和歌山平野と紀ノ川流域,紀伊半島西南部沿岸 『神武が来た道』 和歌山平野から熊野へ 伊東義彰

 

古田史学会報
2003年 2月 11日 No.54


『神武が来た道』

和歌山平野から熊野

生駒市 伊東義彰

一、はじめに

 神武が和歌山平野の次ぎに姿を現すのは、記紀ともに熊野になっています。神武は目指す大和盆地へ侵入するのに、和歌山平野から、地形的には平坦であり短距離で行ける紀ノ川流域を通らず、わざわざ熊野へ遠回りして、嶮しい紀伊山地を横断するルートを選んでいます。
和歌山平野から熊野までの海路はともかくとして、熊野から宇陀(現在の菟田野町)へ抜けるには、それこそ道なき道の嶮しい紀伊山地を横断しなければなりません。今でこそ山越えや川沿いのいくつかのルートに国道が通っており、車なら十時間前後で走り抜けることが出来ますが、徒歩でということになると考えただけでもうんざりするほどの道のりです。国道を歩くにしても、川沿い、谷沿い、峰伝い、尾根伝いの曲がりくねり、登り降りの難路が延々と続いています。車などの交通機関を利用できなかったころの人たちは、古代・中世・近世・近代を問わず、熊野へ行くためには嶮しい紀伊山地を徒歩で横断するしかありませんでした。そして、現在の我々から見るとこのとてつもない難路である熊野路を、大勢の人たちが徒歩で往復したのも事実です。古代は古代の道を古代の方法で、近代は近代の道を近代の方法で。
 縄文晩期、紀伊半島を横断する交易路は、おそらく獣道に毛の生えたような道なき道ではなかったかと想像できます。何千年も自然のままの樹林や倒木に遮られ、草深き獣道(けものみち)を難渋しながら、ただひたすら歩いたことでしょう。交易するにはそれなりの「物」を持っていかなければなりませんし、往復期間の食料も必要です。途中の集落で食料を手に入れるにしても、食料と交換する「物」が必要ですから一人では持ちきれない荷物になり、複数の、あるいは十数人の集団で行動したものと思われます。また、獣に襲われる危険や、途中の集落の人たちにせっかくの交易品を奪われる恐れもあったでしょうから、人数は多いほど安全でもあったわけです。重いかさばる荷物を背負いあるいは抱えて、川・谷沿いに、峰・尾根伝いに嶮しい道なき獣道をたどって紀伊山地を往復したのです。
熊野から宇陀までの『神武が来た道』もこのような道だったに違いありません。軍隊の移動というと旗鼓堂々たる行進を想像しがちですが、嶮しい山道を踏破するにはそれに適した隊形があったはずであり、また、嶮しい道なき道を武具に身を固め、武器や食料・水などを携帯して山川を跋渉(ばっしょう)できないようでは、軍隊として現代でも通用しないでしょう。
 紀伊山地を横断するについては欠かすことのできない条件が一つあります。経験豊かな案内者が必要だと言うことです。紀では、神武は生駒山系を越えて奈良盆地内の竜田に抜けようとして道に迷い、もとの上陸地点に戻らざるを得ませんでした。生駒山系さえ案内者なしにはそう簡単に通り抜けることが出来なかったのですから、比較できないほど嶮しく道のりも長い紀伊山地を案内者なしに踏破することは不可能でしょう。八咫烏(やたがらす)と言う案内者を得て、はじめて踏破できたのです。したがって、紀伊山地横断はいい加減な作り話ではなく、何らかの伝承をもとに記述されたものと考えられます。
なお、縄文晩期の広い範囲における交易については、縄文晩期の遺跡から出土する遺物によって証明されており、険路・遠路を結ぶ交易路の存在を示唆しています。

 

