法隆寺移築論争の考察

古田史学会報
2001年10月5日 No.46



法隆寺移築論争の考察

奈良市 飯田満麿

 最近の研究事情

 「年輪年代法」に依る芯柱の伐採年確定と言う革命的事実を受けて、学会、言論界、その他各方面からの反応は一時大層な盛り上がりを見せましたが、今から十数年前に発表された米田良三氏の「法隆寺太宰府観世音寺移築説」に勝る論証を得ないまま尻窄みの状態に陥っています。「近畿天皇家一元説」の限界を端無くも露呈した感じです。しかしながら最近「多元史観」の立場から米田氏の立論を鋭く批判する好論が続けて3篇発表されました。川端俊一郎氏『法隆寺のものさし−南朝尺の「材と分」による造営そして移築』と大越邦生氏『法隆寺は観世音寺の移築か(その1)(その2)』の3編です。以下この3編の論文の骨子を概説し、立論の当否について論じたいと思います。


 川端論文

(1)立論の骨子
 法隆寺移築説是認、観世音寺説否認。

(2)法隆寺移築説の論拠
 「法隆寺国宝保存工事報告書」(五重塔 昭和三〇年、金堂 昭和三一年)により現法隆寺の各部材寸法及び部材間隔を調査して、それが材(通し肘木)の高さを単位とする中国の木割に基づくものであり、その寸法は中国南朝尺の一尺一寸(二六・九五cm)であると断定している。その根拠は(宋・李明仲「造営方式」)及び(丘光明「中国古代度量衡」一九九六北京)であり、さらに金堂の構造は「造営方式」に明示されている殿堂方式の唯一の実在例であるとしている。
 以上の事実を敷衍してこの様な背景に基づく建築は当然南朝に臣従した九州王朝の所産であり、それが現在近畿の大和斑鳩の地に存在するのは、とりもなおさず九州からの移築であると言う一種の三段論法を提示している。

(3)観世音寺説否認の論拠
 観世音寺に現存する五重塔心礎及び残存礎石の位置を測定した数値(鏡山猛「太宰府と観世音寺礎石について」昭和四四年『史淵』百一号)と自ら実測した数値を用いて比較検討し、その結果何れによっても現法隆寺五重塔四天柱間隔二六八cmよりか遥かに小さい数値であるので、この心礎及び周辺礎石が法隆寺五重塔の基礎ではあり得ないと断定し、太宰府観世音寺が大和斑鳩の地に移築されたと言う米田説の否定根拠として提示された。

(4)移築寺院の比定
 観世音寺説を否定すれば当然それに変わる存在を提示しなければならない。残念ながらこの論証中に具体的提示は為されていない。しかしこの建物が海東の天子を名乗った多利思北孤によって営まれたものである以上、隋書に書かれた倭王の都「ヤミタイ」に接しX寺が存在したに違いないと推論している。
 仮定の論証の弱点を補う意味で日本書紀の記事を援用している。即ち崇峻紀及び推古紀の法興寺関連記事である。之は在来元興寺(飛鳥寺)の記事とされていたものであるが、川端氏は之こそ九州王朝関連記事の取り込みであり、日本書紀の常套手段であるが、之により辛くもその存在が資料的に実証出来たと述べている。


 大越論文

(1)立論の骨子
 法隆寺移築説是認、観世音寺説否認。

(2)法隆寺移築説の論拠
 米田説を移築事実に関してほぼ全面的に是認、特段の疑問は提示されていない。

(3)観世音寺説否認の論拠

(イ)「養老絵図」の矛盾
 米田氏は観世音寺移築説を補強するため、現観世音寺所蔵の「養老絵図」を参考に挙げその建物構成が鏡山猛氏の観世音寺伽藍配置復元図に一致し、且つ其の中門が桁行四間梁間三間で現法隆寺中門に酷似する事から、この絵図の建物が移築前の現法隆寺である可能性に言及している。これに対し大越氏は中門の姿は子細に絵図を観察すると、桁行五間の建物であり、金堂の形状と合わせてこの絵図の現法隆寺説は成立しないと論証された。その後米田氏が自説の一部を訂正され、この絵図が移築後の新観世音寺を示す可能性を論じられたが、大越氏は仮説の上に重ねた仮説として之を退けられた。

(ロ)観世音寺現存礎石の間隔の矛盾
 現観世音寺に残された五重塔心礎々石、及び現阿弥陀堂下層の金堂礎石を実測した資料に基づき、この間隔が現法隆寺の柱間より小さく、到底この礎石上には復元出来ないと論証し、且つ現存礎石には水平移動した痕跡がないと言う調査結果から、観世音寺・法隆寺説は成立しないと断定された。

(ハ)移築寺院の比定
 ここでも残念ながら具体的な比定は為されていない。これほどの大寺院が現存したのだから、なんの手がかりもないのは不思議だとしながら、跡地はもとより記録の類を一切合切隠滅したか、何処か未だ知られざる遺跡が存在するかも知れないとしるし、播磨以西のどこかにその可能性を託している。


