『天皇陵を発掘せよ』第2章 天皇陵の史料批判 古田武彦
ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ
古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房)へ
タッキー816 みのおエフエム提供 古田武彦ラジオ講演
みちばたサミット第2回 中高年のための古代史
二〇〇一年十二月二十日放送
(こんにちは。水曜日の、みちばたサミットは、森藤裕子の担当でお送りいたします。これからの五十分間、どうぞ、ご一緒におつき合いください。)
(今日スタジオにおいでくださったのは、歴史学者の古田武彦さんです。 きょうは実は第二回目でして、「天皇陵はなぜ造られたか」という題でお送りしようと思っております。よろしくお願いいたします。)
(古田先生、遠いところどうもありがとうございました。)
古田でございます。今日は第二回目のお話をしたいと思って、まいりました。大阪から九州方面へJRで行かれますと山陽本線ですが。ところがあの山陽本線は、ほとんど海岸部を通っていないということに、お気づきでしょうか。もし、あれ海岸部を通っておれば、あの美しい瀬戸内海を、たえず左手でしょうか、帰る時は右手ですが見て行けるのですが。
ですが、ほとんど海が見えないことをお気づきでしょうか。実はこれはなぜかと言いますと日清戦争。当時は中国を「清い国」と書いて清しんこく国と言いましたが。その清国の「定遠(ていえん 定まると遠い)」という軍艦、もう一つ「鎮遠(ちんえん 鎮めると遠い)」という軍艦があったのですが、当時は定遠・鎮遠というと最高級の軍艦だったようですが、それが瀬戸内海に入って来て攻撃されたなら、
海岸部を走っていると艦砲射撃でずたずたになる。だから、それを避けるために、遠ざける形で、 海岸部を避けて走らせた。こういう話を聞きました。わたしもびっくりしましましたが。
(まあ、そうですか。)
わたしも本当かなと思って、昨日大阪の交通博物館に電話して確認しましたが、大体そのようだ。東海道本線もそのようです。この話が記録にいろいろと残っています。ということで、どうもまちがいないようです。おそらく皆さんは、今日の話を聞くまでは思いも寄らなかった人が大部分。わたしも昨日まではそうでした。
なんで、のっけから、こんな話を持ち出したかと言いますと、じつは天皇陵と言いますが、奈良県から大阪府にかけてあります。皆さんもよくご存知だとおもいますが。これが実は、本当の目的、お墓ともう一つの目的、実はこれは(古代の)軍事要塞であった。つまり砦(とりで)として作られていたという、わたしの仮説ですが、お話ししたいと思ってやってまいりましたわけです。
(まあ! ほんとうに、そうなのですか。)
皆さんは、なぜ?。そんな馬鹿なことがあるか。 初めて聞いた方は、とうぜん、そう思われるとおもいます。ところが現の証拠は、大阪府の高槻市。そこに今城塚(いましろづか)古墳という有名な古墳がございます。これは天皇陵、
ほんとうは継体の墓だという説があるぐらいですが、墳丘のはばの長さが一九〇メートル、全体の長さが三五〇メートルという雄大な巨大古墳なのです。ところがこれを教育委員会が調査したところ、近世織田信長の時代だと言われる砦のあとが頂上はもちろん、二重の濠(ほり)、周濠(しゅうごう)と言いますが、その埋められた内側の濠ほりに土塁(どるい)を高く築いたあとが、はっきり出てきております。これは近世信長の時代には、鉄砲が出てきておりますから、鉄砲をふせぐためには、土塁を高く築かなければ防げない。ですから継ぎ足しといいますか補強作業をしたものとおもわれます。ほかにも近世に天皇陵が砦とりでとして使われたという痕こんせき跡は、考古学者の方にとっては、
めずらしい話ではない。これにたいしてわたしは、話としては聞いていて知ってはいましたが、 そんなお墓として祭られたものを、砦(とりで)として使うのは、けしからん。無む
ざん惨だ。そういう感覚で今まで居お りましたが。それでは、果たしてそうだろうか。つまり近世の戦争のプロと言っていい軍事集団。信長などにとっては、屈強の砦と見えていたわけです。と言うことは、同じく弥生時代や古墳時代にも、そのように砦と見えたのではないか、ということです。
(まあ同じ人間ですから、そういうことがあるかも知れませんね。はい!)
