1996年8月15日 No.15
古田史学会報 十五号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
▼▼▼▼▼▼待望の再刊 明石書店より 定価九七八五円
古田史学が誕生した母なる領域、それが「親鸞研究」であったことはよく知られている。その集大成『親鸞思想』が冨山房から発刊されたのは昭和五〇年。「本山に弓むけることはできぬ」と、予定されていた出版社からの発刊が拒否され、家永三郎氏の援助によりようやく日の目を見た、運命的な本だ。その一書が、親鸞の思想とともに、今、蘇ったのである。
▼▼▼▼▼▼
古田史学を世界に発信しよう
東大阪市 横田幸男
皆さんインターネットをご存じですか。言葉だけでもご存じのことだと思います。電話回線で世界中のコンピューターが、網の目のように繋がっているシステムです。そこにホームページという自分を売り込む所を、大学のコンピューター等に開設して就職活動などに役立てている人もあり、話題になっています。
今度私たちも世界に向けて、つまり日本語だけではなく英文で、古田史学の成果や主張を訴えるのがよいのではないかという声があり、古田氏の賛意も得て、ホームページ開設に向けて検討を重ねています。
世界中の歴史学のインターネットのつながりは、考古学を中心に繋がっています。大学を核に様々なネットがあります。特に、アメリカ、ヨーロッパやオーストラリアなどにサイト(分局。「遺跡」ではありません。)を持つArchNet(米コネチカット大学)は有名な考古学ネットです。リンクといって、アーチネットから100以上の世界中の大学と研究者のホームページが繋がっています。日本では帝塚山大学・考古研究所が繋がり、青森の三内丸山遺跡が世界中に案内されています。
また、英文ですが多くの考古学データがあります。(シュン。誰か訳して欲しい。)地元米のニューイングランドの先史時代の考古学資料などもあります。これは冗談ですが、もしかしたら和田家文書で北米から筏船へ乗って三内丸山へ来た可能性が高い津保化族(人)の土器の資料が有るかもしれませんよ。コネチカット大学は米東海岸にですが。(笑)
国内では大王神武の出生の地の可能性が高くなっている九州前原市がホームページを開設しており、魏志倭人伝の解説と邪馬壹国の声を揚げています。
私共としては、世界に向かって古田史学の成果を発信したいと思っています。英文のホームページでは翻訳等に力を御貸し下さい。
今、英訳が有るのは「すべての日本国民に捧ぐ」のみです。それと日本版のホームページでは、古田先生の研究年譜や本のデータベース、講演録などを作成し載せることが出来たらと思っています。愛知県瀬戸市の林さんが古田氏の著作の見出しのデータベースをお作りになり、私から載せることを提案しています。もちろん中小路先生の講演会を含むいろいろな会の集会案内も載せて若い人にアピールできたらと思っています。そのためにも機関誌のデータも開放していただけたら幸いです。よろしくお願い致します。
古田史学とは何か5
橋本市 室伏志畔
六〇年安保闘争の敗北は戦後革新運動及びその理論に対するどうしようもない絶望を生んだ。この絶望的情況の中から吉本隆明の言語論を手始めとする幻想理論が生まれた。それは七〇年代において戦後史学を突き破って現れた古田史学の多元史観が、史学の前進にとって近畿天皇制一元史観に嵌まって身動きがつかない史学界の絶望的情況から生まれたのと等しい一面
をもっていた。
今日の文献史学が直面している情況を思うとき、社会主義リアリズム論批判から生まれた同時代の吉本言語論の拓いた地平から歴史学が置き去りにされている感がないではない。社会主義リアリズム論が文学の内容をその社会的内容に還元した果てに、次第に切迫する情況のなかで政権の必要に応じた政策迎合的文学論の袋小路に陥ったのに対し、吉本隆明は文学が言語で成り立っているという当たり前の事実から出発し言語美の解析を始めた。その『言語にとって美とはなにか』の最後の章で、吉本隆明は人間が生活の必要で他人と交通
することと喋り書いたりすることはまったく別のことだとし、このふたつの水準にある乖離を、言語は構造として扱うことができないならば社会主義リアリズム論の陥った短絡を決して嗤うことはできないとしてこう書いている。
