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渡来氏族と九州年号 かぐや姫と「O・N」ライン 『三国志』の長老の言 陳寿は肯定しているか 「父母鏡」の発見


1998年 4月27日 No.25

古田史学会報 25号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


高良玉垂命と七支刀 京都市 古賀達也


渡来氏族と九州年号

熊本市 平野雅曠

 『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記される日根造が出ている。
 この人の氏神とされる日根神社について、「大阪における朝鮮文化」の題で、段熈*麟という方が書いている。(「大阪文庫」4)
 ◎日根神社と慈眼寺
 本社の創建は、天武天皇の白鳳二年(六七三)と伝えられ、和泉国五大社の一つにかぞえられる名神大社である。中世、織田信長が根来寺を鎮圧した折に巻き添えとなって全焼したのであるが、慶長七年(一六〇二)に豊臣秀頼によって再興され、日根野荘の総社として栄え今日に至っている。
*************
 日根神社の左手に慈眼寺(別抄、無量光院)がある。いわゆる日根神社の神宮寺で、日根神社と同様に天武天皇白鳳の創建とされ、その後奈良時代の天平年間(七二九~七四八)に勅願寺となった。寺号は(略)金堂、多宝塔をはじめ、奥之坊(現在の本坊)、稲之坊、上之坊、下之坊など多くの堂宇をもった名刹であったが、日根神社と同様に盛衰をくりかえした。
 多宝塔と金堂は、平安時代の弘仁八年(八一七)に、本寺に暫住した僧空海によって造営されたもので、幸に兵火をまぬがれ千余年の法灯を伝えている。
 近年、多宝塔を解体修理した折、「古三韓新羅国 修明正覚王 定居七年」と銘記された棟札銘が発見されたが、これによっても本寺が新羅系渡来人の祖神をまつった日根神社の神宮寺として建立されたことが傍証されるわけで、日根氏の氏寺として建立されたかも知れない。
 しかし、「修明正覚王」とか「定居七年」とかの王名や年号は、日韓の文献には見られないもので奇異に思われる。しかし「定居」という年号は、大寺院や大豪族が使用した私年号であって、定居七年は推古天皇二十五年(六一七)に該当するから、本寺の創建は飛鳥時代にまでさかのぼるかも知れないのである。
 さて、「定居」はいわゆる「九州年号」であるが、朝鮮白村江での敗戦によって倭国が亡び、大和王朝の「大宝」以後の年号普及後は、私年号扱いにされたものである。
 従って日根神社や慈眼寺の創建は、白鳳二年よりも、棟札に記す定居七年が正しいものと考えられる。これらの社寺の竣工が定居七年とすれば、日根造の倭国への渡来は、これより数年前と考えられる訳で、或は周防の豪族大内氏の祖と伝える琳聖太子(聖明王第三子)の渡来とほぼ同じ頃になるのではあるまいか。琳聖太子は定居元年(六一一)とされているのだから。
 両人とも、当初は筑紫の鴻臚館的施設に滞留し、倭王朝とも接渉を持ったものと考えられるが、当時の朝廷が推古女帝や聖徳太子であった筈はなく、これらの名称はもちろん後世の「吹き変え」にすぎない。当然倭(イ妥*)王多利思北孤の時代に属する。  琳聖太子が周防の大内県(あがた)を賜わったとするのは、「県制」を布いている倭国の治下にあったことを意味するし、同地方には最初の九州年号「善記」を由来に記す神社などもあって、倭国との係りは深い。
 日根造は、いつの頃和泉国に移ったものであろうか。九州の倭国がまだ健在だった当時だから、社寺の建立記録に便利な定居年号を使ったのは当然である。たとえ和泉国が倭国の勢力圏外だとしても。
 この日根造の後裔と称される大内道子さんの手記によると、琳聖太子の流れを汲む多多良大内氏の御子孫が、その御夫君だそうであるから、誠に奇縁ではある。(『古事記通信』一九九七年七月号、「野口義廣『「防長学」始め』をめぐって」参照)
 大内さんは、倭国の勢力下とも考えられない和泉国に何故九州年号があるのかという疑問を持たれるようだ。和泉国と限らず、九州以外に九州年号が散見するのは何故か、単に九州からもたらされたとするだけでは想像論にすぎない、と言う人もいる。
 このような疑問に対して、私は次の答えを持っている。
1. 倭国と何らかの係りを持った人によって使用されたことは否定できない。例えば、先の日根造や琳聖太子の場合。或は、
2. 九州の阿蘇山や英彦山などの修験道の山から、他国の霊山を渡り歩いた行者たちが記録に残したもの。
3. 九州の社寺と縁故のある神仏を祀る社寺、その他特別の理由によるものもあろう。
 倭国内で生きて使われている九州年号に、公共性と永続性、そして安定感と利便とを認め、信頼すべき紀年として使用したことは明白である。それは同時に、九州王朝の確固たる権威を認めた事実につながるものではあるまいか。
 更に考えを飛躍さすれば、関東や東北方面にも、或時期、倭国の勢力が及んでいたか、又は倭国と手を握る勢力が在ったかもしれない。
 倭の武王(磐井)の時代、既に「日本国」や「天皇」の名称を記されている百済史書もあるし、「倭武天皇」など記す『風土記』も見える。また、武王が宋の順帝への上表文に記した、先祖以来の九州内外への勢力伸張の様は、かかる事をも想像せしめる訳である。
 さて中世、幾度かの戦乱をくぐり、自家の記録史料を散逸した周防の大内義弘が、先祖琳聖太子来朝の事を、朝鮮の李朝に問い合わせたことが史書に見えるが、恐らく「色良い返事」は得られなかったであろう。先史の『三国史記』にも、倭と百済との係りは殆ど出ていないのだから。これは六六〇年の百済国滅亡、残党による其後の白村江戦などの際、敵国たる百済の史料類の殆どが、散逸・廃棄の厄に遇った結果 であろうか。
 しかし、例え李朝の返答が不充分だったとしても、これで琳聖太子の来朝を否定する訳にはいくまい。「口伝」というものは案外確かな面もある。特に年号などの「元年」とか「十年」とか区切りの良い年は覚え易いもので、私は定居元年来朝は間違いなかろうと思っている。
聖明王との続柄や年齢など、幾らかの疑問はあるけれど、後代に至って文書に作成したものが殆どであろう。しかし一般に言われるように、氏族の権威を示すために、「良かりそうに」でっち上げたものとは必ずしも言えないだろう。
(平成九年九月記)