それでは造られた当初から軍事的な要塞。もちろん、これはいつも軍事的な要塞であったというわけではありません。「一旦緩急(いったんかんきゅう)有れば」という古めかしい表現、敵が攻めてきて交戦状態になった場合。その時には、砦とりでとして機能する。それがあの巨大古墳を造るばあいの大きな目標になっていたのではないか。そう考えてきたわけでございます。
(そうですか。最初からショックな話ですね。)
一番最初からの巨大古墳をご存じでしょうか。これは実は食べるときの箸(はし)と書いて「箸墓(はしはか) 」とよばれる墓が奈良県にございます。奈良県に有名な三輪山という山がございますが、その山のふもとと言っていい場所にございます。この箸墓(はしはか)は長さが二五六メートル。大きいですよね。わたしは方円墳、一般には前方後円墳と言われますが、これがいきなりと言ってよい、造られます。この前は二〇〇メートル、その前は一五〇メートルという、
段階を踏んでいない。いきなりパッと、でかい古墳が出現したと、 考古学者は言っています。
(そうなんですか。とつぜん大きくなったのですか。だんだんと大きくなったと思っていたのですが、そうではないのですか。)
これについては、岡山大学教授の(近藤義郎という)方の有名な論文がありまして、それで、そのことは明確に分かっているのですが。それでは、じゃあ、なぜ、急に、いきなり、そんなでかい物を造らなければならなかったのか。それの説明がじゅうぶんについていなかったわけです。
わたしが、それに対して考えましたのは。この墓に祭られているのは、 「倭迹々日百襲姫命(やまとととびももそひめ)」と言いまして、言いにくいですが「と」を三回言わなければならない。
(「と」を三回も言うのですか。)
この読みは、またわたしには異論がありまして、今は申しませんが、ふつうに言われているのは倭迹々日百襲姫命が祭られていると『日本書紀』に書かれています。しかし考えてみると、この巨大な古墳を造ったのは倭迹々日百襲姫命ではないですよね。
(そのとおりですね。舌を噛かみそうな倭迹々日百襲姫命が造りませんね。)
だから造ったのは崇神天皇。第一〇代目の天皇である崇神天皇のときに造られた。そう言うことが判っていますし、『日本書紀』にそう書いてある。そうしますと崇神天皇とは、どんな天皇、どんな時代だったか。『古事記』によりますと、崇神天皇は大和盆地から出て、三方に支配を進めた天皇である。三方といいますと、
一つは東海道、もう一つは北陸。もう一つは京都府の丹後から但馬、そちらの方。その三方に軍を進めて征服したと書いてあります。『日本書紀』ではそれに、もう一つ加えまして、西の吉備の方にむかって。先ほどの山陽道に向かって征服して行ったように『日本書紀』では書いてあります。
(じゃ、『古事記』と『日本書紀』では違っているのですか)
違うのです。『古事記』は三道(将軍)、『日本書紀』は四道(将軍)です。これをわたしは、『古事記』が本来である。それを『日本書紀』は、さらに一つプラスして、崇神天皇を立派にえがいた。逆はあり得ないですね。『古事記』も『日本書紀』も天皇家の中で作られていますから。ほんらいは四道であるものを『古事記』が、これはよけいだとひとつ除いて三道にするということも、ちょっとありえない。時間的にも『日本書紀』より『古事記』が先にできていますから。ですから『古事記』の三道がほんらいである。わたしはそう考えています。
(じゃ、『日本書紀』は、話を大きくしたわけですか! そうですか。)
