の基準点は邪馬壹國であって、その「以北」は、古田武彦氏の説で「北の行路の国々」とされるので、狗邪韓國、対海國、一大國、末盧國、伊都國、不彌國、奴國、投馬國が該当する。
b.そしてこれらの国々は検察を受ける国々である。
c.邪馬壹國は、Aの「以北」の国の中には含まれず、検察の対象外である。
d.倭國の人口の15万人のうちの7万人を占める邪馬壹國が検察の対象外であるとすれば、Bの「すべての津を検察する」との内容と矛盾する。
e.また、伊都國はAの「以北」に含まれるので被検察国であるが、Bでは“「一大率は常に伊都國に治す」と伊都國が検察国であると記述されて”いるので内容が相反してしまう。
(5) 「皆臨津捜露」について
dの「すべての津を検察する」については、疑問があります。
「女王國=邪馬壹國」と仮定した場合、「以北」の基準点は邪馬壹國ですから、野田氏が示されたとおり、確かに女王國である邪馬壹國は含まれません。
ここで、問題となるのは「皆臨津搜露」の意味です。この意味するところについて、野田氏はdの「すべての津を検察する」との内容とされます。これに対して、私は「皆臨津捜露」の意味は、そうではないと思います。
「皆臨津捜露」に使われている語句のうち、注意を要すべきは「皆」です。野田氏は「皆」を「すべての」と「臨」を挟んだ次の名詞の「津」の修飾語として理解されています。こうした読み方が可能かどうか疑問です。
「皆」は基本的に人に対して使われる言葉です。たとえば、伊都國に関する記述では、次のとおり「皆」が使われています。
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
これの意味するところは、「(伊都國には)世々、王あるも皆女王國に統屬し、郡使が往來する際には常に駐在する所である」です。使用されている「皆」は、「皆」の直前に記述された代々の伊都國の王たち、「王」すなわち人を指しています。
「皆」は代々の伊都國の王、すなわち
人に対して使われ、それは「皆」の直前にある人を指す語句です。この例にならえば、いま問題となっている次の記述の意味はどうなるでしょうか。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
「津」とは港のことですから、津に臨むとは、入港・荷揚げに立ち会うことです。「捜露」とは、捜し出し露わにする、捜してはっきりさせると言うことでしょう。そして「皆」は、「皆」の直前に記述された人々を指しています。「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國」が直前のそれにあたりますから、すなわち、中国の京都に詣でる倭王の遣使、帯方郡への遣使、諸韓國への遣使、そして帯方郡から倭國への郡使です。
つまり、「皆臨津捜露」の「皆」は、遣使や郡使です。
したがって、この文意は、「京都や帯方郡や諸韓國に詣でる倭王の使い、及び倭國への郡使は、だれでも皆、津に臨んで、伝送の文書や女王へ賜遺する物を捜露する。これにより差錯することがないようにする」です。
平たくいえば、倭國から中国などの外国へ詣でる倭の使いの者、逆に中国の帯方郡から倭國へ来る郡の使いの者、いずれの場合でも、それらの使いの者たちは伊都國の港で立ち会って、伝送文書や女王に贈る物をチェックして間違いがないようにするということだと思います。
つまり、「皆臨津捜露」については、野田氏が示された「すべての津を検察する」という意味ではなく、「遣使や郡使の誰もが津に臨む」という意味です。
以上の認識に立ったときに、dに関して、「皆臨津捜露」は邪馬壹國を含むすべての津という意味ではありませんから、邪馬壹國が「検察の対象外」であっても、まったく矛盾するものではありません。
そもそも女王國である邪馬壹國は、検察を指示する側の國ですから、検察を受ける國ではないはずだと思います。
(6) 検察国について
野田氏は、先のeにおいて、伊都國はAの「以北」の國であるので検察を受ける被検察国であるとする一方で、Bでは伊都国は検察国と解釈できるので内容が相反すると主張されています。
私はこれは正しくないと思います。伊都國は「以北」の國ですから被検察国であるということには同感ですが、「伊都國が検察国である」ことについては、誤りであろうと思います。「伊都國が検察国である」とは『魏志』倭人伝のどこにも記述されていません。検察を行うのは伊都國ではありません。検察を行うのは、一大率です。「常治伊都國」とあるように、一大率は伊都國に「治」すのであって、「治」は政務を行うということですから、一大率は、伊都國で政務を行うという意味です。