インターネット事務局注記 2001.11.31
1. 熈*は当て字です。 ノ偏がありません。


東日流外三郡誌より 山王日吉神社のこと 池田市 平谷照子


□□関西例会□□□□
《例会報告》三月例会では、古賀より高良玉垂命が七支刀銘文の倭王旨であり、その後の倭の五王に連なっていることが報告された。また竹取物語の説話が高良山・三瀦の九州王朝治下で設立した可能性を、現地地名や金明竹などの一致から示唆した。四月例会では、三宅利喜男氏から古代豪族紀氏について、古墳分布や地名、文献などの調査結果を報告され、九州王朝との関係を検討された。室伏氏からはかぐや姫は九州王朝のラストプリンセスという仮説が発表された。古賀からは玉垂命の末裔稲員家について報告された。(古賀)


◇◇ 連載小説『 彩神(カリスマ) 』 第五話◇◇

枯葉の琴(5)

 

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深津栄美

「後一日早くおいで下さっていたら……。」
 月美(つぐみ)の頬には、涙が幾筋も光っていた。
 「すまぬ。知らなかったのだ……。」
 羽山戸は項垂(うなだ)れたが、
「それにしても、よく無事で……。」
 奇跡だと言いたげに月美を眺めた。
 二人は、半壊の社の本堂に火を焚いて寄り添っていた。この前会った時に比べれば、確かに月美の髪や肌は光沢(つや)を失い、頬はこけ、肩の肉も削げ落ち、鼻や顎は尖り気味に見える。だが、月美一人が須佐の軍勢の暴挙から逃れ得たというのは、正に天祐としかいいようがなかった。
「おぬしらも使者を寄こしてくれれば、いつでも飛んで来たものを……。」
 なじるように言う羽山戸に、
「こんなに飢饉が続いては、とても叶う事ではありませんでした。」
 月美は繊(かぼそ)い声で言った。
「連日、庭の草の根さえ食べ尽して壁土を食(は)んで倒れた老人や、骨と皮にやせ衰えて我が子諸共息絶えた母親が、何人おりました事か……母の死骸の膝に抱かれた赤ん坊も、飲んでいるのは母乳ではなく、傷口から流れ出る血なのです。せめて渇きを医やそうと井戸端へはって行き、水中に首を差入れたまま事切れた子供達もおりました。少しでも実った粟やヒエを見つけると、傍目(はため)も構わぬ 奪い合いが始まるのです。鳥や獣さえ、皮膚の上から肋骨(あばらぼね)が一本ずつ数えられる程なのでございます。誰が使者に立とうと、八坂八(やさかや)浜まで着かない中(うち)に行き倒れになっております……。」
 そんな状態(ところ)を襲われては、どんなに強力な軍事国家であろうと一溜りもない。そう思うと、羽山戸は一刻も早く月美を隠岐へ伴いたかった。黒曜石の大らかな翼の下で心身共に傷めつけられた月美を労(いたわ)り、寛(くつろ)がせてやりたい。隠岐と阿波の同盟に対抗して室戸を狙った須佐軍も、古(いにし)え、「北の大門」(現ウラジオストク)へ冬の渡海を挙行した天国(あま)船団の勇猛さは承知している筈だから、自分が当初の予定通 り阿波の姫を娶(めと)ったとて邪魔立てはしないだろう。
 「お気持ちは嬉しゅうございますが、今宵はここに居させて下さいませ。巫女長として、母や村の衆の為に祈りたいのでございます。羽山戸様も長旅でお疲れの筈、一晩位 骨休めされても罰は当りますまい。」
 月美の懇願に、
「良かろう。」
 羽山戸は頷(うなず)き、囲炉裏端に褥(しとね)を誂(あつら)え、濁り酒の椀を傾けていると、月美はどこからか琴を持ち出して来た。黒と茶の木の葉模様を見事にちりばめ、弦は露の燦(きら)めきかと見える。
「そなた、楽器を嗜(たしな)むのか?」
 羽山戸は訝(いぶか)った。月美の踊りは何度も目にしたが、琴や笛を操(あやつ)るのは聞いた試しがない。
 「あれから稽古したのでございます。みんなして畑泥棒を取りひしいだ折、足を痛めて思うように舞えなくなりましたので……。」
 月美ははにかみ笑いをして、
 「お慰みに一曲(ひとて)、お聞かせ致しましょう。」
 と、静かに弦を爪弾き始めた。模様の木の葉が露の玉と共に、風に吹かれて転(まろ)び出て行くような調べである。生き物の力は弱い。日照り、洪水、嵐……自然が荒れ狂う毎に翻弄され、滅ぼされる。加えて、生き物の中でも人間が主人顔をしてのさばり始め、戦や狩りといった災いをもたらすようになっては、鳥や獣や虫達はどうすれば良いのか…?欲望や争いなどというものが、なぜこの世に在るのだろう……?醜い一切から離れ、心穏かに愛の巣を営むのが希望(のぞみ)なのに、いざとなると牙をむき出してしまう己(おの)れが悲しい……
