ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ
古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房)へ
みちばたサミット第1回 若者のための古代史
二〇〇一年十一月二十二日放送
(こんにちは。水曜日のみちばたサミットは、森藤裕子の担当でお送り致します。どうぞ、これからの五十分間、ご一緒におつき合いください。)
(音楽はカット)
(こんにちは。きょうのみちばたサミットは、若者のための古代史「卑ひ みか弥呼はどこで死んだか」というタイトルでお送りいたします。スタジオには、古田武彦さんに来ていただいています。古田先生は。失礼いたしました、古田さんはもと昭和薬科大学歴史学教授でいらしゃいまして今は京都在住。もう歴史学教授の方は退職されたそうです。『「邪馬台国」はなかった』という朝日文庫から出版された本を手元にいただいておりますが、そのほかにも多数の著書がございます。古代史の第一人者ということで、よろしいでしょうか。きょうは若者のために古代史をお話ししていただけるということで、楽しみにしております。よろしくお願いいたします。)
古田です。きょうは箕面へまいりまして、みなさんに話を聞いていただくということで楽しみにしてまいりました。
わたしは京都から来たのですが。阪急電車に乗ってきたのですが。みなさんは京都から大阪まで阪急の駅がいくつあるか、ご存じでしょうか。京都は四条河原町、大阪は梅田ですが。そのあいだに普通駅をふくめて駅がいくつあるか。
すぐに言えないかも知れません。わたし調べて来まして二十五ある。 ところがこのあいだ東京から孫が来まして、乗って勘定したのですが、どうも足らない。二十一しかないと言うのです。おかしいと思って、よく聞いてみますと数え落としがありまして、京都近くの駅では西院とか西京極などの駅。つまり急行が止まらない駅がある。また大阪近くの方でも南方とか、普通しか止まらない駅がある。
そのあたりが、 どうも勘定がおちていたらしく、京都よりのところで二つ落ち、大阪よりのところで二つ落ちていたことが分かりまして、めでたく総計二十五になったわけでございます。
なんでこんな話をしたかと言いますと、たわいのない話のようにお聞きでしょうが、実はこれと同じ問題が、いわゆる邪馬台国問題、その中にもあるわけなのです。と言いますのは『三国志魏志倭人伝』。その本に、中国の使いが帯方郡、現在の韓国ソウルの近辺だと言われているのですが、そこから出発して日本列島にやってきたことが書いてある。それは皆、部分部分の方角と里程、何里・何里と記載がずっと連なっている。一番最後にあるのが不弥(不彌 ふみ)国。その不弥国という国が最後になってまして、最後に全体の里程が書いてあります。それは一万二千余里になる。最後の「余」いう字が入っていますが、大体一万二千里になる。そのように書かれてある。ところが先ほど言いました部分部分の何里・何里を足していきますと一万二千里にならないのです。足らないのです。
いくら足らないかと言いますと、わたしの計算では一万六百里になりまして、千四百里足らない。一万二千里から一万六百里引きますと千四百里。
千四百里足らない。おかしい、おかしいと思って、忘れもしません三〇年昔。前に住んでいたアパートの一室で、夏の暑い時、裸みたいな感じで考えていた。
そしたら先ほどの話ではないですが、なんと足し残しがあった。
なにかと言いますと、途中の玄界灘。朝鮮半島から日本列島に来るときに荒波の海がございます。そこに二つ大きな島がありまして、北の方から言うと、まず対馬。これを『倭人伝』では対海国、海に対する国と書いてあります。それが面積が書いてありまして方四百余里。つまり「方四百里」というのは正方形の一辺が、四百里。次にこんどは壱岐の島。これが一大国、一つの大きな島と書かれてある。これが「方三百里」。つまり正方形の一辺が三百里。現在の方眼紙で考えれば正方形の中に入るような島である。
島自身はどうせ真四角ではないでしょうが。
これが中国古代の数学で発明された「方法」という言葉である。「方法」という言葉は皆さんよくご存じですが、英語の method の訳と考えられている方もあるかも知れませんが、
