古田史学会報五十四号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
年頭のご挨拶
代表 水野孝夫
あけましておめでとうございます。
会員の皆様も新しい決意の新年をお迎えのことと存じます。古田武彦氏もますますお元気で、研究に講演に取り組んでおられます。
昨年には、四国の会が発足され地域体制が充実し、会誌「古代に真実を求めて」を七月の総会に間に合わせることができました。会則上で賛助会員には当該年度の会誌を無料配布する訳ですが第三集以降の会誌発行が一年遅れになっており、事務上も煩雑になっておりました。これを今年度内に解消する努力をしております。つまり二年間に三冊の本をだすことになり、わたし自身はこれに忙殺される予定です。
またわたしは、長らく中断していたパソコンでのネット接続環境を漸く整えました。活用してゆきたいと考えております。
会員の皆様には、より積極的な参加、すなわち講演会や研究会や遺跡めぐりへの出席と発表、会誌・会報・インターネットへの投稿に取り組んでいただきたく、よろしくお願いいたします。
町田市 深津栄美
その後、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。この度は又、「古田史学会報」第五十三号をどうもありがとうございました。今回も相も変わらずの力作揃いで、いつまでたっても思いつきでしか述べられない私など汗顔の至りでございますが、月刊誌『正論』の平成十五年一月号(平成十四年十一月三十日刊)の「ハイ、こちら『正論調査室』です」のコーナーに、渋谷区の黒岩徹という五十四歳の会社役員の方が、「君が代」の歌は四番まである、と紹介されていたので、お知らせします。
2 君が代は千尋(ひろ)の底のさざれ石の
鵜のゐる磯とあらはるるまで
3君が代は千代ともさざじ天の戸や
いづる月日のかぎりなければ
4君が代は久しかるべきわたらひや
いすずの川の流れににせでに、
(明治十四年。文部省音楽取調掛小学唱歌初編)
以上なのですが、古田説を知っている者にとっては、二番の「鵜のゐる磯」という一節など、神武歌謡の裏付けでもあり、この歌が九州王朝の作品である事間違いなしとしか云いようがありません。
唯、これは黒岩氏も疑問視されているのですが、三番の「さざじ」という文句はどういう意味なのでしょう。一番、二番の「さざれ石」と呼応する言葉のようでもあり、「さざ」という接頭辞も、古代九州において特別の意味を持っていたのでしょうか。「り」や「ら」という接尾辞が「聖地」を表していたように。九州出身、或いは在住の会員の方で、何か御存じならぜひ、会報に御一報願います。かしこ
十二月七日(土)
新・古典批判「二倍年暦の世界」4ソクラテスの二倍年暦 京都市 古賀達也
『神武が来た道』和歌山平野から熊野へ 生駒市 伊東義彰
豊中市木村賢司
十一月二三〜二四日の両日、史学会員の安随、西村、小林の三氏と共に表題の旅をした。両地区は私のテリトリーの地(淡路島は釣り場、東香川は先祖の地)で私が案 内したくて誘った。幸い天候に恵まれ、私の思い通りのドライブ旅行ができ、満足であった。以下、案内した史跡などを一口メモで感想を記してみる。
一 明石海峡・大和島・絵島・岩屋神社
二年前に古田先生に頼まれて案内した場所である。先生はその後『壬申大乱』を著され、人麿原歌の項にその時のことを記されている。
絵島が「おのころ島」説もあるとのこと、はじめて知る。
海峡の向かい側(垂水)に五色塚古墳がある。そこで論議。
・古代海峡の支配権、岩屋と垂水、どちらが強く、握ったか?。
二 野島(断層)震災記念公園