  パウポウ、パウポウ、パウポウ
山の使者鳥(おつかいどり)の寂しい声が応えた。
「若、起きて下され。若ーー!」
 強く揺すぶられ、羽山戸は我に返った。部下達が、不安気に覗(のぞ)き込んでいる。
「俺が戻るまで待っておれと申したに…。」
 羽山戸が膨れっ面で起き上がると、
「しかし、朝になってもお帰りになりませんので……。」
 一兵士の言葉に、
「様子を見に来たら、浅茅(あさぢ)ケ原で寝ておられるのだものなァ。」
 仲間達も呆れ顔で頷いた。
「月美はどこだ?」
 羽山戸が伸びをすると、
「姫に会われたのですか……!?」
 部下達は一瞬、顔を見合わせた。
 後ろに並んでいた人々が、こわごわ道を開く。地上の戸板に横たわっていたのは、月美の死骸だった。乱れた黒髪の真中に青白く死に顔が浮かび上がり、天竺(インド)の神官が着るという麦穂を織り込んだ金の袈裟も白衣も八つ裂きにされ、手足は血と泥にまみれて暴行の痕も生々しい。股間には、剣が深々と突き立っていた。柄には、額から額から引きちぎったと覚しき桃色真珠が、からかうように搖れている。明らかに、羽山戸の来訪を予測しての行為だ。かつて対海(つみ=対馬)で暫(しばら)く暮した際、羽山戸は許婚(いいなづけ)の為に海底から桃色真珠を掬(すく)い上げて来た事があったが、須佐之男らも同行していた覚えがある。曇り空を思わせる鈍色(にびいろ)の剣は、須佐軍の特徴だ。
(おのれ、須佐之男ーー!)
 羽山戸は唇をかんだ。
 しかし、月美の死が確実となった今、昨夜(ゆうべ)の出来事(こと)は何と解釈すれば良いのだろう……?夢とは信じられない。自分がここへ来たのは、まだ日の高い中(うち)だった。廃墟と化した村の光景に芒然自失して幻覚を見たのか……?
「若が発たれた後、暫く前にここへ来たという漁師が陣屋へ参りましたが……。」  兵士の一人が口を挟んだ。
「その者が申すには、姫は足を怪我した白ギツネの子を介抱されていた由にございます。元気になったら又、山へ放してやりたいと仰せられていたとの事ですから、多分、ギンと呼ぶその子ギツネが恩返しに、姫に化けて若をお慰めに参ったのではありますまいか?」
 足を怪我……?そういえば、月美は足を痛めて踊れなくなったと言っていた。薄明りに仄白く浮かぶ横顔の鼻や顎が尖り気味に見えたが、久し振りに許婚者(いいなずけ)に会えたというのに終始俯(うつむ)き加減だったのは、母や村人達を悼(いた)んでいたのではなく、別 人だと悟られたくなかったのだろう。
動物が人間に命を救われた恩を忘れず、福を授けたり、仕事の手助けをしたりといった話は子供の時から聞かされていたが、まさか自分がそんな羽目になろうとは……
 羽山戸は足元に、霜枯れた蔦の葉が転がって来た。昨夜、月美の姿を借りて現れたギンが奏でた琴も、この病葉(わくらば)の化身だったのか……?
「ギン、ギン、どこにいる?戻って来い。一緒に隠岐へ行こう。月美の代りに、俺の傍にいてくれ!」
 羽山戸は、山に向かって叫んだ。
  パウポウ、パウポウ
 かすかに山の使者鳥の声が聞こえた。しかし、羽山戸には、いずこへともなく走り去って行くギンの忍び音としか思えなかった。
 いつしか空は翳(かげ)り、風花(かざはな)が舞い始めた。
(完)
 **〔後記〕**********
 「古田史学会報」 第二四号に、古賀達也氏 が「玉垂命と九州王朝の都」を書いておられますが、『万葉集』第十一巻冒頭の旋頭歌に、
「玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申」
(たまだれの をすのすけきにいりかよひこね たらちねのははがとはさば かぜとまをさむ)
<岩波文庫版 二三六四番>
 という一首が、更に、
「玉垂之 小簀之垂簾乎 往褐 寝者不眠友 君通速為」
(たまだれのをすのたれすをゆきかちにいはなさずともきみはかよはせ)
<同二五五六番>との一首があります。これはどちらも相聞歌の上、夫を待つ妻の歌ですが、「玉 垂」は玉すだれを表しているようですから、九州王朝の王者が妃を訪う時の歌かもしれません。
(深津)


