失われた『万葉集』
六月二八日 古田武彦講演会要旨(文責 編集部)
前置きとして、私が講演会で述べる内容は厳密な論証を重ねたものもあれば、最近思いついて、まだ研究中といったホットな話題もあり、みなさまと共に考えたい(共考共進)と思っている。これらが会報などで紹介された結果、「思いつきで論証不足」と批判されたケースがあったが、私は講演会というものの性格をそのように考えている。
四月初め橿原考古学研究所での鏡の展示会に出かけた。最終日に記念講演があった。川上邦彦調査研究部長、結論として「黒塚の三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とは関係がない」とハッキリ述べられた。最後に所長の樋口隆康さんが講演された。「あの鏡はもちろん魏の鏡です。こんなことをいうと怒られるけれど…」。所長と部下の意見が違うというのは、外国はともかく日本では珍しいのでは。しかし本格的な研究で意見が対立するのは外国並みの活発な議論につながる。好ましい。それと所長の樋口さんのお人柄と思う。
黒塚をめぐる本格的なシンポジウムというのはまだ行われていない。「いや、シンポはあったよ」という方もあろうが、私はシンポジウムというものは「深歩ジウム」、議論を深めるところに価値があると思う。それには違う意見の人、違う立場の人を多く集めて初めて議論が深化するので、そうでないのは「浅歩ジウム」。実際に行われたシンポジウムはメンバーを見れば大体の方向性の見当がつく。遠慮せずに云わせて貰えば「談合的シンポジウム」だ。選挙で政治が変らないのは選挙民に責任があるといわれるが、「談合的シンポジウム」は我慢して聞いている方が悪い。
黒塚で大切だと思われたのは、もちろん棺の内と外の問題。黒塚の特徴は、未盗掘の古墳が学問的な発掘を受け、埋葬の状態が初めてハッキリしたことで、その結果は「三角縁神獣鏡はすべて棺外にあり、棺内にあったのは画文帯神獣鏡」だった。
新聞等で見ると、「三角縁神獣鏡は外に置くのがルールだった」と、阪大助教授の福永さんが述べている。果たしてそうか。たとえば平原古墳、重要なものは棺の中にあった。他に吉武高木遺跡、韓国光州の遺跡、私はどちらも現地へ行き、発掘調査報告書を入手したが、重要な「三種の神器」類は棺の内にあった。須玖岡本遺跡も同様、「三種の神器」を含む夥しい器物が出たが、「三種の神器」は私のいうミカカン(甕棺)の中から出てきた。これらの例で「三種の神器」が棺の内から出たことを疑う人はいない。やはり重要なのは内側である。「ルールは外だ」というなら、その例を挙げられるべきである。考古学は実物についての学であって、弁論の学であるはずはない。重視されていたのは三角縁神獣鏡ではなくて画文帯神獣鏡の方だ。
平原遺跡の発掘で、原田大六さんが生涯をかけて明らかにされた内容は、著書『実在の神話』にあるが、そのなかの十四号鏡、私が最も注目した鏡。これが擬銘鏡と書かれていた。つまり中国の鏡なら文字のある銘帯に、中国の文字らしくない丸や三角の記号のようなつらなりが書かれたものが一面あった。まわりのデザインはいわゆる中国鏡にそっくりで、銘文の文字の部分だけが違う。これを見せて貰おうと私は原田さんを訪問した。この訪問の話は本にも書いたが、私が九州説と知るや、「帰れ!帰れ!」と叫び出された。しかし二回目は違った。丁寧に案内されて、「あの本書いた人か。まあ上がれや」。『「邪馬台国」はなかった』をいい加減な本とは思われなかったようだ。それ以後はズーッと仲良しだった。「古田と原田は犬猿の仲だった」とされた方があったので訂正しておく。この写真のとおり抱合っている。撮影者は山口大学の野口さんというが、大学の紀要論文のなかに、論旨とどんな関係があるのか、「古田¥原田は犬猿の仲で」と書いて、その他よくわからぬ
私への攻撃を書いて居られるが、抱合っている写真だけは写して下さっていた。
