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『松前史談まさきしだん』』第29号(平成25年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
平成24年8月18日 松前町東公民館に於いての講演録

「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立

越智国にあった「紫宸殿」地名が物語るもの

 

はじめに

 みな様こんにちは。合田洋一です。今年も大勢の方にお集まり戴きまして、誠にありがとうございます。最後までお付き合いのほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
 さて、「松前町ふるさと歴史ロマン講座」での私の講演も今年で5回目です。
 ところで、この講演ではみな様におかれましては、今までお知りになっている日本の古代の歴史と、私の話が大きく異なることに、さぞかし戸惑われたことと思います。
 と言いますのは、通説となっている近畿の天皇家(現・天皇家)が神代の時代から日本列島を統治していたという所謂「万世一系・近畿王朝一元史観」ではなく、古田武彦氏(元・昭和薬科大学教授)が提唱された、古代においては日本列島の各地に王朝・王国があったという「多元史観」に基づくものだったからです。
 例えば、伊予国にも『先代旧事本紀』所収の「国造本紀」に記載されていた小市(越智)・怒麻(野間)・風早・伊余・久味(久米)等の国がありました。
 私は、この他にも宇摩・宇和地方にも大型古墳の遺存状況から推して、国があったと考えております。
 そして、これらの国々は近畿の王朝と “個別独立に存在”、つまり対等であって、共に九州王朝の支配下にあったことを基本に論述してきました。
 それでは、本題に入らせて戴きます。

一 「多元史観」による「九州王朝説」の根拠

 日本列島最初の宗主国「出雲王朝」から“国譲り”された九州王朝の成り立ちについては、第一回『日本の神話と古代史』 -- 天照大神は実在した(平成20年 7月12日講演、『松前史談』第25号所収)で論述しましたので、ここでは頁数の関係もあり割愛させて戴きます。
次に、第2回以降お話してきました九州王朝の存在は、中国の史書『三国志さんごくし』・「魏志倭人伝ぎしわじんでん」、『後漢書ごかんじよ』・「倭伝わでん」、『宋書』「倭国伝」、『隋書ずいしょ』・「イ妥国伝たいこくでん」、『旧唐書くとうじょ』「倭国伝」・「日本国伝」、『新唐書』など(成立年代順)、それに朝鮮半島の『三国史記』、『三国遺事さんごくいじ』、「高句麗好太王碑こうくりこうたいおうひ」『海東諸国記かいとうしょこくき』などに見ることができます。
 それに、国内での残影は「九州年号」・「評ひょう」・「都府楼とふろう」跡・「紫宸殿ししんでん」跡・「神籠石城こうごいしじょう・朝鮮式古代山城・水城みずき」など、数多く遺っております。
 ところで、これらの中国や朝鮮半島の史書は、わが国との国交に関する事、また国内状況や事績について 取り立てて“うそ”を書く必然性は無いと考えるべきです。ましてや、中国は「記録文明の地」であり、右の史書は後・王朝が前・王朝の歴史を著した「正史」なのです。但し、次に政権を勝ち取った王者は、その“大義名分”を強調するあまりに、前・王朝の最後の皇帝・朝廷を、悪者扱いするのは通例です。しかし、こと他国に関しては、軍事上の見地から調査・報告は正確さを要求されるので“うそ・ごまかし”がある、などの論は問題外と言わざるを得ません。そして、あまつさえ、わが国を調査の上、記録したものなのです。
 それなのに、これらの書は信頼できないとして「無視」し、都合の良いところだけ「切り取って、貼り付ける」歴史を作ってきたのです。わが国の「正史」とされている『日本書紀』は、「勝者(近畿王朝)の歴史書」で、敗者(九州王朝・関東王朝・吉備王国・越智王国などの各地の王朝・王国)の存在を抹殺したものなのです。それも、これらの書を基に、近畿王朝になってから現代に至るまで、日本列島の覇者は「神代より近畿王朝」であるとする人々によって、あくことなく連綿と虚偽が重ねられて来たのです。当然のことながら “矛盾の屋上屋を積み重ねた歴史”となりました。何と、それを私たちは学校で習ってきたのです。つまり、これが「万世一系・近畿朝廷一元史観」によるわが国古代史の現状です。
 一方、先に掲げた外国史料や考古学上の遺跡を正確に検証することによって、「わが国古代史の実像」に迫ることができます。これが、古田武彦氏提唱の「多元史観」による「九州王朝説」です。
 そこで、この「九州王朝説」については、過去4回で多くを延べましたので、本日はその概要に留め、同王朝の末期の話を主体に、「日本国」成立前夜のことを話させて戴きます。
 また、出典の具体的説明は、頁数の関係もあり、今までの『松前史談』(25・26・27・28号)で詳述しておりますので、割愛させて戴きます。

 

二 中国史書に見る「九州王朝説」の概要

  1、 『後漢書』「倭伝」 -- 「漢委奴国王かんのいどこくおう」の金印

 『三国志』「魏使倭人伝」に、漢に「使訳」している日本列島内の国々30ヵ国とあります。それらの国の情報を基に『後漢書』は著したと考えております。
 天明四年(1784)福岡県志賀島から発見されたとされる金印ですが、西暦57年「後漢」の光武帝から賜ったものとされています(同書に記載あり)。
 この金印の通説は、「漢かんの委=(倭)の奴の国王」と三段読みですが、これは間違い「漢の委(倭)奴の国王」の二段読みです。委奴国(いどこく、又はいぬこく)は博多湾岸にありました。