かぐや姫と「O・N」ライン

大阪府泉南郡 室伏志畔

 本紙二三号に載った古田武彦の「芭蕉隠密拒絶説の発見」は、『奥の細道』に松島を楽しみに旅に立った芭蕉に松島の句がないことから、旅の楽しみとは別に、伊賀の藤堂藩の要請とそれに対する芭蕉の答えを読み込む古田武彦ならでの閃きがあり、わたしにはとてもおもしろくものであった。そのことについては教えられるだけでわたしに意見があるわけではないが、この小稿もそうだが、ときおり古田武彦が問題をソクラテス問答法にならって対話形式を採用し、相手に溌剌としたかぐや姫を登場させている。
 おそらくこれは退職後、京都の向日市にある御自宅が竹林の多い閑静なところと聞いているので、そこからの着想とわたしは思っているが、今度、思わぬ ことから『竹取物語』を初めて手にして、そこに見出したのは九州王朝のラスト・プリンセスともいうべき愁い深いかぐや姫の姿であった。そのことについて少しく報告したいと思う。
 関西の吉本隆明研究会で五月の後半に上梓することになる『法隆寺の向こう側』の一面について少し話をしたところ、「かぐや姫の求婚者の中に阿倍とか石川(物部)の名がありますが、九州王朝と何か関係がありますか」と思わぬ 質問を受けたことに今回のてんやわんやは始まる。求婚者にそんな具体的な名があり、『竹取物語』が紫式部により「物語の出ではじめの祖なる」に評されたほど古いわが国最古の歌物語で、作者が不明であることもわたしは遅まきながら初めて知った。
 しかもここに登場する求婚者が、なんと大宝元年(七〇一年)の出世頭六人の内の五人であったと言うのだ。いうまでもなく七〇一年とは古田武彦が、倭国(OLD)から日本(NEW)に名実ともに権力が移ったとした画期の年であった。そしてこの最初の大和年号である大宝が、二種の神宝(通説は三種の神器とする)を大和朝廷が自分のものとしえたことを記念する年号であることをわたしは今度の本で論証した。そしてこの神宝を手にするまでは丁重であった大和朝廷は、これを手にするや手のひら返しこの倭国の残党に襲いかかったのは禁書や軍器の携える者への警告によって明らかである。それはともかく、『続日本紀』のその件の箇所はこうある。
「左大臣で正広弐多治比真人嶋に正正二位を授く。大納言正広参阿倍朝臣御主人に正従二位 。中納言大壱石上朝臣麻呂、直広壱藤原朝臣不比等に正三位。直大壱大伴宿禰安麻呂、直広弐紀朝臣麻呂に正従三位 。また諸王十四人、諸臣百五人に、位号を改めて爵を進むること各差有り。」(『続日本紀』大宝元年条)
 つまり、かぐや姫の登場人物と正史は 石作皇子→丹比眞人、車持皇子→藤原不比等、阿倍のみむらじ→阿倍御主人、大伴御行→大伴宿彌御行、石上麻呂足→石上麻呂と対応するというのだ。後者の三人は明らかだが、丹比眞人が石作であるのはその遠祖がその名を賜り、藤原不比等が車持であるのはその母方の名に由来することが論証されている。
 しかしなぜ大宝元年の出世頭の名前がここにあるかについて研究者は明確に答えられないまま今日に至ったとはいえ、大和朝廷一元史観内での探索はここまで進んでおるのは注目すべきことである。そしてこの先は王朝交替説をもってするほかないとはいえ、この求婚者から欠けた紀麻呂に注目したのは作家の杉本苑子であった。
 杉本苑子はこの『竹取物語』の作者を藤原氏によって政界を追われた大伴、石川、阿倍、石上、多治比、紀、巨勢という七氏族のなかに求め、物語の中でかぐや姫によって揶揄、嘲笑される五人の出世頭から外れた紀麻呂の系譜上にこの作者を求め、この物語の成立が平安初期の九世紀後半から一〇世紀前半に活躍する紀貫之と紀長谷雄に注目し、藤原氏によって左遷された菅原道真に重用され応天門の変で没落した紀長谷雄を掘りだしている。
 これはなかなか穿った興味深い見解だが、この杉本説に限らず、従来この『竹取物語』の作者については雨海博洋によれば 1). 源順、2). 僧正遍照、3). 源融、4). 壬申の乱の近江朝に近い筋、5). 斎部氏関係、6). 漆部関係、7). 紀長谷雄、8). 賀茂峯雄といった諸説があったと言う。これらの説を踏まえて雨海博洋はこの『竹取物語』の作者について百数本に及ぶ文献の現存状況を踏まえた上で古本系統と流布本系統に別れるところから、原『竹取物語』の作者と現『竹取物語』の作者という画期の二段階成立論もって、これまでの諸説の矛盾を埋め、次のように断案した。
 「漢文体の原『竹取物語』は弘仁年間の後半に空海の手によって、それを翻案した和文体の現『竹取物語』の基は貞観年間の後半に遍照の手になったと考えられる。」  弘仁年間とは八一〇年~八二四年で、貞観年間とは八五九年~八七七年である。つまり『竹取物語』の漢文体の原本とおぼしきものは九世紀の始めに成立し、半世紀かけて現在の和文体の歌物語への昇華が行われたというわけだ。そしてこの遍照→空海と遡行する背景に雨海博洋は、竹取の翁として登場する讃岐の造麻呂とかぐや姫のなづけ親となった三室戸斎部の秋田の背景に讃岐斎部あることを洗い出している。そこから出た斎部広成の書いた『古語拾遺』の中に、毎年讃岐国から竹竿八百本を貢進する記事もあり、また中臣氏から忌避された斎部氏を思うとき、杉本苑子説以上にこの説の蓋然性は高いとわたしは思っている。
 その上で言うのだが、わたしはこの本の原本の成立を九世紀初めの弘仁年間に当てるのは遅すぎるとするのである。それは七〇一年の五人の求婚者の名前を上げずにはおれなかったこの作者の怨念に拘わるとわたしは見ている。
 実はこの五人の求婚者はその五年前、持統十年(六九五)冬十月の条にこそ、実は余ることなくぴったり重なり登場していたのである。

