『松前史談まさきしだん』第25号(平成21年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
合田洋一
編集部注 ーー平成20年7月12日(土)松前町北公民館で開催された松前町・町民企画講座で松山市在住の市井の歴史家合田洋一氏(古田史学の会・全国世話人)に講演をお願いしました。2時間30分に亘るお話でしたが、紙面の都合上首記表題の要旨のみを掲載させて頂きます。なお、この他に南北朝時代の松前城主合田弥四郎貞遠のルーツについて、道後温泉にまつわる歴史伝承の真実、九州王朝の点描、国歌の「君が代」は“九州王朝の賛歌”、など多岐に亘りましたが、またの機会に譲り本号では割愛させて頂きました。
皆さまこんばんは。只今ご紹介賜りました合田洋一です。どうぞよろしくお願い申し上げます。大勢の方にお越し戴きまして、誠に光栄の極みです。ありがとうございます。
それでは、本日のテーマ「日本の神話と古代史」について、お話しをさせて頂きます。
さて、皆さま「日本の神話」について、少しでもご存知の方お手を挙げて下さい。そうですね。お年を召した方は皆さんご存知だと思いますが、先の大戦後の教育を受けられた殆どの方は知らないのではないでしょうか。戦後の教育では日本の神話は架空の話として抹殺されたからです。それは、戦前弾圧された津田左右吉博士の唱えた「津田史観」が戦後もてはやされ、神話は現存するわが国の歴史書である『古事記』 1(以下『記』と言う)や『日本書紀』 2 (以下『紀』と言う)の造作とされ、また明治時代から昭和二十年まで続く、天皇家中心主義の「皇国史観」に結び付くということで、歴史教育の中で完全否定されたことによります。しかしどうでしょう。世界中のどの国・どの民族にも国の成り立ちや、民族の成り立ちの話が存在します。「アダムとイヴ」の話もそうです。それなのに、日本国だけ・日本民族だけ神話はなかったのでしょうか。
神話にはロマンがあることはもとより、それぞれの民族固有の歴史的事実をなにがしか伝承する役割があるのではないでしょうか。ありていに言えば、古代の人々がごく普通の日常生活や出来事を、伝承として神話に託しているのではないか、と考えます。
また、神話に登場してくる「ーーの神」「ーーの尊(命みこと)」などは、神道では人が死ねば「ーーの神」「ーーの尊(命)」となります。ちなみに仏教では「仏ほとけ」となります。日本は「八百万やおよろずの神」と言われ、石や山など何でも神様になりますが、人間模様の神さまは、概ね実在の人物であったと考えるべきではないでしょうか。
私は子供の頃、祖父から神話を教わりました。家には米俵二俵の上に胡坐あぐらをかき、左手で袋を担ぎ、右手に打出の小槌を持った大きな木造が飾ってありました。これは「大国主命おおくにぬしのみこと」またの名前を「大黒様だいこくさま」と言って日本で一番偉い商売の神様・庶民の神様なのだ、と。また故郷の北海道の江差で、京都の祇園祭の流れを汲み、元禄時代から続いている夏祭りに、十三台の山車だしが出ます。その山車にはそれぞれ人形が飾られておりまして、その中に「瓊瓊杵尊ににぎのみこと」「神武天皇じんむてんのう」「神功皇后じんぐうこうごう」などがあり、これらの人物の事跡について毎年繰り返し繰り返し聞かされたのでした。そのせいもあって、いやでも歴史好き・神話好きになってしまいました。
それでは、本日のテーマ「天照大神は実在した」について話を進めたいと思います。
天照大神は神話の中心をなす神様で、天皇家の祖神とされております。この神様を祀っているわが国一番の格式のある神社は、皆さまもご存知だと思いますが伊勢神宮です。
