2024年12月17日

古田史学会報

185号

1,訃報
水野孝夫さんご逝去の報告
 古田史学の会 代表 古賀達也

2,「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か
西村秀己・古賀達也両氏への回答(2)
 日野智貴

3,岡下英男氏の
 「定策禁中」王朝交替論に係る私見
 小島芳夫

4,小島芳夫氏の拙論への疑問に応える
 谷本茂

5,『筑後国風土記』の
「磐井の乱」とその矛盾
 正木裕

6,王朝交代前夜の天武天皇
飛鳥・藤原木簡の証言
 古賀達也

7,古田武彦記念
 古代史セミナー2024参加の記
 倉沢良典

 

古田史学会報一覧

ホームページに戻る

谷本氏論への疑問 小島芳夫(会報184号)

持統が定策禁中を行って、九州王朝を滅ぼした 岡下英男(会報184号)


岡下英男氏の

「定策禁中」王朝交替論に係る私見

宝塚市 小島芳夫

 古田史学会報№184において岡下英男氏が『持統が定策禁中を行って、九州王朝を滅ぼした』論を論じています。古田史学においては700年ころに九州王朝から大和朝廷への王朝交替が成されたとしていますが、今日までその王朝交替に関する具体論は余り熱心に議論し、論じられてきたとは見えない状況にあります。氏も別論で「残るところは権力移行のプロセスの解明である」とされ、また「今までこれを具体的に明らかにすることが出来なかった」ともしています。そのような現況下、氏自身が王朝交替の具体論を、その実際の姿が少し見えるように論じています。
 氏は、日本書紀持統紀最後の十四文字「天皇定策禁中 禅天皇位於皇太子」に九州王朝から近畿天皇家への権力移行という重大事の過程が濃縮して表現されていると考えるとし、そのキーワードは「定策」であるとしています。「定策」とは「臣下が謀って新しい天子を擁立すること」で、前段で「九州王朝の天子の座が空位となったので、臣下の持統が定策を行って、九州王朝の新しい天子を擁立した」と。そして、後段で「持統に圧迫されて、新天子は天皇位を近畿天皇家の皇太子に禅った」と、また「持統は、先ず定策を行って九州王朝に傀儡の天子を擁立し、次にその天子を圧迫して、自分が指示する近畿天皇家の皇太子(軽皇子)に禅譲させた。そして、九州王朝は滅亡したのである」としています。それは、持統天皇が、禁中において定策を行い、傀儡の新しい九州王朝天子を擁立し、立てた新しい天子に圧迫を加えて、その天子の位を近畿天皇家の文武天皇に禅譲させた。これにより九州王朝を滅ぼした。そして九州王朝から九州王朝と血縁関係が無いとする近畿天皇家への権力移動つまり王朝交替を成したという想定です。(近畿天皇家とは神武天皇から続く大和朝廷と理解します。)しかし、この想定には多々疑問等があり、この想定どおりに進むのは難しいと私は考えます。

 

Ⅰ 大和朝廷の実力と持統天皇の「定策」についての疑問

①大和朝廷は、倭国臣下群中において「定策」することができるほどの実力を持っていたのかの疑問です。何ら根拠の説明がありません。九州王朝傘下には旧唐書に記すように「五十餘国 皆附属為」と多数の国が附属しています。その中、平地の少ない狭い山間の一地方王権が、何故そのような実力を持てたのか、不明です。白村江の戦いに参戦しなかったので戦力を温存できたからと以前からよく言われていますが、参戦しなかった国は大和朝廷だけとは限りません。また、九州王朝には五十余国が附属していますので、九州王朝が統率する軍事力は全国に十分にあるでしょう。たとえ臣下一の実力、軍事力があったとしても九州王朝相手にまず勝てるものではないのではないでしょうか。ましてや一地方王権の一国や数国でどうして勝てるのか大いに疑問です。白村江の話も考えようで、参戦しなかったのではなく、参戦させてもらえなかった、参戦させてもらえないほどの弱小軍だったと考えることもできる話です。不参戦は根拠になり得ません。つまり、大和朝廷には本当に実力があったのか、持統天皇は「定策」することができるほどの実力者だったのか、全く不明なのです。壬申の乱を見ても分かるように大和朝廷軍は応援の尾張軍に負ける程度のものでしかなく、この状況では、持統天皇は実力者にほど遠い存在だったのではと考えるしかありません。他を圧倒する絶対的な実力が必須と思われますが、その実力があったとはとても考え難い状況です。