  2、 『三国志』「魏志倭人伝」 -- 邪馬壹国(やまいちこく)の所在地

 この書は、邪馬壹国の遣使、及び魏の使節の報告による。また、邪馬壹国と交戦国の狗奴国との調停に魏の軍事顧問“張政”の20年間にも亘る倭国滞在・軍事報告を基に著されたと考えます。
 これについては、第2回『真実の邪馬壹(臺)国』 -- 女王・卑弥呼の国は博多湾岸にあった(平成21年 7月11日講演、『松前史談』第26号所収)で論述しましたので、ここでは割愛させて戴きます。

  3、  『宋書』「倭国伝」-- 倭の五王 

 この書は、倭王「武」による遣使の証言、及び「武」の「上表文」などから著されたと考えます。
 同書に、「讃・珍・済・興・武」と5人の中国風一字名称を名乗る倭国王の名前が登場します。これが「倭の五王」です。『古事記』や『日本書紀』には一切登場しません。通説は、これら5人の王は近畿王朝の「応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略」の7大王の中の何れか、とされています。
 しかしながら、通説と史書上の「五王」は、名前も系譜も全く一致しません。また、「倭王武」は「使持節・都督」の称号を名乗っています。つまり、「倭国」は中国からこの称号を貰い受ける所謂「冊封体制下の王朝」でした。倭都は博多湾岸にあり、倭の五王は九州王朝の大王だったのです。

  4、 『隋書』「イ妥国伝」 -- 「日出ずる処の天子・多利思北孤の国」

 この書は、イ妥国からの「遣隋使」、及び隋の使節“裴世清”の報告に基づき著されたと考えます。
 これについては、第三回『聖徳太子の虚像』 -- 道後来湯説の真実(平成22年 7月10日講演、『松前史談』第27号所収)で論述しましたので、ここでは割愛させて戴きます。

 

三 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 -- 『旧唐書』が物語る

 九州王朝倭国と近畿王朝との関係を決定づける史料に『旧唐書』があります。
 これには「倭国伝」と「日本国伝」の二つの国を、別国として表記しています。
 「白村江の戦い」の後、唐の進駐軍(『日本書紀』天智紀では9年間に6度に亘り数千人とあるが、事実は9年ではなく662〜701年の39年間 ーー 古田説)の司令官“郭務宗*”が4回わが国に来ての報告。
 また、「遣唐使」の一員で唐に帰化して役人となった“阿部仲麻呂”の証言などを基に著されたと考えます。
      宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0

 その「倭国伝」には、

「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること、一万四千里。新羅の東南の大海の中に在り。山島に依りて居す。東西は五月行、南北は三月行。世に中国と通ず。其の国、居するに城郭無し。木を以て柵を為し、草を以て屋を為す。四面に小島、五十余国、皆焉(こ)れに付属す。其の王、姓は阿毎(あま・あめ)氏。一大率を置きて諸国を検察し、皆之に畏附す。官を設くること、十二等有り。(後略)」

とあり、また「日本国伝」には、

「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す。或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み改めて日本と為す。或いは曰う、日本は旧小国、倭国の地を併す。」

とあります。これは正に、「倭国改め日本という名を、近畿の王朝が踏襲した」と。或いは、「日本(近畿王朝)は旧は小国で、倭国(九州王朝)の地を併せた」と言っております。
 これで明らかなように、この『旧唐書』は、二つの王朝を見事なまでに、明確に表記しています。
 また、『新唐書』「百済伝」でも、白村江の戦いでの唐の交戦相手は「日本」ではなく「倭国」としています。
 ところで、中国の王朝は、外交ルールとして、その民族、その地域を代表する国「宗主国」と、正式な外交関係を結び、史書に記録するという方針を採っています。従って、それまで中国の王朝と近畿王朝との交流はあったとしても、正式なものではないので記録されませんでした。それが、倭国が滅びた段階で近畿の日本国(近畿王朝)は、大宝二年(702)に唐(事実は「周」)の則天武后に承認され、大宝三年(703)新たに正式な外交関係を樹立したのです。それは「唐朝」から始まりました。
 このことからも、日本列島の旧の宗主国は「倭国」(九州王朝)であり、新の宗主国は「日本国」(近畿王朝)という構図が明確に描かれております。
 即ち、新生「日本国」の成立は、大宝元年(701年)3月21日“文武天皇”に始まります。
 如何でしょうか。今、見てきたとおり、これら中国の史書を先入観なしに素直に読み解けば、わが国古代史の実体、とりわけ九州王朝の存在が、誰の目にも解るはずです。
 次に、「九州王朝」を証明する「国内の残影」を、具体的に述べてまいります。

 