また、皆さまのご家庭にある神棚の中心の扉を開けますと、その中にお札ふだが収められております。「天照皇大神宮」と書かれており、これが天照大神なのです。なお、一般家庭でこの天照大神を祀る信仰は、江戸時代の「お伊勢参り」に起因しているようです。「お伊勢参り」の帰りに「天照皇大神宮」のお札を貰って来るので、それを飾るために神棚が作られたようです。そうなると、神棚を祀っている家すべてが、伊勢神宮の氏子にもなるわけで、神話が否定されても、それは日本人の心の中にしっかりと存在していると言っても過言ではありません。そして、この神さまはわが国古代史の中では最も重要で、実在の人物だったのです。
わが国の神話は、『記・紀』それに各地で編纂された「風土記ふどき」3 などに見られます。この内、国の成り立ちを示す「国生み神話」が『記・紀』に語られております。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「伊邪那岐命いざなぎのみこと」「伊邪那美命いざなみのみこと」の二柱が結婚するくだりはあまりにも有名です(『記』岩波書店より引用)。
「二柱ふたはしらの神、天の浮橋あめのうきはしに立たして、その沼矛ぬぼこを指し下ろして畫かきたまえば、鹽しおこをろこをろに畫き鳴なして引き上げたまふ時、その矛の末さきより垂したたりり落つる鹽しお、累かさなり積つもりて島と成なりき。これ淤能碁呂島おのごろしまなり。その島に天降あまくだりまして、云々」
ここまでは皆さまもご存知だと思います。ところが、これからお話ししますことは、皆さまは初めてお聞きになることだろうと思います。これは『記・紀』に書かれていませんし、通説とは全く違いますので、さぞかしびっくりされることでしょう。ですが、これがわが国古代史の真実です。私はそのように確信しております。
その前に、従来のわが国の古代史は、大和やまとの天皇家が古代から日本列島の統治者であったという、いわゆる「万世一系・大和朝廷一元史観」に彩られておりますが、これに対して元・昭和薬科大学教授の古田武彦先生は「多元史観」を初めて提唱されました。この「多元史観」は「古田史学」とも言われ、古代の日本列島は各地に王朝・王国があって、最初の列島統治者は「出雲王朝」、次いで「九州王朝」、そして701年より「大和王朝」となると言うものです。4
それでは、私も支持するこの古田説を基本としながら、神話の話を進めてまいります。
まず、『記・紀』で語られる「国生み神話」は、一体どのような成り立ちで創られたのか、これについてお話ししたいと思います。 5
結論から申し上げますと、三重構造の神話となっています。古い順から述べますと、
その一は ーー旧石器・縄文時代の神話ですーー 淤能碁呂島にて結婚し、最初に生まれたと記された水蛭子ひるこ・淡島あわしまは、『記・紀』を作成した後述の天族あまぞくの子孫からは、疎外されて障害児扱いにされ「国」の枠から除外されてしまいました。しかし、この「水蛭子神」(男性の太陽神)は、旧石器・縄文時代の神と考えられ、為政者の思惑とは違って、今日に至るまで全国的に広く祀られている神です。その中心をなす神社は兵庫県の西宮神社です。
その二は ーー瀬戸内海神話ですーー 大八島(おおやしま・香川県屋島)を中心にして東の淡路島そして西の伊予二名島(北条ーー拙書 6 7 8 を参照されたし)を左右に配し、それに吉備児島(岡山県児島半島)・小豆島(香川県)・大島(山口県)・女島(大分県姫島、黒曜石の産地)など、瀬戸内海の特殊な地・重要な地が次々と国生みされます。これらの地には、それぞれの神話があったと考えられます。例えば、伊予之二名島「いよのふたなのしま この島は身一つにして面おも四つあり、面ごとに名あり。伊予国は愛比賣えひめといい」とあり、また讃岐国は飯依比古いいよりひこ、阿波国は大宜都比賣おおげつひめ、土佐国は建依別たけよりわけ、吉備児島は建日方別たけひかたわけ、小豆島は大野手比賣おおのでひめ、大島は大多麻流別おおたまるわけ、女島は天一根あめのひとねなどであり、それぞれの亦の名(古名)があることからも判明します。また「屋島」は「大八島」として、日本列島の代名詞の扱いで文中に組み込まれました。9