「わが欲りし野島は見せつ底深き亜胡根の浦の珠ぞ拾はぬ」中皇命のこの歌の「野島」は、淡路島の野島であると、古田先生は『古代史の十字路』で論証された。ここ記念公園で現美智子皇后の次の歌碑を見る。「淡路の島のヘリポート、かのあたりにも、よもぎ萌えいむ」
・一三〇〇余年、隔てて皇后、野島を見たか?。
三 尾崎の私の釣り小屋「西海望」
この日は快晴、高台の小屋から、家島諸島と小豆島も見え、見晴らし良いとの評。ベランダから海に向かって、先生と連れションをしたことを思い出す。
・来望記念に、ハイパチリ、これがここでの、習わしだ。
四 一宮町多賀の「いざなぎ神宮」
ここは、淡路島の一の宮。この日は「新嘗祭」。「七五三」、さらに高円宮様の弔意記帳も行われており人出あり。史友は境内の広さが思っていた以上と感じた様子。
・神木の夫婦楠(二本が一本に合体した)、でも元々一本と、史友のご観察。
五 五色町都志(つし)の「蛭子(ひるこ)大神宮」「古墳石棺」「高田屋加兵衛の墓」「縄文灯台?二つ石」
・古いようだが、小さな蛭子大神宮。
・屈葬か、これは小さな、石のひつ。
・大富豪、何故か小さな、その墓石。
・菜の花の、沖から小さな、石灯台。
六 三原町の「おのころ島神社」
・日本で最古と称す、小さな神社、でも、地元の心意気、日本一の大鳥居。
・セキレイに、(国生み)行為教わる、処女、童貞の若夫婦(セキレイ碑見て)。
七 南淡(なんだん)町賀集の「淳仁天皇陵」
淡路島で一番大きい、前方後円墳?である。もと、豪族の古墳か。
・淡路廃帝、大き過ぎます、その陵墓、豪族の墓拝借し、面目保つ。
八 南淡町の「鳴門岬」、「鳴門海峡」
海峡の潮鳴りの程度を知りたいと、岬の崖を降りて、その音を聞く。
・橋杭にぶつかる音と、カーの音、混じって渦音、聞き分けは無理。
・神武軍団、通った海峡、水先案内(宇豆毘古)、淡路の人か、四国の人か。
九 「小鳴門海峡」「島田島」「内の海」「堂の浦」「北泊」
古田先生、日本書紀にある「粟門」は「小鳴門海峡」であると論証。
・粟門の流れは、急流のそれ、太公望、重い仕掛で、グレを釣る。
・静から湖、内の海、古代には、軍船隠し?、今、釣り筏。
十 引田(ひけた)町の「歴史民俗資料館」
香川の最東端の町。町の元教育長(元小学校長)は私の知人である。
・入館すると、横穴古墳(実物大の模型)が、お出迎え、教育長の苦心の企画。
十一 白鳥(しろとり)町の「白鳥(しろとり)神社」(祭神は日本武尊)
・武尊様、白鳥になり、何故に、ここまで、飛んできましたや。
・白鳥の塚あり、これ本当?、江戸の末、我一族の長、玉垣造る。
十二 大内町の原間古墳(横穴式古墳石室)
農家の裏山にひっそりとある。普段はコウモリの巣である。
・奥壁が一枚岩とは、珍しい、古墳(熟知)の、小林さんのお墨付き。
十三 大内町の水主(みずし)神社(祭神は大和とと百襲姫命)
なぜか、姫は七才から成人まで、この地で育ったと伝えられている。
・本当の主神は、これ小便の神(美都波)と神様(熟知)の西村さんの、ご託宣。
・水主は、天使の如き美神なり、イメージ壊すな、故郷の神。
十四大内町の与田寺(四国八十八番札所の奥の院)
この、奥の院に参ったあと高野山に参り、結願成就の礼をする習い。
・境内の一番立派な院主の墓は、私の「ひいひい叔父さん」その人の墓。
「二人の墓碑銘から兄(私のひいひい祖父)弟であることを確認。これが金石文の見本かと思う。」史友にも確認して戴きたく案内。
十五 津田町の「津田の松原」(瀬戸内海国立公園)