そう、その通りです。それで、そのように考えてみますと、崇神天皇のとき、大和盆地以外に新しい領土が、かなり広大に、支配下に入ったということは明らかなのです。そうしますと、今のような巨大な古墳を造るのには、たくさんの人数、労働人口がいるわけです。(そうですよね。むかしは全部手作業ですよね。)従来大和盆地のなかの人だけで造っていた段階では、初代神武から九代開化までは、そんなにでかい古墳はない。ところが、いきなりパッと、一〇代崇神の段階で、いきなりでかい古墳ができたというのは、それに労働人口というか、集める労働人口が格段にふえた。そういう巨大な労働人口をバックにして、あのような巨大な古墳を造りえた。こう考えるのが話としては、わたしは、ひじょうに分かりやすい話であると。
(じゃあ、すごく盛大な勢力をもっていたということですね。)
そうです。大和盆地内がひとつ、こんどは大和盆地外が第二。その二つの領域をあわせて、その労働人口をつかって築いた。こう考えるわけですね。それはよいのですが、それじゃあ、何のために、そんな巨大古墳を造らなければならなかったかということが、
本日の主題に関連しているわけです。それでじつは、征服された方は銅鐸圏である。征服した方は、九州伝来の三種の神器を宝とする天皇家である。ところが征服された方は、銅鐸をお祭りの道具とする銅鐸圏です。これは、じつは西は中国地方から東は東海地方まで広がっていた。その中に征服を受けた。それで征服をうけたほうも喜んで征服される人はいませんから。たいへんに脅威を感じ、反発を感じたことはとうぜんなのです。その脅威を感じ、反発を感じた人たち、銅鐸圏の中心はどこか。それはじつは、大阪府の茨木市なのです。
(そうなんですか。茨木が中心なのですか)
東奈良遺跡。奈良県の「奈良」に「東」を付けて東奈良(ひがしなら)遺跡とよびます。しかし大阪府のなかにあります。そこから質・量ともに最大の銅鐸の鋳型が、日本列島中ばつぐんに出てきたのが茨木市東奈良遺跡なのです。この地帯が銅鐸圏の中心だったのです。この中心地が、先ほど言いました『古事記』で西のほうが抜けているということは、ここは支配下に入っていなかったということです。ですから銅鐸圏のほうは、崇神天皇たちにたいして反撃の敵てきがい愾
心をもっていたはずです。そうしますと崇神天皇の根拠地はどこか。これは奈良県桜井市という奈良県の大和盆地のはしの方。飛鳥とならんで端のほうの桜井市に、崇神天皇の本拠地水垣宮があったと言われています。「師木の水垣宮」と、『古事記』に書かれております。『日本書紀』にも、にたような記事が書かれております。その桜井市の本拠地のほうに対して、茨木市のほうから攻め込もうとすると、木津川をさかのぼるより他にない。ちょうど今の京都から奈良へ行く近鉄(京都線)ですね。これのある木津川をさかのぼるより以外にない。そして大和盆地にはいって、まもなく箸墓にぶつかるわけです。そのうしろに桜井市があります。ですから桜井市に攻め込むには、とちゅうに箸墓があります。そこに軍事拠点。あの高いところに見張台や指導部がおかれて。もちろん兵士は平地にいるでしょうが、彼らが迎え撃つ。入ってくるほうは平地にいるわけですから。そういう敵に対して、高い土地をバックにもって戦うほうと、平地だけで戦うほうでは、戦略的に、戦術的に、どちらが有利・不利かははっきりしています。(遠くから来る敵が、ずいぶんよく見えたということですね。)その通り、遠くから来る敵がよく見えるということです。矢も上から下を撃つほうが、下から上を撃つより、もっと効果的に撃てたと思うわけです。それに何よりも敵の動きをはっきりキャッチできます。知らないうちに、敵に後ろに回られていたということもないわけです。このように、一旦緩急(いったんかんきゅう)があったときに、軍事的に重要な意味を持つ。そういうことが、大きな墓を造ったことのひとつに、背景があったのではないか。
トルストイが言いますように、死んだら人間どのぐらいの土地が必要かという有名な小説がありますが、 二メートルあればよい。今の日本のように焼き場で、骨に焼いたら一メートルもいらないかも知れませんが。