「冬十月の己巳の朔乙酉に、右大臣丹比眞人に輿・杖賜ふ。以て致事ることを哀しびたまふとなり。庚寅に、假に正廣参位 右大臣丹比眞人に資人百二十人賜ふ。正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴御行には、並びに八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣弐藤原朝臣不比等には、並びに五十人。」(『日本書紀』)

 問題は最初の褒賞から次の昇進までの五年の間における状況の変化(齟齬)にこそ、この作者の怨念は胚胎していたのではないか。それはどんな怨念であったか。
 『二中歴』によれば九州年号の最後を飾ることになった大化がその前年の六九五年に改元されている。『日本書紀』はこの年号をその五十年前に大化の改新(乙巳の変)に流用し、岩波書紀の頭注は広大な天皇による徳化の意味としたが、九州年号がその前までそれと質を異にする白雉→白鳳→朱雀→朱鳥と年号を連ねているのを見ると、これは「大いなる変化」、転換に由来するのではないのか。その意味は白村江の敗戦によって転げるように凋落していった倭国が、それと対照的に昇竜のごとく近畿から立ち上がった日本に追い詰められ抵抗を繰り返していたが、もはや時代が倭国のものでないのを悟り、内部の軋轢を制し、実際的な明日の身分保証を大和朝廷に求め、つまり妥協路線への転換にこの年号の意味があったのではないのか。それを不服とする者が倭国の長久を願い大長と六九八年に改元したのではあるまいか。

 しかし時代は六九七年に文武天皇の即位、そしてその四年後の大宝建元を見るとき、倭国の末裔が身分保証の切り札として持ち出したのは恐らく皇位 を保証する神宝であったとわたしは見ている。わたしはそれについてはすぐ気づいたが、大和朝廷側にとって垂涎の的であった神宝を得るための条件が何であるかについてはまったく思い及ばなかった。わたしはこの妥協は大和朝廷の力の勝利ぐらいにしか思わなかったのだが、昭和天皇の英断とされる「終戦の詔勅」が、米軍進駐による伊勢神宮の神鏡と熱田神宮の神剣の紛失を恐れての決断であったことが明らかになった現在、これを手中にするために大和朝廷もまたそれなりの決断があったとしなければならない。そして真実は常に「明白すぎる神秘」の内にあるのである。

