りっt古田史学会報
2001年10月 5日 No.46
古田史学会報四十六号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る 古賀達也
靖国参拝の本質 古田武彦
熊本市 平野雅曠<
「とうとうたらり‥‥」
「何だ、ガマの油か」
「違うよ、もっと上品な“謡曲”なんだ。謡曲“翁”に残っている“神歌”よ。」
「へェー、あんたが謡曲やろうとは知らなかったな。」
「いや、わしゃ演るこつあできんが、この文句が実はすごいんだ。」
「あの新庄智恵子さんなら解かるだろうな。」
「さあ、どうだか。これまで国語学の先生にも説明できぬとされてきたんだからね。」
「じゃあ君、説明してくれよ。」
(原文)
とうとう たらり たらりら。
たらり あがりら らりとう。
ちりや たらり たらりら。
たらり あがりら らりとう。
ところ 千代まで おはしませ。
(訳)
上に上に上に まっすぐに。
上にあがる まっすぐ 上に。
上に上に上に まっすぐに。
上にあがる まっすぐに 上に。
そこで千年も いらっしゃい。
つまり、翁が大往生して、天に昇るのを歌ったものであるが、言語学者の安田徳太郎博士が、レプチャ語で解読されたものである。以下、レプチャ語について少し述べてみたい。
インドのネパールとブータンの間、シッキム氷河をいただく東ヒマラヤの谷底に、レプチャという弱小民族が住んでいる。彼等は自分たちを“ロン”(谷間の人)と呼んでいるが、チベット人は昔から彼等を“モン”と呼んでいた。
一方、ネパール人は、この“ロン”が大変汚い言葉をしゃべっているので、彼等を軽視して、“レプ(汚い)チャ(言葉)”と呼んだため、これがいつの間にか彼等の名前になってしまった。
ところが、汚い言葉というのは、実は非常に古い言葉という意味であって、レプチャ人の言葉は、今日のヒマラヤ語と違った独特のものであり、恐らく、東ヒマラヤの交通不便な谷底に、一番古いヒマラヤ語がそのまま保存されて、今日まで残ったものであろう。
一九〇一年(明治三十四年)の、ベンガル州の人口調査で、レプチャ人の総人口は、一九,二九一人だから、今日ではずっと減っているかもしれない。亡びゆく民族なのかもしれぬ。
しかし、そのレプチャ族が、紀元前二世紀頃に群をなして、ベンガル湾からビルマやインド支那半島、安南・広東などを経て、更に黒潮に乗って日本列島へ移り住み、れっきとした日本人として集落を作り、稲作を営み、果木を植え、『古事記』や万葉集などの古代文化を残していることは、独自のヒマラヤ語が此事を証言しているとは、驚くほかはない。(安田徳太郎氏の著作による。)
ヒマラヤの少数民族が、谷底から日本列島へ移住して、思いが叶い香花を開かせたと言うべく、各地域に遺された方言は、今や貴重な日本語の宝石として、採取、保存すべき大きな価値を知るべきではあるまいか。
◇◇ 連載小説 『 彩 神 (カリスマ) 』 第 九 話◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
螺鈿の女(1)
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美
【今までの概略】
冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ツ児の島(現隠岐)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに 現壱岐・対馬)に漂着、その子孫は韓(から)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(あとら)は天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。対岸に栄える出雲の王子八千矛は、因幡の八上(やがみ)との間に息子木俣(くのまた)を設けていたが、蛮族に迫害され、母子は縁続きの木の国(現福岡県基山付近)へ逃れる。
