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続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
1998年 8月15日 No.27
古田史学会報 二十七号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
六月二八日 古田武彦講演会要旨(文責 編集部) 失われた『万葉集』 -- 黒塚と歌謡の史料批判
池田市 平谷照子
大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼を都となしつ 作者未詳 (四二六一)
この歌は、万葉集注釈によると、天皇は神でいられるから、水鳥がたくさん集まる沼をも立派な都としてしまわれた。と口訳されている。
ところが、これは九州王朝が水沼を都としていたことを詠んだものだと、指摘された方がおられたときく。それでは、右の歌と連れだって、巻十九に記載されている、もう一首の方はどうなのか。
大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ田ゐを都となしつ (四二六〇)
天皇は神でいられるから赤駒がはって歩いている田圃を立派な都としてしまわれた。
この方の作者は大伴御行とされるが、この四二六一、四二六〇は、「大君は神にし坐せば」の初の二句も、「都となしつ」とする、下の句も全く同じである。もっとも、元の歌は、四二六一の方は皇都常成都(みやことなしつ)とし、四二六〇の方は京師跡奈之都(みやことなしつ)で、字の違いはある。初の二句が同じというのは、巻九にみえるが、下の句まで同じというのは他には見当らない。四二六一、四二六〇は同じ人の作歌ではないだろうか。ということ。
次に“赤駒のはらばふ田ゐ”については、元の歌には、赤駒之腹婆布田為、となっている。後世の人は、田為を田居と考えて“田圃を立派な都とした”と解釈しているが、この解釈に作者は異議はないのだろうか。田圃を都にした、というのなら、他(これ以外の六首)の歌のように、田のことを、田井とか、田居と書けばよいではないかと思うのだが、なぜ田為でなければいけなかったのだろう。気になる「為」を、広辞苑でみると、
為 は1. なすこと。すること。おこなうこと。2. 意識的にすること。作ること。ためにすること。とある。この田為(ゐ)の為は、助詞ではないかと思われる。助詞、「い」は、ア行のイである。万葉集の歌には、助詞「い」は、伊、射、が使われているが、四二六〇の作者は、強いて、為(ゐ)を使った。為は、意識してこの字を使ったという意味を現しているように思える。上の“田”の語勢を強くし、また語調を整えるための“為”である。
このように気侭に解釈すると、これは、かつて、「田」という所に都があった。と詠んだ歌になってしまう。けれども、私の解釈通
りに、「田」を地名とする所があるのか。
訪ね訪ねて、福岡市早良区と西区の間を流れる室見川の中流に「田」を見出した時は、全く驚いた。「田(た)」と読むか、「田(でん)」と読むか、早良区役所に問合せると、一字名の「田(た)という地名であります。」正しくは、福岡市早良区大字田、福岡市西区大字田、となるようだ。西区大字田の近辺に吉武がある。また、付近に、都地という地名がある。
「田」を地名とするところは、西日本に四ケ所ある。滋賀県、和歌山県二ケ所、対馬である。しかし、都となしつ、には当らない。
四二六〇の歌を追ううちに、室見川の流域に、さ迷い出るとは、思いもよらぬことであった。そのうち、室見川と日向川に囲まれたこの地域を掘り返すことになって、都らしい遺跡が出ると、私の歌の解釈も万々才なのだが、果報は寝て待てである。
ところで、初の二句の「大君は神にし坐せば」は、もとは「大君は上にし坐せば」ではなかったと推測する。「上(かみ)」は、昔、という意味をもつ。大君は、その昔、おいでになって赤駒が寝そべって遊んでいる、あの田を都にしていられた。筑紫人の懐旧の情を詠んだ歌かもしれない。万葉集には、「大君は神にし坐せば」と初の二句を詠んだ歌が、この外にも二首ある。
これは、当代の天皇を神と讃えたものではなく、大君は、なくなられて神としておいでになる。ということではなかろうか。弓削皇子(天武天皇皇子)に捧げられた、長歌を読むと、それが、よくわかる。「大君は神にし坐せば」の語を、天皇への絶対的な礼讃の詞とする学者がおられるが、では、どうして同じその詞が、弓削皇子の挽歌に詠われているのだろうと、理解しにくいわけである。