四 「九州年号」について

  1、 「九州年号制定」の経緯

 中国の南北朝動乱期に南朝「陳」が滅んだので、わが国ではこれまでの「南朝年号」を止め、自前の「倭国年号」を使用し始めました。この年号こそ、「倭国王・磐井」が、517年に制定した「継体」です。これは、中国の南朝の「体制を継ぐ」の意です。これにより、それまでの中国の冊封体制から解放され、「九州王朝の天子」として「年号を制定」、「律令を定め」、「独立」したのです。これが「日本列島正統の国家の成立」となるのです。
 そして、九州年号の最後の「大化七年」が九州王朝の終焉と一致し、続く「大宝元年」(701年3月21日)が近畿王朝の最初の年号となります。それは「新生日本国」の初代天皇文武の時代です(近畿王朝の主は、それまでは「大王」称号であり、「天皇」称号は文武以降 ーー古田説『TOKYO古田会NEWS』147号)。
 なお、磐井と同時代の二十六代継体大王の名は九州年号の最初の年号に因みます。これは、25代武烈大王をもって近畿の古王朝は断絶するので、次の大王つまり越前国よりやって来た「応神大王五世の孫と称する男大迹王おおどのおう」が近畿の新王朝を開いたのですが、前王朝の「体制を継ぐ」の意で、奈良時代以降に「継体」の文字を冠せられたのです。

  2、 年号は「時の暦」

 それでは、解明された九州年号を次に列挙します(カッコ内は、西暦・近畿王朝の天皇代)。
 
継体(517・継体一一)、善記(522・継体一六)、正和(526・継体二〇)、教倒(531・継体二五)、僧聴(536・宣化一)、明要(541・欽明二)、貴楽(552・欽明一三)、法清(554・欽明一五)、兄弟(558・欽明一九)、蔵和(559・欽明二〇)、師安(564・欽明二五)、和僧(565・欽明二六)、金光(570・欽明三一)、賢接(576・敏達五)、鏡当(581・敏達一〇)、勝照(585・敏達一四)、端政(589・祟峻二)、告貴(594・推古二)、願転(601・推古九)、光元(605・推古一三)、定居(611・推古一九)、倭京(618・推古二六)、仁王(623・推古三一)、聖徳(629・舒明一)、僧要(635・舒明七)、命長(640・舒明一二)、常色(647・考徳三)、白雉(652・考徳三)、白鳳(661・斉明七)、朱雀(684・天武一二)、朱鳥(686・天武一四)、大化(695・持統九)。

 これらの年号は、『二中歴』所収の「年代歴」(平安時代中期成立)や『海東諸国記』など数多くの史書に遺っております。また、この他に並立年号(兄弟年号)があって、その中に「法興」(591・祟峻四)、聖聴(629・舒明一)、などがあります。
 これらはすべて日本国成立(大宝元年・701)以前の年号です。これを見ても解る通り、年号の始まりが近畿の天皇の代替わりと一致するのは、わずか「僧聴」と「聖徳」の二つの年号だけです。
 従って、これらの年号は、近畿王朝とは全く関係なく存在した事実を物語っています。通説は、神社・仏閣や地方の豪族などが勝手に作った「私年号」(逸年号ともいう)として処理されてきました。
 そして、この年号は、継体元年(517)から大化七年(701年3月20日)まで、連綿と途切れなく続いています。これこそ「時の暦」なのです。
 また、最近の研究では、その後九州王朝の残存勢力(南九州・隼人の乱)が建元したと考えられる「大長」が9年間(712年まで)続いております。

  3、 『日本書紀』の三年号

 ところで、『日本書紀』には次の年号が記されております。即ち、孝徳天皇の「大化」元年(645)〜5年、「白雉」元年(650)〜5年、そして飛んで天武天皇十四年(686)の「朱鳥」元年の3つが散発的に出現します。年号の役割にとって、“飛び飛び”や“単独では意味がなく、「連続年号」でなければ「暦の用」をなしません。従って、これは「偽りの年号」です。つまり、『日本書紀』記載の3年号は、近畿王朝の年号ではなく、九州年号からの「盗用」であったのです。

  4、 年号を作れるのは天子のみ

 倭国では、年号のない時代には、中国の天子が作った年号を使用していました。その訳は、年号の制定は、中国では天子のみに許された特権であり、中国を宗主国と仰ぐ国々では勝手に年号を作ることは出来なかったからです。中国は世界の中心であるとの、所謂「中華思想」の下に周辺国は成り立っていたので、年号の制定にはおのずから中国からの“しばり”があり、しかも天子以外には作ることができない極めて崇高なものだったのです(この項は、古田武彦著『失われた九州王朝』、『なかった 真実の歴史学』創刊号、古田史学の会編・古賀達也ほか『「九州年号」の研究』、何れもミネルヴァ書房などより論述)。

 