しかしそれ以上に、大きなものを造るのには理由があった。一方ではお祭り、それと同時に、もう一方では軍事的な目的があったのではないか。このように考えてきたわけでございます。
それで一方では、次の十一代の垂仁(すいにん)天皇の時、たいへんな事件が起こるわけです。これは『古事記』・『日本書紀』ともに、書いてあります。それは沙本毘古(さほひこ)という人がいました。この佐保は、奈良県の佐保、あそこだと言われていますが、わたしは
そうではないと考えていまして、やはり茨木市・摂津市にも「佐保」や佐保川がある。そこにも佐保がある。わたしは「佐保」というのは、この摂津の佐保だと考えています。そこ(の支配者)の沙本毘古(さほひこ)という人に、沙本比賣(さほひめ)という妹がいました。それが、垂仁天皇のお妃になった。
それが新婚まもないころでしょうが、垂仁天皇が昼寝をしていた。じつは沙本比賣(さほひめ)には、かくれた目的があった。それは兄さんから、新婦として入って行って、小さな刀(小刀)を渡すから、これを持っていって、これで新郎の首を刺し殺せ。そういう依頼をうけてきた。新婦が暗殺者である、そういうすごい話ですね。
(非常にドラマチックな話ですよね。)
それで首尾よくというか、新郎の垂仁天皇が昼寝をしていた。今こそチャンスだと思って、小刀をだして首に振りかざした。ところが、じつに平和そうな顔をして寝ている新郎の顔をみて、あまりにも悲しくて、涙がぽたぽたと落ちた。その涙が、垂仁天皇の顔に落ちた。そうしますと垂仁天皇が、ふっと目を覚ました。今夢を見ていた。佐保のほうから黒い雲が押し寄せてくると思ったら、雨が降ってきた。そう思って目を覚ましたら、(あれは)何のことだと思っていた。じつに、のどかな顔で言った。ついに沙さ
ほひめ本比賣はたまらなくなって、実はわたしは、とんでもないことを兄から言いつかって来た女です、と告白した。
それで垂仁は、ひじょうに怒って大軍を発して、佐保城をとり囲んだ。そうしますと不思議なことにと言うか、沙さ ほひめ本比賣はお兄さんのところに。城にこもってしまった。
(そうすると沙本比賣はお兄さんのところへ行っちゃったのですか。)
そうして永年囲んだあとに、火を放って落城するときに沙本比賣は使いを送ってきた。「じつは、 わたしは子供を生んだ。 それは、あなたの子供である。それを信じてくれるなら、その子供だけを助けたい。」そういって、その子供を引き渡した。そういう話が載っている。そう言って沙本比賣(さほひめ)と沙本毘古(さほひこ)は、燃えさかる落城の中で死んでいった。わたしは、ちょっとギリシャ神話にもないような、新婦が暗殺者であるという、推理小説にもあまりないような。大作家である小松左京さんなどに、ぜひ映画化・テレビにしてもらったら。世界的に大ベストセラーの作品ができるのではないか。こう期待しているのですが。
(ぜひ映画化してもらいたいですね。なにかハンカチを持って、握りながら見なきゃいけないような映画になりそうですね。)
そうなんですよ。これが、じつはわたしは銅鐸圏滅亡の話である。銅鐸圏の中心地が落城した。ということは、つまり西は中国地方から東は東海地方まで。かってあった銅鐸圏だったものが全部天皇家の支配に入った。そういう事件を意味している。
(それじゃ、ひじょうに大きな戦いだったのですね。それがクローズアップされたということなのですね。)
そうです。ひじょうにこれは重要な歴史事実だと考えています。そういうことが背景になって初めて、次にもうします応神陵・仁徳陵というわが国最大の、いや世界的にも最大クラスの古墳が築かれる背景は、今の事件にあった。このように思っています。