(平成十年六月二五日)
古田史学の会・仙台会報 (第二集九八年二月)より転載
冬の夜の回想 古田史学の会・仙台 前田準
◇◇ 連載小説『彩神 (カリスマ) 』第六話◇◇
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美 ◇◇
◇ ◇
「その方は……!?」
夫の背に踞(うずくま)っている白い影を見て、八上(やがみ)も目を瞠(みは)った。
「『天(あめ)の日栖(ひす)の宮』の大王(おおきみ)だ。」
八千矛は身を屈(かが)め、妻に囁(ささや)いた。
「ここへ来る途中、賊に襲われて虫の息になっておられたところへ偶然、通り合わせたのだ。暫くそなたの家で、介抱して差し上げてはくれぬ
か?」
「畏(かしこま)りました。」
八上は、さっそく二人を中へ案内した。
広間の方からは賑やかな手拍子と歌声に混り、酒を注(つ)ぐ音、脂が滴(したた)ってはぜる音や器の触れ合う響き、肉を焼く芳香が漂って来る。
「八上、八上はどこだ?」
傍若無人な呼び声と共に、入口に影が射した。天神川流域に住む岩根丸や国立(くにたち)といった豪族が、青や緑の衣褌(きぬ
ばかま)で居並んでいる。誰しも相当な酔い方ぶつかったり、壁にもたれるとそのまま下へ滑り落ちてしまったりした。
「廚(くりや= 台所)など下女に任せて早く来ぬか?」
「おぬしがおらぬと興も乗らぬわ。」
男達はてんでに八上を引き出そうとしたが、八上は無遠慮な誘惑にはもう慣れているらしく、
「はいはい、お待ち下さいな。よく温(ぬく)めないと、お酒は佳(よ)い味が出ませんのよ。」
うまくなだめて宴席へ引き返させた。
一人、三朝(みささ)の黒光だけは、
「おぬしはそうやって、我らをはぐらかしてばかりおるぞ。」
と、酔漢のしつこさで、八上の腕をつかんだ。
「無礼でございましょう、黒光様!?」
八上は憤然と顎を立てたが、
「さあ、岩根丸や八千矛如きをいつまでもからかっておらずに、俺の許へ来い。須佐の大王や『天の日栖の宮』も及ばぬ
贅沢暮しをさせてやるぞ。」
黒光は無理矢理小脇に抱え込もうとした。
「良い加減になされよ。」
八千矛が進み出ると、
「これはこれは、石見の成り上がり者めが潜んでいたか。」
黒光はせせら笑い、
「とっとと出て来た所へ帰るのだな。八上はもう俺の妻(もの)だ。」
で、立っていても体が自然に搖れ始めて人にと、肩を組んだ二人の姿を見せつけようとした。
途端に、黒光は叫び声を発して飛びすさった。八上が、思い切り耳にかみついたのだ。
「この女(アマ)−−他人(ひと)の耳を食いちぎる気か!?」
黒光は血の吹き出た頬を抑え、八上を睨(ね)めつけたが
「理由はどうあれ、訪問先での争いは無礼千万−−黒光殿、お引き取り願おうか?」
八千矛が切っ先を突きつけると、
「大層な鼻息だな、八千矛。この分なら、山本の赤猪も見事、生け捕ってみせてくれるんだろうな?」
捨てゼリフを残して背を向けた。(続く)
* * * * * * * * *
〔後記〕
今回の会報第二六号で古賀さんが紹介しておられる、稲員家が玉垂命の末裔でもあり、高良大社の「三種の神宝」を司る家柄で、「草壁」を名乗っていた事もあるとのレポート大変興味深く拝読致しました。『高良記』にある、百済の王子による正月の犬の舞いは、古賀さんのおっしゃるシシ、或はオオカミ(犬はこれが人間に飼い慣らされたものといわれる)がルーツかと思われますが、十二世紀末に下がるとはいえ、稲員家と「草壁」(本当は「日下部」と書くのでしょうが)との関係を思うと、持統の息子という事になっているあの王子様、やっぱり何かいわくがあって歴史の表舞台から消されたのではと勘繰りたくなって参ります。
又、黒野正和氏が指摘しておられるように、二五号と二六号で室伏氏の提唱された「藤(原)」の名称については、現富士山麓に大昔、独立国家が栄えていたと述べる「宮下文書」という古史古伝の存在もあり、私も疑問が残ります。「宮下文書」によれば、夫に貞操を疑われた女神が悲しんで富士火口に投身するが、花に包まれて昇天となっており、最後が「竹取物語」と似ております。速断は許されませんが、「宮下文書」の話が先、「竹取」の成立が後という事になったら、どうなるでしょう…?