とんでもございません。 ヨーロッパ文明より古く、ヨーロッパ文明がオギャーとも言わなかった時期に、 中国で紀元前千年ぐらいの中で発明されたのが、この「方法」と
いう正方形の中にものを入れて考える。土地の面積などは、ぐちゃぐちゃしていますが、それをすっぽり入る正方形の面積を考える。
それが「方」と「法」で、 正方形の「方」と法律の「法」で「方法」と呼ばれた。
その「方法」で『倭人伝』は書いてあります。すると対海国は方四百里。一大国は方三百里と書いてある。これはあきらかにソウルあたりから日本列島 ・ 倭国へ来る途中です。そこへ寄ったと書いてあります。ところが従来はその島を、まったく里程の足し算の計算のなかに入れていなかった。
(それを入れてみますと、四倍入れる必要はない。島をぐるりと回ったら元に返ってしまいます。)
それで半分入れてみますと、四百里と四百里で計八百里。対海国は八百里。そして三百里と三百里で計六百里。一大国は六百里。それで八百里と六百里を足しますと合計千四百里。
わたしがない、ないと思って、開けても暮れても探し求めていた千四百里がパッと出てきた。
わたしは喜んで、お恥ずかしいながら真っ裸に近い格好をしていたのですが、それも忘れて外回りの階段をおりて下へ。ちょうど妻が下で洗濯をしておりましたが、分かった!分かった!と跳んでいったことを覚えております。
(さぞ、驚かれたことでしょう。)
わたしにとって、記念すべき一瞬でしたが。つまり、その発見によって部分部分を足して、見事に全体になった。全体になったというのは不弥(ふみ)国まで。不弥国は、どの学者も博多湾岸であることは考えて来ておりまして、書いてある内容から見てもほぼ異論はない。そこで総里程一万二千里になってしまった。
総里程というのはもちろん邪馬台国、原文には邪馬壹(やまいち)国と書いてありますが。漢数字の「壹(いち)」という字が書いてありますが、その最終国。
言い換えれば女王国。卑弥呼(ひみか)のいた女王国に到着した。それは博多湾岸の不弥国が、その最後の到着点だった。ということになってきた。
わたし自身は思いもよらなかった。と言うことで、わたしにとっては邪馬台国のある場所は謎ではなくて、実際は博多湾岸が女王国の中心領域である。ということになってきたわけです。
それで、あとになって知ったことですが、実は博多湾岸というのはたいへん遺跡に恵まれたところでして。お隣の西側の糸島郡。現在の前原(まえばる)市。ここにもすごい遺跡が連続して出ております。
すごい遺跡というのは、例の「三種の神器」。
三種の神器というのは鏡と剣と勾玉。これを「三種の神器」と称しまして、王権のシンボルのようにこの日本列島。正確には朝鮮半島南辺部から日本列島にかけて言われて来てるものなのです。
その三種の神器が集中して出てくるのが、今言いました前原(まえばる)市。そこに「三雲(みくも)」、「井原(いはら)」、「平原(ひらばる)」。いずれも鏡が三十数面。とくに平原の鏡(ひらばる)などは直径四十六.五センチ。すごい大きさの内行花文鏡。みごとな八つの花をかたどったような鏡ですが。この鏡のスタイルは中国にあるのですが、中国には、そんなでかい鏡はない。せいぜい十センチの大きさのものが多いですが。ところが平原から出てきた鏡は四十六.五センチ。ばかでかいですね、持っても重たいです。それが四面ないし五面。さらに普通の中国の鏡、十二センチ〜二十センチぐらいの大きさの鏡が三十六面。それに玉類が千箇以上。しかも一人の人。女性のようですが、女王でしょうが一人の女性の墓として出てきた。剣は一つだけすが、鏡と玉類は豪勢なものです。
これは有名な発掘でして。農家の御主人がミカン畑の植えかえをしようとしたら、ゴボっと変な穴があいて、これなんだろうと糸島の高等学校の先生に連絡した。それから原田大六さん。考古学の鬼となられた方ですが、その方が駆けつけてきて、必死で発掘された。
(たまたま、見つけられたのですか。)
偶然なのです。「三雲(みくも)」、「井原(いはら)」の場合は、江戸時代にお百姓さんが田畑を耕していて、たまたま見つけた。それは前原市のほうですが、今度は博多側。博多の中で一番西寄り。室見(むろみ)川という川があって、そこの上流と中流の間ぐらいのところの「吉武高木」。大字が「吉武」、小字が「高木」というところに遺跡が出てきました。
