『新撰姓氏録』の証言 三宅利喜男(古田史学会報29号)へ
九州王朝と「旧撰姓氏録」 芭蕉自筆『奥の細道』を見る
古田史学会報 1998年12月1日 No.29
『新撰姓氏録 』史料批判の新視点
京都市 古賀達也
弘仁六年(八一五)、桓武天皇の第五皇子万多親王等により編纂された『新撰姓氏録』は、当時、左右両京や畿内諸国に居住していた氏族の系統、氏名の由来、賜氏姓の時期などを記した書物である。同書に収録された氏族は一一八二氏にのぼり、古代氏族や古代史の研究には欠かせない。
『新撰姓氏録』については佐伯有清氏の研究(『新撰姓氏録の研究』)が著名だが、本会関西例会(本年十月)において、三宅利喜男氏より画期的な研究報告がなされた(本号に掲載、「『新撰姓氏録』の証言」)。氏は『姓氏録』の皇別
において、歴代天皇を祖先とする氏族の数を天皇別に集計され、その結果、仁徳から武烈の十代の天皇を祖先とする氏族が皆無であることを示された。従来、いわゆる「倭の五王」に比定されてきた天皇を含む十代の天皇が祖先として「敬遠」されている史料事実の重要姓を指摘されたのである。そして、その理由として、『日本書紀』に記されたこれら十代の天皇は『日本書紀』編纂時の盗作か造作であり、実在しなかったため、このことを知っていた畿内の氏族はこれらの天皇を祖先としなかった、というものだ。
この「十代の空白(氏族ゼロ)」について、私なりに考察したところ次のような仮説を得た。それは『新撰姓氏録』に先行する九州王朝による「旧撰姓氏録」の存在という仮説である。以下、理由を簡潔に述べる。
1. 「新撰」と称するからには「旧撰」があったと考えられること。そして、「旧撰」の存在が「六国史」などに見えないことから、それは九州王朝で編纂されたものと考えられること。
2. 『新撰姓氏録』は「旧撰姓氏録」を基礎史料の一つとして編纂されたため、歴代九州王朝の倭王を祖先とする氏族の系譜は、『日本書紀』に基づいて歴代大和朝廷の天皇に書き改められたと考える。
3. そして九州王朝による「旧撰姓氏録」が編纂されたのは、倭の五王(九州王朝)の時代であったと考えれば、編纂時の倭王を祖先とする氏族が皆無であることが説明できる。従って、継体以後は「旧撰姓氏録」からではなく近畿天皇系列の氏族となろう。継体は大和王権を簒奪した天皇であることも、この現象と無関係ではあるまい。 (注1)
4. 高良玉垂命が筑後の水沼に遷都した歴代倭王(四〜六世紀頃)であったことを本会報にて報告してきたところだが、おそらく「旧撰姓氏録」編纂の動機が、九州王朝王都の筑前太宰府から筑後水沼への遷都に関係したものであろう。たとえば、『新撰姓氏録』編纂時期も桓武天皇による平安遷都後間もなくであることも偶然とは思われない(注2)。
5. 遷都とは一人倭王のみが移動するのではなく、官僚組織・技術者集団・軍隊・寺社集団、そしてそれらの家族や一族の大移動を伴う。そうした移動に伴って、新旧『姓氏録』編纂の必要姓が生じたものではあるまいか。
以上、私の仮説の概要であるが、『新撰姓氏録』が「旧撰姓氏録」に基づき、それを近畿天皇に改変して成立したとする本仮説が正しければ、『新撰姓氏録』の史料批判により、九州王朝史の復原と時間軸の設定に利用できる。例えば、三宅稿でも指摘されているように、孝元を祖とする氏族が他の天皇よりずば抜けて多い(一〇八氏族)。この現象を古田氏は、「天孫降臨」の時期が皇暦で孝元天皇の時代(前二一四〜前一五八)に相当し、孝元とされている各氏族の祖はニニギのことではないかとされた。わたしもこの古田氏の見解に賛成であり、更には九州一円を統一した倭王マエツキミの時代も特定できるかもしれない。
このように、三宅氏が提起した『新撰姓氏録』史料批判の新視点は、九州王朝史復原への画期をなすものである。会員諸氏による更なる『姓氏録』論争が期待される。>
〔注〕(1)『日本書紀』継体紀によれば、継体は応神六世の子孫となっている。武烈以前の系統を簒奪して継体は皇位 についたのだが、継体紀の記述により、大義名分上応神につながるのである。従って、仁徳から武烈までの系統は継体により滅ぼされた側になるため、この十代の天皇を始祖とすることははばかられたのではあるまいか。『新撰姓氏録』を編纂した時代の天皇家は当然、継体の末裔であるから、当時の氏族にとって、歴代のどの天皇の子孫とするかは極めて現実的・政治的問題であったことを疑えない。「十代の空白」はこうした近畿天皇家側の「歴史事実」をも反映していると思われるが、断案には至っていない。
〔注〕(2)
『新撰姓氏録』は、延暦十八年(七九九)十二月、各氏族に「本系帳」の提出を命じた勅にもとづいて提出された諸氏族の本系帳を整理編纂したものとされている(『日本後紀』延暦十八年十二月条)。従って、七九四年の平安京遷都直後から編纂事業が開始されたことになる。
ちなみに、九州王朝の筑後遷都は仁徳五七年(三六九)とされる(『吉山旧記』)。拙稿、「玉垂命と九州王朝の都」会報二四号を参照されたい。