(深津)
『新・古代学』3集
新泉社 二五〇〇円 (税別)
〔内容〕
対談 『奥の細道』芭蕉自筆本の真偽をめぐって
1. 山本唯一/古田武彦
2. 櫻井武次郎/古田武彦
特集 和田家文書をめぐる裁判経過
地裁・高裁・最高裁判決文/古田報告書/古賀陳述書 他
訂正ならびに注意
1. 奥付日付一九九六年七月三一日は一九九八年の誤り。
2. 巻頭写真「和田家三代の筆跡」に付した説明文のうち、昭和二十九年理習帳和田長作は明治二十九年の誤り。
3. 同、平成八年二月受領書写真のうち、最後の二行のみが喜八郎氏の筆跡であって、日付は別人(古田武彦氏)のもの。
古田史学の会・仙台 菊地栄吾
今から考えると子供の頃、結婚式などのお祝いのある時に、良く聞いた「祝い歌」であった。この歌は、「国家」君が代と同じ歌詞で、子供心にも何か不思議な歌だなという思いがあったが、郷里から離れ、いつしか忘れていた。
このたび、還暦を迎え同級生が集まって厄払いを兼ねて「還暦の祝」が催され久しぶりに、その「祝い歌」を聞いた。
これは「吟声」と呼ばれ、その歌詞は、
(一)君が代は 千代に八千代に さざれ石の
いわほとなりて こけのむすまで
むすまで むすまで こけのむすまで
いわほとなりて こけのむすまで
そして続いて、
(二)天の神 國つやしろを いわいてぞ
我あしはらの くにはおさまる
おさまる おさまる 國はおさまる
我あしはらのくには おさまる
と歌われた。
昔の記憶が蘇るとともに、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の賛歌』が閃いた。歌い終わったM君に、早速その由来を質してみた。
幸い、保存会が発行した「小冊子」を持っており、拝借することが出来た。以下、そのまま転記する。
「吟 声」
吟声は、村山市大字湯沢の磧学菅原遯先生が創唱されたもので、当湯沢を中心にこの地方一帯のお祝いごとや宴席などで朗吟される和歌の朗詠であります。和歌の朗詠としては米沢の興譲館風のものと共に、格調高い優れたものとされて居ります。特に主として朗吟されたことは、歌謡史的にも精神史的にも注目に値するものであります。
菅原先生の遺された勝れた文化遺産であるこの吟声も、他の民族芸能と同じく激しい時代の風波を受け、伝承の面
では危機にたたさ れて楽観をゆるさない状態に立ちいたって居ります。今や明治百年、昭和戌申の年に当り、湯沢在住の有志の者相謀り、多数部落民のご賛成を得、ここに吟声保存会を結成し、菅原先生の遺徳の顕彰と、正しい吟声の伝承普及を図ろうとするものです。
この小冊子は、主として朗吟される「君が代」と「天の神」に音譜を附け、更に先生が愛唱された敬神崇祖の古歌九首を録し、併せて先生の略歴を記し、吟声練習の用に供するものであります。
菅原先生は、文政八年六月一日村山市大字湯沢の頓証寺に生まれ、幼名を数馬又は徳言、長じて萬蔵と改め、雅号を遯黒犬子霜瓦堂主人と称しました。幼にして神童と呼ばれ、十三才の時谷地の菊地槃山先生の死に逢い、祖父泰心の許しを得て江戸に遊学し、和漢の学を研究されました。数年後更に京都に遊学し、主として仏典を究め、更に九州の広瀬淡窓の門に学ばれたということであります。
吟声は淡窓塾で朗吟されたものに、先生独自の抑揚を加えたものであります。これを先生帰郷後自ら塾を開き、塾生や郷党の者に教えられたものであります。
先生は長瀞の寒河江市隠、貫津の本沢竹雲とともに、村山地方の三儒者と称されましたが、明治維新に当り大いに時勢に感ずる処あり、自ら廃仏棄釈を断行し、神官となり、後に権大教正に任ぜられました。部落の鎮守白山神社の創建を始め、新暦の採用励行等、率先新生活運動を多くの塾生並びに郷党の指導に努力されたのであります。