五 行政区画「評」の施行

 近畿王朝による大宝元年(701)施行の「大宝律令」で、行政区画「郡」が定められました。ところで、「郡」の前にあった「評」という行政区画を表す文字が、近畿王朝作成の『古事記』『日本書紀』や『万葉集』「風土記」などには無いばかりでなく、消され或いは書き換えられているのです。ところが、地下から「評」と書かれた「木簡」「須恵器」などが大量に出土しており、また地方で作成された「文献」や「墓碑」などにも遺っているのです。例えば、伊予国内では「久米評」(須恵器片)・「馬評」(須恵器)・「湯評」(木簡)・「宇和評」(木簡)・「別評」(『和気系図』)などです。全く整合性のないおかしな話ですね。
 そして、各地の「評」の長官は「評督」です(各地域の“クニ”の首長称号は、王 ーー 国造 ーー 評造 ーー 評督の変遷あり)。その「評督」を統率するのは「都督」です。
 それでは、「都督」は何処に居たのでしょうか。「都督」の居る所は「都督府」で、九州の「太宰府」です。そこには厳然と「都府楼」跡が遺っており、また『日本書紀』(天智紀)にも「都督府」が太宰府にあったと記されています。
 通説の「評」は、近畿王朝の行政区画であるとされています。それならば、何故、当時の「評」を消してまでも「郡」に替える必要があったのでしょうか。近畿王朝の制度であるならば、単に「評」を「郡」に替えた ーー「廃評立郡」と書けば良いのです。ところが、これについての「詔勅」(天皇の詔)を出した“気配”も全くありません。つまり、「評」は近畿王朝の制度ではなく、消し去った前王朝の制度だったのです。それ故に「九州王朝」を抹殺する一環として、この「評」も消し去るほかはなかったのです。

 

六 「神籠石城・朝鮮式古代山城・水城」

 これに関する通説は、この当時の山城には、「白村江の戦い」(662年 ーー 古田説)以前に築かれたという神籠石系山城と、戦い以後築かれたという朝鮮式山城の2種類があるとされています。また、水城も敗戦の後に築かれたとしており、いずれも近畿朝廷が築かせた、というのです。
 しかし、これらの築城は、「放射性炭素14C年代測定法」で、従来の「考古学編年」から、大方のものは100年以上遡ることが明らかになってきましたので、通説とは大きく異なることになりました。
 そして、神籠石城・朝鮮式山城は、詳細は省きますが、確認されている所は25城あります。その場所は、九州に圧倒的に多く、それも太宰府を取り巻くように築かれています。それに、瀬戸内海沿岸は9ヵ所です。近畿地方にはたった1ヵ所、『日本書紀』に高安城が記載されているだけで、大和や難波を取り巻く「山城群」は存在しません。これについて古田氏は、

 「これらの城は、対馬海流を下って、舞鶴湾から大和盆地へ向かう道筋(京都盆地通過)にも全く建造されていない。つまり、日本海側の山陰道や北陸道には一ヵ所もない。そうなると、九州北部と瀬戸内海沿岸に築かれた山城の配置から考えると、敵である唐軍や新羅軍の大和(近畿)への進入路は、九州北部を経て瀬戸内海のみを想定していたことになる。このことからも解ることは、大和を守るためのものではなかったことが明白であり、大和はわが国の中心領域でなかったことの証である。」

 と述べておられます。築城年代についての通説は、前述のように「白村江の戦い」前後です。しかし、これについても古田氏は、

 「築城の上限は『4世紀後半から5世紀』と考えられ、下限は建設途中で中止された福岡県の唐原神籠石城である。これは白村江での敗戦により中止されたものと考えられる。
 また、『白村江の戦い前後の築城』に関しての通説には、次のことにも留意する必要がある。それは、この戦いは多くの将兵が死亡や捕虜となった、わが国が完敗した戦いであること、戦勝軍が39年間に亘り都合数千人も駐留している目前で築城など出来るはずはないこと、そして九州王朝の摂政“薩野馬さちやま”が8年間も捕虜になっていて、権力の基盤が衰微の状況下にあること。これらの築城には、いうまでもなく、途方もない期間・労力・財力を必要とする。
 したがってそのような中にあって、この期間にそれらを幾つも築くなどは到底考えられない。それも大和ではなく、太宰府を取り巻くようにである。通説は全く整合性がないと言わねばならない。これらの遺跡群こそは九州王朝時代を物語る最たる残影であったのである。」

 と述べておられます。このように、進駐軍が監視の目を光らせている状況下で、壮大な朝鮮式古代山城や水城を幾つも築くなどとは荒唐無稽の話です。そのスケールの大きさには目を見張ります。決して一朝一夕にできるものではありません。先の大戦後を見れば自明です。これらのことから、『日本書紀』は如何に“うそ”を書いているか、お解りになることでしょう。

七 「永納山古代山城」について

 それでは、越智国に築かれた永納山古代山城(西条市河原津)は「誰が・いつ・何の目的」で築いたか。これについて述べることにします。
 「誰が」は ーー 6〜7世紀の古代、この地の有力首長で山城を築ける氏族となると、強大な領国を有していた越智氏です。それ以外考えられません。
 「いつ」は ーー 西条市教育委員会の発表では、今のところ発見されている遺物の上から7世記後半とのことです。しかしながら、まだ発掘途上にあるので、その時期を推定するのはまだ先のようです。私は、九州の山城と同時期、或いは次に示すことなどにより、それよりも古い6世紀の可能性も否定できない、と思っています。
 「何の目的」については ーー その頃、九州王朝倭国は、朝鮮半島にあった倭国領土「任那」の経営が手詰まり状態にあり、そのため九州王朝の支配下にあった瀬戸内海沿岸の有力首長も、九州王朝倭国と同様、外敵から自分の領土を守るために築いたのです。そして、現実に朝鮮半島からの瀬戸内海侵略がありました。それは前掲『二中歴』に、
  「鏡当四年(九州年号、西暦585年)、新羅人来従筑紫至播磨燒之」
  (新羅人来る。筑紫より播磨に至り之を焼く。)

