『東日流外三郡誌』は偽書ではない 山王日吉神社宮司 青山兼四郎氏
東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)
池田市 平谷照子
平成七年十月、津軽旅行の途次、北津軽郡市浦村脇元にある洗磯崎神社に詣でた。そのとき境内で出会った行き摺りの人から小冊子をいただいた。「安倍・安東氏シンポジウム」(記録)市浦村歴史民族資料館発行のものであった。翌日は相内の山王日吉神社を訪れたが、神域がどことなく陰気で長居したくないと思うのだが、それでいて気になる神社であった。この日吉神社が『東日流外三郡誌』(八幡書店)に登場している神社であることなぞ全く知らなかった。初巻の中途で読むのを投げ出していたからである。私はこれを機会に外三郡誌を読む旅を再開し意外な記述に相遇した。「安倍・安東氏シンポジウム」によると山王日吉神社の境内は昭和五十七年から発掘調査が始まり、中世の大建築の跡が明らかにされた。“掘り出された状態は山王さんの建物通りであって、しかもこの大比叡・小比叡と二列に並ぶ並び方は山王さんの大本社である「近江の坂本の日吉神社」の配列と同じであります。あれも大比叡と小比叡という二系列の神様が祀られているわけでありまして、それと等しい恰好をしています。”と語られている。
このことに関係すると考えられる秋田孝季の記述が東日流外三郡誌に収録されている。
「その創めは安倍尭季が京役の職に任ぜられしに、京師の宮造等を招き、京流に宮閣を造りしは、山王日枝神宮にして、その落慶は、元享元年(一三二一)なり。」四巻
ここに「京流」に宮閣を造営したとあるのは、十三山王日枝神社を「近江国坂本の日吉神社」通りに造営したということで、発掘調査の結果と見事に合致する記述である。
元享元年の落慶とあるから遺跡の年代を中世としていることとも合致するようである。
それにしても、洗磯崎神社で何気なくもらった小冊子を読んでいなければ、秋田孝季のこの記述を見落としていたかもしれない。
安東氏が十三湊を領することで得た富により、建立した「京流」の山王日枝神社であったが、やがて、その十三湊の利権をめぐって安東一族に騒動が起り、両者訴状を鎌倉に捧し出したが、幕府はこれを鎮圧できず、遂に安東氏自ら和解する。その後鎌倉幕府は安東氏誅滅を企て、南部氏を東日流におくり込む。
結果、南部安東の間に戦乱がおき、山王日枝神社は大半を焼失する。
永禄・天正時代の外三郡誌の記述を見ると
「からくも社殿は兵火を脱せるも老朽して、遂に昔の社殿は苔に果てて現存の社殿は福島城なる港明神の祠堂なり」(永禄二年、一五五九)また、
「南部守行が焼討てる戦のあとぞ、十三宗の軒跡今は茫茫たる草にむす。半焼の老樹、その昔を語る。奥の高き所に日吉神社唯一宮残りしも、いぶせき軒に朽ち」(天正二年、一五七四)
ここに『「山王坊跡」の調査』(市浦その史跡を訪ねて)というのがあり、それに、「山王坊跡平面
図」がのせてある。これをみると、山王日吉神社の現存の拝殿から、北東の位置に「石組階段跡」「広庭跡」「本社殿跡」と記入した場所がある。この石段跡の辺りは確か急斜面
で登ることを思いとどまった所である。まさに山王坊の奥の高き所であり、天正二年の記述は、この奥まった高地の「本社殿跡」と記入した場所に、当時朽ちた日吉神社の社殿が一棟残っていたのを見たのであろう。山王日吉神社の境内には焼けた跡があった。半焼の老樹と書いているが、天正の頃には、まだそうした残骸があったのかもしれない。永禄年間の記述より天正の記述の方が正確に伝えているように思われる。
荒れるがままに年月を経た山王日吉神社は江戸時代に飯積大坊大光院により山王の跡に観音巡礼札所が設けられ、龍興寺(春日内観音堂のことか)が再建され三井寺は渡島に再興、山王には日枝神社が建立された。それなのに、「上方の貴人訪ぬ
るありて寄進に及び恵を得る事、暫々なりせば他人も是に参同して、天和壬戌二年(一六八二)六月、境内を修理し木を植ゑ、神殿を建立して今世にその往古を名残り留めり。」(貞享丙寅三年、一六八六)
秋田孝季・和田長三郎の二人が『東日流外三郡誌』を綴るについて、旅の安全と目的達成を祈願したのは寛政元年(一七八九)四月一日だという。元享元年(一三二一)から、寛政元年までの山王日吉神社の衰退の歴史を辿ってみたが、起源をも探し求めると、安倍頼良が存命中にこの神域で荒吐神を祭祀したという。遥かに古い時代から神まつりをしていた土地であるから頼良もそれを踏襲したのではないか。じっくり読むと外三郡誌は無下にするには惜しい書物だと思う。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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