最近(五月二十九日号)の週刊朝日に「日本最古の文字は銅鏡に刻まれていた」というスクープと称する記事があった。この擬銘鏡の字のことだが、私は講演でも、すでにとりあげて「日本文字らしい」としている。この週刊朝日の記事は福岡県教委の柳田参事さんが、この鏡をホウ製(国産)と指摘したとあるが、これは深刻な問題に続く。問題は同時に平原から出た三十数面の鏡が、この擬銘鏡を含めて材質が全く同じに見えることだ。私は眺め抜いたのだが、原田大六著『平原弥生古墳』によれば、なかには馬渕さんたちによる鏡の成分分析結果がでている。結果は「十四号鏡だけが他と違う」とはなっていない。ほとんど変らなくて、説明に悩んでいて結論は避けてある。原田さんには迷いがあったようだ。しかし私には外観からみて、成分が違うとは見えなかった。
話はとぶが、椿井大塚山古墳の昭和二八年度の発掘の報告書がやっと平成十年に出た。「トラブルがあって公表できなかった」という。私には意味深かった。値打ちは鏡の科学分析結果
が載っていること。三角縁神獣鏡の成分分析は馬渕さんが行って「中国産の銅を使っている」とされたことで有名。私にはひとつの疑問があった。銅が中国産か否かを検査するには基準として確実な中国産銅の見本がいる。その中国産の代表に使われたのは博多湾岸出土の漢式後漢式鏡だった。みんなはこれが中国産と信じて議論している。しかし、私はそれらの中に国産の鏡があると考えている。たとえば立岩の鏡。銘文は漢詩なのに脚韻の文字がカットされているものがある。脚韻の文字をカットする中国人はいないだろう。韻字があるから詩なのだ。それで立岩鏡は少なくとも中国鏡ではあり得ないと私は論じたが、考古学界からは反応がない。さらに井原から出たといわれる鏡についても私は中国産にしてはおかしいと論じた。須玖岡本B地点出土鏡、これはいわゆるTLV鏡だが、VLは異様、Tがない。銘文の文字も下手で、中国鏡には見えない。これは私が云っただけではない。富岡健蔵氏、この方が晩年に悩んでおられた。
私はこのB地点出土鏡を見たいと韓国へ行った。この鏡は戦後は韓国に引き継がれたから。行っても無駄だろうという話もあったが、ちゃんとあった。大切にされていた。実物を見ると全く文字はあれども文字にあらず。
こういうわけで、博多湾岸出土の漢式・後漢式鏡はかなりの部分が日本産としか思えない。これを私が何回云っても考古学者たちは知らんぷり。ところが福岡県教委の柳田さんは「ホウ製だ」と云い、そして「今ではみんなそう思っている」と云う話を聞いた。これはそれだけでは終わらない。週刊朝日の問題は博多湾岸のすべての鏡に影響する問題だ。舶載とされてきた平原鏡のうち何割かは国産であるということになってくると、科学分析の基準に疑問を生じる。また他は中国製といったところで、原料も作り手も工房も中国のものの他、原料を持ってきて作ったとか、なかには韓国産などもあるかも知れぬ
。出来の良いもの、悪いもの、の二分類で鏡を論ずる時代ではない。α、β、γ…と分類を多くして論じて行く時代に入ったと私は思う。
『ここに古代王朝ありき』で論じた「室見川の銘板」。私は文字を分析した結果、これは中国産ではない。字が下手で文章の切れ方もおかしく、寄せ集めの字句だとした。北海道教委の千葉さんという方がこれを覚えておられて、「室見川の銘板の分析は本当でしたね、現地は大変でしょう」。百二十五年に王が宮殿を作ったと書いてある。その宮殿は室見川の流域にあったはずだと、私は書いた。ところが室見川流域から吉武高木が出た。三種の神器をもつ遺跡で、しかもすぐ横に宮殿ないし神殿があった。となると、私の推定は正しかったということになる。だから千葉さんは現地は大変だと思われた。さにあらず。その後、銘板を尋ねた人は誰もいない。問題にした学者もいない。これが現状だ。ところで、室見川と平原の距離は僅かなもの。西側の平原に中国の文字でない文字をもつ鏡があって、東側では後漢年号を書いた銘板がでた。また宮殿が出た。後漢式鏡と後漢の年号、この両者を関連づけないのはおかしいのではないか。文化財が出てきている。放置すれば行方不明になるかも知れない。これは古田説への賛否などとは関係なく、持主の原さんを訪ねて、寄付か委託を受けて博物館に入れて万人に見せるべきではないか。