(そうですか。皆さん、一番おもしろいところですが、ここらへんで、すこし音楽を聴いてみたいと思います。古代史から少し離れて一休みしてみたいと思います。)
・・・
(音楽はカット。)
・・・
(今日の道ばたサミット、歴史学者の古田武彦さんをおまねきしています。「天皇陵はなぜ造られたか」という題で、じつは中年のかたに、この話をしたいということで、お話を考えてきていただいて、ずいぶんドラマチックなところで音楽が入りましたが、つぎをうかがえるしょうか。)
いよいよ、本日の核心に入ってまいりました。いわゆる応神陵・仁徳陵というのは、たいへん大きな古墳でございまして、仁徳陵は長さが四八六メートル、世界最大と言ってもよい。
(世界最大ですか。)
と言いますのは、秦の始皇帝陵とは比べかたによります。秦の始皇帝陵は東西三四五メートル。ですから仁徳陵よりだいぶ小さいです。ただしかし始皇帝陵のほうはほぼ正方形に近いので、南北も三五〇メートルあり、面積は秦の始皇帝陵のほうが仁徳陵より大きい。しかし目で見たところは、仁徳陵のほうが一四〇メートル以上大きいですから、仁徳陵のほうが大きいとも言える。見方によって秦の始皇帝陵と仁徳陵、どちらが大きいかという感じなのです。同じく応神陵も、長さは仁徳陵よりやや短いですが、ところが面積のほうが仁徳陵より応神陵のほうが大きいのです。
(そうですか)
ですから応神陵・仁徳陵どちらが大きい。見方によって、どちらとも言えるような。そういう世界的に巨大な墳墓であることは、間違いがない。
(あの中国というすごく広い土地で、秦の始皇帝と言えば誰でも知っている名前ですが。そのお墓より、もっと大きなものが日本のような、中国よりもずっと小さな日本にあるというのは、すごいことですね。)
ですから天皇陵というのは、応神陵・履中陵などの大きな二つだけでなく、これに準ずるものが、やたらにある。それでは、これらは何であるのか。よく言われるのは、四世紀の後半から五世紀前半という、応神から仁徳の時代にかけて、朝鮮半島で高句麗と倭軍の激戦の真っ最中であった。それは高句麗好太王碑という、四一四年、五世紀のはじめにできた石碑にはっきり書かれておりますので疑いのないところです。それに対して、従来のほとんどの学者、わたし以外のほとんどの学者は、それを見ても朝鮮半島で高句麗と戦ったのは近畿天皇家である。そのように思ったり、書かれたりしている本がひじょうに多いと思います。
(そうですね。そのように習いました。)
わたしはそれは逆だ。それは、 むしろ近畿天皇家が主勢力でなかった証拠である。なぜかと言いますといまの好太王碑のところに墓がありまして大王陵。人によりましては、近所に将軍塚というのがありまして、そちらのほうだという人がいますが。どちらにしましても一〇〇メートル前後、まあ日本でいえば中型古墳。中の中程度のお墓なのです。ということは高句麗の人は、王様のお墓を造って祭るのに熱心でなかったから、そんな程度のもので終わったのか。そんなことは、
ないとおもう。なんとならば好太王碑に書いてありますように、いまや倭軍と激戦の真っ最中です。あの好太王碑を建てたから、あとは激戦は終わったのか。そんな話ではない。そうすると交戦中でありながら、そんな巨大古墳を造る余力はない。戦う兵士も、古墳を造るのも同じ人間ですから。そうしますと、やはり交戦中の高句麗としては、まさに一〇〇メートル前後というのが適正規模ということが、言えるとおもう。いや、そんなことはない。日本人には超能力があるのだから、かたほうで高句麗と戦って、かたほうでは、あのような世界最高レベルの天皇陵を次々と古墳を造る力量があったのだ。そういうことをいう人がいたら、わたしは信用しませんね。
(それはちょっと信用しませんね。それはふしぎな話ですね。)