これもホンの偶然で、農水省が用水路を農業のために建設しようとして見つかった。ここから出てきた三種の神器というのは、日本最古の三種の神器。日本で一番古い。みごとな三種の神器が見つかったのが、戦後ですが「吉武高木」。現在は福岡市に入っています。
(ぜんぶ偶然発掘で見つかったのですか。)
ぜんぶ偶然です。もう一つ、忘れていけないのが「須玖(すく)岡本」。太宰府がありますが、博多と太宰府の間に春日市というところにある「須玖(すく)岡本」。大字が「須玖(すく)」、小字が「岡本」という遺跡がありまして、これもすごい、三十面前後の鏡が出まして、剣や勾玉がたくさん出てきた。
これは甕(カメ)棺と言いまして、わたしは甕(ミカ)棺と呼びますが、大きなカメの中に遺体と一緒に副葬されていたおびただしい鏡や勾玉や剣が出てきた。遺体は消えてなくなっておりましたが。このばあい他にない特徴は錦、絹。絹は博多湾岸いたるところに出てきますが、そのばあい、だいたい倭国産。日本列島で作られた絹なのです。ところが、ここで須玖(すく)岡本だけは中国産。中国で作られた錦です。
(それは中国産、これは日本産と分かるんですか。)
ちゃんと分かるんですね。布目順郎さん。その道を開かれた方なのですが、顕微鏡で観察するとはっきりわかる。ところが中国産の錦が今のところ、一カ所しかない。須玖(すく)岡本から出てきたのが、まぎれもない中国産の錦。それも出てきたら、とたんに色が変わるみたいですね。空気には酸素がありますのでサーと変色するようです。空気に触れるまえは見事な紫色です。
(そうですか。空気に触れなければ、いつまでもみごとな色というわけですか。)
そうです。わたしはその布目順郎さんから、変色するまえの写真をいただいておりますが、現在実物を見てもその色はないわけです。写真だけに残っております。
と言うことで、わたしが言う糸島博多湾岸。現在の前原市、福岡市。そこにまたがる地帯というのは、最大唯一と言ってよい三種の神器の集中している地帯だったのです。
わたしはそんなことは露知らず、孫が苦労したのと同じようなで、どうも部分部分を足しても全体にならない。足し残しがある。おかしい、おかしいということで、三十一年あまり前、その時に足し残しの千四百里を発見した。その結果、博多湾岸が女王国の中心である。こう考えているわけです。
それで今のところ、喜ぶべきか悲しむべきか知りませんが、わたしのこのような考え方が間違っている。そのような反論は、どのような学者からも、間違っているということは、まったく出ておりません。まったく反論なしで現在三十年間経てきております。
わたしが自分で言うのもおかしいですが、部分を足して全体になることはありえない。そういう議論は出しにくい。(それから)足りないのは、なにか足し落としがあるはずだ。それも、そんなに変わった議論ではない。それからわたしが見つけた一大国・対海国半周を足すと、完全にピタッと部分が全体になる。だれが計算しても、そのようになる。
(それでは先生以外の発想の根拠はだれも持ってはおられない、と言うことでしょうか。)それが三十数年間至っておる。それが現在の状況でございます。
・・・(音楽はカット)・・・
(水曜日みちばたサミット、きょうはスタジオに古田武彦さんにお出でいただいております。きょうは若者のための古代史「卑弥呼(ひみか)はどこで死んだか」というタイトルでお送りしておりますけれども。先生、この卑弥呼(ヒミカ)と言うのは。わたしたちは卑弥呼(ヒミコ)とならったのですが、先生はヒミカと呼んでいるようですが。)
それは卑弥呼(ヒミカ)の「呼(カ)」は、呼吸の「呼(コ)」という字を書くのですが、古い音では「コ」ではなくて「カ」なのです。そういうことが理由です。それで「卑弥呼(ヒミカ)」と読んだ場合は、どういう意味になるか。言いますと「ヒ」はもちろん太陽の「日(ヒ)」だとおもうのですが。
