古田武彦とともに 創刊号 1979年7月14日 古田武彦を囲む会編集
北山昌夫
今、私の座右に二冊の本がある。古田武彦さんの『親鸞』(清水書院刊)と、『わたしひとりの親鸞』(毎日新聞社刊)である。とりわけ『親鸞』から受けた衝撃は強烈だった。二年前から、「倫理・社会」を担当することとなり、友人の藤田友治さんから薦められるままに手にした『親鸞』だったが、以来、私は「親鸞」に、というよりは「古田親鸞」に魅いられてしまった。
この本の冒頭の「読者との約束」(序文)で、「現代に生きるわたしたちの課題を、真正面から親鸞にぶっつけてゆきたい」とする古田さんの姿勢は約束通り、全篇を通して守りぬかれており、時代を見すえる古田さんの若々しい魂が、いたるところで脈うっているのを強く感じた。私は、この感概を私と向き合う生徒たちに伝えずにはおれなかった。
もともと、通信制教育は、自学自習をたてまえとしており、生徒は与えられた教材と取組んで、レポートに解答して提出、指導教師の添削を受ける仕組みになっている(レポート提出のほか、年間、科目毎にそれぞれ定められた時数以上のスクーリング=授業に出席する必要がある)が、生徒たちが手にする教材としての教科書及びそれに付属した学習書だけでは、とうてい生徒の心をゆりうごかす学習ができないと考える私は、これらの教材以外に〈資料〉を印刷・配布していた。
この『親鸞』も、手づくりの〈資料〉に加えることにしたのである。その上で、次のような設問を生徒たちに課した。(課題は、各学期毎に、五枚におさめ、報告課題集=レポート集として、〈資料〉と共にあらかじめ配布するが『親鸞』に関する設問は、三学期の最初のレポートに組みいれた。)
設問 ーー〈資料〉の古田武彦著『親鸞』(抜粋)を読み、「歎異抄」第一〜十条(古田訳 親鸞のことば)及びそれぞれの条につけられた「解説」(私〈古田〉のこたえ)の中で、皆さんが最も強く共感した「条」あるいはその「解説」、もしくはそれらのうちの一部分について、自らの生活経験をふまえた感想を記せ。(取上げる「条」、「解説」またはその一部分を〔 〕内に明示する事)
〔 〕
尚、時間と努力の関係で、親鸞の全章を印刷・配布することができず、三章のうち、最後の章、永遠の対話 ーー『歎異抄』ーー (四一頁分)のみを抜粋するにとどめた。(昭和五十三年度の「倫理・社会」の受講申込み者は二五〇名)
これに対応した生徒たちの「こたえ」の数例を紹介するが、それぞれに付した私のコメントが、必ずしも的を射ていないことについては、汗顔の至りというほかない。ただ、生徒たちの「こたえ」を読むことによって、「古田親鸞」はまさに現代に生きている、現体制 ーー政治の、社会の、宗教の、教育のあり方への鋭い問いかけにほかならないことの証明を見たということ、そして、生徒たちの「こたえ」を通じて、私自身がためされているということを痛感した。
※FM(30歳・女性)
〔第一条と解説 ーー「『煩悩』というのは、仏教の有名な術語だ。わたしたちの内部にいっぱいつまっている。何が。いっさいの執着、いっさいの欲望、いっさいの夢、死んでも断ちきれぬあこがれ。それらがないような顔をする。それを親鸞は拒否する。それらが捨てきれるようなかっこうをする。それに親鸞は静かに首を横に振る。これが人間なのだ。わたしなのだ。」〕
私は、この言葉に胸をうたれました。この言葉の中には、人間のもつ、どうしようもない叫びがあります。人間はいっさいの欲望を断つことができない! 自分自身をコントロールしようとしても、気がついてみると、欲望の奴隷になってしまっている。まさに、人間は自分自身を救い得ないものなのでしょうか。自力により悟りを開こうとする旧仏教に絶望し、自分がまず救われなければならないと考えた親鸞は、自分自身を実に鋭く見つめた人物であったと思います。
〈コメント〉
「煩悩を捨てよ」と説く、行ないすました老僧の法話に耳を傾けても欲望の泥にまみれたわたしたちの魂は容易に救われない。そういう意味で、正に親鸞は現代に生きでいると言えそうですね。
※TT(33歳・女性)
〔第一条〕
関西弁で、よく「死んだらおしまいや」という。また、世間に対して、「それがなんや」ともいうが、よく言ったものだと思う。第一条を読んで、上の二つの言葉にゆきあたった。これは親鸞の言っている言葉やないかと。