二、和歌山平野と紀ノ川流域

  1.  地図を広げてみるまでもなく、和歌山平野から大和盆地を目指そうとするなら、まず第一に思い浮かぶのが紀ノ川流域ルートです。「よほどの理由」がない限り、何も好きこのんでわざわざ熊野へ迂回し、紀伊山地を横断しようなどとは誰も考えないでしょう。生駒山麓の戦いで敗れた神武も、初めは紀ノ川流域ルートを念頭に置いて和歌山平野に上陸したのではないでしょうか。
     現在、紀ノ川流域には、その北岸に沿って国道二四号線が和歌山市と五條市(奈良県側)を結んでいます。二四号線は五條(ごじょう)市から紀ノ川流域を離れ、向きを北に変えて奈良盆地南西の御所(ごせ)市、いわゆる葛城(かつらぎ)地方へ抜けているので、吉野川流域に沿う国道は三七〇号線に変わり、吉野町あたりから一六九号線につながっていきます。吉野川沿いの三七〇号線や一六九号線を車で走りますと、窓から吉野川を眺めることが出来ます。つまり川に沿う平地が少ないために川岸に沿って道路が造られているからで、山が川岸に迫っていることがよくわかります。
     ところが紀ノ川沿いの二四号線を走ると、五條市に到るまでほとんど川を見ることが出来ません。紀ノ川に沿っているとは言え、川から少し離れた平地を通っているからで、吉野川沿いの道路のようなカーブもあまりありません。実際に走ってみて、和歌山市から五條市までの間は和泉(いずみ)山脈から川までの間に水田が多く、かなりの平地が紀ノ川沿いに広がっていることがわかりました。
    和歌山平野から大和盆地を目指すなら、弥生時代と言えども紀ノ川流域をさかのぼる方が、熊野へ迂回して紀伊山地を横断するよりも、地形上も距離も比較にならないほど楽であり、短いことが実感できました。
    では神武は何故、比較にならないほど楽で短距離で済む紀ノ川流域ルートを通らず、和歌山平野からわざわざ熊野へ迂回したのでしょうか。その「よほどの理由」はどこにあったのでしょうか。
     地図を調べるまでもなく『短距離で楽に行ける紀ノ川流域ルートがあるのに、わざわざ熊野へ迂回して紀伊山地を横断するルートを選ぶのはおかしいではないか』と誰もが疑問を抱く神武とその武装集団がとった行動の原点には『熊野へ迂回しなければならなかった「よほどの理由」があった』と考えざるを得ません。
     その「よほどの理由」についてはいろいろな説がありますが、よく検討してみると「よほどの理由」を考察する際に、何故か「和歌山平野」と「紀ノ川流域」における当時(弥生時代)の状況について触れたものが見あたりません。和歌山平野は、神武とその武装集団にとって熊野へ迂回する出発点となったところです。そこに「よほどの理由」の原点となるべき状況がひそんでいないとも限りません。「当時の和歌山平野と紀ノ川流域にどのような社会が形成されていたのか」を探ることによって「よほどの理由」の一端でも見つけることが出来るのではないか、と考えた次第です。
     和歌山平野の弥生時代は前期から始まっていることが、太田黒田遺跡を例に挙げるまでもなく数多くの遺跡や出土品によって証明されています(和歌山市史)。このことは「よほどの理由」を探る上で重要な意味を持っています。何故なら神武が和歌山平野に上陸したころには、そこにはかなり成熟した弥生社会があったと言うことを意味しています。
     神武が通過したり、兵站基地にしようとしたと思われる吉野川上流域や吉野山では、農耕に不適な土地柄でもあったところから弥生社会を形成するまでにいたっておらず、縄文晩期の社会が残っていたものと考えられます。また、神武が宇迦斯(うがし)兄弟と出会ったとされる奈良県の宇陀地方(菟田野(うたの)町・大宇(おおうだ)町・榛原(はいばら)町)では、弥生時代の出土品は後期のものが大半を占めており、わずかに中期のものが混じる程度で、前期のものもほとんどありません(上記三町史)。神武とその武装集団が侵入したころの宇陀地方は、縄文晩期から弥生後期初頭へ移行しつつあった、それも縄文晩期の集落の方が多数を占めていたころであったと思われます。このような社会の構成が神武とその武装集団の進攻難易に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
