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古代津軽の稲作について 冬の夜の回想

古田史学会報
1997年 8月15日 No.27

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古 代 津 軽 の 稲 作 に つ い て

藤崎町 藤本光幸

 平成十年(一九九八)六月二十日の陸奥新報紙に一面 トップで「田舎館高樋遺跡の炭化米国内最古熱帯ジャポニカ、静岡大学の佐藤助教授DNA分析で判明」の見出しで、津軽に於ける稲作について発表されている。これは田舎館村で発掘された弥生時代の高樋1遺跡、同3遺跡から出土した炭化米の中に、水稲よりも原始的な環境で生育するとされる熱帯ジャポニカに属する籾が含まれていることが、DNA分析の結果 判明したのである。そして佐藤助教授は「縄文時代にも稲作が行われていた可能性を高める有力な証拠となる」と話しているのである。更に同記事に熱帯ジャポニカは、焼き畑や湿地など水田より粗雑な環境での生育に適しており、肥料の普及や水田整備の発達などに伴い、平安時代以降、水田栽培される温帯ジャポニカに淘汰されていったとみられると続いている。
 この事は熱帯ジャポニカ米は陸稲で、水田跡が見つかっていない縄文時代の稲作を考えるヒントになると思われるのである。
 国内では八戸市の風張1遺跡から縄文時代晩期にあたる三千年ほど前の炭化米が見つかっているが、水田跡は見つかっていない。このため縄文時代の稲作については、考古学関係者を中心に疑問視する声が強いが、佐藤助教授は「今回、弥生時代に水田を必要としない陸稲が見つかったことで水田跡がないために否定されてきた縄文時代の稲作を考え直す余地が出てきた」と話しているのである。
 所が縄文時代に既に陸稲がつがる田舎館で栽培されていた事を記載発表した文書が存在するのである。『和田家文書』である。
 『和田家文書』によると、つがるに一番最初に稲作を伝えたのは、支那での戦乱に敗れた晋の群公子一族である。群公子一族は故地に乱が起こり、追手が届かぬ様にと海に難を逃れ、西海(日本海)を北に漂流し、最後に着いた所は七里長浜の上磯郷(宇澗浜とする資料もある)であるとされている。
 大船七艘(八艘とする資料もある)で乗員数は男女共で三百六十八人であると記されている。そのうち二艘は下北半島の宇曽利山麓浜、5艘は岩木川本流で船を捨てたとされている。
 晋国から来た人々は農耕の人々であり、住居を葦原に作って定住したので、それ以前らのつがるの先住民である阿曽部族や津保化族の人々とも騒動を起こすことなく住分けて定住したとされている。
 丁度この頃、倭国から安日彦、長髄彦を長とする耶摩堆の阿毎一族が落着し、晋民はこれ等の人々と併合して大葦原に稲作を開き王国再興を達成したとされている。
つがるの語部に伝承される故事によれば、稲作の行われた地所はカムイ丘、三輪郷、稲架郷、栗石郷、秋田米代であったと記が遺っている。しかも拓田した人々はホコネと称す稲種を陸稲として畑に、イガトウと称す稲種を水田に植えしめて稲作を盛んにし、陸稲、水稲は同じ時期に伝搬したが、地所によって陸稲と水稲は適地に植えられ、三年を定着した時に稲作は広く地民にも渉って、耕作田地は何れも稔り、豊かだったと伝えている。しかもそれは今から二千五百年ほど前(縄文晩期)の故事であると記されている。
 この時、伝搬した稲種はホコネと云う陸稲とイガトウと云う水稲の二種類の稲種で、それは今回田舎館(稲架郷)での炭化米のDNA分析の結果判明した佐藤助教授の話と全く一致する記述である。
 しかも、稲作を稔らせた技術は倭国から伝えられたものではなく漂着した晋民に依るもので、安倍氏の古歌に次の様に残っている。

稲種を カムイの丘に 年こそと
  祈らむ人の 稲田拓けむ
 旅ゆきて 東日流を問はば 稲架郷と
  巖木根のもと 黄金浪立

 最後に『和田家文書』について偽書説を主張する人々は、和田氏が新聞記事やマスメディアの興味ある事項を参考にして、今なほ偽書を執筆記述していると主張するが、今回紹介した“つがるの稲作”については「奥州風土記」「丑寅日本記」「丑寅日本雑記」に記載されて居る事柄で、これは平成四年(一九九二)八月に既に発表されている事項なのであり、これに依っても和田氏が作った事ではなしに、むしろ今年になって記述されて居った事柄が科学的に証明された事になるのでなかろうか。