***********
空からの細い銀糸が白木の手摺(てすり)を濡らし、池を波立たせていた。小さな輪が幾つも浮いては消える池のほとりには、水色の紫陽花(アジサイ)が柔かな滴りにも耐えかねるように項垂れている。
一匹のカエルが、萼(うてな)を伝わって花に潜り込んだ。そして、黒い澄んだ目だけを覗かせて、心配そうに雨の行方を追っている。カエルは雨の使者(つかい)であり、どんなに晴れていても彼らが鳴くと雲が集まって来て大地を潤すという。農民達はカエルを水神の一種と崇(あが)め、田畑の隅に小さな祠を築いてもいた。だが、花蔭でひたすら雨の通過を待っている小ガエルの様子は、神霊などという厳(おごそ)かな概念には程遠い。冒険心の赴(おもむ)くまま、親に無断で出て来てしまったのか? 早くやんでおくれ、終っておくれ─
(僕と同じだね……)
木俣は、小ガエルに物憂げな視線を当てた。
館の奥からは、
∬白米蒸して竈(かまど)にかけよ小豆をといで蜜を煮て
愛(いと)し内儀(かみ 神)さんに捧げよう……
賑(にぎや)かな囃子(はやし)に混じり、臼(うす)や杵(きね)の音が響いて来る。年越しの祝宴の為、歌の通り、神前に供える餅菓子を拵えているのだ。
「木俣、どこにいるの?」
「皇子(みこ)様ーー」
彼を捜す母の八上や侍女達の声もする。
捜したければ、勝手に捜せ。誰が出席してやるものか。宴(うたげ)では嫌でも、母とここの主人の大屋彦が上座に並ぶのを見ねばならない。大屋彦の青磁の皿に料理をよそい、酌をしてやる母の左の薬指には、大屋彦の贈った珍しい石榴石(ざくろいし ガーネット)が深く透明な臙脂(えんじ)の光を放っているだろう。あんな物に魅せられて、母は後宮に納まったのか……?因幡(現鳥取県東部)でも贅沢は許されていた筈なのに……
(父上ーー!)
滴が衿足に落ちたように、木俣は身震いした。
「あら、こんな所にいたわ。」
甲高い声が頭上に降って来た。
「何て格好しているの? 足までびしょ濡れになっちゃって……」
ほっそりした手が木俣の腕をつかみ、乾いた布で頭髪や首筋、頬や背中を遠慮なく拭う。
「触るな、あっちへ行け!」
木俣は邪険に振り払った。小裂(こぎれ)は池に叩き落とされ、泥水が裳裾(もすそ)の一面にはね返る。
「ひどいわ、せっかく人が親切にしてあげているのに─」
相手は館中に響きそうな声で泣き出し、
「どうしたの、五月(さつき)?!」
驚いて現れた八上らに、
「木俣が虐めたのよ、あっちへ行けと私を突き飛ばして……私、この衣服(きもの)、大好きだったのに、もう着られないわ…!」
汚点(しみ)の滲んだ紅いの裳裾(もすそ)を広げてみせ、地団駄(じだんだ)踏まんばかりに訴えた。
「濡れた物を着ているのは、体に毒です。すぐにお着替えなさい。」
八上が娘を労り、侍女達に指図している間も、木俣は地辺にしゃがんだきり振り向こうともしない。だが、
「お兄様、大王(おおきみ)がお召しよ。」
紫陽花の蔭から、もう一人の乙女がためらいがちに呼ぶと、
「よし──」
頷(うなず)いて立ち上がった。
「待って。その前に、足をきれいにして下さいな。」
乙女は池に落ちた小裂を拾って固く絞り、
「床を汚すと、大王に叱られますわ。」
と、木俣の膝や踝(くるぶし)にこびり付いた泥を丁寧に落としてやった。
「まあ、滾(だぎつ)にあんな事をさせて……。」
八上が呆れ、
「私の手巾(てふき)を雑巾代りにするだなんて……!」
娘は血の出る程唇をかんだが、木俣は乙女を伴い、大股に中へ入って行ってしまった。
