和歌山平野と紀ノ川流域,紀伊半島西南部沿岸
生駒市 伊東義彰
神武が和歌山平野の次ぎに姿を現すのは、記紀ともに熊野になっています。神武は目指す大和盆地へ侵入するのに、和歌山平野から、地形的には平坦であり短距離で行ける紀ノ川流域を通らず、わざわざ熊野へ遠回りして、嶮しい紀伊山地を横断するルートを選んでいます。
和歌山平野から熊野までの海路はともかくとして、熊野から宇陀(現在の菟田野町)へ抜けるには、それこそ道なき道の嶮しい紀伊山地を横断しなければなりません。今でこそ山越えや川沿いのいくつかのルートに国道が通っており、車なら十時間前後で走り抜けることが出来ますが、徒歩でということになると考えただけでもうんざりするほどの道のりです。国道を歩くにしても、川沿い、谷沿い、峰伝い、尾根伝いの曲がりくねり、登り降りの難路が延々と続いています。車などの交通機関を利用できなかったころの人たちは、古代・中世・近世・近代を問わず、熊野へ行くためには嶮しい紀伊山地を徒歩で横断するしかありませんでした。そして、現在の我々から見るとこのとてつもない難路である熊野路を、大勢の人たちが徒歩で往復したのも事実です。古代は古代の道を古代の方法で、近代は近代の道を近代の方法で。
縄文晩期、紀伊半島を横断する交易路は、おそらく獣道に毛の生えたような道なき道ではなかったかと想像できます。何千年も自然のままの樹林や倒木に遮られ、草深き獣道(けものみち)を難渋しながら、ただひたすら歩いたことでしょう。交易するにはそれなりの「物」を持っていかなければなりませんし、往復期間の食料も必要です。途中の集落で食料を手に入れるにしても、食料と交換する「物」が必要ですから一人では持ちきれない荷物になり、複数の、あるいは十数人の集団で行動したものと思われます。また、獣に襲われる危険や、途中の集落の人たちにせっかくの交易品を奪われる恐れもあったでしょうから、人数は多いほど安全でもあったわけです。重いかさばる荷物を背負いあるいは抱えて、川・谷沿いに、峰・尾根伝いに嶮しい道なき獣道をたどって紀伊山地を往復したのです。
熊野から宇陀までの『神武が来た道』もこのような道だったに違いありません。軍隊の移動というと旗鼓堂々たる行進を想像しがちですが、嶮しい山道を踏破するにはそれに適した隊形があったはずであり、また、嶮しい道なき道を武具に身を固め、武器や食料・水などを携帯して山川を跋渉(ばっしょう)できないようでは、軍隊として現代でも通用しないでしょう。
紀伊山地を横断するについては欠かすことのできない条件が一つあります。経験豊かな案内者が必要だと言うことです。紀では、神武は生駒山系を越えて奈良盆地内の竜田に抜けようとして道に迷い、もとの上陸地点に戻らざるを得ませんでした。生駒山系さえ案内者なしにはそう簡単に通り抜けることが出来なかったのですから、比較できないほど嶮しく道のりも長い紀伊山地を案内者なしに踏破することは不可能でしょう。八咫烏(やたがらす)と言う案内者を得て、はじめて踏破できたのです。したがって、紀伊山地横断はいい加減な作り話ではなく、何らかの伝承をもとに記述されたものと考えられます。
なお、縄文晩期の広い範囲における交易については、縄文晩期の遺跡から出土する遺物によって証明されており、険路・遠路を結ぶ交易路の存在を示唆しています。
和歌山平野の弥生社会に受け容れられず、海からの侵入者として追い出された神武とその武装集団は、再び海に浮かんで紀伊半島を南下するしかなかったのではないでしょうか。残された道は、沿岸を航行しながら適当な地を見つけて上陸し、そこから再び大和盆地を目指すしかありません。
しかし、神武一行は紀伊半島南端をまわって熊野地方に至るまで上陸することが出来ませんでした。何故なら紀伊半島西南部沿岸に点在する平地には、この時すでに多くの弥生集落が形成されていたからです。御坊(ごぼう)市には環濠集落跡の堅田(かただ)遺跡があり、ここからは弥生前期の青銅器の鋳型([金施]*(やりがんな)の石製鋳型)が出土しています(平成十一年五月十一日、朝日新聞)。また、御坊市から南東へ海岸沿いに進んだところにある日高郡南部(みなべ)町の気佐藤徳山地区から灌漑用と思われる弥生前期の大規模な堰(せき)が見つかっています(平成十四年三月二十四日、朝日新聞)。これら弥生集落を前にしたとき、予想される激しい抵抗を考えると、とても上陸する気にはなれなかっただろうと思われます。