とあります。また、『予章記』にも鉄人に率いられた百済軍数千人が侵略して来たので、越智益躬が敵を欺くため降人となり、播磨国で計略をもって鉄人を葬り、敵を掃討した、という話が出ています(この記事はそのまま鵜呑みにはできません)。
 これらのこともあって、越智氏はわが聖地、即ち越智国「朝倉」を守るために、自らの手で築いたものと思われます。それも、この山城は越智氏の領国のちょうど中間点の海岸に位置しています。
 そして、築城の目的や時期についての通説は「国府の逃げ込み城」とされていましたが、国府は「大宝律令」(701年)による「国郡制」で定められたのですから、目的も時代も全然違います。
また、『日本書紀』に記載されていないのは、近畿王朝が九州王朝や越智国を消し去ったと同様、この永納山古代山城も「政治的配慮」から消し去ったのではなかろうかと思っております。

八 「白村江の戦い」敗戦の真実

 七世紀に朝鮮半島の百済と新羅の戦争が勃発しました。当時の日本列島の主権者・九州王朝倭国は、国消滅の危機に陥っていた百済の応援要請に応えるためと、朝鮮半島南端部にあった“失われたわが国の領土「任那」”を回復するために、百済に加担したのです。一方、新羅には唐が加担して両国軍の全面戦争となりました。百済とわが国の連合軍は四度戦って全て負けました。この戦いには近畿王朝は参戦しませんでした。その訳は、九州まで出陣した斉明天皇が崩御したので、その喪に服するためとされています。
 しかし事実とは大きく異なります。第四回『「にぎたづ」は何処に』 -- 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実(平成23年 7月 9日講演、『松前史談』第28号所収)で詳述しましたように、近畿王朝は唐と結託して九州王朝を裏切ったのです。しかも、「斉明天皇は九州王朝の天子」であり、その崩御地は通説の「九州朝倉」ではなく、「越智国朝倉」であることも述べました。また、後述しますが「崩御年」も違います。従って、「斉明天皇の喪に服する」などは全く関係がなかったのです。そして、この戦争の最後となる「白村江の戦い」(662年 ーー 古田説、『日本書紀』は663年)で九州王朝の摂政・薩野馬、伊予国関係では越智国主・越智守興、風早国主・物部薬なども捕虜となり、九州・中国・四国、それに関東の多くの将兵が海底に沈んだのです。
 この後、郭務宗*かくむそう・沙宅孫登さたくそんとう率いる唐と新羅の戦勝軍数千人が、当時の「九州王朝・倭国」の首都・太宰府や博多湾岸、それに軍都・吉野ヶ里などに39年間で6回に亘り進駐して来たのです(郭務宗*は4回)。この辺りの王墓はそれら進駐軍により徹底的に破壊し尽くされたと思われますが(敵の屍を暴くのは中国の慣習)、唐の味方となった近畿王朝の領土には危害を加えなかったのです。近畿に巨大古墳が破壊されずに、存在しているのはその証左です。
      郭務宗*かくむそうの宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0

 

九 越智国にあった「紫宸殿」地名が物語るもの

  1、 「九州王朝」の黄昏と「近畿王朝」の勃興

 「九州王朝・倭国」は、「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍に“完膚無きまで”打ち負かされ、その上、唐の進駐軍が博多湾岸に駐留してきました。そのような状況下でも、九州王朝は終焉まで38年間も命脈を保っていたのです。
 この時代、近畿王朝は天智(中大兄皇子)・弘文(大友皇子)・天武(大海人皇子)・持統([盧鳥]野讃良皇女)の各大王でした。
     [盧鳥]野讃良皇女の[盧鳥]は、JIS第3水準ユニコード9E15

 そして、この間、「天智」は近畿地方の実力者・蘇我氏を倒し、「白村江の戦い」にも参戦せず力を蓄えました。「天武」は「壬申の乱」(672年 ーー 『日本書紀』)で「弘文」を害して、大王位を簒奪しました。「持統」は九州王朝に替わり政権をほぼ掌握しました。それも、天武・持統は唐の支援を受けての成就でした。次の「文武」に至り、新生「日本国」の成立となったのです。
 ところが、この頃の「近畿王朝」の大王の人物像は、どうもはっきりしない不明な点がありすぎるのです。その訳は『日本書紀』にあります。そこに記された人物像・事績・年代・場所などは、「九州王朝」の「失われた史書」(『日本旧記』『日本世記』「一書」など)からの“盗用”で“切り取り・はめ込み”記事が多いからだと思われます。
 その中でも解ってきたことは、645年に行われたとされる「大化の改新」です。その当時の九州年号は「常色(647)白雉(652)」であり、「大化年号」は695年から701年です。これでお解りの通り、「大化の改新」は九州王朝末期の事績を、近畿王朝の孝徳大王時代に50年ずらしての“はめ込み記事”だったのです。つまり、近畿王朝による「大化の改新」はなかったのです。
 また、『日本書紀』「持統紀」の“吉野行幸”の舞台・吉野は、奈良県の吉野ではなく、佐賀県の「吉野ヶ里」でした。その持統の在位9年間に31回(この内11月から2月迄の冬期間8回)の“吉野行幸”が記録されています。これは、九州王朝天子の軍都・吉野ヶ里への軍事視察の記事を、“換骨奪胎”して「持統紀」大和・吉野へ“はめ込んだ”ものだったのです(古田武彦著『壬申大乱』)。
 そしてまた、「壬申の乱」(通説は672年)は古代馬の走行距離から考察すると、『日本書紀』での戦争の行程は到底無理であり(三森堯司氏説)、その実態は“虚構”であったなどです(『壬申大乱』)。 
 その一方、天智と天武の兄弟関係は如何に。弟とされる天武に天智の娘・四人も后に差し出したこと。その天武の素性は、彼は大海人(おおあま天・海士 ーー 九州王朝の姓)を名乗り、臣下第一等の称号「真人」(まひと ーー 「八色姓」)であること。そして、彼らの母とされている「斉明天皇」との関係は如何であろう。また、“皇極天皇と斉明天皇の重祚”問題など、不思議が多すぎるため、この動乱期の全体像が解りにくいのです。
 昨年の第4回でも論じました「斉明は近畿王朝の天皇ではなく、九州王朝の天子」だった。これです。そうなると、解決の糸口が開けてきます。
 「九州王朝天子説」の論証は、頁数の関係もあり、また昨年とダブリますので割愛させて戴き、新たにこのほど発見された越智国の「紫宸殿」地名遺跡とこれに関する「天子・斉明」問題が、「九州王朝」の終焉と深く関わっているので、次に論述します。