     縄文晩期の集落社会に生活している人たちの目には、弥生の進んだ武器や武具で武装した神武の集団は神の国からやって来た軍勢のように映ったのではないでしょうか。宇陀地方や奈良盆地との交易を通じて外の世界(弥生社会)とも多少の交流があったと思われますが、集落全体が弥生社会と接触しているわけではありませんから、弥生人が集落を形成し始めた宇陀地方の縄文晩期集落とはかなり違った社会を形成していたことがわかります。吉野地域で出会った三人の国つ神が神武に協力的であったのに反し、宇陀地方に入った途端に激しい抵抗にあったのもこのような社会構成の違いに原因があったものと考えられるのです。神武率いる武装集団の突然の侵入に対し、弥生集落は抵抗を示し、自分たちの出身地である大和盆地の弥生集落に救援を求めたでしょうし、これから弥生社会に入ろうとしている縄文晩期の集落も弥生集落と行動を共にしたことでしょう。
     同じことは和歌山平野や紀ノ川流域にも言えるのではないでしょうか。先述したように和歌山平野は弥生前期から弥生社会が形成されています。奈良県の宇陀地方と違い、ここでは前期から、少なくとも一〇〇年以上も前から弥生社会が始まっているのです。和歌山平野は、洪水や干害などの災害、近隣集落や海からの襲撃者との戦いなどに耐えて生き抜いてきた人々やその子孫たちが一〇〇年以上もの歳月をかけて築いてきた生活の基盤なのです。時代から考えて、複数の集落を勢力下におくいくつかの国があり、その支配者たる王がいたこともまず間違いないでしょう。あるいは和歌山平野の大部分を、また紀ノ川流域の大部分を支配する王がいたかも知れません。そのような和歌山平野に突如、見も知らぬ強力な武装集団がやってきたとしたら、そこを生活の基盤として営々と築いてきた人々は、集落の指導者は、その上に立つ支配者たる王は、どのような反応を示すでしょうか。縄文晩期の集落が多く残っていたと思われる奈良県の宇陀地方でさえ激しい抵抗があったことを考えると、弥生前期から弥生社会を形成してきた和歌山平野・紀ノ川流域の人々や集落指導者、王たちが神武とその武装集団を歓迎し、素直に従ったと考える人はいないでしょう。
     今、紀ノ川流域を和歌山平野と同列に扱いましたが、この地域について若干補足しておきますと、紀ノ川流域にも弥生時代前期から人々が弥生集落をつくっていたことがわかっています。紀ノ川・吉野川沿いの国道二四号線が北へ向きを変えるところにある五條市までは広くはありませんが平地(河岸段丘や小さな扇状地が多い)が続いており、和泉山脈や南岸の山地から流れ出る小河川を灌漑に利用すれば稲作が出来るのです。
     一つだけ例を挙げますと、五條市(熊野から十津川沿いに北上するとここに出ます)中町の中(なか)遺跡から住居跡や環濠らしい溝を含む弥生時代の大規模な集落跡が見つかりました(平成十四年五月二十四日、朝日新聞)。中遺跡は吉野川南岸の河岸段丘平地にあって、一五棟を越える住居跡が見つかっています。阪合部小学校建て替えに必要な敷地だけの発掘にもかかわらず、県内でも異例と言われる数の住居跡が見つかっており、遺跡全体(約一〇ヘクタール)からすればかなり大規模な弥生集落があって、重なっている住居跡の状況から、弥生時代の全期間にわたって存続していたと推定されています。余談ですが、中遺跡から一kmほど下流の南岸にある火打ち遺跡から明治二十五年頃に、袈裟襷文(けさだすき)の入った高さ三〇cmの銅鐸が発見されています(五條市史)。このほか橋本市の血縄遺跡など、紀ノ川流域には弥生時代の遺跡が数多く散在しています。