「三保の松原」「虹ノ松原」「気比の松原」「慶の松原」等、多くの松原を見てきているが、ここ、「津田の松原」が一番と感じている。松原の中にある、私の常宿「松琴閣(クアパーク津田)」に泊まる。・日本一の松原と、朝の散歩に誘い出し、(棟方)志功、(平山)郁夫、絶賛松と、自慢する。
十六 大内町三殿(みどの)「私の祖先の土地」
伝わる系譜では、天正三年に長曽我部に追われ、阿波由岐からこの地に移り定着。以来四二〇年余、我祖先の地である。一族の本家は大庄屋となり、明治に至る。一族の墓所と、そこにある一族の薬師堂に案内。
・我先祖、夏の陣真田の旗下で戦った、町内最古の、俗名入りの家型墓石。
・一族の薬師の堂に、誘い入れ、仏背にして、記念の写真。
・元大庄屋の、本人墓石、生前の業績人柄、詳しく刻む。
十七 大川町の富田茶臼山古墳
四国最大の前方後円墳は、全長約一三九メートル、三段に築かれ、高さ九メートル、後円部の直径八七メートル。未発掘の様子。
今回の旅でもっとも見せたかった古墳である。案内文には「五世紀頃に、大和連合からの規制のゆるんだ時期に作られたもので、この地方最強の豪族の墓」とある。史友の三人、案内板に首を横振る。
・草木を切って、坊主山、輪郭明確、自由に歩き、観察し、珍しやと、葺石残ると、西村さん言う。
一八 長尾町の大窪寺(四国八八番札所で結願寺)
・讃岐盆地の奥深く、八八番最後の札所、厳しい岩山背にして建立。
・弘法大師の幼名は、真魚(まな)であると、初めて知った。(大師の幼児像を見て)
一九 長尾町の長尾寺(四国八七番札所)
何故か、静御前の剃髪塚が境内にあった
・義経が、めでた静の黒髪が、静かに眠る、この塚に。
二十 志度町の志度寺(四国八六番札所)
創建は藤原不比等とのこと。海辺に建立。五重塔も見事である。
・藤原の、時代築いた、策士の不比等、四国に志度寺、なして創建?。
・隣の寺で、(平賀):源内様も、眠っている。
二一 牟礼町の王墓(おうはか)古墳(宮内庁管理の皇子墓)
> 牟礼町は西村さんの育った処、子供の頃、この付近で遊びまわったとのこと。でも、古墳の中には入れなかった。今回は無断で突入。
・かまうものかと、立ち入った、よく清掃、紅葉きれいな、丸い墓。
<>二二 屋島の屋島神社(高松松平藩の讃岐東照宮)
西村さんの中学時代は剣道部、ここの石段で、兎飛び鍛錬をされたと言う。観光客は山頂の屋島寺(八十四番札所)に行くが、中腹の屋島神社は素通り。借景の屋島山頂の岩山に趣があり、見逃せない処。・長い高い石段登り、屋島の岩山、背に借りて、さすが讃岐の東照宮。二三香川〜鳴門の高速道路この春、全面開通した。引田から大坂峠をトンネルで抜けて、徳島側に抜けられるようになった。帰路大阪まで高速道路で二時間余。
・阿讃山脈、トンネルで抜け、鳴門の古墳も、下をくぐて海峡に。
二〇〇二・十二・十五
連載小説『彩神(カリスマ)』 第十話
◇◇◇◇◇◇◇◇
古田武彦著『古代は輝いていた』より◇◇
深津栄美
〔概略〕冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ツ児の島(現隠岐)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに 現壱岐・対馬)に漂着、その子孫は韓(から)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(あとら)は天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。対岸に栄える出雲の王司八千矛(やちほこ)は、因幡の八上との間に息子木俣(くのまた)を設けていたが、蛮族に迫害され、母子は縁続きの木の国(現、福岡県基山付近)へ逃れ、八上はそこの主(あるじ)大屋彦の後妻(のちぞえ)となる。が、彼の娘五月と滾が木俣を巡って争い、妹に敗れた五月は逆上して岩屋へ閉じ籠もり、折しも日食が起きた為、巫女(みこ)の鈿女(うずめ)は懸命に「日招き舞い」を演じ、無事、太陽と主君とを外へ連れ戻す事に成功する。