その三は ーー弥生時代の神話で、南方系海洋民族の天族(あまぞく、海士族・海人族とも書く)の神話ですーー 伊伎島(壱岐)・津馬(対馬)・隠岐三子島(隠岐諸島)・筑紫(福岡県)・大倭豊秋津島(別府湾岸・安岐町)など、天族の当初の勢力範囲であった地域を、「国生み神話」の一連の仕上げとして、その根幹に据えました。そしてこのあと、天照大神などの人名の神様を次々と産んでいきます。
このようにわが国の成り立ちを示す神話は、三つの悠遠の時代を組み合わせた構成になっているようです。10
ところで、『記・紀』に言う「島」の概念は、アイランドの意だけではなく、古代においては「人の生き死にする場所」の意があり、一地点・一地域を表しております。現在でも、長野県の南木曽町では平地を島と呼んでおり、また“やくざのシマ”も同じことです。なお、『記・紀』の神話は、「“くにうみ”神話」であり「“しまうみ”神話」ではありません。
それではいよいよ天照大神の話に移りますが、古田武彦著『「風土記」にいた卑弥呼』 11 より、その概略を示します。対馬に「阿麻氏*留あまてる神社」というのがありまして、ここに次のような伝承が残されております。
氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10
「わたしの方の神様は、一年に一回、出雲へ参られます。神無月(旧暦十月)です。その時出雲へ行かれます神々の中で一番最後に参られて、一番最初に帰って来るといわれております。その季節はわたしたちが舟で出雲に行き帰りするにも、一番行き来しやすい時期に当たっております。」
と。これは神社の氏子総代で古老の漁師・小田豊さんの話です。
この伝承は出雲の王(この頃は大国主命つまり大黒様)と天照大神の位置関係を明瞭に示しております。つまり、出雲の王が主人で天照大神は家来だったのです。「神無月かんなづき」とは良く言ったもので、全国各地の神様・すなわち各地の王様が、その土地に居なくなる、つまり江戸時代の参勤交代のように出雲の神様・すなわち出雲の王様の所へ伺候することを言います。その証拠に出雲では「神有月」と言い、決して神無月とは言いません。出雲へ一番最後に行って一番最初に帰るということは、出雲の王に拝謁するのに他の王より待たなくてすむからです。従って、天照大神は出雲の王の一の家来、家老格だったことが窺えます。
では次に、この天照大神とは一体何所の何者なのかについてお話しさせて頂きます。
結論から申しますと、天照大神は対馬・壱岐・隠岐島を本拠とする南方系の海人族(海士族・天族)の女王です。
ところで、日本人は一体何所から来たのか、そのルーツを求めて近年様々な説があります。種々の説を考察の上、大雑把ですが、日本列島が大陸と陸続きの頃、つまり旧石器時代に北方からマンモスなどを追ってモンゴルやロシアの沿海州民族などが「ソ」の神様、つまり、木曽きそ・阿蘇あそ・阿蘇部あそべ・勿来なこそ・熊襲くまそ・久曽くそなどに見られる「ソ」を戴いてやって来ました。
次いで日本列島が今のように形作られた縄文時代の頃、やはり北方系の沿海州民族などが「ケ」の神様、オバケ・モノノケ・津保毛つぼけなどに見られる「ケ」を戴いてやって来たのです。
また、縄文から弥生時代にかけて沿海州民族の一派(オロチ族か)がズウズウ弁を持って津軽と出雲にやって来たと考えられております。この民族は「チ」の神様、足名椎あしなづち・手名椎てなづち・八俣大蛇やまたのおろち・大穴牟遅おおなむちなどを戴いていたのです。
そして一番新しいのが南方系の海人族です。これは「カ・ミ」のいわゆる神様、「カ」は皆さまお馴染みの「かかあ・おかか・かあさん」なども該当すると私は考えておりますので、ここにお越しのお母さん方はみな神様なのです。(笑い)そうです。大事にしなければなりませんよ。「ミ」は魑魅魍魎ちみもうりょう・伊邪那美いざなみなど、これらを戴いてやって来たのです。12