     突如、海からやって来た物騒な武装集団が上陸し、近くの弥生集落に押し掛けて食料と寝る場所を要求したとしたら、その弥生集落の人たちはどんな対応をするでしょうか。その武装集団の圧力で一時は一つや二つの集落を制圧できても、知らせを受けた周辺の集落がまとまって抵抗を始めると、場合によっては「生駒山麓の戦い」の二の舞になる恐れがあります。日本書紀によると、神武たちは名草邑(なぐさむら)に至り、名草戸畔(なぐさとべ)という者を誅(ころ)したあと、和歌山平野から姿を消しています。これなどは、神武とその武装集団が和歌山平野に形成された弥生社会の激しい抵抗と反撃にあい、和歌山平野にとどまれなかったことを意味しているのではないでしょうか。神武は和歌山平野から追い出され、再び海に浮かんで紀伊半島西岸を南下するしかなかったのです。海からの侵略者は、和歌山平野の弥生社会には受け容れられなかったのです。
     同じことは紀ノ川流域の弥生社会についてもいえます。和歌山市から奈良県の五條市にかけて散在する弥生遺跡が語るように、やはりここにも弥生社会が早くから形成され、神武とその武装集団を受け容れる余地はありません。もし神武が和歌山平野を脱出して紀ノ川流域をさかのぼったとしたら、和歌山平野と同じように激しい抵抗と反撃にあったことでしょう。神武とその武装集団にとって紀ノ川流域は、決して楽なルートではなかったのです。
     ここで、五瀬命(いつせのみこと)を葬った竃山(かまやま)について少し考えてみたいと思います。
     地名辞典(角川)を調べてみると、和歌山市でカマヤマと発音する地名は和田の竃山神社と木ノ本の釜山古墳の二つしかありません。釜山古墳は和歌山市と言っても和泉山脈麓の平地にあり、当時の紀ノ川河口から北へ遠く離れているので一応除外します。
     竃山神社は延喜式内社(えんぎしきだいしゃ)であり、旧官幣大社(かんぺいたいしゃ)でもありました。社の北には五瀬命の墓と言われる径六m・高さ一mの墳墓があります。延喜式諸陵寮陵墓条によれば、遠墓として『「竈山墓」彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、在紀伊国名草郡』とあり、紀伊国唯一の陵墓だとしています。
     和歌山市史によると、竃山神社のある和田にも弥生遺跡の痕跡があり、弥生土器が多数出土しているそうです。神武がやってきたころには弥生集落が形成されていて、神武はここで食料と寝る場所を要求したものと思われます。ところが、神武率いる武装船団が外海の荒波を避けて紀ノ川河口付近の入江に停泊したとすると、現在の河口から竃山まで直線距離で六km前後もあり、上陸直後に押し掛けるには遠すぎるのではないか、と言う疑問が湧いてきました。直線で六km前後ですから実際の道のりはもっと遠いことになります。この疑問を解いてくれたのが和歌山県立博物館に展示されていたパネルでした。そのパネルには、紀ノ川の現在と古代の河口や流路が描かれていました。どの川もそうであるように、紀ノ川も流路や河口を長い年月の間に度々変えているのです。そして弥生時代のころは、現在の河口の少し上流から流路を南に変え、現在の和歌浦湾付近に注ぎ込んでいるのです。神武がやってきたときは、紀ノ川の河口は現在のところにはなく、和歌川河口付近にあったのです。現在は和歌川河口の東約一.五kmのところにある名草山(山腹に紀三井寺がある)の西側麓は当時は海岸だったわけで、紀ノ川の河口はその少し北にあったことになります。
     竃山神社のある和田は、弥生時代の紀ノ川河口から東へ二km弱のところにあり、神武が武装船団を停泊させたと思われる紀ノ川河口付近の入り江からは、ごく近くの弥生集落だったことがわかりました。紀ノ川河口付近から和田までの間には氾濫原が広がっていたとのことで、吉原・中島・杭ノ瀬など湿地帯を思わせる地名も残っています。ちなみに、紀ノ川の現在の河口は室町時代に形成されたとのことです(和歌山市教育委員会)。
     和歌山平野からも数個の銅鐸が見つかっている(橘谷、宇田森、砂山、有本船渡、太田黒田、吉里遺跡など)ところを見ると、あるいは大阪府東奈良遺跡を中心とする銅鐸圏の影響がおよんでいたとも考えられます。