[金施]*(やりがんな)は、金偏に施、方編なし。
さらに、和歌山平野から西牟婁(にしむろ)郡白浜町にかけて数多くの高地性集落跡が見つかっており、主要なものだけでも五十数カ所もあります(和歌山市史)。特に、半島西南部に四十あまりが密集しており、高地性集落の「逃げ城」的役割を考えると、近隣集落同士の紛争に備えると言うよりも海からの侵入・襲撃に備えていたのではないかと考えられます。
以上のことから神武の時代には、紀伊半島西南部沿岸に点在する平地にもすでに弥生社会が形成されており、神武とその武装集団を受け容れる余地のなかったことがおわかりいただけるでしょう。
神武率いる武装船団は、やむなく潮岬をまわって舳先(へさき)を北へ向けざるを得なかったわけで、日本書紀によると最初に上陸したところが狭野(さの 新宮市佐野)あたりになっています。そこから熊野の神邑(みわむら)に至って天磐盾(あまのいわたて)に登り、再び海に浮かんで暴風に遇って二人の兄(稲飯命と三毛入野命)を失う、と言う不可解な行動をとっていますが、このあたりで原住民集落の抵抗にあったのではないかと考えると納得できます。そのあと熊野の荒坂津(あらさかつ)、亦の名を丹敷浦(にしきのうら)に至って丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅した、とあります。これなども和歌山平野の名草戸畔と同じで、激しい抵抗にあったことを意味しています。日本書紀には『時に神、毒気(あしきいき)を吐きて、人物咸(ひとことごと)に瘁(お)えぬ。』とあって、神武とその武装集団はここで力つきてしまいました。
神武が上陸した熊野地域には、当時どのような社会が形成されていたのでしょうか。和歌山平野や紀ノ川流域、あるいは紀伊半島西南部平地地域のように弥生前期から弥生集落が形成されていたのでしょうか。以下、新宮市史に基づいて若干考察を加えてみたいと思います。
熊野速玉大社遺跡からは縄文前期末から縄文晩期にかけての土器のほか、サヌカイトの打製石斧なども出土しています。ここでは弥生土器は出土していません。
神倉山神社の御神体と見られるゴトビキ岩の側下に営まれた経塚最下層から大小二二個の銅鐸破片が昭和三十五年に発見されました。原型は高さ六〇センチメートルの袈裟襷文の入った銅鐸で、その大きさや文様から弥生中期後半以後のものと思われます。破片は約一mの円形に散乱して出土しているところから見て、中世の経塚築造に際して破壊されたものとされています。
数次にわたる発掘調査の行われた阿須賀(あすか)遺跡(阿須賀神社境内)は、新宮川河口から約一km西の、高さ四〇mの蓬莱山(ほうらいざん)南麓にあります(徐福伝説のある円錐形の山)。弥生時代から古墳時代へかけての住居跡が一〇軒確認されていて、出土土器もそのほとんどが弥生時代終末期から古墳時代のもので占められています。
紀に『遂に狭野(さの)を越えて』とある狭野とされているところにある佐野遺跡は、JR佐野駅前から西北部の山麓に至る水田地帯にあり、根地原、久保、八反田地区から土器片が発見されていますが、そのほとんどは弥生土器、土師器、須恵器の破片で、全体的に阿須賀遺跡の出土品と類似しているとされており、弥生土器のほとんどは弥生時代終末期のものと思われます(但し、発掘調査は行われていません)。
その他、宮井戸遺跡、明神山遺跡などからも弥生土器の破片が数多く見つかっていますが、そのいずれもが阿須賀遺跡と同様のものであり、弥生時代後期以後のものです。どの遺跡について調べても弥生中期以前の形跡が見あたりません。先述の神倉山のゴトブキ岩側下から出土した銅鐸にしても中期後半以後のものではないかと言うだけのことであって、持ち込まれた時期などわかるはずもありません。