 観世音寺否定の論拠吟味

 奇しくも川端・大越両氏の論文はその骨子に於いて共通し、且つ観世音寺説否定の重要な論拠として、現観世音寺の礎石の状態を列挙されている。嘗て筆者は「平城京・東院復元工事」に施工側の責任者として従事した経験を持つが、その際の見聞と建築技術者としての常識から、古代建築の基礎構造を考えるとき、必ずしも両氏の論証が成立しない可能性を感ずるので、その論旨を開陳し両氏の論拠の適否判断の資料に供したいと思う。

 本論に入る前に理解を容易にする目的で我が国古建築の基礎構造の変遷について略述する。

 古建築の基礎構造の変遷

 日本各地でほぼ日常的に行われている、遺跡調査で柱穴跡が発見されるのは常識の範疇に属し誰も驚かない。この事実が示す通り古代我が国の宗教施設、政庁等集会機能を持つ建物は地面に穴を穿ち柱を立て、それに屋根・壁を取り付ける掘っ建て柱構造であった。この様式は極めて手軽で有用であったが、多雨、高湿の我が国風土においては柱脚部の腐食を防ぐ手段が無く、特別な自然災害が無くても十〜十五年の耐用しか無かった。今日伊勢皇大神宮の二十年毎の造営はその証明である。
 この欠点を補い更に荘重な殿舎を立てるため、大陸から輸入された当時の新工法が礎石基礎工法である。七世紀以降の我が国主要建築は総じてこの基礎を用いている。この工法は強固に据えられた礎石の上に柱を据えて、風圧・地震等は柱底面の摩擦抗力と瓦屋根で増した建物の自重で対抗する構造であった。その構造の性質上、柱脚を固定しないこの工法は地震国である我が国には不向きな構造で、事実多くの建物が巨大地震の犠牲に成って倒壊した。然るに今日尚法隆寺を始めとする数多くの古建築が現存するのは、礎石の下の版築基礎盤の為である。以下同工法に付いて知るところを記述する。


 礎石基礎の施工

 礎石基礎の建設には礎石直下の床盤が不可欠である。現在は問題なく鉄筋コンクリ−ト構造が採用されるが、当時の技術水準では勿論願うべきも無い事であり、何処ででも安価に入手出来る材料として粘土を用いた工法が採用された。まず建物設置場所の確定後表土を取り除き、建物基壇より周辺1m程度広げた範囲を地山まで掘削する。建物の規模によって其の深さは一定でないが一m 〜二m で平坦にならし、粘土を全面に敷き均し手蛸等で人力突き固めを繰り返す。おおよそ三十cmの粘土層を十cmに突き固める要領で幾層にも積み重ね、強固な版築盤を形成する。この上に設計図に従い位置決めを行い割栗石を礎石の大きさに応じて敷き込み目砂を撒いて礎石を据える。全ての礎石を据え終わったら基壇の寸法に合わせて周りに型枠を組み立て、中に粘土を敷き込み前述の要領で基壇を形成する。基壇部分の版築構造は仕上げ材の腰石・敷石で保護されているので、建物が健在な内は変形変質は起こらないが、一端建物が失われると地上に露出しているため粘土は雨による劣化を直ちに招き基壇は原型を留めぬまでに流失する。今日飛鳥に存在する薬師寺跡の礎石の状況はこの証拠である。
 (注−版築基礎盤の厚さについては推定値を用いた、今後ボ−リング等で確実な測定値が得られればそれに従う。)


 礎石基礎形状変更の可能性

 礎石構造が下部に強固な版築盤を用いている以上、この基礎盤が存在する限り基壇及び礎石の再構は可能である。但し版築は垂直方向には増築可能だが水平方向には増築出来ないので、旧建家より大規模なものは再構築出来ない。又、礎石の水平移動を行っても原材料が自然に産出される粘土又は土砂である限り、其の痕跡は数年で消失する。具体的に実例を挙げるならば、大越論文に示された「観世音寺境内実測図金堂基壇」の状態は第一次の建物が撤去された後、二次三次と建物がやや縮小されて再建された状況を如実に示すものである。


 結論

 以上の論拠から礎石の状況からは観世音寺移築説を完全に否定できない事を結論としたい。しかしながら観世音寺移築を証明する決定的物証を欠く今日の状況に鑑みれば、俄に結論を求められないが、現実に遺跡が存在する分観世音寺説7その他の説3の割合で米田説有利と判断する。しかし川端・大越両氏の卓論には啓発される点が多々あり、特に川端氏の日本書紀崇峻紀及び推古紀の法興寺記事の存在指摘には感銘を受けた、この論証に刺激を受けて一つの仮説に到達したので最後にそれを披露し終わりとしたい。


 仮説の提示


 上宮法王を称し自らを日出ずる処の天子と主張した多利思北孤は、その宮殿に接して壮大な寺院を営んだ。その名は法興寺であった。白村江の敗戦により倭国の内政外交を独占した天智天皇は、唐に対する最大の融和策として天子の象徴法興寺の撤去を思い立ちかつ実行した。この際東アジアに隠れもない名建築に対する尊敬のためか、人民大衆の素朴な信仰に対する配慮からか、焼却等の暴力に訴えることなく再建可能な方法で撤去し、跡地に名を替えて観世音寺の建立を命じた。「続日本紀」元明天皇和銅二年詔書の記事は其の証拠であり、名建築の存在に愛着した日本書紀編集者はさりげなく九州王朝史料から法興寺の記録を転載した。
             二〇〇一年八月二五日


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