◇◇◇◇
崖(がけ)に、夜目にも白く波飛沫(しぶき)が上がっていた。松林の中にいるせいか、潮騒が遠く聞こえる。
秋津野に人の懸(か)くれば朝蒔(ま)きし 君が思ほえて嘆きは止(や)まず……
(『万葉集』第七巻一四〇五番)
(秋の野で人々が狩りをしているのを見ると、遂この間まで元気だったあなたの事が忍ばれて、一層悲しくなる。)
薦(こも)に包まれ、戸板に載った死者を葬う行列が道をよぎり、風が挽歌を低い呟(つぶや)きに変えて運んで来た。
下照にはまだ信じられなかった。夫の天若彦と兄の高彦根が、刺し違えて死んでしまうだなんて……しかも、対海(つみ対馬)の使者の雉子鳴女(きぎしなきめ)を争うとは……?
夫が侍女頭の探女(さぐめ)やその妹鈿女と関係を持っているのは下照も気づいていたが、鳴女は良い加減甲羅を経たような老婆ではないか。兄も夫もそこまで物好きとは考えられない。特に兄は、自分に馬や弓を教えるだけでなく、性の手解(てほど)きまでしてくれた「人生の師」なのだ。
「下照殿、ここにおいででしたか。」
不意に呼ばれて、下照は兄との密会現場を抑えられたように真赤になった。
「ああ、八島士(やしま)奴美(ぬみ)様……。」
かろうじて平静な声を保つ。兄との情事(こと)は二人だけの秘密だった。増して、目の前の上品な中年の男性は、天国にとっては宗主に当たる大国(おおくに 後代の出雲)の皇子(みこ)なのだから。
「この度は、真にお気の毒でしたな。」
八島士奴美と並んで、青銅の杖を携えた老人が近づいて来た。背に解き流した髪も太い眉も口髭も波飛沫(しぶき)に劣らぬ白さだが、眼光は鋭く、声音(こわね)も足取りも矍鑠(かくしゃく)たるものだ。八島士奴美が末廬(まつろ)国(現佐賀県松浦郡)の王女を娶(めと)り、白日別(しらひわけ 北九州)に落ち着いて以来、彼の片腕を勤めていめ軍司令(いくさのつかさ)猿田彦だ。
「木の国の八上太后や御井(みい)の県(あがた 現福岡県三井郡)の木俣(くのまた)君と滾(たぎつ)様も、弔辞を申し述べて来られましたぞ。」
「皆様のお心遣い、かたじけのう存じます。」
一礼した拍子に、下照が胸に下げていた透明な玉蔓(かづら)が、男達の目を射た。
「素晴らしい首飾りですな。」
思わず八島士奴美が先端をつまみ上げたのは、白い方が粒よりの真珠だったからだ。
「これは兄の形見で……。」
下照は両袖で我が身を庇う仕草をし、折から顔を覗かせた侍女の方へ走り寄って行った。
だが、男達は松明の光で、下照の玉蔓(かづら)の結び目が、
玉かづら懸けぬ時なく恋ふれども いかにか妹(いも)にあふ時もなき
(『万葉集』第十二巻二九九四番)
(珠玉(たま)を連ねた飾り紐(ひも)のように、あの女の事を思い続けているというのに、会える時はない。)
と、恋歌を表しているのを見逃さなかった。
(続く)
〔後記〕北朝鮮の拉致事件で「主役」を勤めたスパイという仕事、実は大昔から存在したようで、『日本書紀』(岩波書店刊)の推古天皇九年九月八日の件に、
「新羅の間諜(うかみ)の者迦摩多(あまた)、対馬に到れり。」
と、あります。日本では、文献上にスパイが登場する最初の例という事ですが、この迦摩多(あまた)は捕まって上野(かみつけの)へ流されたとありますから、人拐(さら)いは勿論、007のような派手な大立ち回りを演ずる暇もなかったようです。
尚、作中の読み人知らずの万葉歌の訳は、私の独断である事、お断りしておきます。 (深津)