この二つの言葉に、神経の細い自分は何度救われたか知れない。自分自身に絶望したとき、社会に絶望したとき「それがなんや、死んだらおしまいや」と言い聞かせた。この〈資料〉全体を読んで感したことは、自分の経験から、せめて中学で「倫理・社会」が違った形でもよいから、教科として取りいれられておれば、幼いもの、非行や自殺が減少するのではないかということである。
〈コメント〉
あなたの文章を読んで、思わず膝をうちました。いろんな苦しみや悲しみ、時には喜びをくぐりぬけてこられたからこそ、でてきた言葉だと思います。
※NK(44歳・女性)
〔第一条の解説 ーー「親鸞のころ『臨終住生』といって、死にざまで、その人の往生できたかどうかわかる。一般にそういわれていた。死顔が安らかだった。そのとき、外には紫の雲がたなびいていた。あの人が仏になれた証拠だ、などといったのである。親鸞はこのような考えをキッパリ否定した。真実の信仰を『思いたつこころの起こるとき』すべては決定するのだ、というのである。かれは生きながら絶対の救済の中に生活する、というのである。『臨終まつことなし、来迎たのむことなし。』と、かれは力強くいいはなった。」〕
「臨終往生」。死にざまで、その人の往生できたかどうかがわかる。
ーーこんな嫌な文句は私にはない。私の父は三十六才で、五人目の子供を母のお腹に残して病死した。その死顔は安らかではあったが、私が子供心にも感じたことは、やはり涙を流していたということだ。そして、私の主人もまた三十七才で突然、心臓麻痺で死亡した。それは救急車を呼ぶ時間もない短い間の出来事であった。昼食後であったが、その朝、私にいろいろと礼を言ったことを思い出した。その死顔を見た時も、両眼から涙がつたっていた。先祖を朝な夕なに礼拝し、家を守って母と苦労を共にしてきた。(長女であったから。)だのに、死んだ人は、私がいくら苦しんでいても、何の助言もしてくれない。地獄・極楽はこの世にあり、と痛切に思う。
〈コメント〉
言うに言えぬ苦労を重ねられたあなたの壮絶な言葉に対して、答えるすべを知りません。親鸞の言葉、解説の言葉の一つ一つがあなたの心にくいいることだろうと思います。「念仏」という言葉が、単なる「ナムアミダブツ」を唱えることを意味するものでないことをも含めて、
※MY(35歳・男性)
〔第一条と解説〕
私は、キリスト教信者で、仏教とは立場が違いますが、共感を覚えます。現在の教会でも、奉仕(伝道やキリスト教的諸行事への参加など)や倫理の実践が信仰の物差になりがちです。教会は、信者にいかに奉仕させ、いかなる実践をするかを普遍的な課題としています。しかし、現実の内部状況は、奉仕に疲れ、周囲に対する気づかれで、信仰生活から遠ざかる信者も少なくありません。
私が思うには、信仰の根本は、いかなる実践を行なうかではなくいかなる対象を信じるかだと思います。実践のない信仰は無益なものだというのが通説ですが、実践を信仰の物差にするところに問題があるように思います。
〈コメント〉
現代に生きた信仰を求めようとされていることに対し、敬意を表したいと思います。親鸞の言葉には、宗派を越えて、生きる糧を与えてくれるものがありますね。
※MK(46歳・男性)
〔第一・二条と解説〕
十六才の秋、世を呪い、人を怨み、自己の境遇を憐んで「死んだ方がましや」と思いこみ、工場にあった鋼の焼入用の青酸カリを持って、幼い頃、父とよく貝取りにいったゴンドウの浜に行きました。真赤に燃えた太陽が海に沈むのを見ながら、青酸カリをはさんだパンを口に入れ、服のまま沖に向って泳いで行きました。胸の焼ける感じの中で、気がついたときは、此花市民病院で胃の洗滌を受けておりました。漁師に助けられ、死に切れなかったのです。青酸カリは焼入れに度々使っていたため、毒性が消えていたのでした。警察に二日聞保護され、母に迎えられました。工場に帰っても「死に損ない」とあざけられながら、私は旋盤にすがりつくようにして仕事をしました。それは腕に職をつけるとか、一人前になるとかとは、別のものでした。ただひたすら、信仰のように、救いを求めて仕事をしたのでした。二年間程、休日もなく、正月元旦も仕事をしました。毎日十六時間も働いていたのです。「死に損ないが狂いよった」と言われながら、仕事をすることに救われていたのかも知れません。