後漢書にはなぜ邪馬臺国とあるのか。課題は私自身の問題として残っていたから大学を退職して最初に取り組んだ。「タイ」は日本語なのではないかと調べて、「臺」は低湿地をあらわす日本語であり、「ヤマイチ国は戸数七万の大国」で、「ヤマタイ国は大倭王の居る所」と文形も異なると論じた。
これに関して問題提起があった。万葉集にも「タイ」が出てくる。その歌が「4260大君は神にしませば、赤駒のはらばう田井を都となしつ」。続く歌「4261大君は神にしませば、水鳥のすだく水沼を都となしつ」(作者詳らかならず)。「作者詳らかならず」にピンときた。これらは九州王朝の歌で、作者を書けないので「よみ人しらず」としたと。
「水沼の歌」を考える。「曲水の宴」というのがある。天子だけができる遊びだ。この「曲水の宴」の遺構が久留米から出てきた。しかし報道されない。天皇家のものだと言えないと新聞は騒がない。九州王朝は高句麗と激突するようになると、都を南へ移したようだ。久留米の近くに三瀦(みずま)郡がある。三瀦郡の水沼。つじつまがあう。私はこの歌が作られたのは筑後川の下流、大川市のあたりと考えた。「大君は上(川上)にいらっしゃる。その死んだあと神様になられたので、水沼に過ぎなかったところを都にしてくださった」。これは亡くなった王者に対する頌徳の歌だ。
「田井の歌」の解釈は、「タイに都を置かれた」ことを読んだものになる。都を表す漢字も、田井の歌「京師」、水沼の歌「皇都」。天子の都を「皇都」という。天子でない王の都では皇都はあたらない。この王者は誰か。玉
垂命を祭る高良大社が久留米にある。九州年号の端政元年(五八九)に玉垂命は亡くなったという。この玉垂命は多利思北孤のお父さんまたはお母さんではなかろうか。多利思北孤は天子を称し、先代は称さなかった。「今は天子になったから都は皇都で、それは神様になられた先代のお蔭である」と理解すると表記を含めてピタリと合う。だから九州王朝の歌であって、作者不詳とした。こういう分析に達した。
「235 大君は神にしませば、天雲の雷の上に庵らせるかも」。これは「天皇、雷丘に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首」の詞書がついている。私は飛鳥の雷丘に行ってみて、あまりに小さい山でビックリした。ここに登った天皇は誰かはっきりしない。「天皇が、ちょっとヒマがあって雷丘に登り、椅子にでも掛けておられる」様子を「雷の上に庵らせるかも」と詠んだ。それで天皇は生き神様だと。オベッカもいい加減にせいと云いたい。人麿とはこの程度の歌人か。
ところがこれを九州へもってゆくと、背振山脈の第二峰が「雷山(らいざん)」。千如寺という重要なお寺と雷神社がある。江戸時代の図によると、山頂に「天ノ宮」、中腹に「雲の宮」があった。標高九五五メートルという山だから、飛鳥の雷丘とはスケールが違う。もちろん雲がたなびいている。祭神はニニギノミコト、それに天神七社、地神五社が祭られている。人麿は太宰府へ行った。「大君の遠の朝廷…」という歌が残っている。だから雷山で歌を作っても自然である。「ニニギノミコトは神様になられて、天雲の上に聳える雷山の上に庵を作っておられる」。実際には神社があってそこにいらっしゃる。大変ナチュラルそして荘重な歌だ。人麿の作にふさわしい。人間を生き神様にする必要はない。これを飛鳥での作とすると、天皇のうちの誰かハッキリしないというのがすでにおかしかった。この歌を万葉集に変にはめこんだので、天皇を生き神様にするもとになったのだという、大変な問題に気がついてきた。そうすると人麿の次の歌にも着目せざるを得ない。
「241 皇(オオキミ)は神にしませば、真木の立つ荒山中に海を成すかも」この歌もおかしい。「天皇は神様だから、山の中に海を作った」。実際は池なのに海を作ったと表現した?。「こんなつまらぬ