奈良市 水野孝夫>
若葉して御目(おんめ)の雫しずく)拭(のご)はばや。
芭蕉は奈良の唐招提寺へ詣でた折、鑑真和上の像を拝観し、唐から日本への渡海に苦労して、視力を失った鑑真の労苦を偲んで詠んだのであるが、逆説すれば木像のすばらしさがこの句を生んだ、すぐれた像は想像力を刺激するようだ。
鑑真より先に、はるばる渡日した高僧があった。菩提僊那(ぼだいせんな)である。東大寺大仏の開眼に当って導師をつとめた。つまり大仏の眼に墨を入れる役である。使われた筆は、正倉院に伝わる。
開眼式典では、この筆を菩提僊那(ぼだいせんな)が持ち、筆に長い縷(紐)が繋がれていて、その縷に聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下高官たちがすがり、感涙にむせんだのである。
菩提僊那は晩年、奈良市西郊・霊山寺の地に葬られたという。
私はその霊山寺のすぐ北に住んでいる。初詣に行くと茶席の接待が楽しみである。ここに墓があるとされてきたが、墓塔らしいのは実は慰霊塔であって埋葬施設はなかったことが発掘で確かめられた。霊山寺が菩提僊那の木像を造られたのは昭和六十三年である。本堂へ参詣すると、この像におめにかかれる。私はこの像の前で時間を過ごすのが好きである。写真も入手した。東大寺は寺の創建にかかわる聖武天皇、良弁僧正、行基菩薩、菩提僧正(菩提僊那)を四聖として崇敬しているが、菩提僧正のみその肖像が伝承されていなかった。昨平成十四年の大仏開眼千二百五十年記念にはじめて、その木像が造られた。奈良国立博物館での記念展にはその木像も出展され、私は拝観した。すばらしかった。像の写真を期待して、展示の公式パンフレットを入手したが、残念なことにこの像の写真はおろか、出展されたこと自体記載されていなかった。その後探したが、東大寺のホームページを見てもこの像の公開に関する情報はない。今年の若草山山焼きのとき、東大寺の寺務所を訪ねてみた。残念なことに写真は市販されていないことが確認できた。像を拝観できるのは五月二日の聖武天皇祭のときだけだそうである。写真が公開される日を期待したい。
読者の関心のある時代から少しはずれただろうか。菩提僊那(バラモン僧正と呼ばれ、インド生まれで青い目だったと伝わる)が渡来を決意したのは、日本の遣唐使に乞われたのもあるが、彼が文殊菩薩と信じた先人、布教のためインドから日本列島へ進んだ高僧にならおうとしたからであるようだ。「先徳図像」(東京国立博物館蔵)の菩提僊那像には次のようにある。「婆羅門僧正東大寺文殊在倭尋之経過来似萍浪(以下略)」。インド生まれで倭へ渡った先人となれば、九州雷山千如寺を創建した清賀上人ではないだろうか。
(2003.01.17記)
池田市 平谷照子
昨秋、「日本古代史の南船北馬」(室伏志畔著)という本が出ました。この中に福岡県糸島郡志摩町の船越に鎮座する「若宮神社」の写真がありました(二九頁)。写してあるのは神社の全景ではなく、お社の正面にかかっている「若宮神社」「古計牟須姫命」、この二枚の額です。これがまるでピカピカの新品のように写っています。朝日か夕日に照らされているように。
平成九年(一九九七)四月、国民休暇村志賀島が“「君が代」の源流を訪ねる旅”というのを主催しました。その時のコースにこの「桜谷神社」が組まれていました。参加者は三十数名。案内をされたのが灰塚照明さんという方でした。