《わたしたちが、現代の社会的な徴候をふかく身にあびていればいるほど、表出される言語は内在だけでひとりで夢遊病者のように遊行し、これをつなぎとめるには、ただ一本の現実の糸ではたりず、よじれて逆さまになった糸やら、言語が遊行しようとする高みには、どこまでも延びてゆく目にみえない伸縮性をもった糸によって、実際の指示性につなぎとめていなくてはならない。そんな像をおもいうかべられる。》
言語を指示表出と自己表出のない合わされた構造と見た吉本隆明は、その断面をこのように像として描いて見せた。言語の指示表出はその社会的内容にまったく対応してあるのではなく、その間にその社会特有の共同幻想を踏まえたそれぞれの自己幻想の層を通して自己表出されており、そこに見られる揺れや捩れ、そして逆立ち、屈折した眼に見えない赤い糸を手繰り確定することなく、これを通
念や社会的内容に還元し理解することは文学理解としてまったくの誤解にすぎないとしたのである。
いまこれを「記・紀」の文献史学に対する批判と受け取るとき、文献史学はおおむね「記・紀」の記述を言語を指示表出の側面 から解読して社会的通念としての大和朝廷一元史観に還元、「記・紀」記述者の幻想体系と当該社会との乖離を考慮することなくその社会構造を一面
的に論じてきたのは今日明らかである。それは社会主義リアリズム論が文学がそれぞれの作家が幻想領域を通 して作品を創作していることを無視して、ソ連邦の国策にあった内容を要求することによって文学を荒廃させた姿と変わらない。
いま六〇年代から依然として余震の続く文学解読の理論として他を圧倒する吉本言語論を、「記・紀」解読に導入するときわれわれはどんな展望をもちうるであろうか。想うにそれは「記・紀」がそれぞれに踏まえている共同幻想を押さえ、その記述者の自己幻想の位
相をもし確定しえるなら、「記・紀」記述の指示内容から捩れ、逆立ち、屈折した当時のリアルな社会背景をあぶり出し、幻想としての大和朝廷一元史観をその内部より払拭できるのではあるまいか。しかし今日、文献史学の方法は多元史観を含め言語の片面
である指示表出しか捉えていないのである。
いまこうした同時代の思想水準から手元にある「古田史学論集」にある山崎仁礼男の『造作の「天智称制」』に注目したい。これが表紙の見出しから落ちているのは編集者の努力を多としながらその批評眼を疑わせるものがある。それはともかく山崎仁礼男はそこで天智紀に頻発する重出記事から推論して「天智称制」は『日本書紀』完成間際に慌てて造作されたものとし、『書紀』二段階編纂論を説き、天智称制元年(六六一年)辛酉を定点にこの正史は再構成されたとしたのである。この見解は那珂通世が皇紀が辛酉革命からなる讖緯説に基づき聖徳太子を起点として一二六〇年逆上り構成されたものとする見解を六〇年ずらすことによって、皇紀の要に天智を置くことによってこの正史の秘密を明らかにせんとする大胆な仮説である。讖緯説通りに革命は起こらないとしても、それを数年ずらすとき、天智称制三年(六六三年)の白村江の敗戦による倭国権力の壊滅的打撃と翌四年(六六四年)の甲子革令の年に重なる天智による冠位
二十六階の制定の暗示の内に、山崎仁礼男はこの正史が隠した天智による倭国革命を洗い出したのである。それを私流に言えば「万世一系の天皇制」の国家幻想を正史に付与せんために、倭国革命を行った天智の業績を犠牲にした『日本書紀』を、その構造をもって天智顕彰に報いたものと山崎仁礼男は編纂者の意図を読み取ったのである。
山崎仁礼男はこれを論証するために称制造作の挿入による混乱から生じた重出記事の矛盾点をを様々に洗いだした上で、自分の讖緯説による「天智称制」造作説が正しいなら、旧王朝の滅亡を正史は記さずにはおかないとして、倭国のラスト・エンペラーをこう洗い出している。
《もし「書紀」の編纂者が一度完成した「書紀」を書き替えて、讖緯説を導入するために天智称制即位 を造作したことが確実であるならば、天智称制即位は新王朝の成立を記したといえましょう。ですから、どうしても、旧王朝の滅亡を記す必要があるのです。
斉明七年の伊勢王の死の重出記事は、天智紀では同じ月でありながら天智即位の後になっているのに、称制即位では前となっている点が注目されます。讖緯説通りの旧王朝の滅亡が書かれているのです。
このことの意味は、伊勢王こそ九州王朝の大王たるべき人物だと、「書紀」自らが告白したことになるのです。》