「ミカ」というのは、先ほどちょっと出ましたが、甕(カメ)棺のことを本当は甕(ミカ)棺と呼ぶんだという言い方をしました。これは神様にささげるお酒やお水を入れるものを甕(ミカ)と言います。甕(カメ)と言うときには、日常に煮炊きをするときに使うものを言います。言葉そのものは、同じ「カ」という音が言葉の幹になっている言葉です。甕(ミカ)棺の場合は人間の遺体を入れるわけですから、まさか人間の遺体を煮炊きするわけではありませんから。これは神様に捧げるお酒やお水を入れる甕(ミカ)に入れて葬る。そうすると永遠の命が得られる。そういうことなのでしょう。ですから甕(ミカ)棺と言うのが正確だと思うのですが。
そうしますと今の「ヒミカ」の場合には、「太陽の甕(みか)」という意味であろう。こう考えています。
(ヒミカには太陽という意味も含まれているということでしょうか。)
そうです。現在でも女の方には「ミカ」さんという名前は多いようです。
(それと先ほど音楽の前に、いろいろ話をうかがっていたのですが、博多湾岸は奴(ナ)国とわたしたちは聞いているのですが。それはいったい、どうなのでしょうか。)
その通りです。そのあたりが従来の考え方の盲点というか、今までの研究史上のミスだと思うのですが。それは有名な志賀島から出てきた金印がございますが、江戸時代に甚兵衛さんが掘り出したと言われている金印。これについて読み方がいろいろございます。
明治・大正時代に出てきた三宅米吉という方が。この方は熱烈な邪馬台国近畿論者なのですが、この方がひとつの読みを試みまして「漢の委の奴の国」と読んだ。現在教科書にも、そう書かれています。現地に行っても、そのような看板が立っています。
ところが、この読み方にはたいへん問題がありまして「漢」を中国とします。奴(ナ)は博多湾岸の地名としますと、その間に人編がないが倭国の「委」がある。
これが中間に入っている。 三宅米吉さんはこれ「委」を「倭(ヤマト)」と考えた。漢に従属する倭(ヤマト)の、それにまた 従属する博多湾の奴(ナ)国王。このように読んだ。読みとして読めそうなのです。
しかしすぐ気がつく問題は、奴(ナ)国の王様が金印をもらったのなら、倭国の王様は何をもらうだろう。ダイヤモンドの印ぐらいをもらわないと、つじつまが合わない。
(本当ですね。)
それに中国では、周辺の第一の王者にしか金印を与えない。滅多に金印を与えない。小さい領主などに銀印や銅印は次々あたえますが。金印は周辺の国の、国王でなければ与えない。ですから「倭(ヤマト)」の、そのまた家来である奴(ナ)の国の王様がもらったのでは、話しが合わなくなる。それでわたしはどうも、この読みはおかしいのではないかと。
わたしは、この読みは、「漢の委奴(イドもしくはwido)国王」と読んだ方がよいのではないか。「委」は「イもしくはwi」と読みまして、「奴(ド)」というと、これは種族のことです。砂漠で活躍した「凶奴」という種族がいますが、それに対して光武帝は終生のライバル。終生悩み抜いた。それに対して倭国は、こちらから貢ぎ物を持って行ったわけですから。穏やかで従順な部族という意味で、人編のない委任状・委託の「委」です。この「委」は穏やかなという意味ですから。穏やかな部族という意味で「委奴(いど)」国王と書いたのだと、わたしは思っています。
ということは博多湾岸が、倭国を代表する「委奴(いど)」国王の地である。
ですから先ほど言いましたように、金印はもちろん三種の神器が、日本列島中、唯一博多湾岸から集中して弥生時代に出てくるのも理解できる。
時間の関係で詳しく話は出来ませんけれども、従来の場所にたいする従来の考え方。つまり博多はぜんぶ「奴の国」であるという 考え方はもう一回机の脇において保留しておく。だから時間帯も。金印は一世紀ですが、
先ほどもうした遺跡の時間帯は、 全部同じ時間帯である。 それも保留して三世紀も含んで、 そこは考えた方がよいのでないか。そのように柔軟に考え直さなければならない。そういう問題を、実は含んでいるわけです。
(箕面のほうでは、じつは東生涯学習センターで市民企画講座でお話をしていただいて、その時も、このようなお話をしていただたと思うのですが。また違った角度から、分かりやすく今日お話をいただいてるのですが。)
それを、ぜひお話ししたいと考えて今日参ったわけです。じつは古代史の世界で、七不思議というか、その第一、第二に当たる、おおきな謎があります。