志摩町船越にある桜谷神社は、狭い坂道を少しばかり登り詰めた奥まった所にあって、世間の目から隠れている、そんな印象をもちました。全員が社頭に並び切れなかったほどの場所であったことを覚えています。私の目をひきつけたのは、神社より傍らにあった祠というか、古びた木箱というか、その中に置かれた、紅白の布を巻き付けた黒みをおびた丸い石の御神体でした。木札に「古計牟須姫命」と、上手でない字で書いてありました。
バスの中で読んだ「旅の栞」には、
「桜谷神社、桜谷にあり。若宮大明神という。
祭神、木花咲耶姫神、苔牟須売神。(又、ニニギノミコトなるべしとの説あり)
祭日十一月五日。
寛永元年十一月五日、浦の漁人仲西市平の妻に神告ありて、初めて勧請せしという。文政六年再建せり。」
この来歴を読むと、桜谷神社の苔牟須売神というのは、江戸時代の初期に神憑りがお告げをうけて祭られた「お姫さま」ということです。ところが、現地にまいりますと、前述の石神さんは「古計牟須姫命」と書いてあり、若宮神社の祭神名も「古計牟須姫命」となっていて、「苔牟須売神」はいらっしゃらないのです。
件の石神さんの前では数人の人が群がりカメラを向けていました。その人たちの背越しに石神さんを見ていた私の耳に、……廻船問屋ナカニシワタローの妻フクミが神憑りして……そういわれる灰塚さんの声がして思わず灰塚さんに視線を向けました。神憑りして「古計牟須姫」を顕わしたのは、先ほどの「旅の栞」では漁人仲西市平の妻とされていたのに不審に思って、そのあと、それを尋ねますと、
「地元の言い伝えでは廻船問屋ナカニシワタローの妻フクミに神告があったとはかされました。」ということでした。
「それに、ここは、私(わたくし)の神社なンです。」
と灰塚さんは付け加えていわれました。
私(わたくし)の神社ということは「古計牟須姫命」はナカニシ家が自家の守護神として神社を建てて祭っているということになると思います。世間の目から隠れていると感じたのは、そのせいでしょうか。
「旅の栞」の「桜谷神社」の由来について出典は『糸島郡誌』(一三一七〜一三一八頁)であることを後に知りました。
「コケムスヒメ」のことを漢字で「古計牟須姫」されているのは、神憑りした女性に神の側から、「このように……」と字を示されたからであろうと思います。糸島郡誌は理由はわかりませんが、「古計牟須姫」を「苔牟須売神」としていることは理解できません。桜谷神社は?です。(平成十五年一月二十二日)
〔編集部〕本稿に紹介された灰塚照明氏は昨年八月十三日、御逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
豊中市木村賢司
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
お正月に古田史学論集二集をくっていると、東京古田会の会長・藤沢徹氏の「古田先生の古稀を祝って」に、古田史学の結晶として三九項目のキーワードが記載されていた。
古田先生が京都に戻られて七年になられる。今年八月八日には、喜寿を迎えられる筈である。先生は気力、体力共に今もみなぎっておられ、傘寿、米寿はおろか白寿も夢ではない、と思える程お元気である。
キーワードはこの七年間で随分増加している。ちょっと思いおこすだけでも、粟門、大和島、うばすて山、けの神様、鳥居、教科書犯罪、古墳の軍事要塞、吉野の滝、夕庭、唐掘、人獣鏡、無紋銀銭、曲水の宴、隠密拒絶……と次々浮かぶ。その時にふと思った。これら古田先生の研究から生まれたキーワードを使って「いろは歌留多」ができないか、と。
い…壹の字で、扉開いた、真実古代。
ろ…論理の、導く処、行こうではないか。
は…はっきり区分、七〇一年、ONライン。