     

    三、紀伊半島西南部沿岸

    和歌山平野の弥生社会に受け容れられず、海からの侵入者として追い出された神武とその武装集団は、再び海に浮かんで紀伊半島を南下するしかなかったのではないでしょうか。残された道は、沿岸を航行しながら適当な地を見つけて上陸し、そこから再び大和盆地を目指すしかありません。
    しかし、神武一行は紀伊半島南端をまわって熊野地方に至るまで上陸することが出来ませんでした。何故なら紀伊半島西南部沿岸に点在する平地には、この時すでに多くの弥生集落が形成されていたからです。御坊(ごぼう)市には環濠集落跡の堅田(かただ)遺跡があり、ここからは弥生前期の青銅器の鋳型([金施]*(やりがんな)の石製鋳型)が出土しています(平成十一年五月十一日、朝日新聞)。また、御坊市から南東へ海岸沿いに進んだところにある日高郡南部(みなべ)町の気佐藤徳山地区から灌漑用と思われる弥生前期の大規模な堰(せき)が見つかっています(平成十四年三月二十四日、朝日新聞)。これら弥生集落を前にしたとき、予想される激しい抵抗を考えると、とても上陸する気にはなれなかっただろうと思われます。

    [金施]*(やりがんな)は、金偏に施、方編なし。

     さらに、和歌山平野から西牟婁(にしむろ)郡白浜町にかけて数多くの高地性集落跡が見つかっており、主要なものだけでも五十数カ所もあります(和歌山市史)。特に、半島西南部に四十あまりが密集しており、高地性集落の「逃げ城」的役割を考えると、近隣集落同士の紛争に備えると言うよりも海からの侵入・襲撃に備えていたのではないかと考えられます。
     以上のことから神武の時代には、紀伊半島西南部沿岸に点在する平地にもすでに弥生社会が形成されており、神武とその武装集団を受け容れる余地のなかったことがおわかりいただけるでしょう。


     神武率いる武装船団は、やむなく潮岬をまわって舳先(へさき)を北へ向けざるを得なかったわけで、日本書紀によると最初に上陸したところが狭野(さの 新宮市佐野)あたりになっています。そこから熊野の神邑(みわむら)に至って天磐盾(あまのいわたて)に登り、再び海に浮かんで暴風に遇って二人の兄(稲飯命と三毛入野命)を失う、と言う不可解な行動をとっていますが、このあたりで原住民集落の抵抗にあったのではないかと考えると納得できます。そのあと熊野の荒坂津(あらさかつ)、亦の名を丹敷浦(にしきのうら)に至って丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅した、とあります。これなども和歌山平野の名草戸畔と同じで、激しい抵抗にあったことを意味しています。日本書紀には『時に神、毒気(あしきいき)を吐きて、人物咸(ひとことごと)に瘁(お)えぬ。』とあって、神武とその武装集団はここで力つきてしまいました。

     神武が上陸した熊野地域には、当時どのような社会が形成されていたのでしょうか。和歌山平野や紀ノ川流域、あるいは紀伊半島西南部平地地域のように弥生前期から弥生集落が形成されていたのでしょうか。以下、新宮市史に基づいて若干考察を加えてみたいと思います。
     熊野速玉大社遺跡からは縄文前期末から縄文晩期にかけての土器のほか、サヌカイトの打製石斧なども出土しています。ここでは弥生土器は出土していません。
     神倉山神社の御神体と見られるゴトビキ岩の側下に営まれた経塚最下層から大小二二個の銅鐸破片が昭和三十五年に発見されました。原型は高さ六〇センチメートルの袈裟襷文の入った銅鐸で、その大きさや文様から弥生中期後半以後のものと思われます。破片は約一mの円形に散乱して出土しているところから見て、中世の経塚築造に際して破壊されたものとされています。
     数次にわたる発掘調査の行われた阿須賀(あすか)遺跡(阿須賀神社境内)は、新宮川河口から約一km西の、高さ四〇mの蓬莱山(ほうらいざん)南麓にあります(徐福伝説のある円錐形の山)。弥生時代から古墳時代へかけての住居跡が一〇軒確認されていて、出土土器もそのほとんどが弥生時代終末期から古墳時代のもので占められています。
    紀に『遂に狭野(さの)を越えて』とある狭野とされているところにある佐野遺跡は、JR佐野駅前から西北部の山麓に至る水田地帯にあり、根地原、久保、八反田地区から土器片が発見されていますが、そのほとんどは弥生土器、土師器、須恵器の破片で、全体的に阿須賀遺跡の出土品と類似しているとされており、弥生土器のほとんどは弥生時代終末期のものと思われます(但し、発掘調査は行われていません)。
     その他、宮井戸遺跡、明神山遺跡などからも弥生土器の破片が数多く見つかっていますが、そのいずれもが阿須賀遺跡と同様のものであり、弥生時代後期以後のものです。どの遺跡について調べても弥生中期以前の形跡が見あたりません。先述の神倉山のゴトブキ岩側下から出土した銅鐸にしても中期後半以後のものではないかと言うだけのことであって、持ち込まれた時期などわかるはずもありません。
     以上の遺跡や出土土器などから推測すると、新宮市を中心とする熊野地域は、紀伊半島西南部沿岸地域と異なり、弥生時代の早い時期、前期あるいは中期には弥生社会はまだ形成されておらず、弥生後期以後、それも終末期に近いころから弥生時代が始まったのではないかと思わざるを得ないのです。神武東侵が弥生時代後期の初め頃だとすると、そのころには熊野地方には弥生社会がまだ形成されておらず、仮に弥生集落があったとしても極めて希薄な存在であり、大部分の集落は縄文晩期の原住民のものであったと考えざるを得ないのです。おそらく吉野と同じような縄文晩期の社会だったのではないでしょうか。神武が上陸したのはそのような時期だったと考えられ、だからこそ上陸できたものと思われます。紀に『丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅(ころ)す』とあるのは、希薄な弥生集落の一つが抵抗したのかも知れません。ここで神武が力つきたとき、高倉下(たかくらじ)が[音師]*霊(ふつのみたま)と言う神劔(記では横刀(たち))を持って神武を救けに来ます。