以上の遺跡や出土土器などから推測すると、新宮市を中心とする熊野地域は、紀伊半島西南部沿岸地域と異なり、弥生時代の早い時期、前期あるいは中期には弥生社会はまだ形成されておらず、弥生後期以後、それも終末期に近いころから弥生時代が始まったのではないかと思わざるを得ないのです。神武東侵が弥生時代後期の初め頃だとすると、そのころには熊野地方には弥生社会がまだ形成されておらず、仮に弥生集落があったとしても極めて希薄な存在であり、大部分の集落は縄文晩期の原住民のものであったと考えざるを得ないのです。おそらく吉野と同じような縄文晩期の社会だったのではないでしょうか。神武が上陸したのはそのような時期だったと考えられ、だからこそ上陸できたものと思われます。紀に『丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅(ころ)す』とあるのは、希薄な弥生集落の一つが抵抗したのかも知れません。ここで神武が力つきたとき、高倉下(たかくらじ)が[音師]*霊(ふつのみたま)と言う神劔(記では横刀(たち))を持って神武を救けに来ます。
[音師]*霊(ふつのみたま)の[音師]*は、音編に、師で白なし。
高倉下に救われた神武は、熊野から大和盆地へ通じる交易ルートのあることを知り、八咫烏と言う道案内者を得て紀伊山地横断の途についたのでしょう。
1). 弥生社会が早くから形成されていた和歌山平野、紀ノ川流域、紀伊半島西南部沿岸地帯平地などでは、神武とその武装集団は弥生社会の生活基盤を脅かす海上からの侵略者・略奪者として恐れられ、抵抗と反撃にあってとどまることも通過することもできず、従って、紀ノ川流域を進むこともできなかったばかりか、熊野地域に到るまで上陸することができなかったのではないでしょうか。
2). 弥生集落が希薄で弥生社会の形成が遅れ、未だ大きな政治勢力が未発達であり、縄文晩期集落を中心とする熊野地域に到って、やっと上陸を敢行できたものと思われます。大和盆地に侵入する際にも弥生社会の発達が未成熟で、縄文晩期集落が残っていたと思われる宇陀地方をまず制圧してから侵入をはかってのではないでしょうか。
3). 紀伊山地とその出口にあたる吉野川上流域や吉野山など稲作が困難で、弥生文化の浸透が遅れていた縄文晩期の集落では、進んだ青銅製や鉄製の武器を携えた圧倒的な武装集団を前にしては抵抗の術もなく、協力姿勢をとらざるを得なかったが故に、神武の兵站基地になり得たのではないでしょうか。
1). 紀に出てくる名草邑(なぐさのむら)や名草戸畔(なぐさとべ)の「名草」は後に郡名となっており、その範囲は今の和歌山市の東半分にもなるほどの広さです。北は和泉山脈で大阪府と接し、南は海南市と接しており、名草山麓で和歌浦湾に面します。
2). また、和歌山市の西半分(名草郡の西側)、紀伊水道に面したところに「海部(あま)郡」があり、北は加太(かた)町から南は海南市を含む範囲です。
3). 記紀は那智の滝について全く触れておりません。海上から那智の滝が見えるのかどうか調べてみました。
那智勝浦町の商工観光課に訊ねたところ、「わからない」という返事でした。海岸近くにある温泉旅館に「滝見の湯」と言うのがあり、そこに問い合わせてもらったところ、遙か木々の間から涙の流れる程度に見えると言うことでした。勝浦漁協にも訊ねましたが「わからない」という返事で、最後に那智勝浦観覧船と言う会社に訊ねてみましたら、海上からは「天候の具合によって見えることもある。靄などがかかっていると全く見えない。見える場合でも涙程度のもので、あの雄大な自然の姿は見ることが出来ない」とのことでした。海上からは伝承に残すほどの雄大な滝の姿が見えなかったのでしょう。地図で見る限りでは、那智の滝は海岸から五kmほど入った山奥にあります。
〔参考資料〕和歌山市史、新宮市史、五條市史、菟田野町史、大宇陀町史、榛原町史、川上村史、五條市中遺跡現地説明会資料、角川地名辞典、朝日新聞記事。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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