この山崎仁礼男の鮮やかな論証は、「書紀」の指示表出にある矛盾からその記述者の幻想体系としての自己表出の意図を推論し、その論証を再び「書紀」の指示表出に見出すという見事な弁証法となっている。別に山崎仁礼男は吉本言語論を齧ったわけではなかろうが「書紀」記述者の幻想体系をその指示的語彙に惑わされることなく確定することによって、「記・紀」の内部から大和朝廷一元史観を突き崩す像を見事に提示しえている。この言語の二重性の発見にこの論文の同時代を抜きん出た水準は明らかである。
これは古田武彦が、「記・紀」を内外の史料記述と対比することによって、大和朝廷一元史観の幻想体系に惑わされることなくその指示内容を確定しその構造を明らかにした方法に学びながら、独力でその記述者の幻想体系の水準を想定するという画期の方法を組合わすことによって新たな領域の開拓となっている。
詳らかにしないが、数年前、浄土宗において物議を醸した「念仏を一回唱えれば往生できるのか」という「一念義」の問題をめぐって親鸞がどういう立場を取ったかについて、指示表出の機軸から厳正な史料批判をくれていた古田武彦と、自己表出の機軸から浄土宗そのものの解体に至る論理の幻想体系の上に親鸞を想い見ていた吉本隆明が対立し、共に譲らなかったのは、わたしにはけだし当然のごとく思えてならない。
マルクスの価値論が使用価値と交換価値のない合わされたものであったように、言語は指示表出と自己表出の複雑なアマルガムからなっている。そして現在の高度消費資本主義社会は第三次産業の隆盛のもとにますます交換価値のハイパーリアルな現実を創出しつつあるのに対し、文献史学は多元史観を含め相変わらず言語の指示表出にのみ安住し、その使用価値のみしか見ようとしない田吾作であるのは、時代に背を向ける危うきにあるといえようか。H8.6.20
書評
茨木市 藤田友治
著者山内玲子さんは「失われた銅鐸王国」の謎に一貫して挑戦してこられた。山内さんは研究会の例会活動で受付等の世話を続けられ、ご主人と二人三脚で各地の図書館や遺跡の現場を丁寧に探訪され、地道にまとめてこられた。私も本書にあるように伊那都彦(イナツヒコ)神社と医王岩にご同行し、古代のイナ王国に想いを寄せていた。
近畿天皇家に先立ち、銅鐸をシンボルとするところの先王朝の存在は山内さんの師、古田武彦先生の『古代は輝いていた』、『ここに古代王朝あり』(いずれも朝日新聞社)でテーマとして与えられていたものである。師の問題提起を真剣に受け止められ、幾歳月を重ね、各地の史料を渉猟されて、今回上梓されたことに敬意を表したい。学説上において近畿天皇家に先立つ「古王朝」「先王朝」の存在は水野祐氏の『日本古代王朝史論序説』でその存在、概念については提示されてはいたものの、具体的、実証的には何ら触れられることはなく、当の水野氏自身も「祭司的王者数代あるも詳細不明」(々上書、一四頁)としていたものであった。
この問題の困難性は史料が失われ、散逸しているという点と、破砕された銅鐸に象徴されるように先王朝の存在と栄光を望まない新王朝(近畿天皇家)の側の作為的な破壊によって、復原することが困難であるという点にある。
山内玲子さんはその困難な問題領域にあえて挑戦され、コツコツと巨大にそびえる医王岩のような困難性にノミを入れられたのである。しかも、長年月の間にご自身も足がご不自由になり、さなら加えて二人三脚のご主人も病床に伏せられ、看病の日々を送っておられる、筆舌に尽くしがたい困難な問題に、さらに身辺をとりまく厳しい条件の下で探究を続けられたその姿勢に私は深い感動を覚えざるを得ない。
こうして骨身を削るように研究された史料や遺跡探訪を基に、確実に判明したものと、不明なものは不明として明確に提示されたのである。近畿天皇家一元史観に対置して古田武彦氏によって新しく提起された多元史観による研究によって学ぶ者が、単なる地域史を越えて豊かに展開する成果
の一つをもたらしたことを読者の諸氏とともに喜びたい。
一九九六年春 (同書序文より転載)
( 同 書 目 次 )
一、イナ王国の概要
二、伊那都比古と医王岩
三、イナ王国のメイン・ストリート
四、イナ王国の都と港
五、中山連峰の遺跡とメフ神社
六、六甲山東山麓と越木岩神社
七、六甲山南山麓と保久良神社
八、阿知使主とその子孫
九、伊香我色雄の命の子孫