何かと言いますと、いま言いました卑弥呼(ひみか)。あれほど有名な、中国でも名を知られた女王であるにもかかわらず、この日本列島のなかに卑弥呼(ひみか)に関する遺跡がまったくない。そうでしょう。みなさん。ご自分の近所に、ここに卑弥呼(ひみか)の遺跡がある。そういう話は、まったくお聞きになったことがないでしょう。近畿でもないし、九州でもないし、日本中どこへ行ってもない。これは、やはりおかしい。
(そうですね。言われてみれば不思議ですね。)
その他大勢の人がない。これは分かりますが、あれだけ有名な東アジアに名のとどろいた女王にもかかわらず、あれだけ遺跡好きの日本列島に、いたるところに遺跡のある日本列島にゼロ。まったくない。これは七不思議の筆頭になることだ。
(遺跡に関して、日本の国は熱心な国ですね。)
熱心な国ですよ。また有り難いことに、よく残っている。この話をはじめると時間が足りませんが、ヨーロッパなどではキリスト教が入ってきまして、それ以前の多神教(の遺跡がない)。ヨーロッパなどでも、とうぜん女性を中心の多神教の時代だった。それが何万年、何千年と続いておった。ところがその遺跡は、キリスト教の手で壊したり、いろいろされている。その意味では、ひじょうに不幸なのです。ところが日本では仏教の手で遺跡をぜんぶ壊されたということはない。それで遺跡がひじょうに残っている。ということで遺跡がこれだけ残っている日本なのに、あれほど目立つというか、女性としてあれほど活躍した、きらやかではでな目立つ女王の遺跡がまったくと言ってない。これほど不思議なことはない。
(お話はいっぱいありますが。卑弥呼(ひみこ)ということで。)
教科書にも出ているのに。しかし遺跡はない。これが不思議です。第一番目の不思議です。二番目の不思議は、神功(じんぐう)皇后という方がいますが、そのかたの遺跡は、やたらにある。やたらにあると言っては失礼ですが、日本列島いたるところにある。中でも北部九州から中部九州にかけては遺跡だらけ。つまり大分県、福岡県、佐賀県、長崎県。熊本県も入ります。この界わいは、歩くところ神功皇后だらけ。
もちろん神功(じんぐう)と言うのは近畿の出身ですから、(新幹線の駅のある)滋賀県の米原。そこのお墓もなかなか立派でかわいらしい円墳があります。
であるのに遺跡が近畿にたくさんあって、その一端が九州や東海にもあるというなら話は分かりますが、近畿・東海の数が問題にならないぐらい、質量ともに九州にある。(九州のほうが、ずっと多い。)はるかに多い。(不思議な話ですね。)これも七不思議の一つの話なのです。
ところが、この七不思議のなぞを解くかぎがある。これは何かと言いますと、『日本書紀』という日本の古代史に代表的な歴史書。これには「神功(じんこう)紀」という神功皇后を主題にする記録がある。たいへん長く記録されている。
その中に、『倭人伝』の卑弥呼(ひみか)の業績が三回引用されている。「倭国の女王」と書いてあり、「卑弥呼」という名前はないのですが、『魏志倭人伝』の中でわれわれご存じのところが、三回にわたって引用されている。
「卑弥呼」が死んで、後を継いだという「壱与(いちよ)」という女王がいる。この「壱与」に関する事績も一項目ですが引用されています。それが卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)の二人とも、実は神功皇后神功(じんぐう)だったのである、そういうかたちで引用されている。(同一人物と言うことですか。)二人が一人というのも、ずいぶんひどい話ですが。
これは現在のわたしたちが見れば、どう見ても二人なのですが。しかし『日本書紀』が出来た八世紀中、正確には七二〇年ですが。このころには自分の書斎に『倭人伝』がある。そういう時代ではないです。だから人々はきづかない。作った人は知っているでしょうが、読むほうは気づかない。今のわれわれが見ると、卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)、合わせて四つの事項が、いずれも神功(じんぐう)皇后のお仕事として書かれている。
これは有名なことだ。この有名なことが、実は二つの謎を解く鍵なのです。実は、神功皇后、神功皇后と出ている遺跡は、実は卑弥呼・壱与の遺跡だったのではないか。
(神功皇后ではなくて!)