この海人族は、中国の杭州湾地方からやって来たとも言われておりますが朝鮮半島と九州の丁度中間に位置する対馬・壱岐を本拠地として、海峡国家「天国あまくに」を建国するのです。海人族は航海術を武器に交易を生業なりわいとして勢力を貯えていきます。当初は隠岐島の黒曜石を主要交易品として、その後は朝鮮半島から青銅器や鉄器をもたらして富と勢力を築いていたのです。ここは日本列島の最先進地帯でもあったのです。
この当時の日本列島の政治的状況は、中国の史書によって垣間見ることができます。それは、中国漢代の『論衡ろんこう』 13 に、倭人が周の成王(紀元前1115〜1079、「東方年表」による)に「鬯草ちょうそうを献じ朝貢した」(鬯草とは薬草のことか)という記事があります。また、周初(紀元前11世紀)の記録とされる『尚書しょうしょ』 14 や、『礼記らいき』 15 にも、倭人と思われる東夷の記述があるのです。
これらのことから、従来の区分でいう縄文時代晩期には、日本列島に既に政治集団があり、中国と交流していたことが解ります。
青森市に忽然と現れた縄文集落、三内丸山さんないまるやま遺跡は縄文時代前期後半から後期にかけての紀元前3500年〜2000年とされています。あのように大きな集落の存在は、これまで誰もが夢想だにしなかったことでしょう。縄文時代と言っても、決して野蛮で未開の時代ではなかったのです。
従って、紀元前1100年頃の周の成王時代に、日本列島に原初的な王国・王朝があっても不思議ではなかったのです。
この点は、最近の「放射性炭素〈14C〉測定」による「縄文水田」の年代俎上(約500〜800年)によって一段と正確に“裏付け”られました。中国の史書に記録されていた倭に関することがらは、正しく日本列島の当時の状況を現しており、新しい区分により縄文時代晩期から弥生時代前期のこととなったのです。
次に、中国の『漢書』地理誌 16 に、
「楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す。歳時を以て来献す。と云う」
とあります。
つまり日本列島には百余国の国があると書かれており、部族国家〈クニ〉分立の時代でした。それが定期的に中国に朝貢していたというのです。
この記述は漢の武帝(紀元前141〜87)の頃のことですが、前掲『論衡』と『漢書』は同時代の人の記述であるので、これについても時代がずっと遡っての日本列島の政治形態を現しています。
大幅に遡ることになった弥生時代の前期には、既に日本列島各地に部族単位であったり地域を統率したりする小規模の国があり、中期にはそれらを支配下においた大小の王朝も各地に存在するようになったのです。
そして、この百余国が出雲王朝の支配下にあったと考えられております。伊予国もそうです。『伊予国風土記』17、に出雲の神である「大己貴命〈おおなむちのみこと・大穴牟遅命〉」や「少彦名命すくなひこなのみこと」の温泉開発の記事がありますので、出雲王朝の支配圏であったと考えられます。なお、大己貴命が大国主命と同一人物であると『紀』の「一書」に書かれておりますが、時代が違い、別人です。
この出雲王朝の最後の王が「大国主命」つまり「大黒様」です。時代は紀元前300〜250年くらい、今から2300年くらい前のこととなります。この「大黒様」が、一の家来であった天照大神に政権を簒奪されるのです。それを勝者の歴史書である『記・紀』には、美しく言葉を飾って「国譲り」としております。いわゆる「国譲り神話」です。しかし、簡単に事は運びませんでした。「大黒様」の子供「事代主命ことしろぬしのみこと」の抗議の入水自殺、弟の「建御名方神たけみなかたのかみ」は敵対して信州(長野県)諏訪湖まで逃げ、そこで降伏します。通説は大和朝廷に国を譲ったとしておりますが、事実は天照大神率いる「天国あまくに」による政権の簒奪です。この当時には大和朝廷はありません。