②もし、持統天皇が九州王朝の実力者であったと仮定するならば、何故、九州王朝の京の内裏に参内せずに大和の地に居続けたのかの疑問です。大和の地に居続けて、どうして九州王朝の実力者と言えるのでしょうか。徳川家康でも関東を離れて大阪城近辺に詰めていたのです。

③「定策」を為す人は天子に近い人、近縁者や重臣とされますが、九州王朝と血縁関係の無い近畿天皇家の、しかも重臣とも言えそうもない持統天皇が「定策」を為す、「定策」に加わることができるのかも大きな疑問です。たとえ近い人であっても、大和の地に居続けては「定策」に加われるものではないと考えます。また九州王朝一族であっても疎遠な人は近い人とはいえないでしょう。ましてや、近くに居ない、一族でもない者がどうして「定策」に関わることができるのでしょうか。大和の地に居て「定策」に関わることは不可能ではないでしょうか。九州王朝と何の所縁も縁もないとする持統天皇が「定策」に加わったとするのは大きな疑問です。

 

Ⅱ「禁中」についての疑問

④大和の地に居続ける持統天皇が「禁闕中」で定策したとしているので、その「禁闕」は大和の地にあったことになります。このことは、大和朝廷の「禁闕」において九州王朝の定策を為したことになります。九州王朝天子に係る定策が、どうして大和朝廷の「禁闕」で行うことができるのでしょうかの疑問です。道理に合いません。また、定策は一人でするものではないでしょうから、九州王朝の天子に関わることなので当然に九州王朝天子に近い人々が多く加わるものでしょう。その人々が九州から大和まで来なければなりません。大和の「禁闕」で定策を為すなど全く不可解なことです。それとも九州王朝の「禁闕」が大和の地にあったとするのでしょうか。氏は「禁闕」が何処に在ったのか、また九州王朝の「禁闕」なのか、近畿天皇家の「禁闕」だったのかには触れていません。

⑤もし、「禁中」が九州王朝の「禁中」と仮定するならば、九州王朝は、いつ、大和へ遷京したとするのでしょうか。九州王朝が遷京したという話は聞いたことがありませんし、氏も触れていません。持統天皇が定策した「禁中」が九州王朝の「禁中」とするなら、当然に九州王朝の京は難波か大和の地に遷京していたこととなります。藤原京(難波宮は六八六年に焼失)が候補に挙げられますが、果たして遷京していたのでしょうか。

⑥もし、大和の地へ遷京していたと仮定するならば、大和の地は九州王朝の国土となっていることが必須です。遷京されていたとすれば、新唐書日本伝に記す「或云 日本乃小國 爲倭所并」のとおり、大和朝廷近畿天皇家の日本国は九州王朝に併合されて消滅していたことになります。しかし、氏は九州王朝から近畿天皇家へ王朝交替したとしますので、これでは矛盾してしまいます。故に、氏の論の「禁中」は大和朝廷の「禁中」となるしかありませんので、④の不可解な状況の疑問が残ることになります。「大和朝廷の禁中」で「九州王朝の天子に係る定策を為した」ことにならざるを得ないのです。本当にそのようなことができるのでしょうか。大きな疑問です。道理に合いません。いずれの国も京(都)は自国内に置きますので、京の在る大和の地は既に九州王朝の国土となっていたことになります。つまり藤原京が九州王朝の京だとするならば、藤原京が計画され始めた時点までに近畿天皇家の大和朝廷は滅亡していたことになるしかないのです。

 

Ⅲ「禅天皇位於皇太子」に関する疑問

⑦氏は、この語句の天皇位とは九州王朝の天子位のこと、また皇太子とは近畿天皇家の文武天皇のこととしています。そして「禅」とあるので、これは天皇が皇太子にその位を譲るのではなく(天皇が皇太子に位を譲る場合は「譲」を用いる)、「九州王朝の天子から、血縁関係の無い近畿天皇家の皇太子への天皇位の移動に相応しい」文字として、九州王朝の天子がその位を九州王朝王家の血縁者以外の者へ禅ったと理解します。つまり禅譲したことを意味する文字「禅」(氏は血縁者以外へ位を譲る意とする。)を使用しているので、九州王朝天子の位が九州王朝と血縁関係の無い近畿天皇家へ移動し王朝交替したとしています。しかし、持統天皇に果たして禅譲革命を起こすだけの実力があったのか。定策を見てもその実力は大いに疑わしいものであるのに、禅譲までさせることなど到底不可能ではないでしょうかという疑問です。