歌をよくも作ったものだ」と解説したひとはいないようだ。しかしヘンテコな歌だ。ところが東京の福永さん夫妻から、こんな提案があった。原文「海成」は「うみをなす」でなくて、「うみなり」と読むと。私は「海鳴り」の研究に没頭した。いきさつは省くがこれは海鳴りの歌だった。
各地の気象台で教えてもらっての結論。雷山でも海鳴りは聞こえる。千如寺には風穴伝説があった。かって海まで(十三キロメートル)つながる穴があったという伝説だ。風の強い時は当然海も荒れて海鳴りが聞こえたはずだ。海鳴りは暴風雨の前兆。この歌は九州王朝滅亡を予感した歌のようである。この二首とも雷山で作られたとすると、自然に理解でき、すばらしい歌である。私は万葉集中の最高級の歌を発見できたことを喜びとする。
もうひとつ、歌は第一史料、その時代の人が作ったものである。九州王朝説に立った場合にこれらの歌が最も深い意味をもって蘇ってきた。九州王朝説の正しさを第一史料が証明したと考える。
「庵らせるかも」の歌をさきに述べたように解したが、このことを朝日新聞社の篠塚さんという人に話したところ、新聞人のカンで「それは良いリーダーがいなかったと云いたいのでは」と述べられた。私はピンときた。
当時は白村江戦に家族を奪われて、民衆の生活はグチャグチャだったのではないか。「雲の上の庵」を歌っているが、本当に歌いたかったのは悲惨な「民衆の庵」だったのではないか。ただ雷神社に神様がいらっしゃると単純に喜んでいるとは思えない。やはり素晴らしい歌だった。
学問を外れて云えば、やはり万葉集の編者はウソをついている。九州王朝の歌をもってきて、近畿らしいニセの題や詞書をつけて載せてある。しかし驚くほどのことではない。日本書紀(景行紀)に「前ツ君」の九州統一物語を主語を取り替えてはめこんであった。あれと同様だ。やったのは誰か。七〜八世紀の近畿の天皇をとりまく集団だった。歴史の改変はまず古事記に、ついで日本書紀に行われた。万葉集の編纂も同時期から行われている。そうすると万葉集のみが清らかであるとは考えられない。万葉集まで汚さなくてもと思われようが、話のスジ道がその方向を指すことは疑えない
昨年発行の『久米と久米歌』メリーナウマン著、桧枝陽一郎訳。ナウマンさんはドイツの女性日本学者。すでにフライブルグ大学を引退。この本では神武紀の久米歌、私のいう「神武歌謡」がドイツの方らしい生まじめさで追跡されている。私は偶然にこの方と知りあった。津田造作説の批判で意気統合した。この方の説は「久米歌は造作ではない」というもので、研究の原点は「こんなに原始的な戦闘のエネルギーや情熱の込められた歌が、後世の造作のはずはない」というにある。学問は実証だが、一方に原点が重要で、こういう原点をもたれていることが素晴らしい。
ところで「ウダの高城にシギワナ張る、…クジラさやり…」。つまり大和盆地の宇陀になぜクジラがいるのか説明できない点。ナウマンさんも困っておられる様子がこの本にうかがえる。私の説はすでに著書等で発表したが、日本の学者は知らん顔だから、ナウマンさんに応答して貰おうとお手紙を差上げた。そのうちに応答いただけると思う。ナウマンさんとのやりとりを機会に、さきにはタッチしていなかった歌を取上げた。それは「忍坂(おさか)の大室屋に、人さわに…久米の子らが、頭椎(くぶつつ)い、石椎(いしつつ)い持ち、撃ちてしやまむ」という歌。ナウマンさんが久米歌にひかれた動機はこの歌にあった。通説で大和盆地の「忍坂」に宛てられている地名、これが九州にあったのではと私は以前から考えていた。そこで探しに行った。オサカのオホムロヤはやはり九州にあった。
この地名の原表記は日本書紀と古事記では異なっている。紀:於佐箇廼 於朋務露夜珥、記:意佐加能