つまり『日本書紀』ができた七二〇年。全国に学生(がくしょう)たちが散らばって講義をする。そういう有名な記事があります。それもただ読んで聞かせただけではありません。遺跡を『日本書紀』に合わせるように、遺跡のネーミングを直していった。だから神功(じんぐう)皇后の遺跡が、やたらにある。一部は東北にもある。芭蕉が『奥の細道』を書いたときにも一部出てきます。
それは一部ですが、やはり圧倒的多数は山口県や九州に多い。ということで卑弥呼(ひみか)の遺跡がない、ないと思っていたら理由があった。これは、いわゆる神功(じんぐう)皇后の遺跡に移し変えられていたのではないか。そういうおもしろい問題を、ぜひ皆さんにお聞きしていただきたいと考えました。
(そうですか。なぜ、そんな手の込んだことをしなきゃならなかったのでしょうか。)
それは結局、卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)が、近畿天皇家の人物ではなかったということです。
近畿天皇家の人物であれば、とうぜんあれだけ天皇の名前が書いてありながら、代々の伝承が書いてありながら、二人ともいない。
天皇の名前というのは、『古事記』『日本書紀』の中でも、一番信憑性がある記事と考えられます。説話というのは、話をおもしろくしたり、天皇を立派に見せるために枝葉がつけられるかも知れません。しかし名前というのは、ドンピシャリ。名前がウソだったら説話どころではない。そういう意味では『古事記』『日本書紀』の中では、名前は一番大事な部分です。系譜伝承ともうしますが。
名前は、『日本書紀』の中で一番信用できる部分ですね。
そこに卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)とあれば問題なかった。ところが、ないわけです。ところが中国の歴史書と比べたときに釣り合いがとれない。
なんとか釣り合いをとろうとして、神功(じんぐう)皇后は女だから、まさか男に入れるわけにはいけない。それも神功皇后は、ほんらい天皇になっていない。
(そうなんですか。天皇には、なっていないのですか。)
なっていない。一生、皇后です。ただし応神天皇は子供時代が長かったので、子供時代に天皇の代わりをしたのだという名目を立てて。摂政というものを設けまして、天皇と同じような、しかし天皇よりずっと長い「神功(じんぐう)紀」というものを立てた。そしてその中に卑弥呼(ひみか)・壱与(い
ちよ)の記事を入れていった。
それは大陸の記事との対応です。それは『日本書紀』を作る人の苦労ですが。
しかし、われわれは別に苦労をしなくとも。事実を知るということだけで、イデオロギーも何もまったく関係しない。ですから、そういう目で見ていくと二つの謎が解けてくる。こう考えています。もうすこし、時間がありますか。
(あります。二時まで。ぜひ、とっておきの話をお願いします。)
そうですか。それではとっておきの話をします。じつは福岡県に行きますと、見たことのない不思議な神社があるのです。印金龠(ヤク)神社。
「印」は印鑑・ハンコ。「ヤク」は、ラジオで説明しろと言っても難しいですが、一度おこないます。車輪の「輪」という字を、車編を除けて金偏を入れる。右側の「人」と横棒の「一」をうえへ持ち上げる。残った「冊さつ」の間に「口」を三つ横に並べる。そして持ち上げた「人」と横棒の「一」を下ろしてもらう。これで出来上がり。
(難しい字ですね。ラジオを聴いている皆さん、書けましたでしょうか。)
ー再度、字の説明をおこなうー(金へんに龠。)
この字は、ふつう使いま せんが、「金龠(ヤク)」と読む。いわゆる錠前の「錠」であるとか、あるいは機密の重要なもの、これを意味する言葉なのです。現在では
ふつう使われていませんが。ところが、この字を使った印金龠(ヤク)神社というのが、福岡県にやたらにある。福岡県を中心に北部九州に ある。ところが近畿では見たことがない。
(近畿にはひとつもないのですか。)
今のところ知りません。下鴨神社には印を祭っている神社はありますが、 名前も全然違いますし、 徳川時代に、それは将軍からもらった印を収めておくのだと下鴨神社の宮司さんにお聞きしました。
