古賀達也の洛中洛外日記 第72話 2006/04/21実見、「三壬子年」木簡
白雉改元の史料批判 盗用された改元記事 古賀達也 へ
「元壬子年」木簡の論理 古賀達也(会報75号)
木簡に九州年号の痕跡
「三壬子年」木簡の史料批判
京都市 古賀達也
一
本年三月の古田史学の会・関西例会で、わたしは「木簡のONライン─九州年号の不在─」というテーマを発表した。その中で、一九九六年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡について紹介した。『木簡研究』第十九号(一九九七)によれば、表裏に次のような文字が記されている。
「子卯丑□伺(以下欠)
「 三壬子年□(以下欠)
下部は欠損しているが、この壬子年は六五二年、『日本書紀』の白雉三年に当たり、紀年を記した木簡としては二番目に古いとされる。注(1) さらに『木簡研究』には次のように記されている。
「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」(木簡研究』第十九号、一九九七)
もしこの「三壬子年」の「三」の字が『日本書紀』の白雉三年のこととすれば、これは重要なことである。何故なら、従来は年号の初めは大化で、その後に白雉が続くとされてきたのであるが、近年では『日本書紀』の大化や白雉・朱鳥の年号は使われなかった、あるいは『日本書紀』編者の創作で実際はなかったとする説が有力だからである。こうした有力説に対して、この木簡は白雉年号があったという証拠になるのだ。
更に重要なことに、九州年号説の立場からすると『二中歴』など 注(2) に記された九州年号の白雉は『日本書紀』の白雉(元年は六五〇年庚戌)とは二年ずれていて、元年は壬子の年(六五二)となっている。従って、この木簡が正しければ、『二中歴』などの白雉年号は正確ではないということになり、九州年号の原形を見直さなければならないからである。
なお、『二中歴』などの九州年号「白雉」が『日本書紀』の「白雉」と二年ずれているという史料状況は、九州年号真作説の根拠となる論理性を有し、『日本書紀』の白雉年号は九州年号からの「年次をずらしての盗用」ということになるのだが、この点については拙論「朱鳥改元の史料批判」(『古代に真実を求めて』第四集。二〇〇一年、明石書店)も参照されたい。
二
「三壬子年」木簡がこうした重要な問題をはらんでいることに気づいたわたしは、ある疑問をいだいた。この「三」という字は本当に「三」なのだろうか。「三」ではなく「元」ではないのだろうかという疑問だ。そこで『木簡研究』掲載の写真やインターネットで左記ホームページの写真を見てみた。そうすると、何と「三」の字の第三画が薄くてはっきりと見えないばかりか、その右端が上に跳ねてあるではないか。というわけで、この字は「三」ではなく「元」と見た方が良いと思われた。左記ホームページに同木簡の写真が掲載されているので参照されたい。
参考 三条九ノ坪遺跡木簡(1点)(平成13年度指定)
三条九ノ坪遺跡木簡(1点) – 兵庫県立考古博物館|ひょうご ..
http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html
(リンクがなくなれば「三条九ノ坪遺跡木簡」で検索してください。)
このように、わたしの判断が正しければ、「元壬子年」となり、九州年号の「白雉元年」と干支がぴったりと一致する。すなわち九州年号実在説を裏づける直接証拠ともいうべき画期的な木簡となるのである。
三
そこでわたしは去る四月二一日、古田武彦氏等 注(3) と共に、神戸市にある兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所へ赴き、同木簡を一時間半にわたり調査実見してきた。もちろん、最大の観察点は「三」と読まれた字だ。結論から言えば、この字はやはり「元」と読まざるを得ない。ちょっと見た感じでは「三」とも読めそうなのであるが、詳細に観察した結果、次の理由から「元」であると判断した。
(1) 第三画の右端が「三」とすれば極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ね上げられていた。そして下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠と言える。
(2) 第三画の真ん中付近が切れていた。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた(大下隆司氏撮影 注(4) )。従って、「三」よりも「元」に近い。
(3) 第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずなのに、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡と思われる。
(4) 木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象である。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当することに注(5) 第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡が認められた。これは「元」の第四画の初め部分と思われる。
以上の理由から、従来「三」と読まれていた字は「元」であると判断せざるを得ない。今回実見してわかったのであるが、同木簡は漂白処理が施されており、写真で見るよりも色が白く、そのため墨の痕跡が肉眼でもよく判別できた。もちろん、光学顕微鏡も持ち込んで観察したが、上記の点は肉眼でもはっきりと判読できた。これは大変恵まれた史料状況と言えよう。その他の字も確認したが、「三」以外はほぼ『木簡研究』に載せられた釈文で良いように思われた。断定はできないが、表面の「伺」とされた字は「向」とも見えた。
四
同木簡の文章の研究を含め、今後も調査を行う予定であるが、現時点では「元壬子年」と見なすべきであり、九州年号の白雉元年壬子(六五二)を示す貴重な木簡であると言わざるを得ない。
九州年号「白雉」の痕跡を有していた今回の木簡「発見」は、今後の九州年号研究の発展を促すであろうし、事は「白雉」のみにとどまらず、『日本書紀』で白雉の直前におかれた「大化」も九州年号からの「年次をずらしての盗用」であること、論理的帰結として受け入れなければならないであろう(『二中歴』では、白雉の直前の年号は「常色」。「大化」は元年を六九五年乙未とする。)。そしてこのことは、『日本書紀』に記された一連の「大化の詔勅」記事も九州王朝からの盗用ではないかとする古田氏の指摘が現実味を帯びてくるのである。
最後に、木簡調査を快諾していただいた兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所の皆様に心より感謝申し上げたい。
(注)
(1) 紀年を記したものでは難波宮出土の「戊申年」(六四八)木簡が出土しているものでは最古である。
(2) 『二中歴』をはじめ、『海東諸国紀』など多くの九州年号史料に、元年を壬子(六五二)とする白雉年号が見える。
(3) 古田武彦氏、谷本茂氏、小林嘉朗氏、大下隆司氏、古賀達也。
(4) 大下隆司氏撮影による赤外線写真は、古田史学の会ホームページ『新・古代学の扉』に掲載されている。
古賀事務局長の洛中洛外日記 第72話 2006/04/21 実見、「三壬子年」木簡
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
古田史学会報74号へ
古田史学会報一覧へ
ホームページへ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"