五月(さつき)と滾(だぎつ)はいずれも、天国の女王(ひめおおきみ)天照(あまてる)の娘である。二人の上には母の後を継いだ豊秋津と、八千矛に嫁いだ多紀理がいた。次女の結婚が、八千矛に国家の保護を仰ぐという多分に政治的な要素を備えていたように、妹二人も似たような理由で木の国の大王の養女となったのである。それより先、子のない大屋彦は、三朝(みささ)一族の迫害を逃れて来た八上を正妃に迎え入れていた。初め、大屋彦は八千矛が迎えに来るまで母子の庇護者となる積もりだったのだが、二年たち、三年過ぎても八千矛は現れず、遠方の状勢は伝わり難く、例え耳に入っても歪曲や誤報は日常茶飯事だった。八上が八千矛の間に設けた木俣も元服すべき年令(とし)になり、このままでは母として息子に申し訳がないと八上の不安が募って来た為、大屋彦は思い切って彼女を正式に娶り、木俣を後継者(あとつぎ)に決定したのである。
だが、子の為良かれと思った行為は、木俣の反感を呼び起こした。木俣は、父が現れずとも成人したら大国(出雲)へ帰り、父の片腕として働きたいと望んでいた。そんな木俣にとって、母の再婚は裏切り以外の何物でもなかった。大屋彦がどんな誘惑の言葉を囁いたか知らないが、自分がいつ、木の国の王座を求めた?自分は八千矛の息子だ。栄光(はえ)ある出雲族の一員なのだ。こうしている間にも父が迎えに来たら、母は何と弁明(いいわけ)する積もりか……? 絆も誓いも幻よりはかないものだというのなら──構わぬ。自分も同じく、国の運命も人の心も小石のように弄(もてあそ)んでは捨ててやる。恨むなら、母を恨め。万事は母から出たのだから。
木俣の生活は荒(すさ)み出した。何をするでもなく一日自室(へや)に閉じ籠もっていたかと思うと、僅かな武具(もののぐ)を携えただけで表へ飛び出し、十日以上も帰らない事もあった。元々入浴を嫌がる性質(たち)だったが、最近では従者が無理矢理剥ぎ取ろうとしない限り着替えようともせず、木俣の身辺には何とも言い難い臭気が漂うようになって、
「大王も又、とんだ養子縁組をされたもんじゃ。」
「両国の名折れにならねば良いが……。」 農民達まで、彼を見ると眉をしかめだした。
八上には、木俣がなぜ、自分達を祝福してくれないのか判らなかった。八千矛には、自分達以外にも大勢の妻子がいる。大国に留まっていても、地位向上は覚束ない。だが、自分が大屋彦の後添いになれば、血は繋がらずとも木俣は一人息子として、将来を保証される。王となり、国を支配するのは男の夢ではないのか……?
〈続く〉
泉南郡 室伏志畔
本紙四五号の西村秀己の「天孫降臨の考察」は刮目すべき好論文であった。西村は天孫・瓊瓊杵尊は降臨時点においてはまだ乳飲み子であって、降臨の主体はその母・萬幡豊秋津媛命であり、その出発地はその豊秋津からして別府湾岸ではないかとした。そして豊国を中心とする比売神信仰は彼女を祭祀するものであり、それは香椎宮の女王に重なるとし、これまでの我々の認識を一変させた。
この論稿はそれに触発されて、西村が触れなかったその降臨時期を私なりに見定め、その王権性格を幻視するものだが、それについて言う前に少しく言わねばならない。
私は『伊勢神宮の向こう側』(三一書房刊)で、倭国の国父となった瓊瓊杵尊は、本来は母系の高皇産霊尊の天孫として謳われたが、倭国滅亡から新たな日本国(大和朝廷)の成立の中で天忍穂耳尊の父系系譜にねじられ、天照大神を顕彰するものとなったとした。その系譜はこうある。
高皇産霊尊―萬幡豊秋津媛命
‖ーーーー瓊瓊杵尊
天照大神ーー天忍穂耳命
今度の西村論文はこのねじれを裏書したのである。また『古事記』はその天孫について「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」と書いたが、古田武彦は「天津日高日子番能」をその職能を示すものとして、その役職を対馬の比田勝の海軍長官とした。私はそれをうべないつつも、その上にある「天邇岐志国邇岐志」を単なる美称として「アマニキシ、クニニキシ」としているのを不満とし、「アマのニキシのクニのニキシ」とすることによって、天は天国、邇は美称、岐は壱岐で、志こそが彼の本貫を示すものであるとした。つまり、その本貫は対馬ではなく壱岐の郷之浦町の現在の志原辺りに求めた。そこは一大国の跡地として高名な原ノ辻遺跡から二、三キロのところで、彼はそこのサラブレッドであったというわけだ。確かに壱岐には高皇産霊尊を祭祀する高御祖神社があり、天孫の本貫とするにふさわしい。