十、イナ王国の滅亡
参考資料
補一、高師小僧について
補二、古代史と川柳
インターネット事務局2000.12.10
「実在したイナ王国」は大阪府立図書館に寄贈しました。
◇◇ 連載小説 『彩 神(カリスマ) 』第四話◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美◇◇
〔前回までの概略〕
冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ッ児の島(現隠岐の島)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに)に漂着、その子孫は韓(カラ)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(アトラ)は、天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。三ッ児の島の南の対岸に栄える出雲の王子須佐之男は、羽山戸や武沼河(たけぬ
なかわ)ら近隣の王子達と天国へ預けられた際、そこの王女天照(アマテル)や、彼女の弟分で兄の仇の大ダコをしとめようと狙う石蕗少年と親しくなるが、石蕗は大ダコと相討ちになり、須佐之男らもやがて帰郷、天照は巫女になる為、一人取り残される。
◇ ◇
「アッ!」
元気よく響いていた鶴嘴(つるはし)の音が急に途絶えた。黒曜石の刃が、岩角にぶつかって折れたのだ。
「この甲斐性なしめがー!」
出雲振根(いずもフルネ)が刃を叩きつけるのを、
「父さん、落ち着いて。」
須佐之男がなだめ、
「黒曜石は、鉱山(かなやま)掘りには柔らか過ぎるんだよ。銅を使いなよ。」
と、自分の鶴嘴を差し出した。
振根が試しに打ち込んでみると、あんなに切り出しに苦労させられた大岩が、いとも簡単に壁から脱(はず)れた。バラバラと石がこぼれ、砂塵が舞う。
「見ろよ、極上の御影石(みかげいし)だ。」
「煙水晶もあるぜ。」
「金の延べ棒だー」
「待て!勝手に拾ってはならん。」
目を輝かせる鉱夫達を、振根は叱りつけ、切り出した岩々を畚(もっこ)で外へ担ぎ出させた。
洞穴の入口では数人の女が、運ばれて来た土砂を篩(ふるい)にかけている。渓谷の彼方にしばしば洗濯物が翻ったり、せせらぎの底から筬(おさ)の音が響いて来たりする事から山神は女と考えられている為、採掘は男の仕事と限定され、婦人の洞穴への出入りは許されていなかった。禁を破るとたちまち、落盤や水の噴出が起きるという。
幸い、須佐之男は男に生まれた為、幼い時から父と山を歩き回り、鉱脈や迷路についての知識は鉱夫の誰にも劣らなかった。
「黒曜石は『御神体』に祭り上げておいて、銅器を実用化しようよ。せっかく天国や韓(カラ。現南朝鮮)と交易しているんだし。」
須佐之男の進言に、
「一端(いっぱし)の口を利きおってー」
振根は苦笑混りに息子の頭を小突いたが、向ける視線は頼もしげだった。まだ年端(としは)が行かないからろくな手伝いも出来まい、と祭の間中、対海(つみ。現対馬)へ預けたのは効果
的だったようだ。風波に鍛えられたのか、帰国後の須佐之男は、親の欲目を差引いても確かに成長したといえる。
須佐之男が対海から貰い受けて来た銅器は実際、鉱夫達の評判で、
「こいつだと、砂利が楽に持ち出せますぜ」
「これのおかげで、銀塊が幾つも掘り出せました。」
日に日に鉱脈は伸びて行った。
「あんまり欲張るなよ。山姫に捕まるかもしれんぞ。」
冗談めかした父の注意を聞きながら、須佐之男は天照を思い出していた。羽山戸や吉備津彦らと格闘した時、指の傷を巻いてくれた金の花模様の朱布(しゅぎぬ
)は、今も大切にしている。風が吹く度に、布(きれ)は仄かな香を放った。波飛沫(なみしぶき)と、岩場にそよいでいた淡黄の石蕗(ツワブキ)の花を一つにしたような、清々(すがすが)しい香り…化け物ダコに殺(や)られた兄の仇を討つと同時に、幼い命を海に消した勇敢な少年銛師(もりし)もさりながら、須佐之男の胸を揺するのは、日を透かして金に輝く天照の栗色の髪であり、黒く潤んだ大きな瞳であり、自分の傷を吸ってくれた桜色の唇の艶やかさだった。あの翌年、天照は父の高木の王(きみ)の意向で、巫女(かんなぎ)として沖津の宮(現福岡県沖の島)へ入った筈だ。今も元気でいるのだろうか……?