 とするとき、われわれは『竹取物語』が、かぐや姫にとって月への昇天物語なら、相手にとっては求婚物語であったことを忘れている。この自明の内に真実もまたあったのである。わたしはこれを五人の求婚物語としたが、じつはもうひとりみかどの求婚があったことをわれわれは忘れている。そして車持皇子(不比等)に対するかぐや姫の仕打ちがもっともきつかったのと対照的に、みかどに対してはその不可能性を説くところを見るとき、大和朝廷の出した条件とは、実はみかど(文武天皇)へのかぐや姫のお輿入れであり、その見返りが神宝の譲渡ではなかったかと幻視するのである。
 しかし彼ら五人が登場した年に太上大臣高市皇子が没し、大宝改元の翌年に持統天皇の崩御を見るとき暗い予感がしないわけではないが、それはともかく持統崩御を境にして、この約定は反古にされ、代わって新たな日本国の成り上がりの大臣は自家に倭国のかぐや姫の血を貰い受けようと群がったのではあるまいか。
 この大和朝廷の裏切りと屈辱に耐え兼ね、かぐや姫が月に昇天する寓意とは、倭国の天(阿毎)王朝の主神が月読命である事に気づくなら、廃されたものへの合一とは、覚悟の自殺以外のものではなかったのである。

 古賀達也によれば、天(阿毎)王朝のラスト・プリンセスである大宮姫は和銅元年(七〇八)に薩摩で亡くなったとするとしている。しかしわたしは大宮姫にかぐや姫を当てることはできない。わたしは「もうひとつの倭国」のラスト・プリンセスとそこに見るほかない。それはかぐや姫が不死の薬をみかどに送り、その手紙と薬を駿河の山で焼いたのでその山をふじの山と呼ぶようになったという重なるようにあるふじの強調から、この原作者が伝えたかった王朝名とは、藤王朝であったと考えるのである。
 それについては次号で答えることにして、わたしはこの原『竹取物語』の成立は、この持統十年と大宝元年の褒賞と昇進に拘わり、深く傷ついた者が書き留めた者と見ている。おそらく『竹取物語』の範型は外国にもあるとはいえ、古賀達也が言うように倭国の宮中文学としてすでに成立していたが、「O・N」ライン前後の名前をはめ込む怨念の物語として昇華されたのは八世紀の前半のことであったとであったとしたい。さらなる憶測を加えるならその漢文体の原本が宣命体に似ているという指摘や、神宝に関わった者を考慮し、中臣氏と神事を争った氏族を考えるとき、やはり斎部氏こそがふさわしいと思っている。そして物語の原舞台は難波の表記から判断して、それは摂津難波ではなく大芝英雄が論証した豊前の難波の奥に広がる大和の原郷の倭(やまと)であったとわたしは睨んでいる。それについては近著『法隆寺の向こう側』を繙いて貰わねばなるまい。(H一〇・三・二八)


古田史学会報26号より転載

《会員からのお便り》
前略 古田史学会報二十五号/室伏志畔氏の記事を読んで。
 ……とすると、題名がなぜ『竹取物語』なのか? 原作者の思想が反映していないだろうか?
 竹は筑紫国の筑の竹カンムリであり、かつ『隋書』東夷・[イ妥]国伝が記す竹斯国の一字である。(ツクシではなくチクシとある。)
 ……とすると、『古事記』『日本書紀』は始めから終りまで複数回にわたる国盗り物語の正当化の書であり、『竹取物語』は、その最終の国盗りの完成を表現していることになる。
 他の題名でもよかった筈なのに、「竹取の翁の物語」として伝承されたのには深いワケがあるのでは?(ワッハッハ) 後略
(東京都・黒野正和)


 

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☆☆近刊の案内 ☆☆

『法隆寺の向こう側』

三一書房 室伏志畔 著

 天照大神に君臨した倭国の主神、月読命を掘り出した『伊勢神宮の向こう側』に続き、蕃神としての仏教に君臨する聖徳太子を祀る法隆寺の向こう側に展開する光景とは!

 楕円国家論、大和朝廷コピー論をもってしたまったく新しい倭国論、大和朝廷論、天皇制論の誕生!

 本会会員、室伏志畔氏の待望の第二著。ますます冴えわたる室伏氏の幻視と文体は、どこまで古代史の真実に肉迫するのか。 題して『法隆寺の向こう側』。乞う、御期待。

 


『三国志』の長老の言 陳寿は肯定しているか

都城市 吉田堯躬

 拙著『「三国志」と九州王朝』において、烏丸鮮卑伝序文の長老の言が本伝において否定されていることなどを根拠として、東夷伝序文の長老の「異面の人あり、日出づる処に近し」の発言も倭人伝により否定されている--すなわち、異面の人=倭人は日出づる処の近くにいるのではなく、帯方東南の大海の山島ににいるとしたのが陳寿の言おうとしたところという見解を示したところである(注1)。
 今回、『三国志』の長老の全発言について陳寿がどう考えているかを検討したので、報告したい。