こうして私はその邇邇芸命を天照大神系から本来の高皇産霊尊系に奪回し、倭国の主神(大神)は日神である天照大神ではなく、月神である月読命こそがふさわしいとし、伊勢神宮が別宮四社の中に月読宮を祭祀し、天皇家は異変があるごとになぜ月読宮に慌てて奉弊したかについて触れ、その大和朝廷の神統譜は倭国の月読命を中心としたものを天照大神中心に書き換えたものとした。ところでその月読を祭祀する神社が壱岐にあるのはよく知られている。
その月読命の遷座地の変遷を、私は壱岐の月読神社(現在の地ではない)→糸島の高祖神社→太宰府の天満宮→筑後の高良大社とたどった。この私の幻視は、これまで天武の藤原宮造営の歌とされた「大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ」(巻十九―四二六一)の歌が筑後の三潴への遷宮の歌に奪回する古賀達也の論証によって、その初代・高良玉垂命の高良廟の横に月読神社を見出したことによって新たな裏付けを見た。
しかし西村はその月読命を祭祀する天孫の出発地を今度、豊国としたのである。とするとき壱岐の月読神社は本貫に設けられたものの、記紀史観に従って廃神毀社にあったように、豊国にあった月読神社は跡形もなく消え去ったとするほかない。
西村は宇佐神宮の比売神を囲むように配祀された神功皇后とその胎中天皇である応神は、萬幡豊秋津媛命と瓊瓊杵尊の付会と見ているのは鋭い。さて今度の問題はここに始まるのだが、天孫降臨の主体となった瓊瓊杵尊の母である萬幡豊秋津媛命である。紀本文に栲幡千千姫とあるその人は、一書では萬幡姫、記には萬幡豊秋津師比賣とある。その豊秋津に注目した西村は、それを国東半島のおなじみの安岐に求めたのは先に述べた。栲は「木の皮の繊維で織った綿布」で、はたやのぼりの幡に通じ、師は軍隊の指導者の意とし、栲幡千千姫を豊秋津にあった海人(天)族軍団の女将軍としたのである。
とするとき万葉集の「わたつみの豊旗雲に入り日さし、今夜の月夜さやけかりこそ」の豊旗雲を空に浮かぶ雲と見ず、海に雲集する海軍の豊旗と見るべきだと今度上梓する『万葉集の向こう側』(五月書房)で私が述べたのにそれははからずも重なっていく。
ところで私は西村が五月の例会で発表の際、萬幡は多くの幡で八幡に通じるから、宇佐神宮の大神にふさわしいと述べ、それを正体不明な比売神として隠したのは、月読命から天照大神への倭国から日本国へのねじれに由来すると意見を述べたが、それ以上を言うのをためらったが、いま言わねばなるらぬ。というのは、私は八幡神はやはたの神、つまり多くの秦氏の神と考えており、それを幾つも集めたというのは、栲幡千千姫の名に明らかである。そしてその秦王国が豊前にあったとする論証を大和岩雄や泊勝美の論があるのは周知のところである。とするとき萬幡豊秋津媛命の父・高皇産霊尊は秦氏の族長とするしかない。
この渡来人の秦氏を追って私はすでに韓半島に上陸する論を成し、秦氏の出身地を金官伽耶とする一方、漢氏を安羅伽耶出身者とした。というのは彼らの渡来は、動乱を事とした韓半島南端での高句麗・百済・新羅に追い詰められた伽耶(任那)の存亡に関わる。私は仁徳五五年の筑後遷宮は、この伽耶の王女が物部保連にお輿入れすることによって倭国の梃入れをはかったものに始まると先の本で述べた。