沖津の宮は鉱山とは反対に男子禁制だから、訪ねては行けない。年は逝き、天照は天国の女王(ひめおおきみ)として高木の王の選んだ夫を迎え、自分も須佐かその周辺の豪族の中から適当な花嫁を見つける事になるのだろうか……?
「振根様、吉備(現岡山県)の使者が参りましたぞ!」
向こうで、誰かの大声が上がった。
(続く)
______________________________________________________
〔後記〕
今回から、舞台は出雲の国に移り、須佐之男や天照以外にも日本神話では馴みの名前が次々に登場することになります。それだけにどうアレンジ出来るか、自分でも不安なのでございますけれど……ともあれ、よろしくお願い致します。(深津)
新泉社
二〇六〇円
待望の『新・古代学』2集が新泉社より発行された。本会も同誌の編集協賛団体に参加しているが、創刊号に続いて、多元の会・関東の御尽力により2集も無事出来上がった。
2集も古田氏による対談や論文が掲載されているが、中でも和田家文書の筆跡に関する論文は圧巻と言える。偽作論者たちの「筆跡鑑定」とは雲泥の差である。もちろん、古田氏が「雲」で、偽作論者たちが「泥」である。同筆跡問題については更に詳述が予定されており、今後も楽しみである。
本会会員からも、「『進化』という用語の成立について--西欧科学史と和田家文書(中)」上城誠氏、「古田史学の理解をめぐって--総合的内面
的理解とは何か」室伏志畔氏、「知的犯罪の構造--「偽作」論者の手口をめぐって」古賀、が掲載されている。 巻頭カラー写真や、九大名誉教授北村泰一氏の「タクラマカン砂漠の幻の海」なども好企画。ぜひ御一読を。お求めは書店にて。
奈良市 水野孝夫
先人の文章に「これこれの疑問がある。後来の者が調べてほしい」と書いてあるのを調べて解決するのは楽しいものです。関西例会のときに古賀さんから提供された『善光寺縁起・集註』にそんな例があったので、調べて試論を作りました。仏教に詳しい方のご批判を得られたら幸いです。
釈迦の入滅のあと、五六億七千万年の後、弥勒がこの世に現われ、すべての人間を救済する。これは、大抵の仏教入門書に書いてあることと思っていました。改めて調べてみると、この数字が五七億六千万年になっている本もあって、わたしの記憶違いだったか?と不安になったりしました。
NHKブックス『続・仏像,心とかたち』一九六五年初版はTV放映された講演を基礎に書かれたものですが、望月信成氏の解説では、弥勒菩薩について「この世に下生する時期は釈迦牟尼仏の予言によると、五十六億七千万年ののちであるといい、(中略)そのために現在この菩薩は兜率天でこのような強い誓いを立てて懸命に修業をしている。五十六億七千万年という天文学的な数字はどこから計算されたかというと、いろいろの説があるけれども、兜率天の一日はこの人間の世の四百日に当たるといい、兜率天での寿命は平均四千年というから、これをこの世の年月に換算すると
400×360×4000,=,576,000,000,となる。
この計算によると五億七千六百万になるので、釈迦如来の予言の十分の一であるから、兜率天の一日はこの世の四千日としなければ計算が合わない。もしもそれが正しいとするならば、この菩薩の下生の時期は五十七億六千万年の将来であることになるのだが、いつの間にかこれが五十六億七千万年というようになった。(中略)弥勒菩薩の下生のことについては観弥勒菩薩上(および下)生兜率天経に説かれている」
この望月先生の文章も誤解か誤植があって兜率天の1日はこの世の四千[年]としなければ計算があわないのですが、「観弥勒菩薩上生兜率天経」には「五十六億七千万年」の数値が直接示されてあるらしい。
平安時代の成立といわれる、長野県の善光寺に関する『善光寺縁起』(群書類従所収)があり、この第四巻は次のように始まっている。