原文には「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 畏憚之 常治伊都國」に続いて「於國中有如刺史(しし)」とあります。一大率は「如刺史(しし)」すなわち、刺史(しし)の如しとあります。刺史(しし)は、中国の官職である監察官のことですから、当たり前のことですが、人のことです。そして人である一大率が政務を執る場所、政庁が伊都國にあるということでしょう。
したがって、「一大率は常に伊都國に治す」の記述を理由に「伊都國が検察国である」と論理を飛躍させるのは間違いです。伊都国は検察国ではありません。一大率が刺史(しし)のような検察官であるのです。
(7) 狗邪韓國について
野田氏は“里数記事では「狗邪韓国」を倭国から除外”されますが、私は狗邪韓國は倭國の30國のうちの一つであると思います。
これを調べるのは簡単です。
「今使譯所通三十國」とありますから、狗邪韓國を除いたときに30カ国あるかどうか、國の数を数えればよいのです。
對海國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國
以上のとおり狗邪韓國を除くと29カ國です。
狗邪韓國を加えないと倭國は30カ國になりません。したがって、狗邪韓國を倭國から除外することは誤りです。
3 投馬國と邪馬壹國の記述形式について
野田氏は投馬國と邪馬壹國の記述が、「方向、国名、日数、官名、戸数の順序が同一」の「対」の形式になっているとされます。その一方で、“「女王之所都」の句は余ることから、この句は「邪馬一国」を説明する句と解釈した。”といわれます。野田氏も自ら述べられたとおり「女王之所都」に相当する句は、投馬國の記述にはありません。ですから、投馬國と邪馬壹國では「対」になっていないのです。
投馬國と邪馬壹國の記述形式は、「以北」の国々と同様に、行程、官名、戸数等が記述されている点で同じ記述形式ではあります。が、野田氏の「対」の形式であるという主張に応えて、邪馬壹國は、「女王之所都」で区切られているので、邪馬壹國と投馬國の記述は「対」の形式になっていないと、私は先の拙稿で述べたのです。
4 投馬國について
石田氏は「投馬國の所在地を遠賀川流域と考えられ、拙論と同じ結論である。(『古田史学会報』NO110、13頁)
と野田氏は述べられました。
しかし、私は、投馬國に関して、「東海の古代」137号(2012年1月)の「“「邪馬一國」と「投馬國」の解明”を読んで」の中で次のとおり述べています。
私は野田氏と同じく、投馬國は郡を起点として、その方角と日数記事を記述していると考えます。ただ投馬國の具体的な位置はこの記述だけではわかりません。邪馬壹國に肩を並べるほどの戸数がある國が、帯方郡の南の方に邪馬壹國とは別にあるということになります。しかも投馬國は邪馬壹國より北に位置するとなると、遠賀川流域辺りが投馬國の比定地の候補のひとつになります。(『東海の古代』137号、5頁)
私は、『魏志』倭人伝の記述だけでは、投馬國の具体的な位置はわからない、という立場です。遠賀川流域は、あくまで比定地の候補の一つであって決めつけているわけではありません。念のため申し添えます。
5 高句麗の都について
『魏志』高句麗伝には、その都に関して次のように記述されています。
高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮?貊東與沃沮 北與夫餘接 都於丸都之下方可二千里 戸三萬 多大山深谷無原澤 隨山谷以為居食澗水 無良田雖力佃作不足以實口腹
高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、?貊、東に沃沮、北に扶余と接す。丸都の麓に都を置く。方二千里、戸数三万。大山多く谷深く原野、沢無し。山谷に随い居を為し谷水を飲む。良田無く畑作に努めるといえども口腹を満たさざる。
野田氏は、女王國を高句麗の丸都山城にたとえられています。
高句麗の都に関する記述としては「都於丸都之下」とあり、丸都の麓に都を置くとされています。そして、丸都山城は、王宮がある平地の国内城に対して、緊急避難を目的として築かれた山城と位置づけられています。ですから、丸都山城は、倭国でいえば、神籠石にあたる施設だと思います。高句麗の都は、国内城と背後の山城がセットで一つであるので、両者を合わせて都と呼ぶべきものではないかと思います。
また、国内城と山城のセットは、都を指しているのであって、國を指しているのではありません。都を(女王)國と同じとするのは乱暴な論理ではないかと思います。
6 韓國陸行の距離について
野田氏は