このことは、西村が倭国建国の主体を天孫の母・萬幡豊秋津媛命とし、その分析から私の秦氏とする幻視が正しいなら、私にとって長年ミッシング・リンクとなっていた壱岐において天孫と秦氏が図らずも重なったのである。つまり動乱の中、伽耶王を戴く秦氏は、伽耶から壱岐に至り一大国を形成し、そして壱岐から豊秋津を経て筑前へと天孫降臨し、倭国を建国したことがここに浮き彫りに成ったばかりではない。筑後遷宮の際に再び秦氏である血を貰い受けることによってその梃入れをはかったことが筑後遷宮において確認されたのである。それは倭国王からその傍流の大和朝廷の天皇に流れた血が何であったかをいうも同じである。
さて問題のもうひとつは天孫降臨の時期についてである。古田武彦は早くそれを「弥生前期末、中期初頭」としたが、天孫の血統を伽耶の秦氏とするとき、それでは余りに早すぎるのである。
伽耶の謎について申敬徹*は「金海で三世紀末以降、北方文化をもつ墓がそれ以前の墓を破壊しながら出現し」、また「五世紀前葉以前に支配者の墓が急に築造されなくなる」という二つの謎をあげている。私は伽耶の渡海はこの三世紀頃に始まったとするほかないのである。というのは、第三〇代敏達天皇の即位は五七〇年で、第四八代稱徳天皇崩御は七七〇年であるが、その十九代天皇の平均在位年代は10.34となり、大芝英雄は歴代天皇の推定換算式としてy=10.34×天皇代x+265.7を引き出している。この式で計算すると神武即位年代は265.7年となり、そこから二代先の瓊瓊杵尊の降臨時期は240年代となる。それは第一期の伽耶渡海の時期にあつらえたように重なる。とするとき先の式の誤差範囲を考慮に入れたとしても、そこから三〇代以上も溯るしかない古田武彦の「弥生前期末、中期初頭」に天孫降臨時期を置くのは古すぎるのではあるまいか。
私はむしろそこに漢籍の多くが指摘する「倭人は呉の太伯の後」とした春秋戦国の呉越の民の渡来を考え、越(高志)の成立もそれに関係あったとするものである。それは本会会員の平野雅曠が展開したところであり、私はそれを首肯しつつ天孫降臨は倭国の簒奪であり、南方王権の上に伽耶系統の北方王権が被さったグラフト(接木)国家説の立場を取っる。果たしてこの私の天孫降臨時期及びその王権の性格の推定について、会員諸氏の意見を切に私は聞きたいと思っている。
(H一三.八.二九)
インターネット事務局 2004.6.30
徹*は行人偏の代わりに三水偏
向日市 西村秀己
周知のごとく、大芝英雄氏は一九九〇年「市民の古代第十二集」に『九州の「難波津」発見』を発表以来、精力的に豊前難波津説を展開されている。この度漸くにして氏の論文に接する機会を得た。だが一読して驚かされたことは、意外にその論拠の脆弱なことだ。勿論仮説としてはこれで良いのだし、今後氏が論証を積み重ねていくことでその説を盤石なものとすればなんら問題はない。また、私としてもこのような仮説の提出は大いに歓迎するところである。だが問題は、氏の説が恰も既に定説化されたかの如く、氏の説を下敷きに新たな仮説を展開する論者が輩出する気配があることである。その動きは真の歴史学とはほど遠いものである。そこで浅学非才を省みず、氏の豊前難波津説を検証してみたい。
氏はその『九州の「難波津」発見』で、「『難波』の初見は『神武紀』である。」
とされながら、何故か神武紀には触れようとされず、安閑紀へと論証の道を向けられる。では、その神武紀には難波はどの様に描かれているのだろうか。
「乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國。(中略)戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東。舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以、名為浪速國。亦曰浪花。今謂難波訛也。三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河内國草香邑青雲白肩之津。」