古田武彦著 『失われた日本 』のすすめ
山田化学労組月刊誌『スクラム』二三九号(一九九八年三月)より転載
京都市 古賀達也
御所の樹々も日一日と春めいてきた。この季節になると思い起こす句がある。
行く春を近江の人とおしみけり
言わずと知れた芭蕉の名句だ。この句が発表された当初、いろいろとケチがつけられた。別
に「近江」の人でなくても、「丹後」でもどこでもよいではないか、というものだ。それに対して、芭蕉の弟子、向井去来は次のように反論している。琵琶湖の湖面
に朦朧としている春霞の風情を惜しむ、という情景がこの句には込められているので、「近江」以外では平凡な句に終ってしまう、と。こうした去来の見解を聞いた芭蕉は「あなたは共に風雅を語ることができる人だ」と賞賛した(『去来抄』岩波文庫)。芭蕉はまことに良き弟子を得たものである。
いきなり芭蕉の俳句を持ち出したのにはちょっとばかり理由がある。一昨年の秋、日本文学史上今世紀最大の発見と言われた『奥の細道』芭蕉自筆本発見がNHKによりスクープされた。発見地は芦屋市だ。阪神大震災の倒壊から難を免れた『奥の細道』芭蕉自筆本を再び災害で焼失しないうちにと、所蔵者が公表に踏み切ったのだ。芭蕉研究の第一人者櫻井武次郎氏(神戸親和女子大学教授)らが本物と鑑定したため、同本は国宝級で時価十億円は下らないと噂され、「憶の細道」と揶揄されたほどだった。
ところが、昨年になって「テレビ何でも鑑定団」で著名な増田孝氏(書家)が筆跡鑑定の結果
まっかな偽物と発表したため、マスコミを巻き込んでの大論争となった。そうした騒ぎに私の恩師古田武彦先生(親鸞研究家)が興味を持たれたため、調査のお供をすることとなったのだが、まず実物を見なくては話にならない。しかし、国宝級とされる古文書のため、簡単には見られない。昨年十一月、津市の県立美術館で一般
公開された時にも古田先生と見に行ったが、一頁目が開かれた状態でガラスケースの中に展示してあるため、手に取って見ることはできない。それでもガラス越しに一時間近くにらみ続けた。ところが、今年の二月になって先の櫻井教授の御紹介により、ようやく『奥の細道』の実物を全頁見ることができた(所蔵者中尾堅一郎氏のご好意による)。将来、国宝に指定されること疑いない「芭蕉自筆本」をこれだけ見ることができるのは最初で最後だろうと思いながら感激にひたり、見て見て見抜いた(ガードマン立会いで)。
そうして見抜いた結果、同本は増田氏の言うような偽物ではなく、芭蕉の指紋が付いた貴重な推敲書写本であるとの結論に至った。このような生涯に一度の経験をしたこともあって、以来、芭蕉研究にまでのめりこんでしまった。そうすると今まで知らなかったことがいろいろと判ってきた。例えば次のような句がある。
下京や雪つむ上の夜の雨
この句は芭蕉の弟子凡兆が、下の十二字「雪つむ上の夜の雨」を作ったが、初めの五字がどうしてもできないので芭蕉に補ってもらったものだ。芭蕉も散々苦心したあげく、「下京や」をひねりだした。そして弟子らにこう言った。「『下京や』よりも良い五字があったら私は二度と俳句を語らない」と。これにはさすがの去来も困った。たしかに「下京や」はいい句だが、これ以上良いものはないと言うのはオーバーではないかと、芭蕉先生の意見に疑問を隠さない。「行く春を〜」の時には芭蕉の芸術を理解した去来だったが、「下京や」についてはついに理解できなかった。
芭蕉門下の筆頭で、京都(嵯峨野・落柿舎)に住む去来でも「下京や」の持つ意味を理解できなかったのだが、芭蕉晩年の弟子、許六は理解した。許六は「下京やの五字には芭蕉先生の例の血脉が込められている」と言い放ったのだ(『許六・去来 俳諧問答』岩波文庫)。しかしその許六にしても具体的には何も解説していないため、今日に至っても「下京や」の意味は謎とされてきた。なぜ下京なのか。上京や中京では駄
目なのか。この秘密を知りたい人は古田武彦著『失われた日本』(原書房)を一読されたい。『奥の細道』真贋論争に興味のある人は『新・古代学』3集(新泉社)を読んでいただきたいと思う。新しい芭蕉の世界が見えて来るだろう。
行く春を近江の人とおしみけり。
芭蕉の句は、今年も春闘交渉でささくれだった私の心を和ませてくれる。
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会報二九号の訂正とお詫び
4頁二段六行目
『東本願寺所蔵で国宝の“教行信証”を親鸞自筆と鑑定された』を削除。 この部分は古田先生の業績を説明するにあたり正確ではありませんでした。(『親鸞思想』参照)
以上、訂正いたし、お詫び申し上げます。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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