紫宸殿・天皇地名 西条市明理川 壬生川町全図 2,越智国の「紫宸殿」「天皇」地名  九州王朝の終焉と新生日本国の成立 合田洋一

  2、 越智国の紫宸殿と天皇地名

 「紫宸殿」という地名遺跡が、西条市(旧・壬生川町)明理川にありました。その名前は明治22年の「地積登記台帳」にあり、現在の地積は縦340メートル・横220メートルで面積は74800平方メートルの長方形です。そして、この明理川の小字に「天皇」という更に驚くべき地名がありました。その場所は、新川という川を挟んで「紫宸殿」は北側に、「天皇」は南側にありました。現在の「天皇」の地積は約81000平方メートルの長方形で「紫宸殿」よりも広く、ここには、柳森神社が鎮座し(神社鎮座地の地番は「明理川天皇79番地」)、神社の「旧記」に往古の呼称として「柳天皇宮」とありました(以上の研究次第を最初に提起したのは古田史学の会四国・今井久氏です)。
 更にまた、その後判ったことですが、明治9年の桑村郡明理川村『合段別畝順牒』(愛媛県立図書館所蔵)に、「紫宸殿」「天皇」地名がありました。そこには、その地番の登記者及び面積が記載されていたのです(なお、これについては古田史学の会四国・大政就平氏よりご教示戴きました)。
 ところで、越智国には「斉明天皇」行宮伝承地として「斉明(才明 さいみょう)」(橘広庭宮跡 ーー 旧・朝倉村)など5ヵ所あり、隣接の宇摩国にも「長津宮」(村山神社 ーー 旧・土居町長津)があります。このほか「天皇(王)」の名の付く地名や名称が30ヵ所確認されています。右記明理川の天皇地名のほかに神社や地名として、「中河天皇」「垂水天皇」「古田こた天皇」「小松南川天王」「天皇社」「朝倉天皇」「天皇橋」「天皇宮」「天皇」などがあります。これ以外に「須佐之男命すさのうのみこと」を祀る「午頭ごず天王」社が19ヵ所あります(今井久氏論稿『午頭天皇(王)社と天皇(王)地名について』及び拙書『新説伊予の古代』より)。
 また、拙書でも述べていますが『無量寺文書』(無量寺所蔵 ーー 今治市)に、斉明天皇に関連して「長坂天皇」「長沢天皇」「朝倉天皇」などの天皇名があり、『旧故口伝略記』(橘新宮神社所蔵 ーー 西条市)にも斉明天皇と思われる「橘天王」が出現しています。そして、『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』(奈良市)には、『日本書紀』の記述に関連して斉明天皇のこととされている「袁智おち天皇」が現れます。
 このように数多の不思議な天皇(王)名が出現する越智国は、伊予国内では他に類例を見ませんし、全国的にも特異ではないでしようか。
 そこで、「紫宸殿」(天子・天皇の宮殿名)についてですが、その名称は中国では皇帝のことを「紫宸」と言い(初見は南朝の『梁書』 ーー 「多元の会」会長安藤哲朗氏にご教示を戴きました)、わが国でこの名称の存在が確認されている所は、「九州王朝」の首都太宰府と、平安時代の首都である京都の平安京だけです。
 このような畏れ多い地名が存在することからみて、ここは由緒ある特別な地と言わざるを得ません。そして、このような地名はその地方の人々が勝手に付けられるものではないことを考えると、そこに「紫宸殿」がなければならないことになります。しかも、新生日本国が成立した大宝元年(701)以降は、天皇が居ない所にそのような施設はあり得ず、そうなると、「紫宸殿」がこの地に存在していた時期は限られてきます。また、そこの主人公が現天皇家の王朝とは全く関係ない別の王朝、つまり近畿王朝に先立つ九州王朝の天子の宮殿であったことが、明白ではないでしょうか。
 それは、取りも直さず、九州王朝が日本列島の宗主国(但し、北海道・東北・沖縄を除く)として、厳然と存在した証しでもあります。