この「難波之碕」は吉備より東にあり、その先に河内のある所である。この間にある國といえば播磨か淡路か摂津であり、淡路を南に迂回したとしても阿波か紀伊である。この五國の中で最も神武紀の記述に合う場所は、やはり摂津國の現在の上町台地北端であると考えざるを得ない。当時の上町台地は大阪湾と河内湖に挟まれその北部を淀川と大和川が合流して流れていた。河内全域、大和北半、摂津東北部、山城ほぼ全域、丹波南部そして近江全域に降る雨が全てここを通過していたのである。その流量たるや生半可な船では遡ることを許されないものだったに違いない。現に神功皇后摂政元年二月には、
「皇后之船、直指難波。于時、皇后之船、廻於海中、以不能進。」
とある程だ。従ってこの「難波之碕」が現在の上町台地北端に当たることは明白である。にもかかわらず、氏はこの条に言及しようとなさらない。この条の「難波之碕」をも豊前だとは強弁できなかった、としか私には思えないのだが如何だろうか。
そして、安閑紀に向かわれた氏は、
「安閑紀二年九月条、・・・別に大連に勅して曰く『牛を難波の大隅島と姫島の松原に放って、名を後の世に残さむ』とのたまふ。
この文言でいう『難波』を特定づけるものは、『大隅島と姫島』の二島の存在が必須条件であることが知れる。まず岩波大系本では、安閑紀頭注に大阪市内の現町名(大道町と姫島町)を当てるが、これは、島と見る根拠に乏しい。
私見では、この安閑紀の「難波」は、周防灘の九州湾岸(豊前)を比定するのが適切であろうと推察する。ここには記述より『象徴的な二島』が存在すると見るからである。」
とされ、先ず「姫島」を国東半島先端約五キロメートル沖の「姫島」に比定し、次に「大隅島」は関門海峡の企救半島の周防灘側に有りとされた。だが、この判断には相当無理があると、私には思われるのだが如何だろうか。
氏は、応神紀の「難波の大隅島」を「明宮」と同一とされ、この「明宮」は「軽島之明宮」だから「大隅宮」=「軽島」との三段論法を用いた上で、企救半島沖に「軽子島」を発見され、この「軽子島」の「前面陸地は三方を企救半島の山並みに囲まれた小平地」を「大隅島」とされるのである。この「大隅島」は勿論島ではない。だが、氏は「記伝」の
「島とは、必ずしも海の中ならねども周れる限りのある地をいう。」
という、単なる仮説を岩波大系本の頭注から引用し、『「島」の定義』とされる。先に大阪市内の現町名を「島と見る根拠に乏しい」とされたにもかかわらず、である。仮に百歩譲って「記伝」の仮説が正しいとしても、これは平地中の丘を指して言ったもので、「山並みに囲まれた小平地」つまり盆地のことではない。もし、氏の言うがごとく、盆地をも「島」とされるなら、日本国中、海といわず陸といわず何処にでも「島」をもってこれることになってしまう。これは失礼ながらあまりにも恣意的と言わざるを得ない。
こうして氏はこの「姫島」と「大隅島」に囲まれた全長約一〇〇キロメートルの豊前弧状海岸を「難波」とされるのだ。
論拠が間違っているのだから、これ以上検証しても仕方がないのだが、もうしばらく続けたい。
日本書紀に地名としての「難波」は七二回登場する。(検索ミスはご寛恕戴きたい)その全ての「難波」のイメージは精々が「郡」であり「國」の規模ではない。氏の言う「難波」が豊前弧状海岸であるとすれば、これは「國」の規模であり「郡」を逸脱している。次に氏は「難波宮」をもこの弧状海岸の中心部である福岡県行橋市周辺に求められようとする。だが、これは「京都郡」という言葉の魅力にあまりに引きずられてはいないだろうか。大阪市中央区の上町台地には、「難波宮」跡が前期・後期共に出土し、前期「難波宮」跡には天武紀に記載のある火災跡すら見られる。
(もっとも、火災跡があるから前期「難波宮」跡としたという方が正しいようなので、ここではこの遺跡群を根拠に「難波」摂津説に立つものではない)