古田史学の会・仙台会報 (第二集九八年二月)より転載

冬の夜の回想

古田史学の会・仙台 前田準

 今冬一番の大雪となった。明日一月十七日の例会案内と共に古田史学会報23号を手にしてから既に一週間が過ぎた。あれやこれやで勉強もままならず、今夜となって慌てふためく始末だ。頭の中ではあれこれとそれなりに整理した理屈もあるつもりでも、いざ書くとなると難業だ。それでも恥をしのんで書くのは、ただ一つ、私ごとき愚者にでも暖かく迎えてくれる古田史学会仙台が大きく成長して欲しいからに他ならない。
 今、古賀氏の調査資料<東奥日報の記事>を前にして、昭和24年の意味を回想してみた。一連の和田家資料の発端ともなるべきもの(三郡誌落下を除く。なぜならその経過が世に知られたのは後年だから)が、湧出したのが昭和24年であるとせば昭和25年春ごろには、当時高校生である私の耳に噂として入っていたとしても不思議でないことに納得できた。
 昭和25年春、私は、五農高飯詰朝日山演習林での実習からの帰途、村人の某が山中から<金の仏像>をほりだし、どうも、朝日山にも<宝物>があるらしい、との噂を耳にした。これに関連し友達等との語り合いの中で朝日山について、南朝方藤原某が高楯城を築き朝日氏と名乗ることに由来すると言う知識も得ることが出来た。又しばらくして、この年掘られたものが、<ニセ物>であるとの噂も耳にしている。昭和二八年離郷したので、その後は知らないが、<東日流外三郡誌>が世にでるに及んで、ヤレ宝探しだ、ニセモノだとかの論が真剣にとりざたされたのには驚かざるを得なかった。<タマネギ論>や<増殖論>果ては<四〇年代偽作論>、<灯火青年まぼろし>と、指が足りない位の論説がみられるが、どうも、その寄るべきもの、即ち根拠たるや、大泉寺文書と外三郡誌が同一筆跡で昭和二〇年以降、和田喜八郎に依り偽作されたとする地元鑑定人の誤鑑定によるものだけと思われて仕方がないのだ。 考えるまでもなく、昭和24年、和田喜八郎二一才。 二一才=大泉寺=三郡誌=現在、これを満たすには最低二一才と現在の自筆が必要であろうであろう。津軽がいかに田舎だとて、敗戦の傷跡いまだ癒されず、とてものんびりと本を漁り、筆に親しむなど出来るものでない。まして、形はどうであれ和尚をたぶらかし、郷土史家をたぶらかす程のものを二一才が可能か否か。この問題を抜きにして偽作説は一歩も進めないだろう。
 かつて、発掘時、地元に流布されささやかれた、京都のさる某氏による偽作説がまだましだ。なぜなら、書き写しが出来るからだ。百の仮設よりも、真作(偽にたいしての)説に立つとき二一才はあくまで二一才なのだ。理屈はあるためのあるのだからあるのだろうが、凡人に理解できる理屈が一番だ。偽作説を成立させるためにはどうしても神童論や天才論が不可欠になるようだ。手元の年表や辞典をみればすぐわかるような文体や語彙、語法等の解説のみにより偽作と断じ、果ては、美文だ悪文だと騒ぎ、よってきたるべきことを少しも考究せぬ輩のなんと多いことか。中には、三春藩主が飯詰に隠居したなどと造文までした者も見受けられた。とは言うものの何としても待たれるのが全資料の公開であることはもちろんである。
 いま、目の前ある、古田先生が実証された<祖国よ栄えあれ>と読める文字と、今年の年賀状の追伸を見比べ、冬の夜の回想の中、偽作説崩壊の音を聴く。
 他人の論に依る限り引き廻されると知りつつ引き廻される自分の性が口惜しく、思い切り良く縁を切りたいと思いながら求めゆく性が又愛しい。
(1998・1・16)
<編集部>本稿は「古田史学の会・仙台会報2集」(九八年二月二八日発行)より転載させていただきました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
  新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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