韓伝には、韓は「方可四千里」と書かれているが、形は記載されていない。(『古田史学会報』NO110、14頁)
とされ、韓国の地形に平行四辺形を重ねて、短い方の対角線をもって、韓國陸行の距離を四千里と想定されます。
ところが、これは「方」の概念を無視した主張です。
古代中国の最古といわれる天文学の数学書である『周髀算経』によれば、「方」は正方形です。「方」に平行四辺形の概念はありません。あくまで正方形の概念です。
また、古代中国の数学書『算経十書』のうちの一つ『九章算術』では、第一章「方田」において、方田術により田の面積を計算しており、正方形又は長方形の田を総称して「方田」としています。つまり、「方」は正方形又は長方形を意味します。長方形は、長方形の中に小さい正方形を並べ、その数を数えて面積を算出します。面積の計算方法は、現在と同じく、従(縦)と広(横)を乗じて求めます。「方」の基本は正方形です。
したがって「方可四千里」は、一辺が四千里程の正方形ということになります。
あえていえば、「方可四千里」という記述によって韓國の大きさが特定できるようになっており、それだけで事足りるからこそ「方可四千里」と記述されているのです。それは「方」が正方形ですから、「方」に一辺の長さ「可四千里」を示すだけで大きさが特定されるのです。
平行四辺形でもかまわないと想定することは間違っています。なぜなら、平行四辺形の場合を考えると、その大きさは拉げ方で変わってしまいます。拉げ方によって、大きさの概念が2分の1、3分の1・・・と大きく変わってしまい、まったく計算の用を為しません。
以上のとおり「方」は正方形ですから、韓国の地形には平行四辺形を重ねるのではなく、正方形を重ねなければなりません。そして、韓国を斜めに陸行する場合、その陸行の距離は、正方形のほぼ対角線の長さとなることから、縦、横の四千里を上回るのは当然のことであり、四千里×ルート2くらいになるはずだと、私は指摘したのです。
ご承知のことであると思いますが、ルート2は1.41421356ですから、4,000里をかけ算して対角線の長さは、約5,700里ほどであろうということです。
ですから野田氏が想定される四千里は再考すべきと指摘させていただいたのです。
なお、野田氏は「古田氏も韓国を菱形に描いている」と述べられていますが、これも必要十分な表現ではありません。
古田武彦氏が朝鮮半島の地形を意識しすぎたための図示のミスであろうと思いますが、「邪馬台国論争は終わった=その地点から」(古田武彦ほか共著『続・邪馬台国のすべて』)では、韓国の地形に図1のとおり平行四辺形を描いています。しかし、古田氏は、その後、『古代の霧の中から』において、“「方」というのは縦も横も四千里の正方形ですから”というように「方」を正しく理解し、図2のとおり正方形に修正されています。
図1『続・邪馬台国のすべて』23頁
図2『古代の霧の中から』 189頁
さらに、『「邪馬台国」はなかった』などでは、対海國の方可四百餘里や一大國の方可三百里について図3、図4のとおり正方形で図示されています。
図3『「邪馬台国」はなかった』248頁初版
図4『古代史六十の証言 -- 九州の証言』18頁(再版)
7 古田説について
古田氏の著書は数多く出版されていますので、『続・邪馬台国のすべて』の他にも、韓国の地形に平行四辺形を重ねて図示した著書があろうと思います。ただ、1971年の『「邪馬台国」はなかった』の段階で、すでに対海國の方可四百餘里や一大國の方可三百里に「方」を正方形で図示し、1985年『古代の霧の中から』の時点では、“「方」というのは縦も横も四千里の正方形”と明示しています。私も十分に古田説を把握しているわけではありませんが、最新の古田説をしっかり認識し、それを論拠に議論していきたいと思います。
古田説は、どんどん先へ先へと進化し、古田氏提唱の仮説は微妙にあるいは大胆に変更されていますので、これまでの古田説のどこまでが活きていて、どこが変わって、それがどのように関連しているのかわかりづらくなっています。
私は、私が理解している範囲で古田氏の提唱されている説のほとんどに同感しますが、納得できない部分もあります。可能な限り最新の古田説を知り、明確な論拠をもって批判し、さらに確固たる古田史学にしたいと思います。
8 結びに
不彌國を女王國にあてる時、いちばんのアキレス腱となるのは、『魏志』倭人伝の不彌國の説明に、女王や女王國と関連する記述がないことです。この点で不彌國=女王國説は弱いと思います。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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