ところが、氏のいう行橋市周辺では、現在のところ宮殿跡は一切発見されていない。更に、もしここに「難波宮」がかつて存在したとすれば、それは七世紀後半のことであり、記紀編纂の直前である。記紀編纂者は大和朝廷の権力の前に膝を屈したのかもしれない。だが、中臣祓気吹鈔の、
「豊前風土記にいう、 ーーー宮処の郡。むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天降った。おそらく天照大神の神京である。云云。」
は、全く説明できない。この風土記の執筆者が大和朝廷の力を懼れるなら、内容を景行紀に合わせればすむことなのだから。
「九州古代史の会 NEWS No. 九七」で氏は新たに『増補「九州の難波津」』を発表された。これは「同No. 九八」「同No. 九九」と連載中であり、私は「No.
九九」を未見なのでここでその内容について論じることは些か不適切であろうが、一部言及しておく。
氏は斉明紀五年の「伊吉博徳書」を引き、「難波三津の浦より発す」について、
「通説は当然、『摂津の難波津』とするが、それでは『三津』の意味が不明となる。」
とされ、仁徳紀・景行紀の「御綱柏」「葉済」「柏済」を、
「この三例は、いずれも広葉樹の先端三つ岐れ形状を難波の三つの入り江の当てた由来の古地名である。」
と論じた上で、
「『三津の浦』とは、文字通り三カ所の渡し場(津)がある地域。即ち、三河川の河口が一つの地域に集中したところ(浦)でなければならない。これが、地形から来た地名の普通名詞であるのは論をまたない。
この意味から、通説「摂津難波津」は、淀川の一川の一河口であり、『三津』の意味はない。これに対して『豊前の津』(現福岡県行橋市)は、『長狭川・今川・祓川』の三川の河口が海岸に集中している現実がある。こうして、ここには、当然、近接した三カ所の渡し場・港があっただろう。正に【三津之浦】に当たる。」
と、説く。だがしかし、氏のいうように「三津」が「地形から来た普通名詞」であるとするならば、実は「三津」だけがあるのは不自然なのである。当然「二津」や「四津」がなければならないが、日本書紀に登場する「数字+津」は「三津」しかない。また、例えば淀川上流の淀は「木津川・宇治川・桂川」三川合流地点であり、伏見を筆頭に各渡しがあったのだが「三津」とは呼ばれていない。 やはり、「三津」とは、「宮」が「御屋」であったり、「三諸山」が「御諸山」であるように、「御津」と解釈する方が無難なようである。すなわち、大王や天皇或いは天子の船の若しくは彼等に所属する船の専用港である。
また、氏は『通説は当然、「摂津の難波津」とするが、それでは「三津」の意味が不明となる。』とされるが、大阪市には「三津」の地名が現存する。大阪市中央区心斎橋筋二丁目の「三津寺」がこれである。
さて、先に述べたように日本書紀には、地名としての「難波」が七二回登場する。この内「難波」の位置をアバウトにでも特定できる記事が八回ある。
1) 神武即位前紀 ーーー乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國。(中略)戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東。舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以、名為浪速國。亦曰浪花。今謂難波訛也。三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河内國草香邑青雲白肩之津。
2) 応神紀 ーーー廿二年春三月甲申朔戊子、天皇幸難波、居於大隅宮。丁酉、登高臺而遠望。時妃兄媛侍之。望西以大歎。
3) 応神紀 ーーー秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海、在難波之西。