⑧この禅譲では、大和の地に多くの国々の人が集った形跡がありませんので、この禅譲は多くの国々の支持を得て行われたものではないと考えられます。それにもかかわらず多くの国々の抵抗を受けるのではなく、多くの国々の賛同、支持を得ることができたかのように矛盾した状況になっています。では、どうして多くの国々の支持を得ることができたのかの疑問です。禅譲したとすることが社会状況に合っていません。禅譲したとするのであれば、多くの国々が集っていないということは多くの国々がこれを支持していない、認めていないということの表れではないのでしょうか。この筋の通らない矛盾するような状況についての説明が必要ではないでしょうか。山間の地でこっそり禅譲しても誰もどの国も認めるものではないでしょう。

⑨持統天皇が擁立した新しい天子に圧迫を加えたとしますが、何処で、どのような圧迫を、どういう手段で、どのようにして加えたのでしょうかの疑問です。説明がありません。大和の地に居る持統天皇が遠く離れた九州の地に居る新しい天子に圧力を加えることは非常に難しいのではないでしょうか。これらの疑問について、説明をする必要があるのではないでしょうか。

⑩禅譲は革命ですので「天命が革まる」ことが必須ですが、革まった天命の「天意」を持統天皇は多くの国々に、人々に、どのようにして示し、納得させたのかの疑問です。氏は触れていません。口先だけでは誰も納得しません、納得できません。得心させる具体的な施策がどのようなものであったのかの説明が必要ではありませんか。

⑪何故、禅譲に際して九州王朝一族は抵抗しなかったのかの疑問です。九州王朝が抵抗すれば大規模な抵抗になるでしょう。壬申の乱程度の近畿における局所抗争では済みません。天下分け目の関ケ原の戦いのような大会戦は必定でしょう。しかし、そのような大会戦は起こっていません。何故、抵抗しなかったのかの疑問です。血縁関係の無い一地方王権に禅譲することは考えられないことですので、一族の納得を得ることは困難でしょう。それなのに、九州王朝一族が無抵抗でいたのかの疑問です。抵抗する勢力が混乱を起こすことは自然な成り行きですが、特に抵抗勢力が巨大な九州王朝王家ですので、その混乱は計り知れない大混乱となることが推定できます。天子の座を奪われ一族の未来が無くなるのですから抵抗しない方が不自然です。抵抗するのは当然のことでしょう。ところが、それにもかかわらずこの王朝交替で混乱が見られていません。九州王朝をはじめ多くの国々は抵抗していないようにしか見えません。このような状況を見るに、「血縁関係の無い大和朝廷への王朝交替」があったと言えるのでしょうか。全く道理に合いません。

⑫禅譲の儀式は何処で行われたのかの疑問です。「九州王朝から大和朝廷への禅譲による王朝交替」ですので、当然に禅譲が成された地は九州王朝の京でしょう。九州王朝天子の玉座、高御座において九州王朝の天子の眼前で新しい天子がその高御座に着くという大デモンストレーションがあって、人々は、国々は、それを目の当たりにして、初めて禅譲による王朝交替が成されたことを知り、確認し、認めることになるものではないでしょうか。それにもかかわらず、持統天皇も文武天皇も大和の地を離れていません。大和朝廷の地で禅譲を成すなどあり得るものではありません。それでは、人々が、国々が、納得しません、納得できません。この持統天皇の定策による近畿天皇家への王朝交替論は道理に合わないのではないでしょうか。なお、九州王朝が大和へ遷京したと仮定することは、⑥項で記すように、大和朝廷が滅亡し存在しなくなりますので氏の論に合いません。

 

Ⅳ旧唐書、新唐書の記事との不斉合の疑問

⑬旧唐書倭国伝の冒頭に「日本国者倭国之別種也」と記しています。日本国は倭国の別の種の国つまり「倭国の分種、分家」と記していますので、日本国は「倭国とは別」の国ではありません。「倭国の」との修飾語が付いた「倭国の別種」の国です。日本国は飽くまで倭国です。しかし、氏は、大和朝廷は倭国とは血縁関係の無い国つまり「倭国とは別」の国としていますので、旧唐書に記す日本国とはなり得ません。つまり、近畿天皇家は日本国天皇家ではないということです。そのような何者か分からない国に九州王朝が禅譲するでしょうか。不可解です。