    [音師]*霊(ふつのみたま)の[音師]*は、音編に、師で白なし。

     高倉下に救われた神武は、熊野から大和盆地へ通じる交易ルートのあることを知り、八咫烏と言う道案内者を得て紀伊山地横断の途についたのでしょう。

     

    四、まとめ

    1). 弥生社会が早くから形成されていた和歌山平野、紀ノ川流域、紀伊半島西南部沿岸地帯平地などでは、神武とその武装集団は弥生社会の生活基盤を脅かす海上からの侵略者・略奪者として恐れられ、抵抗と反撃にあってとどまることも通過することもできず、従って、紀ノ川流域を進むこともできなかったばかりか、熊野地域に到るまで上陸することができなかったのではないでしょうか。

    2). 弥生集落が希薄で弥生社会の形成が遅れ、未だ大きな政治勢力が未発達であり、縄文晩期集落を中心とする熊野地域に到って、やっと上陸を敢行できたものと思われます。大和盆地に侵入する際にも弥生社会の発達が未成熟で、縄文晩期集落が残っていたと思われる宇陀地方をまず制圧してから侵入をはかってのではないでしょうか。

    3). 紀伊山地とその出口にあたる吉野川上流域や吉野山など稲作が困難で、弥生文化の浸透が遅れていた縄文晩期の集落では、進んだ青銅製や鉄製の武器を携えた圧倒的な武装集団を前にしては抵抗の術もなく、協力姿勢をとらざるを得なかったが故に、神武の兵站基地になり得たのではないでしょうか。

     

    五、付足

    1). 紀に出てくる名草邑(なぐさのむら)や名草戸畔(なぐさとべ)の「名草」は後に郡名となっており、その範囲は今の和歌山市の東半分にもなるほどの広さです。北は和泉山脈で大阪府と接し、南は海南市と接しており、名草山麓で和歌浦湾に面します。

    2). また、和歌山市の西半分(名草郡の西側)、紀伊水道に面したところに「海部(あま)郡」があり、北は加太(かた)町から南は海南市を含む範囲です。

    3). 記紀は那智の滝について全く触れておりません。海上から那智の滝が見えるのかどうか調べてみました。
    那智勝浦町の商工観光課に訊ねたところ、「わからない」という返事でした。海岸近くにある温泉旅館に「滝見の湯」と言うのがあり、そこに問い合わせてもらったところ、遙か木々の間から涙の流れる程度に見えると言うことでした。勝浦漁協にも訊ねましたが「わからない」という返事で、最後に那智勝浦観覧船と言う会社に訊ねてみましたら、海上からは「天候の具合によって見えることもある。靄などがかかっていると全く見えない。見える場合でも涙程度のもので、あの雄大な自然の姿は見ることが出来ない」とのことでした。海上からは伝承に残すほどの雄大な滝の姿が見えなかったのでしょう。地図で見る限りでは、那智の滝は海岸から五kmほど入った山奥にあります。
    〔参考資料〕和歌山市史、新宮市史、五條市史、菟田野町史、大宇陀町史、榛原町史、川上村史、五條市中遺跡現地説明会資料、角川地名辞典、朝日新聞記事。

     


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