キーワードが沢山あるので、字余り、字足らず無視すれば出来そうである。でも、古田史学まだ浅学の私では、重要なポイントが欠け、面白さも重みも欠ける。ここは、古田史学の史学仲間の智慧を載き、後々まで親しまれる最適の古田史学歌留多」を作るのが一番良いと考えた。
水野代表に相談すると、一応賛成であるが、お前が歌留多句の募集案を考えよ、と言われた。
年末に「古田史学会の歌」案を作り提案したが、なじまない、と賛成戴けなかった。今度は何とか「歌留多」をものにしたい。そこで、募集案を作った。主旨に賛同戴き、何卒これぞ「古田史学の精神、神髄」とみる句を応募お願い致します。
「古田史学歌留多」募集要領
1.応募資格
「古田史学の会」会員および「東京古田会」「多元・関東」の有志。
2.応募句数
(イ)いろは四七文字全句
(ロ)四七文字の内、すきなだけ。これはと思う数句、珠玉の一句でも可。
(ハ)絵付き歌留多も歓迎。
なお、漢字には「ふりがな」を必ず付して下さい。3.句の文字数
川柳形式則ち五・七・五または五・七・七が標準。字余り、字足らずも語呂がよければOK。なお、古田先生創生のキーワード(語録)を必ずしも入れる必要はない。これぞ古田史学と言える句を。
4.応募先
古田史学の会全国世話人木村賢司の住所に、葉書、手紙、FAXのいずれかで。
5.応募期限
三月三一日迄。
6.謝礼
なし。選定された句は、古田史学会報八月号にて報告。その時にその句の応募者氏名を明記。
7.先生に贈呈
八月八日、先生が喜寿を迎えられた日に、清書した「文字歌留多」を贈呈する。
応募戴いた句の選定は、関西在住の、「古田史学の会」役員・全国世話人・会員の有志で行う。代表が最終決定する。
古田武彦氏新年講演会
昨年12月の古田史学の会・関西例会と本年1月に開催された古田武彦氏新年講演会の様子が大阪の地元紙「大阪日日新聞」で大きく紹介されましたので転載します。
古田史学への共感の輪が広がり、古田史学の会の活動も評価されてきたようです。
古田史学の会・四国
昨年十月に発足した古田史学の会・四国で、毎月の第一土曜日に例会が行われることになり、その第一回が二月一日、北条市ふるさと館において開催された。当日は会員や非会員三十名が出席し、合田洋一氏により古田史学に基づいた古代史の講義が行われ、初めて聞く多元史観に参加者からは好評を得た。また、新たに五名の入会があり、今後も入会が続く見通しである。
例会は基本的に毎月の第一土曜日に開催される予定である。四国の古代が多元史観により、今後解明されていくことであろう。なお、四国の会の例会開始により、古田史学の会による例会活動は、北海道(札幌市)・仙台・東海(名古屋市)・関西(大阪市)・四国(北条市)の五地域となった。
古田史学の会・四国の役員は次の通り。
代表竹田覚氏
顧問山田憲正氏
世話人合田洋一氏
□□事務局だより□□□□□□
▼五月四日、神戸の白鶴美術館にて古田武彦氏の講演会が行われます。次号でご案内いたします。
▼『新・古代学』七集の原稿を募集中です。締め切りは四月末日。編集担当は多元的古代研究会・関東ですが、本会会員の原稿は一旦本会で選択した上で編集部へ送りますので、投稿は本会事務局までお願いします。
▼木村さん提案の古田史学いろはカルタへの応募もお願いします。古田先生への喜寿のお祝いにあなたの作品を。
▼本号が届く頃、古田先生は米国スミソニアンへ講演に。古田史学が海外にも広がっています。本年を飛躍拡大の一年に。そして、国内でも活発な例会活動を進めたいものです。ご協力をお願いいたします。@koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
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