意富牟盧夜爾 どちらが本来なのか。まずオホを調べる。私たち夫妻の知合いに於保先生(京大名誉教授)がおられる。ご実家は佐賀県の三田川町とのことであった。すぐ現地へ行った。そうしたら於保さんがいた。町役場の収入役の方が於保さん。弟さんがもと中学教頭で歴史好きな方。ご案内いただいた。於保城跡を見た。更に於保さんのご本家があった。ご本家宅は大きな屋敷で、中世の城を思わせる森の中の領主の館の感じ。於保=
於朋は地名で、その意味はおそらく尾秀= 山の尾にあたる良い場所。於佐箇の方はというと、なんと駅の案内板に「佐嘉神社」があった。尾佐嘉の尾秀、つまり佐賀の尾っぽの山の尾だった。ここから吉野ケ里は近い。吉野ケ里もふくめて於保さんの領地といった感じだった。
ここからは推定だが、吉野ケ里遺跡は弥生中期から後期に栄えたと理解されているが、その後の発掘で弥生前期の金属精練跡が出ていて注目すべきである。福岡県の遺跡遺物の内容は、弥生前期末中期初(前末中初という)で大きく変化する。政治的変動があったとみられる。私はこの変動を「天孫降臨」と理解しているが、吉野ケ里も大部分は前末中初以後であるのに、一部には前期の金属精練跡があったという点で面白い。絹もそうだ。絹も博多湾岸に集中しているが、ひとつだけ緑川下流から前期の絹が出ている。ということは「天孫降臨」以前から絹はあったことになる。「前末中初」以前は野蛮だったかというと、決してそうではない。その時代の朝鮮半島はすでに金属器の時代であり、影響されていない方がおかしい。
ついでながら、黒塚の主は桑の木の棺だったと報道されたのも面白い。桑や絹がさかえたのは糸島・博多の方が早い。そこで九州から桑や絹を近畿にもたらしたのが黒塚の主という感じになってきたことに関心を持ち続けたい。黒塚を考える場合に鏡ばかり騒いで、ここが邪馬台国だなんていっているが、鏡以外にも重要なものがあるのを忘れている。矛だ。矛は出たか。それもあふれる程出なくては、邪馬台国の資格はない。矛が鋳型を含め最も多く出土するのは博多湾岸だ。さらに倭人伝に書かれている重要なものは中国の絹。倭国産の絹もあったことは明らかだが、ただし中国の絹が出ることが条件になる。中国の絹が出土したところ、須玖岡本、春日市だった。現在までに出土した唯一の中国絹の例。
もとの話題に戻る。オサカノオオムロヤは佐賀の於保ムロヤだとわかった。これを古事記は大室屋だと誤解した。土地勘がなくて。日本書紀の方はふたつの面をもっている。つまり八世紀に話を造り替えて、景行天皇の話などの大ウソを記述した。これを古事記より後で行ったという新しさを持つ。しかし使用した材料自身、表記などは古い。この目で「クジラの歌」を読み直すと、紀は「クジラさやり」、記は「さやる」である。これまでは終止形の「さやる」が当然とされてきた。ところが紀の方が本来形となると歌はまだ終わっていない。しかも続いて囃し言葉のような句がある。「クジラさやり(囃し)」「ナントカさやり(囃し)」のようにつぎつぎに続く歌のようだ。つまり「ヨサコイ節」のようなものだ。ユーモラスな歌。だから「前妻が−−、後妻が−−」と始まる部分は囃し言葉だと考えた。そうすると従来は枕詞とされてきた「立ソバの(実が少ないことを示す)」、「斎サカキ(実が多いことを示す)」も、ただの枕詞とするのは後世の解釈にすぎないと考える。実体があるのだ。立ソバも斎サカキも重要な植物で、前者は主食系、後者は果実系。とすると「米」が出てこない。ということは「縄文歌謡」だと考えた。
縄文時代にソバはあったか。あった。「考古学ジャーナル」三五五号(一九九二)に山田悟郎さんが発表されている。北海道から九州まで分布があり、分布図をみると、どうも東から西へ向いて広がって行ったように見える。そうすると、稲はこのソバのルートを逆向きに西から東へ辿ったのではないか、という面白い仮説を生ずることになってきた。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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