そして次なるは「天孫降臨てんそんこうりん」です。“天孫”いわゆる天照大神の孫「邇邇芸尊ににぎのみこと」による“降臨”の真実をお話ししましょう。
天照大神は、出雲王朝の最後の王“大国主命”から「国譲り」を受けたのを期に、孫の“邇邇芸尊”(弥生中期初頭、従来の考古学編年によると紀元前250〜200年頃)を九州島制圧の将に任命しました。邇邇芸尊は博多湾岸の日向(ひなた、日向峠・日向川の名が実在する)の高祖山たかすやま連峰(高祖と高千穂は同義語、高い山並みを意味する)クシフル岳(山名現存)に兵力を集結させ、ここを博多湾岸攻略の前進基地としたのです。
「竺紫ちくしの日向ひなたの高千穂の久士布流多氣くしふるたけに天降あまくだりまさしめき(中略)此の地は韓国からくにに向かい」(『記』)
天孫降臨の地の通説は、江戸時代の本居宣長が唱えた日向国(ひゅうがのくに・宮崎県)となっています。
しかし、ここにはクシフル岳はありません。また九州全島を筑紫と呼ぶのはおかしいのです。そして、ここ宮崎県からは、考古学上の出土物にも、さしたるものはなく、特に「三種の神器」や「絹」などは全く出土しません。その上、この地は韓国に向いていません。日向国の向いは土佐国幡多地方です。『記』に記された「日向」は日向国には全く当てはまらないのです。従って通説の日向国は間違いであり、その地は朝鮮半島を望見できる博多湾岸の日向ひなたのクシフル岳だったのです。
「葦原あしはらの千五百秋ちいほあきの瑞穂みずほの国は、是これ、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫いましすめみま、就つきて治しらせ。行至ゆけ宝祚ほうその隆さかえんこと、当に天壌てんじょうと窮きわまり無けむ」
(この葦原の中に稲作の稔りも豊かな国、こここそわたし〈天照大神〉の子孫が王として支配すべき土地だ。だから、お前〈邇邇芸尊、天照の孫〉がそこへ行って統治せよ。行け。わたしたちの権力と権威は永遠に繁栄することだろう)
天孫降臨説話は、邇邇芸尊が天国(対馬・壱岐)から博多湾岸の日向に天降って(潮の流れは順流なので降るとなる)、菜畑・板付の豊穣の水田地帯を攻略し、そこを統治する。このくだりは、まさに「支配宣言」なのです。
そして、この地を根拠地として、九州北部から南部まで、そして朝鮮半島南部一帯、及び出雲王朝の支配圈を順次征服・支配下においていったのです。
ここに九州王朝の誕生となりました。天照大神も邇邇芸尊も実在したのです。
『紀』に言う景行天皇の熊襲遠征説話(『記』には全く記されていません)は、この邇邇芸尊(前つ君)の九州統一譚を「換骨奪胎かんこつだったい」したものだったのです。
なお、私はこの頃から間もなく伊予国も九州王朝の支配下に入ったと考えています。
以後、九州王朝の存在は中国の史書『後漢書ごかんじょ』「倭伝わでん」18 、『三国志さんごくし』「魏志倭人伝ぎしわじんでん」19 『宋書』「倭国伝」20 、『隋書ずいしょ』「イ妥国伝たいこくでん」21 、『旧唐書くとうじょ』「倭国伝」「日本国伝」22 などに見ることができます。また、国内での残影は「九州年号」「評ひょう」「都府楼とふろう」「古代山城・神籠石城こうごいしじょう・水城みずき」など多々ありますが、別の機会にお話しできれば幸いです。
次に、大和王朝の最初の天皇と言われた神武天皇についてお話しします。
残り時間もありませんので結論を簡単に申し上げますと、実在の人物であり、出身は九州王朝の一員と見られます。大和遠征の出発場所は博多湾岸「日向ひなた」地方です。大和王朝の開祖ですが、九州王朝の分家だったのです。
注
1、『古事記』太安万侶・稗田阿礼 712年成立 岩波文庫 1963 岩波書店
2、『日本書紀』 舎人親王 720年成立 岩波文庫五冊本 1995年3月 岩波書店