梁習伝の長老の言

 両序文の長老以外に長老が魏書に登場するのは梁習伝である。梁習は別部司馬のまま新領土の并州の刺史の代行となり、高幹の反乱の際、相争う地元有力者を説得、幕府に推薦出仕させる。有力者がいなくなると義勇兵を徴発し、また、その家族を順次都に送り住まわせ(合計数万戸)、反対するものを討伐するなどの実績を挙げる。
 ・太祖嘉之賜爵関内侯更拝爲眞長老稱詠以爲自所聞識刺史未有及習(注2)
 <太祖これを嘉し、関内侯の爵を賜ひ、更に真となす。長老称詠して、以て、自ら聞識するところの刺史にして、未だ、習に及ぶもの非ずとなす>
と書かれるのである。
 問題はこの長老の発言を陳寿は肯定しているのかどうか、であるが、古田氏が拙著での対談においてこの長老を現地(并州)のそれとされ、筆者の洛陽の長老との見解を駁された点をまず検討しよう。
 古田氏の立論の根拠は¢洛陽£の長老が古今の数百人の刺史を全部調べて言った、というのは不自然というものである(注3)。
 しかし、梁習の業績を示す様に并州の有力者を都に送込んでいるし、太祖の叙勲を知っての発言と思われる。したがって何も洛陽の長老が全部の刺史を熟知しなければ発言できない内容ではない。逆に現地の長老の発言とすれば、叙勲との間が絶たれてしまうし、梁習は新しい領土の新しい刺史--後述の様に漢の時代とは異なる--であるから比較困難のはずである。
 さて、本来の課題に戻ろう。
 梁習伝及び関連記事の在る常林伝を読むかぎりでは、陳寿が梁習への長老発言を肯定しているか否かは判断できなかったが、今回、魏書巻第十五の『劉司馬梁張温賈傳』の原文及び訳文(注4)双方をじっくり読んだところ陳寿は長老の言を肯定はしていないことがはっきりした。
 その理由の第一は、第十五巻全体が刺史として名を顕した者の伝であり、それぞれの業績を列挙することを目指している。その優劣には関心を示していない。
 第二は、梁習伝以外にも功績を示す発言が収録されているものがある。張既伝には逝去の際の文帝の詔勅が、賈達伝にはその業績を広める文帝の布告が記載されているように。すなわち、読者に判断を任せているという態度と思われる。
 第三に、この巻の「評」が注目される。

 ・評曰自漢季以來刺史*統諸郡賦政干外非若曩時司察之而巳太祖創基迄終魏業績此皆其流稱譽有名實者也咸精達事機威恩兼著故能粛齊萬里見述干後也

  <評に言う。漢末より以来。刺史が諸郡を統括し、都の外にあって行政を施いた。先の時代にただ監督するだけだったのと同じではない。太祖が国家の基礎をつくってから魏の帝業が終わるまでの期間に おいて、上の人々が評判わたてられ、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に通 達し、威厳と恩恵がともにあらわれた。だからよく万里四方の地をひきしめととのえ、後世に語られたのである。>

 すなわち、刺史の役割は武、行政、司法を兼ねる強力なものになり、漢の時代の司祭的なものから異なること、その中で事機に精通 し、万里を良く統治した者を記し後世に残したのである。したがって、長老の発言はその賛歌の事例に過ぎないのであり、陳寿がその言を肯定しているのではなく、材料を提供しているのである。

孫権伝の長老の言

 蜀書に長老は出現しない。呉書には三度出現するが、うち一例はその発言がなく、したがって今回の検討対象から除く。
 残りの二例のひとつが孫権伝にある。孫権が帝位について二年目(呉の当主となって三十年)のことである。

 ・遣将軍衛温諸葛直將甲子萬人浮海求夷洲及亶洲亶洲在海中長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童女数千人入海求蓬莱神山及仙薬止此洲不還世相承有数萬家其上人民時有至会稽貨布会稽東縣人行海亦遭風流移至亶洲者所在絶遠卒不可得至但得夷洲数千人還

 <将軍の衛温と諸葛直とを派遣し、武装兵一万を率いて海を渡り、夷洲と亶洲とを捜させた。亶洲は大海の中にあって、老人たちがいい伝えるところでは、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、童子と童女と数千人を引きつれて海を渡り、蓬莱の神山とそこにある仙薬とを捜させた時、徐福たちはこの島に留まって帰ってこなかった。代々その子孫が伝わって数万戸もなり、その洲に住む者がときどき会稽にやってきて布を商っていったり、会稽郡東部の諸県に住む者が、大風に遭って漂流し、亶洲に着く場合もあるという。しかしこの洲は遥か遠方にあって、結局捜しあてることができず、ただ、夷洲から数千人の住民をつれ帰っただけであった。>

 長老の言は、遠征の結果を示す「しかし」の前までであろう。徐福については『史記』の始皇帝本紀及び淮南・衡山王伝(列伝五十八)の記述があるが、長老の発言内容には、それによらない部分がある。
1). 上陸し住み着いた洲を亶洲とすること。
2). その地に数万家あること。
3). 亶洲と会稽との接触の三つである。
  このうち、3). は最近の事実ではあろうけれども、1). と2). は伝説にない情報である。しかし、問題は、陳寿が長老の言によって徐福伝説の確認あるいは訂正をすることを意図したか否か、であろう。訂正、確認よりもむしろ、その確認ができなかったことを「しかし」以下で述べたのである。魏と異なり長征に失敗した。それが陳寿の言わんとしたことでなかったか。