柳森神社 西条市明理川 壬生川町全図 2,越智国の「紫宸殿」「天皇」地名  九州王朝の終焉と新生日本国の成立 合田洋一

紫宸殿地番 西条市明理川 壬生川町全図 2,越智国の「紫宸殿」「天皇」地名  九州王朝の終焉と新生日本国の成立 合田洋一


天皇地番 西条市明理川 壬生川町全図 2,越智国の「紫宸殿」「天皇」地名  九州王朝の終焉と新生日本国の成立 合田洋一

  3、 「天子・斉明さいみょう」と「白鳳年号」

 ところで、最近、古田氏による重大な発見があり、それが当論証の帰結に大きく関わってくることになりました。その古田説の概略を次に掲げます(『古代に真実を求めて』第15集「九州王朝終末期の史料批判」 -- 白鳳年号をめぐって)。

 わたしにとって、考察の基本軸は「九州年号」である。とりわけ問題の焦点は「白鳳年号」の存在だ。この年号は「661〜683年」の間、23年の永きにわたる。異例だ。通例の「九州年号」は「4〜5年前後」だからである。問題は「量」だけではない。「白村江の敗戦」前後にまたがる、という「質」の点においてさらに重要だ。注目すべきである。なぜ、これほどの一大敗戦にもかかわらず「同一年号」が存続しているのであろうか。(中略)。
 第一命題。「白鳳年号」のときの天子は斉明天皇である(サチヤマは皇太子・摂政)。
 第二命題。斉明天皇は最初「九州王朝」の天子として、白村江の戦いに臨む。敗戦のあと伊予の越智に移り、その地に紫宸殿を営む。
 第三命題。唐の戦勝軍は三十九年(662〜701)の間のあいだに「六回」倭国に進駐した。書紀はこれを「天智の九年間」の中に“まとめ”て記した。(中略)唐軍の筑紫侵入の最後は“七〇一”直前の時期である(筑後国風土記の古老の証言問題がしめす)。

と。私は、斉明と皇極は別人で「斉明は九州王朝の天子」であると考えていますので、そうなると重大な問題が出来(しゅったい)します。それは、「天子・斉明」が崩御したというのに「白鳳年号」が「改元」されていないのです。これは異常と言わねばならず、年号の常識に反しています。
 そこで、古田氏が述べておられる通り、「白鳳年号」が「斉明」の年号であるとなると、崩御年は661年ではなく683年またはそれ以降となります。つまり、斉明が661年に崩御(『日本書紀』)せずに、次の「改元」された年号まで在位していた場合は、その治世期間は683年ではなく、更に延びるからです。即ち、それ以後の「九州年号」である朱雀(684年〜)・朱鳥(686年〜)・大化(695年〜)が対象です。しかし、この九州王朝末期の三年号は、斉明の後継者の年号だった可能性があります。その故は、斉明はかなりの高齢となるからです。

  4、 越智国「紫宸殿」の造営時期と主人公

 それでは、この「紫宸殿」は、「いつ」建てられたのか、「誰の」宮殿なのかについて話しを進めます。但し、この「紫宸殿」の地は、まだ全面的な発掘がされておらず(過去に表土採取で須恵器2点が得られたが、現在行方不明)、正確な年代の確定には至っていないのです。そのため、「いつ・誰の」宮殿かについては、あくまでも推測の域を出ないことを、予めお断りしておきます。
 私は、この問題について当初考えたことは、当「紫宸殿」を「天子・斉明」が造ったとするならば、その治世7年(『日本書紀』による)の間に越智国・宇摩国に伝承とはいえ同天子の行宮が6ヵ所もあることから推すと、とても無理ではなかろうか、と。これが、当初の論証の帰結に至るポイントでした。
 ところが、「天子・斉明」の治世が7年間ではなく、「23年またはそれ以上」が事実となると様相は一変します。そこで、その帰結に至る問題点は多々ありますが、結論だけを述べますと。
 越智国での「斉明」の「行宮」の設営は「白村江の戦い」の前であり、「紫宸殿」の造営は敗戦が色濃くなってきた戦時中、もしくは敗戦後となります。
 これは、「首都・太宰府」の「紫宸殿」に、戦勝国の唐軍が進駐して来たため、そこに居れなくなったので、「越智国明理川」の地へ移した、と。
 なお、太宰府の「紫宸殿」の造営時期は明確ではありませんが、唐の進駐軍の駐留前が前提となります。そして、「天子・斉明」が越智国を選んだ理由としては、次のように考えます。
 越智国は博多と近畿の中間点でもあり、移動の拠点として最も条件が良かったと考えられること。ここは、「斉明」の数次に亘る行幸があって、その上、以前には「日出ずる処の天子・多利思北孤」の行幸もあるので、九州王朝傘下でも両国の関係は最も良好となっていたこと。しかも、永納山古代山城を築くだけの“富国強兵の国”であったと思われること。そのことは、この「白村江の戦い」に「越智国主・越智直守興」率いる多くの将兵が参戦したことでも明らかです。また、この地は「斉明」にとっては極めて居心地が良かったのでは、と思われます。その訳は、格別の友好関係の上、気候温暖・風光明媚、そして “お気に入りの石湯(「石風呂」 ーー 前掲今井久氏説)”もあるからではないでしょうか。