4) 仁徳即位前紀 ーーー時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、従難波馳之、到菟道宮。
5) 仁徳紀 ーーー元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊即天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。(中略)(十一年)冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海。因以號其水曰堀江。又将防北河之撈、以気築茨田堤。
6) 履中即位前紀 ーーー太子到河内國 埴生坂而醒之。顧望難波。
7) 推古十一年 ーーー夏四月壬申朔、更以來目皇子之兄當摩皇子、為征新羅将軍。秋七月辛丑朔癸卯、當摩皇子、自難波發船。丙午、當摩皇子到播磨。
8) 斉明元年 ーーー秋七月己巳朔己卯、於難波朝、饗北(北越)蝦夷九十九人、東(東陸奥)蝦夷九十五人。
1) は先述した。この難波の碕は明らかに摂津である。
2) は応神の妃であり吉備出身の兄媛が難波の大隅宮の高台でホームシックに罹り西を向いて涙する話で、この難波は少なくとも吉備より東に存在する。
3) は淡路が難波の西にあるという説明である。
4) は仁徳が弟の死を聞いて難波から宇治まで馬で駆け付ける話で、これによれば難波は宇治に騎行できる場所でなければならない。(豊前説はまたしても豊前に宇治を求める必要が生じる)
5) は難波高津宮の北に堀を造って、東の治水を図る説話で難波の西は海である。更に摂津・河内には堀江も茨田も現存する。
6) は河内國の埴生坂から難波が一望できる逸話である。
7) は新羅を伐つ為に、難波を出て播磨に着く話で、難波と新羅の間に播磨がある。
8) は越は難波の北にあることを表す。豊前から越はどう考えても東ではないだろうか。
以上、少なくとも「難波」を摂津の地名と見て間違いないケースを紹介した。では次に「難波」が絶対に豊前ではあり得ないケースを提示してみよう。
「敏達十四年三月 ーーー丙戌、物部弓削守屋大連、自詣於寺、踞坐胡床。斫倒其塔、縦火燔之。并焼佛像與佛殿。既而取所焼餘佛像、令棄難波堀江。」
これは物部の排仏運動の際、守屋が焼け残った仏像を難波の堀江に棄てさせた、という記事で、勿論これだけでは難波が何処のことなのかは解らない。
しかし、日本霊異記の上巻第五縁にこの事件を描いた説話がある。
「・・・弓削大連公、放火焼道場、将仏像流難波堀江。・・・速忽棄流乎豊国也。」
日本書紀で難波の堀江に仏像を棄てた守屋は、日本霊異記ではこれを豊国に流せと、言っているのである。通説ではこの豊国は韓国もしくは百済のこととされている。が、こんな馬鹿なことはない。日本国内の史料で何の説明も無く「豊国」とあればこれは大分県の「豊国」と解釈すべきである。さあ、もうお解りであろう。ここでは「難波」は「豊国」にはないのである。
さて、少なくとも日本書紀に登場する「難波」の内のいくつかは摂津のことと見て大過ないことが理解戴けたと考える。
私は『「難波」の内のいくつかは摂津』と述べた。そう、誤解して戴きたくはない。私は『全「難波」=摂津』論者ではない。難波は摂津以外にもあった可能性があると考えているのだ。
何故なら、「難波」は普通名詞であること。日本書紀に出てくる七二の「難波」に一度も「摂津」が冠されていない、という胡散臭さ。そしてその記事の半数以上が九州王朝記事の盗用であるとの印象を受ける孝徳紀の都が難波であったこと。などである。
だがこれらを論証する為には細心の注意と隙の無い論理が必要である。共に多元史観を歩む方々が、古田武彦出現以前の「邪馬台国」論者の愚を犯さない為にも本稿を書くべきだと思った次第である。ご理解賜らんことを。そして大芝英雄氏のご研究が更に深まることを祈念して、本稿を終える。