今、第一条を読み、また解説の中に、「おどおどした顔。世間の非難がこわい。憶病な心。そんなものは根こそぎ拒絶しよう。・・・」とあります。私と親鸞を比べるのはおこがましいことですが、当時の私の心境は、親鸞の「信心」と同じであったと言い切っても、親鸞は許してくれると思います。それにしても、私の思いますに、親鸞の強烈な弥陀への信心、「このような自分こそ、まさにミダが救おうとする人間だ」 ーーこの自信はどこからくるのでしょうか。解説に「真実の信仰を『思いたつこころの起るとき』すべては決定するのだ。」とありますが、これはやはり、自己の力、つまり、他力本願といえども、信仰を決意するのは自力がなければならないでしょう。親鸞はたしかに、他力の立場から自力を排除しましたが、ミダヘの信心の自力の決断を排除していないと思います。それは、第二条の「あたしの信心の場合、これしかない。これ以上は、念仏をとってお信じになろうとも、また捨てようとも、ひとりひとりのおきめになることだ。」というだけで、一人一人の決意の自由にまかせて突き放しております。信じるということは、やはりむつかしいものなのですね。救いを求めることは、それだけの立場が必要なのですね。私の場合、死に損なって仕事に救いを求めました。求める行動はこれしかないと思いこんだ最後の自力だったのでしょう。私の心の狭小な、世の中を広く見ることのできないものの自力でも。
今、私の思いますに、十六才のとき、親鸞の言葉を知っていたら、どうなっていたでしょうか。苦しまず、救われていたでしょうか。いや、救われていなかったでしょう。宗教は滅んでいたのですから。
〈コメント〉
最初に、返信が遅くなってしまったことをお詫びしなければなりません。実はあなたの告白?を読ませて項いて、それにお答えする心の用意がないこどに気づいたものの、どうしようもないままに、数日が経ってしまったからなのです。
あなたが、十六才を契機として、新生の人生を歩みはじめられた、そういう体験がまさに、親鸞の生きざまと似ており、それだけに、親鸞の遺した言葉の一つ一つが、そのもっている本当の意味が、あなたの心の中につき通っていくのではないかと思います。私のように、生活年令ばかり重ねながら、生死の境に立ち合うことのなかったものにさえ、親鸞の限りなく透明で、しかもきびしい言葉には、心底から勇気づけられるものを見出します。
尚、古田氏の解説を私は高く評価しているものですが、「抜粋」でない『親鷲』(清水書院刊)全文、あるいは『わたしひとりの親鸞』(古田武彦著・毎日新聞社刊)を読んで、是非、感想をおきかせ下さい。
※KN(34歳・男性)
〔第四条と解説 ーー「慈悲には『聖道』と『浄土』のちがいがある。『聖道』の慈悲というのは、いろいろのものを哀れみ、悲しみ、育くむことである。」「人間同上を差別する身分社会。その中で、支配する側が民衆に向けるあわれみ。」「そんなあわれみは、真実の愛とは関係がない。」〕
このことは、今の学歴社会のひずみによる人間性の軽視、また社会福祉の不足によるボランティア活動につながるものがある。このボランティアについては、評価できる面もあるが、反面、同情、憐みの発想から出発して、そのことが一定の枠内でのものの見方になり、根本的なものを見失いがちになる気がする。その意味で、各人一人ひとりが、「自立」の思想を持つ必要があるのではないかと思う。
〈コメント〉
この条及び解説は、私自身も最も惹かれる部分です。自分の中にひそむ、中途半端な愛や同情をきびしく問いつめられるように思えるからかも知れません。親鸞は、ここで、人間としての基本的な姿勢のありようを、はっきりと示してくれているようですね。「根源的に対等な人間同士」ということをぬきにした「あわれみ」や「同情」は差別だとされる根拠もここにあるのでしょう。
※SE(32歳・女性)
「第四条と解説 ーー「真実の救いとは何か。他の人間が、外から救えるものではない。人間を救うものは外からこない。人間の中に存在する『絶対』なものが、自らのきよらかな火によって、その魂を救うのだ。ミダとは、そのような自然の道理を解き明かすもの、人間に知らせるものなのである。」