3、『風土記』には、和銅六年(713)元明天皇の「風土記選進の詔」により成立した「郡風土記」と九州王朝によって大宝元年(701)以前に編纂された「県風土記」の二種類がある。
4、『失われた九州王朝 -- 天皇家以前の古代史』 古田武彦著 1973年 朝日新聞社、のち朝日文庫・角川文庫に収録
5、『盗まれた神話 -- 記・紀の秘密』 古田武彦著 1975年 朝日新聞社、のち朝日文庫・角川文庫に収録
6、『国生み神話の伊予之二名洲考』 合田洋一著 風早歴史文化研究会二十五周年記念出版 2002年7月
7、『聖徳太子の虚像』合田洋一著 2004年7月 創風社出版
8、『新説伊予の古代』合田洋一著 2008年11月 創風社出版
9、『なかった 真実の歴史学』第2号 古田武彦直接編集 2006年12月 ミネルヴァ書房
10、神話に関する古田説も最近どんどん進化・発展しており、『なかった 真実の歴史学』・『古代に真実を求めて』(明石書店)・『T okyo古田会News』・『多元』などで連載・発表している。
11、『「風土記」にいた卑弥呼 -- 古代は輝いていた1』 古田武彦著 1984年11月 朝日新聞社、のち朝日文庫に収録
12、梅沢伊勢三説・古田武彦説及び古賀達也論稿「古層の神名」(2005年12月『古田史学会報』No.71所収)などより考察。
13、『論衝』 後漢の王充撰 30巻
14、『尚書』 中国の経書、五経の一つ。先秦では『書』と言い、漢代からは『尚書』と呼ばれ、宋以後は『書』と称された。
15、『礼記』 周末・秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を収録した書。
16、『漢書』 前漢の歴史を記した書。班固撰。前漢書とも言う。
17、『伊予国風土記』 逸文として『釈日本紀』(鎌倉時代成立)に収録されている「郡風土記」である。
18、『後漢書』は、後漢の事跡を記した史書。120巻。本紀・列伝は南朝宋の范曄の撰。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志を代用。金印授与の記事あり。即ち志賀の島の金印「漢委奴国王」。
19、『三国志』は、後漢のあとの魏・蜀・呉の三国の事跡を記した史書。「魏志倭人伝」は魏史に含まれるもので、魏の冊封体制下にあった倭国を魏使が見聞した記録である。西晋の陳寿が三世紀末に著わした。女王卑弥呼の国は「邪馬壹国」(邪馬臺〈台〉国ではない)で、朝鮮半島帯方郡より総里程12000余里の所。魏の時代の一里は77メートルの短里なので、その地は博多湾岸となる。
20、『宋書』は、南朝宋の事跡を記した史書。倭国のことが記されている。5世紀成立、沈約撰。「倭の五王」の居する所は“都督府”であり、その地は太宰府(都府楼跡あり)。
21、『隋書』は、隋が滅び次の唐代の武徳四年(621)〜貞観十年(636)に、魏微らにより編纂・成立した隋朝に関する史書。「イ妥国伝」は『隋書』に含まれるもので、隋使 “裴世清”がイ妥国(倭国)を見聞し、天子“多利思北孤”に謁見した記録である。近くに“阿蘇山”ありの記述がある。
イ妥国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
22、『旧唐書』は、五代後晋の劉恂*らにより編纂・成立した唐朝に関する史書。「倭国伝」と「日本国伝」があり、日本列島上に二つの国を別国として記載している。「日本国は旧小国で、倭国の地を併す」の記述あり。つまり、近畿にあった王朝が九州にあった王朝を併合した。
恂*は、立心偏の代わりに日。
23、『先代旧事本紀』収録「国造本紀」(『国史大系』所収 黒板勝美編 吉川弘文館)
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