ぜんぜんこれは時代も呼び名も違うのです。使っている字も違うのです。ですから、ない。ですから近畿や東海地方の人は知らない。中国地方の人も知らない。ところが福岡県かいわいの人には常識で、その神社なら、うちの近所にもあるよ。うちの村社もそれだよ。そのように、やたらにある。
これにたいして観光案内などを見ますと、これは律令制、八世紀に近畿の天皇家を中心に律令制がおこなわれたことは有名ですが。その律令制のなかで天皇家からいただいたハンコを御神体にしたものだろうと説明が書いてある
ことがある。しかし、この説明はちょっと理解できない。
なぜならこの説明であれば、近畿に印ヤク神社がいちばん多くて、それで西・東にあり、少しだが関東にもある。東北にもある。九州にもある。そのようであれば近畿の天皇家からいただいた印を納めたものという話も理解できる。
ところが実際印金龠(ヤク)神社は福岡県中心に圧倒的に集まっている。どうも近畿の律令制、権力中心からもらった印とは見えない。
それではなにか。さきほどの神功皇后の遺跡の分布と重なってくる。神功皇后の遺跡の分布をぐっと縮めたような福岡県中心のところに印金龠(ヤク)神社が集中しているのです。これは、まだ御神体を見ていないので何とも言えませんが、中国からもらった印かも。それに印金龠(ヤク)神社というのは、神社名にふさわしくない。「金龠(ヤク)」という字も中国語ですから。字も、日本人が普段使わない中国の字ですから。それを神社名に使っているということは、やはりその印というのは中国からもらった印ではないか。
(今日言われたのは、隠そうとして作った日本史であるのに。じつは、今の時代の人が調べれば、ちゃんと分かるようになっていた。)
そうそう。それにおかしいのは『倭人伝』を見ても金印は卑弥呼一人だけしか、もらっていない。ところが銀印や銅印をもらった人は、もっともっといたはずだ。それが居なければ、いきなり金印だけ、もらうはずがない。ところが銀印や銅印はいっさい出てこない。お墓の中から。それが不思議なのです。
(そう言われたら不思議ですね。)
これも七不思議のひとつですよ。じつは日本では墓に埋めずに、神社の御神体にしておったのではないか。これはわたしは何も証拠をもっていませんし知りません。ただ言葉から見て、もしかしたら、そうかも知れませんよと。ラジオを、お聴きのみなさんが、これはおもしろい、それを探検したいとおもう方がいたら。かならずしも今の時代ですから、それは不可能でないかも知れません。これからワクワクするような冒険に挑まれるかたが、若い人のなかからも出てくることを、こころから熱望しまして、今日のお話を終えさせていただきます。
(ありがとうごさいました。今日は、若者のための古代史ということで「卑弥呼(ひみか)は、どこで死んだか」という題で古田武彦さんに、お話をうかがいました。ご著書は『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫)という本をお持ちいただいたのですが、じつは他にも著書は多数ありますので、ご興味のあるかたは、本屋さんでごらんになればと思います。今日は遠いところをありがとうございました。)
関連リンク
「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌
講演記録 古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
天皇陵の軍事的基礎(古田史学会報41号)
探求道々(古田史学会報2号)
これは2001年11月22日、大阪府箕面市で行われた古田武彦ラジオ講演の記録です。タッキー816みのおエフエム、みちばたサミット「卑弥呼(ひみか)はどこで死んだか」のテキストと音声です。放送と文字は、それぞれの特性上一致しておりません。したがいまして史料批判は不適当です。
史料批判を試みられる方は、『「邪馬台国」はなかった。』(朝日文庫)や『失われた九州王朝』(朝日文庫)でお願いします。
古田史学の会 監修
古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房)へ
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから
Created & Maintaince by"Yukio Yokota"