先生は明治二十八年、七十一才にして世を去られました。
昭和四三年四月二七日(白山神社春祭の日)
湯沢吟声保存会長 佐藤八郎
ちょっと長くなったが、古歌九首を除いて全文を載せた。保存会が発足して三十年今も歌い継がれている。
「君が代」とともに「天つ神」が二番というか、対の歌として扱われているが、いづれにしても源流は九州にあることは、確かなようだ。そして江戸末期の九州で吟じられていた。
『「君が代」は九州王朝の賛歌』によると、志賀海神社のお祭りで歌われているというが淡窓塾が九州の何処にあったかも分からない小生にとっては、その関係はたどりようもない。
また、「天つ神」を二番としたのも、譜面に(二)と記されていたまでのことで、いつかの時に別
系統のものがまぎれ込んだものか。
新年早々、とんでもないお年玉を貰ったものだ。広く紹介して荷を軽くしようと、取り急ぎまとめてみた。
(古田史学の会・仙台会報第2集より転載)
【編集部】
古田先生の調査によると、「天つ神」の歌は御宇多天皇(一二六七〜一三二四)の御製であることが判明した。また、明治十四年に文部省音楽取調掛から出版された小学唱歌集に「君が代」と題する編があり、歌詞が二番まである。山田孝雄著『君が代の歴史』によれば次の通
りである。
第二十三 君が代
一
君が代は ちよにやちよに
さヾれいしの 巖となりて
こけのむすまで うごきなく
常盤かきはに かぎりもあらじ
二
きみがよは 千尋の底の
さヾれいしの 鵜のゐる磯と
あらわるヽまで かぎりなき
みよの榮を ほぎたてまつる
古田史学の会代表 水野孝夫
代表の水野です。本日は会員総会にご出席いただき有難うございます。
昨九七年度の活動を総括致しますと、会費収入は前九六年度に比べて全く同額であした。最長老の広岡さんを失うなど、会員の減少もありました。日本全体では経済は不振ですが、黒塚古墳公開時の盛況や、古田武彦氏の著書の好成績などからみると、古代史に興味をもつひとびと……つまり会員予備軍は増加しているわけです。会員の増加に向けてご協力賜りたいと存じます。
さて、昨年度の事業実績については、後に事務局長から報告がありますが、計画に従って進めて参りました。但し残念ながら出版関係は遅れ気味であります。会員論集「古代に真実を求めて第2集」については、第1集のようなワープロ出版ではなく、市販に耐える本の形で、明石書店から発行の予定のところ、約1年間遅れました。第一の原因は、窓口となっていた明石書店の担当者が退社されて、引き継ぎがうまくなされなかったことですが、明石書店としては、古田先生の本を発行し、『古代史の未来』は好調で、成功だったわけです。
ワープロ印刷の自費出版でも良いじゃないかとのご意見があるかと思いますが、店頭販売された本は会員を増加させるキッカケとなる効果が大きいわけで、もうすこしお待ちいただきたいと思います。古田武彦氏を支持する他の協賛団体との共同で発行しております「新・古代学」につきましては、第1、2集の編集を多元的古代研究会・関東が行われた後、第3集から当会が編集にあたることになりました。この方も、協賛団体の一部(多元的古代研究会・関西)が脱退される騒ぎや、発行元である新泉社の経営問題があり、遅れていまして、本日の総会開催に間に合わない状況です。さて結果