わたしは、日本人が非常に劣(おと)ったつまらん人間だとは思いませんが、どうじにまた超能力をもった凄すごい人間だとも思いません。まあ朝鮮半島・韓国の人々とも似たか寄ったかの人々・人間であるというのが、わたしの基本の考えかたです。そうすると九州・一貴(いっき)山銚子塚古墳というのが筑前二丈町にあります。さらに筑後川流域の、ゆうめいな装飾古墳。さらには有名な石人・石馬の古墳。これらはいずれも一〇〇メートル前後の中型古墳です。巨大古墳はない。ということは、いずれも朝鮮半島で高句麗と激突している倭軍、倭王の中心勢力にふさわしい規模である、ということができる。
これに対して近畿の場合は、同じ三種の神器を奉じる、 よしとする勢力である。親戚関係である。
わたしはよく言うのですが、イギリスに対するアメリカ合衆国の関係である。イギリスが本家・本元で、アメリカ合衆国はそこから分派して本国よりも 大きくなった。あのイギリスとアメリカ合衆国の関係に、よく似ている。そういう存在が近畿天皇家である。
そうしてくると近畿天皇家は応援勢力ではあったでしょうが、主勢力ではなかった。朝鮮半島で戦う上では。しかし、そうは言っても高句麗が九州に攻め込む。これは博多湾岸に攻め込んだことを、おそれて筑後に下がったわけです。さらに関門海峡を越えて大阪湾に突入してくる可能性がある。そうすると応神陵というのは、大阪の方はよくご存じですが、羽曳野市の古市(ふるいち)古墳群といいまして大和川が大和盆地にはいる入口になっています。天皇家の一番最後の根拠地が大和盆地です。
(最後の根拠地が大和盆地ですか。回りは、山に囲まれていますし・・・)
大和盆地は、まわりが、まさに山に囲まれた天然の万里の長城のようなものです。山に囲まれている。そこに侵入しようと思えば、今の(大阪府)羽曳野市のところ、大和川のところを、通って侵入してくるわけです。そこに応神陵を造っている。ついで堺市の百も舌ず古墳群、高石市の海岸に上陸してきたときに仁徳陵を中心にする百舌古墳群が控えている。そして、いまの古市のほうへ行こうとすればバックからこれを攻撃する。この二つの巨大古墳は、屈強の砦(とりで)として向え撃つ。いずれも、そのような軍事的砦とりでという性格をもって造られたのでないか。
(じゃ昔は砦としての状態だった。今ほど人間が多くないのに、あれだけ大きな砦があったのなら。ものすごかったですね。)
ものすごく敵の侵入をおそれてというか、恐怖というか、これに対応する。ちょうど先ほど言いました(明治時代)山陽本線を作るときも、東海道本線を作るときも、敵がどう攻めてくるかをいつも気にしている。それに対する軍事的補給路を兼ねてつくったわけです。
同じように古墳を作るとき、ただ平和的に、お祭りしかしません。そうではなく一方はお祭りですが、他方はなにかあったばあいの軍事的よりどころ、というかたちで造られた。
今の大和盆地は、大和盆地全体が大自然がつくった天然の万里の長城のような屈強の場所なのですが、その中でも飛鳥という場所は、有名な大和三山という山がある。畝傍(うねび)・耳成(みみなし)・香具(かぐ)山とございます。あの山はまた天然の、見張り兵がいたり指揮集団が居たりするのには屈強の場所だった。あそこに囲まれているから、飛鳥というところは、わたしの表現では「万里の長城の中の千里の長城」のような、二重装置の軍事的にひじょうに守りやすい場所。
現代のわたしたちは、そんなことを思いながら行く人はいませんが。それは平和な時代になったからであって、いわゆる軍事集団として発生した、熊野を通って入ってきたというのですが。そういう天皇家の勢力にとっては、飛鳥は屈強の根拠地だった。それをとりかこむ大和盆地。さらに、そこに瀬戸内海に入って上陸してきたときの砦。そういうものが応神陵であり、仁徳陵。それをとりまく古墳群であった。