孫晧伝の長老の言

 まず、孫晧伝の長老の言を見る。
 天璽元年呉郡言臨平湖自漢末草穢*塞今更開通長老相傳此湖塞天下乱此湖開天下平
<天璽元年、呉郡から、臨平湖は漢末以来雑草がしげって水路が通じなくなっていたが、いまふたたびそれが通 じた。古老たちの言伝えでは、この湖が塞がれば天下は乱れ、この湖が通じれば天下は安定するとのことである。>
 天璽元年から五年たたぬうちに呉は滅亡するし、その間も戦乱、殺戮、処刑などが発生しており、この長老の言の誤りは明かである。
   *  *  *  *  *
 以上『三国志』の長老の言の検討結果、陳寿は長老の言を肯定しているのではないことが明かになった。長老の言はそれぞれ材料のひとつの場合、あるいは確認ができなかったことが明かのもの及び歴史上否定されたものである。
 「日出づる処」の長老の言は「周観」することへの導入であり、「周観」の結果、長老の言と異なる事実=¢異面 の人」は帯方東南の山島に住むことを報告したのである。
注1 拙著『「三国志」と九州王朝』八一頁上段。
 2 百納本二十四史三国志 台湾商務印書館刊行。以下原文引用は同じ。
 3 拙著同 二三五頁下段
 4 今鷹真、井波律子訳『三国志』(筑摩書房世界古典文学全集二四)。以下の訳文の引用も同訳文による。


黒塚古墳出土三角縁神獣鏡

「父母鏡」の発見

奈良市 水野孝夫

 天理市の黒塚古墳が公開されて三ケ月。出土した三十四面の鏡の展示が橿原考古学研究所と付属博物館で四月五日から四月十二日まで行われました。
 古田先生は連日のように通いつめられたのですが、私と会員・木村氏は八日に先生とご一緒する機会を得ました。
 私の第一の目的は、八号鏡にある「仙人」の文字を確認することであり、もうひとつ目標を立てました。それは「なにか新しいことを見つけよう」というおおそれたものです。
 朝九時に付属博物館に入場すると、さすがに会場は空いていました。今回出土の三十四面の鏡には遺体の枕元にあったと思われる画文帯神獣鏡を除いて、置かれていた位置順に一号から三三号の番号が振られています。
 これらの三角縁鏡の鏡背には、外側から順に縁、銘文の入った銘帯があり、神獣の像や乳と呼ばれる突起のある「平野部」があって、中央に鈕があります。
 従来の常識では、この「平野部」には像や乳のような「絵」はあっても「文字」はないことになっていたようなのです。ところが八号鏡には「仙人」という「文字」が読み取れるとのことで、すでに京都新聞では二月中にこのことが取上げられているのです。
 朝日新聞三月二十四日号に掲載された八号鏡の写真はみごとに「仙人」の文字を写し出していますが、記事自体にはこの文字については一言もふれてありません。ご承知のとおり三角縁神獣鏡類には中国鏡か国産鏡かの議論があるわけですが、銘帯より内側の、この「平野部」に文字があるならば、「中国鏡ではない」証拠になるはずです。そこで八号鏡の前に立って、朝日新聞の写真を頼りに「仙人」の文字のある位置を眺めたのですが、判然としません。望遠レンズで見ても照明の具合によるのか、新聞写真より明確とは言えませんでした。しかし文字とは確信しました。
 ところで、私は四号鏡の「平野部」に「父」・「母」と読める「文字」を見つけてしまったのです。このことは一旦博物館を出てから私が云い出したので、古田先生も木村氏も共に博物館へ引き返して長蛇になっていた参観者の行列を並び直して再確認したのですが、やはり「父母」と読めるんですよ。見取り図を描いておきます。四号鏡の写真は未入手ですが、橿原考古研のリーフレット「黒塚古墳」(学生社1998.4.5初版)二十頁の写真の左下端の鏡は四号鏡と思われます。
この四号鏡は「吾作」ではじまる銘文をもつ四神四獣鏡で、橿原考古研によれば次の古墳出土鏡と同型とされます。
 一.山城・椿井大塚山古墳
 二.枚方市・万年山古墳
 三.神戸・西求女塚古墳
 四.広島市・中小野田一号墳
 五.北九州・苅田町石塚山古墳
 比較すればなにかわかるのかも。私の気付いた文字がもし新発見ならば、最初に「なにか新しいことを見つけよう」と宣言して始めたのが良かったのでしょうか。


<□□ 事務局だより □□
▽お詫び。会員論集の発行が遅れています。明石書店の説明では早ければ六月末発行とのこと。
▽六月二八日には古田先生の関西講演と会員総会を開催します。ご参加のほどお願い申し上げます。年会費もよろしくお願いします。
▽古田先生の著書『失われた日本』と『古代史の未来』が好評です。英訳の企画も検討中。インターネットで世界の良識に訴えます。本会も全面的に応援します。(古賀)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから


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