⑭旧唐書、新唐書の日本国記事は「其王姓阿毎氏」と記しています。しかし、大和朝廷の天皇を九州王朝とは血縁関係は無いとし、「阿毎氏」ではないとしています。これは両唐書の記事と斉合しません。近畿天皇家は日本国天皇家ではなくなり、⑬と同様に不可解です。
 氏は「持統が定策禁中を行って、九州王朝を滅ぼした」とする論に矛盾は無いとしますが、前紀のように疑問や道理に合わないこと等が多々あり、大和朝廷の禁中で九州王朝天子に係る定策を為したことにならざるを得なくなります。また、たとえ大和朝廷や持統天皇に実力があったとしても、「九州王朝と血縁関係の無い近畿天皇家」へ王朝交替したと理解することは難しいのではと考えます。

 

Ⅴ拙考

 考えるに、これらの疑問等が生じないようにするには、新唐書日本伝が「或云 日本乃小國 爲倭所并」また「其王姓阿毎氏」と記すように、(天智天皇や)持統天皇が倭国九州王朝王家阿毎氏の一族、九州王朝王家の傍系、別系の人と理解することではないでしょうか。このように理解すれば、全てにおいて無理なく、道理に反することもなく、この「天皇定策禁中 禅天皇位於皇太子」の十四文字が王朝交替を意味すると理解できます。文武天皇の日本国は旧唐書日本国伝にいう「日本国者倭国之別種也」に合致し、両唐書とも斉合します。また九州王朝の京が大和の地に在っても何ら不都合なことではなくなります。そして文武天皇が九州王朝の天子位を禅られたという事象は九州王朝王家内での天子位の移動、王家内の権力移動であって、多くの臣下や附属国には原則関わりの無いことですので不満や不服等が出てくることは無く、王家内からの抵抗は多少あっても、臣下や附属する国々は基本的に安泰ですので大きな抵抗は起こらないでしょう。これは「天皇定策禁中 禅天皇位於皇太子」に記すように王権が移動するとともに旧唐書日本国伝にいう「日本舊小国 併倭国之地」にもピタリと当て嵌まることになります。なお、「禅」が用いられていますので、基本的には天命が革まっての九州王朝王家内での天子位の移動で、そして国号が〝タイ国”から日本国に替わったと考えます。
 岡下氏が記すとおり日本書紀持統紀末尾十四文字の「天皇定策禁中 禅天皇位於皇太子」は王朝交替を記していると私も理解します。ただし、この王朝交替は九州王朝の本家から分家へ、本種から別種への王朝交替と考えます。血縁上天子から近い人を飛ばして遠い分家の人への天子位の移動ですので「天意」が入らないと(天命が革まらないと)天子位の移動は難しいでしょう。故に、禅譲とされたものと考えます。この十四文字を「大和朝廷近畿天皇家」への王朝交替とすると斉合が取れないでしょう。しかし、「天智天皇創始の大和朝廷天智朝(仮称)」つまり日本国への王朝交替を記したものとすれば全てが斉合すると考えます。
 この日本書紀持統紀末尾十四文字の「天皇定策禁中 禅天皇位於皇太子」については、「天智天皇、持統天皇父娘は九州王朝王家阿毎氏の人である」とするたった一つの仮定を立てるだけで、王朝交替を記したものであると無理なく理解することが可能となります。このことは新唐書日本伝に記すように「爲倭所并(乙巳の変)」により、大和朝廷近畿天皇家は倭国阿毎氏に併合されて滅亡し、その後九州王朝王家の人である天智天皇が当地を治めた。そして天智天皇の娘である持統天皇が、大和の地へ迎えていた九州王朝の天子のために藤原京を造営し、その禁中において「定策」を為し、文武天皇に九州王朝天子位を禅らせたと考えられます。その結果〝タイ国”から日本国へ統治権威が移動(王朝交替)しました。この十四文字は、本家から別家への統治権威(正統性)の移動を表したものと見ます。

 


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
デジタルアーカーブ新古代学の扉 事務局 E-mailはここから


古田史学会報一覧
ホームページへ


Created & Maintaince by"Yukio Yokota"