(それでは、今よりも昔の方が、戦争とか侵略とか、島国であるがために、ひじょうにそのようなことに備えていて、智恵を出しあっていろいろなことを考えて造ったということですか)
とくに敗戦後の日本は平和な時代に入ったために、そういう目で見るのを忘れちゃったところがありまして。(たとえば)東京に、はじめて車で行った方は、本当にびっくりされるのですが。あそこはホントに道がまがりくねって、分かりにくい。皇居のほうに行くつもりなのが、違うところに行ってしまった。変な風に道がずれている。これは道路の作り方が間違っているのではなくて、江戸時代に江戸城に敵が攻めてきたときに、まっすぐに入られないように、道をワザと変なところにグルグルまげてしまった。それを現在も受け継いでいるから、東京というのは京都と違いまして、ひじょうに変に曲がりくねっている。そういう軍事道路をいま使って、平和に車で走っておられる。現代の目で見ると、ほんとうに歴史としての古代の姿が見失なわれてしまうという問題であろうと思います。
なお付け加えますと、天皇陵たとえば履中陵などが百舌古墳群にありますが。これの陪塚から、ものすごい数の武器が、鎧・兜や剣がおびただしく出土しました。そしてまた大和盆地の中でも、メスリ山古墳などからは方部の下から、何百人分の鉄器・武器が出土しました。
(何百人分ですか。すごい量ですね。古代にしてみたら。)
(そういう)有名な話があるわけですよ。かなり天皇陵や古墳の中や周辺から武器が出土することがひじょうに多い。まあ一番、はっきりしていることは、あの中に葬られた御当人は、たいてい剣(つるぎ)をもっていませんか。勾玉や鏡は、あったりなかったりしますが、女性は別にして、剣をもっていない人は、ほとんどいない。死んでも、なおも武装しているという姿をしめしています。
(そうですね。安楽にというかたちではないですね。)
それを中心にしているのですから、その古墳がまったく軍事を無視した古墳であるはずがない。そのように言えばいえる。
(それでは古代には、わたしたちが思っているよりも、もっと、頻繁に戦争というものが、あったのでしょうか。)
それは、いつも恐怖に。縄文時代やそれ以前には、動物との戦いにあけくれたでしょうが。一番その恐怖は寝ていても、いつも頭にあったでしょうが。人間がけっきょく他の動物とのたたかいに勝って、弓矢、武器の力により人間が勝ったあとは、今度は人間同士の戦いが、いつも頭から離れなくなったと思います。それで、さいごに興味深い問題を付け加えさせていただいて、いいですか。三角縁神獣鏡、銅の鏡ですがいつも古代史で問題になります。ところが、あれについて、なぜか従来の学者・研究者や教育の場でも、ほとんど問題にされていない重大なテーマがある。わたしの考え方が間違っていなければそう思っています。
(それは、どのようなことでしょうか。お願い致します。)
銅鏡の軍事的意義、こういう問題です。
(鏡ですよね。銅鏡というのは。)
それが軍事的な重大な意義を、持っています。みなさん誰もが、天皇陵が軍事基地だと言うだけでも、だいぶまゆつばだと思って聞いておられたのに。あの鏡が軍事的意義があるとは、とんでもないことを言うやつだ。そう思いながら聞いておられるかもしれませんが、実はそうではない。
なぜかといえば『三国志魏志倭人伝』の中に、魏の明帝の詔勅(しょうちょく)が、長い文章が載っています。その中に一〇〇枚の鏡、これを与えると書いたあとで、これを国の人たちに見せて、わたしが、つまり中国の天子が、倭国の女王卑弥呼(ひみか)をひじょうに愛し、いつくしんでいる。そういうことを知らせなさい。これは『魏志倭人伝』を読んでいる人は、みんなよく知っている文章だ。ところがよく考えてみますと、美術品として、
よい美術品だから見て楽しみなさい。博物館にでも入れなさい。そういう意味ではない。