  5、 その後の紫宸殿

 はてさて、この「紫宸殿」や「天皇」地名の発見により“驚天動地の論点”に直面しました。それは、
 「越智国明理川が日本の首都だった?」

という“命題”です。
 そこに「紫宸殿」と、その近接地に広大な「天皇」地名が存在していることを考えると、もしや天子の住居ばかりでなく、政庁もあったのではないか、と思いたくなるのです。
 但し、何分にも遺構の発掘はまだであり、また行政機構の移転についても仮説の域は出ません。
 ところで、天子の宮殿である「紫宸殿」名称が、わが国で遺存している所は、平安時代に京都御所内に築かれるまでは、太宰府とこの越智国明理川だけであって、その2ヵ所の主は「九州王朝の天子・斉明」であったと思われます。 
 ところが、その「斉明」は唐の“逆賊”となったため、『日本書紀』「斉明紀」では「恐心の渠たぶれごころのみぞ」で象徴される“狂人”扱いにしたのです。
 また、唐側から見れば、唐の皇帝の崇高な宮殿名称を「夷蛮の王」がその宮殿に冠するなど“絶対”に許されざること、だったと思われます。
 私は、『日本書紀』が、「九州王朝」だけではなく、同王朝と最も関係の深かった「越智国」も歴史上から抹殺したと考えます。それ故、「紫宸殿」の存在は“あってはならない”ことだったのではないでしょうか。「九州王朝」が滅びた段階で、「近畿朝廷」は越智国の「紫宸殿」を早々に破却の対象にしてしまったように思えます。
 その一方、太宰府の「紫宸殿」は、白村江の敗戦のあと「唐・新羅」の進駐軍司令官“郭務宗*”に率いられた連合軍に接収され、倭国駐留の「司令部」として使用されたのではないでしょうか。その後、「近畿朝廷」になってからは九州の要の政庁として使用されたと考えます。その建物は「藤原純友の乱」により、天慶四年(941)に焼失したようですが、その名称だけがそれ以後も今日まで遺存したと思われます。
      宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0

 近畿王朝の持統大王の「藤原京」(694年)、政権掌握後の元明天皇の「平城京」(へいじょうきょう710年)、聖武天皇の「山背恭仁京」(やましろくにきょう -- 741年)・「難波京」(744年)、その何れにも「紫宸殿」の遺構や現存地名が無いのは、その頃はまだ中国・唐朝の“権威”に抗しきれなかったためではないでしょうか。
 何しろ古田氏が述べておられることですが、唐の初代皇帝・李淵が、主君である隋朝にクーデターを起こした「大義名分」は、あの「多利思北孤」の「日出ずる処の天子・・・」の「国書」にあったようです。即ち、「夷蛮の王」が「天子」を名乗る所謂中国から見ての「二人天子」などはもってのほかのことであったからです。また、抑も近畿王朝は唐の庇護の下に日本列島の覇者(但し、北海道・東北・沖縄を除く)となったと考えられるだけに、初期の近畿朝廷においては唐の威に服さなければならなかったと思われます。
 そして、近畿朝廷の「紫宸殿」造営には、唐の影響が薄れてきた794年の「平安京」まで待たなければならなかったのです。
 ところで、『日本書紀』の「斉明紀」は“不思議満載”で矛盾と思われる記事が数多あります。そのようになった所以は、前述しましたように「紫宸殿」の存在を消し去って、「天子・斉明」の越智国滞在での出来事を近畿王朝の事績として“取り込んだ”ためではないか、と考えます。あたかも、九州王朝の事績を消し去ったように。それ故に、矛盾のほころびを無理に繕うためか、はたまた時代の整合性を図るためか、「斉明」と「皇極」を重祚という形でむりやり合体させた、と思われます。
 それにより『日本書紀』に、私が指摘している「娜大津長津宮」(事実は宇摩国長津宮)や、「朝倉橘広庭宮」(事実は越智国朝倉)の記事などを、あたかも博多湾岸での出来事であるかのように、時間をずらしてちりばめたものと考えます。

 

おわりに

 この地に「紫宸殿」や「天皇」という畏れ多い地名があったことから、ここに九州王朝の天子のための宮殿、つまり今流に言えば皇居であって、ここが日本の「首都」だった可能性が急浮上してきました。
 このことからも、ここ越智国は九州博多湾岸と近畿の難波を結ぶ瀬戸内海航路の中心地であったばかりではなく、古代日本列島の中心でもあったことになります。そして、越智国は伊予国内最大の領域を持つ強国でもありました。 
 その繁栄した背景については、前回縷々申し上げましたので、ここでは割愛させて戴きます。
 それにしても、越智国に畏れ多い「紫宸殿」地名が遺っていたこと、その当時から今日に至るまで、地名を温存してくれた当地の人々には“感謝・感謝”です。
 また思うことは、この地の人々にとって「九州王朝の天子」が住み、「日本の首都だった?」ということから、この地は彼らの“誇り”であったに違いありません。それ故、建物は破却されましたが、名誉ある崇高な「紫宸殿」と「天皇」という二つの名称を思慕し、地名に託したのではないでしょうか。
 以上、古代はまだまだ“闇の中”にありますが、 “古代に真実を求めて”縷々申し上げました。長時間のご静聴誠にありがとうございました。


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