として昨九七年度のお約束としておりました会員論集が年度内に発行できず、その分のお金は残っておりますが、九八年度からは賛助会員制度を導入したため、会員論集第2号を九八年度全会員に無料配布しますと、賛助会員・一般会員の差がなくなってしまい、九七年度会員に無料配布しますと、会全体としての会員論集発行などの運営が1年ずつずれることになってしまうという矛盾に悩むことになりました。このため九七年度会員に対して会員論集ではない別の印刷物を配布する案を提案したい。その印刷物としては古田氏の講演録など諸種の案を考えておりますので、後ほどご審議、あるいは御提案いただきたいと考えます。
他に横田さんのご努力によりインターネットにホームページを開くことができました。最近では仙台の会や会員不二井さんも同様に開かれたと伺っております。古田武彦氏もパソコンを入手され、インターネットを通して世界に発信したいとの意向をうかがっております。ベティー・メガーズさんのお部屋の写真というのを拝見しましたが、パソコン端末らしい機器が見えます。これで通信すれば瞬時に情報を交換できるわけで、情報化時代における会のありかたも考えてゆくべきテーマであります。会員のみなさまにおかれましては、今後とも一層のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
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九七年度事業報告
(1)「古田史学会報」6回発行(古賀達也)
(2)『古代に真実を求めて』2集
編集(吉森政博)
(3)『新・古代学』3集 編集(水野孝夫)
(4)古田武彦講演会(大阪) 1回開催
(5)インターネット・ホームページ
「新・古代学の扉」 担当(横田幸男)
(6)書籍・ビデオ贈呈
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九七〜九八年度役員
全国世話人
吉森政博(札幌市) 佐々木広堂(仙台市) 青田勝彦(原町市) 宮林勇一(相模原市) 上城誠(静岡市)
林俊彦(名古屋市) 古賀達也(京都市) 水野孝夫(奈良市)山崎仁礼男(香芝市) 前田博司(下関市)
役員
代 表 水野孝夫
副代表 山崎仁礼男(会計兼務)
事務局長 古賀達也
会計監査 太田斉二郎
□ 事務局だより □□□□□
▽福岡県八女市の松延さんより情報が寄せられた。会報前号の浅野稿に関連して、九州王朝の末裔、稲員家の家紋は元々は菊の紋だったとのこと。稲員家文書『家勤記得集』に、「稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むる由なり。」とある。「君が代」だけでなく、菊の紋まで九州王朝に淵源があった可能性が出てきた。
▽王維の詩に白村江の戦いが読み込まれていた。古田先生の新発見だ。このテーマを発表された先生の講演録を冊子にして九七年度会員へ進呈する計画を検討中。御期待下さい。
▽九八年度賛助会員には、会員論集2集を進呈します。現在再校正作業中。もうしばらくお待ち下さい。
▽本年度は会員拡大と地域組織の結成に力を注ぎたい。皆様の御協力をお願いします。地域の世話役をしていただける方がおられましたら、事務局まで御一報下さい。
▽先日、古田先生は信州・東京・北海道・青森・秋田と調査講演旅行をされ、各地で大歓迎を受けられた。お元気で何よりだ。
インターネット事務局注記(2001.5.1)
1. 古田史学の会1996年度会計報告、97年度予算案の印刷物は略。
2. 講演会案内、例会案内、会費納入のお願いも略。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
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