そうすると、今言った言葉を考えてみますと、もし卑弥呼を攻撃する人間がでてきたら、それは卑弥呼をいつくしみ愛しているわたくし魏の、中国の天子を攻撃するものと心得よ。そういう意味を、あの魏の詔勅はもっているとおもう。もし、その覚悟がなければ、うっかり倭国の女王を攻めることはできない。
(じゃ、あれは外交上の。それが外交上あったことによって、起きなくてもよい争いが起こる。そういうことって、あるんですね。)
そうです。 外交上の全安保障です。 卑弥呼が、骨董好きの女性だったという見方は間違っています。卑弥呼が、お化粧好きで、鏡を集めてお化粧していた。そういう考え方でいたのでは、ぜんぜんダメです。そういう意味で、さらに考えますと前漢式鏡・後漢式鏡は中国に当然あります。その前漢式鏡・後漢式鏡は、前回言いましたように糸島博多湾岸を中心に出てきますが。それらは軍事的意味をもっている。それを持っている王者を攻撃することは、中国を攻撃をするという意味を持つ。そういう軍事的意味をもった。
こんどは、それに対して三角縁神獣鏡というものは中国にはない。そっくり同じものはない。だから今度は、今の考えに準ずることで。わたしは、三角縁神獣鏡というものは日本側で作ったと考えていますが。その場合は、やはり前漢式鏡・後漢式鏡のそっくりさんを日本側で作ったら、作る場合は中国側の了承がいると思う。ところが了承なしに作った場合は、鏡としては似ていても違う鏡。三角の縁ふちが付いたり、なかのデザインが違います。似ていても違う鏡を作らせていただきました。
そういう意味が三角縁神獣鏡です。ただし鏡の性質は共通していますので、この鏡の原産地は中国ですから、われわれは中国に協力する体制にいる。そういう証拠品が三角縁神獣鏡だと思う。
ですから、やはり三角縁神獣鏡を持っているものを攻撃しようとする場合は、やはり後ろにいる中国といつ戦っても、やむを得ない。そういう覚悟がなければ攻撃できなかったはずだ。そういう意義を三角縁神獣鏡も、中国の鏡に準ずる価値を持っていた。
『魏志倭人伝』を読めばとうぜんのことなのですが、なぜか、そういうことに触れたものを、あまり見たことがないので、今日の「天皇陵の軍事的意味」に、「銅鏡の軍事的意味」という問題をプラスさせていただきます。
(むかし安全保障があったというところで、ちょうど時間がきてしまったのですが。まだご興味のある方は、先生はご著書がたくさんありますが、その中で『失われた九州王朝』。これは朝日文庫から出版されています。これを先生は推薦されていますので、もっと深く知りたいというかたは、お読みになってください。
今日は、歴史学者の古田武彦さんに「天皇陵はなぜ造られたか」をお話しいただきました。番組をお聞きになった方は、えっと思われたところが、いっぱいあったと思われれますが、楽しい話を聞かせていただきました。今日のお話は中年・熟年層を対象ですが、次回は年輩の方を対象に「歴史のなかの祝詞(のりと)」を企画しております。先生は精神的にたいへん若いお方ですが、たいへん遠いところおいでいただいて、また来ていただいけるでしょうか。よろしくお願いいたします。)
関連リンク
日本国家に求める 箸墓発掘の学問的基礎(古田史学会報43号)
講演記録 古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
天皇陵の軍事的基礎〈II〉(古田史学会報43号)
逃げざる陵墓 続天皇陵の軍事的基礎(講演記録)
『天皇陵を発掘せよ』第2章 天皇陵の史料批判 古田武彦
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから
Created & Maintaince by"Yukio Yokota"