「夫以釋尊恵日隠沙羅雙樹之暮空。慈氏満月隔五十六億之夜雲」
この縁起に対して江戸時代の人・釋慈運がつけた注釈では、
「法華疏曰、弥勒出世時、去釋尊滅五十七億六百萬歳。人間四百年為兜率天一日夜。三百六十日夜為一年。四千歳。計之正当上数也。而此文曰五十六億。不知孰是。後生君子正焉。」
五六億七千万年と経文に書かれているのに、計算すると五七億六千万となりおかしいから、後の世の研究者はこれを正せよ、と言われているわけです。いわれてみればもっともだから、五六億余を誤りとして、五七・六億に改訂してしまった現代の解説書もあるわけでしょう。源信の『往生要集』も五七億六千万年説をとっているようです。
わたしの試論は次のとおりです。この世の四千年は兜率天の一昼夜に当たる。弥勒下生は兜率天の四千年後。誤っているのは兜率天の一年は三六〇昼夜とした誰かであって、釈迦が考えた兜率天の一年は太陰暦であって、三五四・三七昼夜であった。(平均朔望月の定数には漢書律暦志の「一月は二九+四三/八一日」を使用)
これだと、この世で、ほぼ五六憶七千万年になります。
《会報十四号正誤表》
(誤) (正)
2頁上段後より十一行目 「A」 →「B・C」
2頁上段後より十行目 「B・C」→「A」
5頁二段三行目 わたしも→わたし
以上、お詫び申し上げ訂正いたします
インターネット事務局注記2000.12.15
十四号の間違いはすべて改訂済
□ □ 事務局だより □ □
◎「北海道ニュース」5号を御恵送いただいた。古田先生の論文「日本のはじまり -- 『東日流外三郡誌』抜きに日本国の歴史を知ることはできない」が掲載されている。中学生・高校生にもわかるようにと、簡易な文章で書かれてはいるが、その意味するところ重大。『新唐書』と『東日流外三郡誌』に記された、日本(ひのもと)の歴史的変遷の一致を論証したものであるからだ。この新説が正しいとなると、「倭」よりも「日本」の方が地名あるいは国号としての成立は古いということになる。『日本書紀』の「日本」が何に由来するのか等、当新説が提起するテーマは広く、かつ深い。
◎次いで、『新唐書』日本伝の位置が不可解(「賛」の後にある。通常「賛」は伝末尾に位 置する)なことも「発見」。この史料事実も、日本伝は後から付け加えられたのでは、という疑問に発展する。大学退職後の古田先生の研究は急ピッチで進展している。
◎その先生も今月、古希(七〇才)を迎えられた。「老年こそ、創造の世代」と言われる先生の御長寿とますますの真実探究の進展を祈念したい。会員論集『古代に真実を求めて』2集は、古田先生の古希記念特集を組む。学恩に報いる名論、好エッセイ、御祝辞をお寄せ下さい。古田先生、中小路先生からも御論文をいただけることとなったので、会員の皆様も楽しみにお待ち下さい。
◎本会は古田史学を世界の歴史研究者に紹介するため、インターネットホームページの開設を検討している。管理や資金面の問題など、課題は大きいが、会員の皆様の御助力を得ながら、実現させたい。
◎私事で恐縮ですが、九月には東北・北海道を巡り、お世話になった当地の会員の皆様にお会いして、お礼を申し上げたいと思っている。
◎全国の会員の皆様に、心より残暑お見舞い申し上げます。(古賀達也)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
東北の真実 和田家文書概観(『新・古代学』第1集)へ
東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説(『新・古代学』第1集)へ
古田史学会報一覧に戻る
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"