「絶対」という言葉が、ぴったりと胸に応えてくるのは何故かと思い、一条から繰返し三度読んでみた。しかし、やはり、ここのところで感動してしまう。よく考えてみると、私たちは、神を「絶対者」とか「絶対なるもの」と表現することによって特定のどの宗教にも属しないで、しかも、あらゆる宗教・宗派を包みこんでいるという形で、相手に語ることがよくある。日頃、「神さまは自分の中にあるのよ」と子供たちに語ることがある。しかし、それは「悪いことはできないのですよ。『悪いことをしてはいけない』と心の中の神さまが、おっしゃるのですよ。」という意味をこめての語りかけにすぎない。
しかし、ここでは「人間の中に存在する『絶対』なるものが、自らのきよらかな火によって、その魂を救うのだ」と書かれている。「もっとも深い意味で『自立』の思想である。」と。子供に語ることも真実ながら、私自身はここまで、思い及ばなかったことに気がついた。
人間関係において、勤務先の同僚の中で、ごたごたがくり返される。ひとりびとりは苦しんでいるのだ。慰めの言葉をかけることはできるが、ひとりびとりが自分を見つめ、自分の中のものに目ざめたならば、そのひとりびとりが、それらの苦しみから救われる。あてはまらない例かも知れないが、この章を読み、私自身も含めてそう思った。つまらないことに心を労することがいかに多いかである。
戦後、なかなか本の買えない時、「歎異抄」が読みたくて、古本屋をまわったことがあるが、遂に手にはいらないまま、今この〈資料〉を手にして、月日のあまりに早くたつことに驚いている。そのうちに、そのうちに、と大事なものを読まずに過ごしてしまい、もったいないことをした。
〈コメント〉
私たちが、子供に語りかけるとき「お前の心の中にも神さまがいらっしゃるのだよ。」という、その「も」の分だけ徹底しない。宙に浮いた神さま、拡散した神を私たちは考えていたことに気づかされました。
※YM(39歳・女性)
〔第四条の解説 ーー「『差別』のうえに立つ慈悲。『慈悲』と名づけられた、ごうまんの精神を親鸞は見ぬいている。自分が、高いところにいてはいけない。だから、比叡山を降りたのだ。」〕
子供と話をするときに、大人が立ったままでしゃべると、子供はどんなやさしい言葉をかけられても、威圧を感じるだけで心が通じない。大人がしゃがんで、子供の目の高さと同じ位置ですると、心が通じるものである。
〈コメント〉
さらりと書き流されていますが、すばらしい着想です。政治家の壇上からの声高らかな叫び、講釈師の演壇からの説教・・・いずれも、なじめないものですね。大変教えられるところがありました。
※OT(39歳・女性)
〔第八条の解説ー「『学問』や『科学』が誕生したころ、それは荒野の中にあった。だから、だれの保証もなかった。体制から、しばしば危険視された。・・・ソクラテスも、同時代の『雲』という劇の中で、潮笑のまとにされた。それでも、何物も『学問」を停止することはできなかった。人間の精神の中から、つきあげるもの、『精神の解放への願い』が『学問』や『科学』をしゃにむにつきすすめてきたのだ。」「だから『学問』とは『科学』とは、本来何の“お墨つき”もないものだった。『これは人類のためになる』などという、護符をもたない、荒野の精神だったのだ。」
私が、この年になって高校の勉強をはじめたのは、右の解説にあることに通じるような気がする。年令も、能力もかえりみず、とにかく勉強しなければという、何か憑きもののように、数年来、頭から離れなかったことを実現させてみたわけである。職業人として生きる以上、後に続く後輩たちのよき先輩として、生き生きと仕事をしていくためにも、彼らが学んできたものを、自分の中に持っていたいと思ったから。しかし、よく考えてみると、結局「高卒」という“お墨つき”をもらいたいための努力にすぎないのではないか。現代の体制の中で、価値あるとされているものを求めているにすぎないのではないかと思う。そのことが、レポートの遅れにもあらわれている。学問や科学が“荒野の中”にあった頃の学者たちは、純粋に、何物にも負けず、学問に打ちこんでいたと思う。仕事上その他の多忙を理由に、自分に対して大変甘いことを反省している。
〈コメント〉
あなた自身の生活に根ざした“魂の叫び”として読ませて頂きました。私たちは、たえず「なぜ勉強するのか」という根底の問題を問いつづけなければ、枝葉末節の知識の摂取に終ってしまうと思います。
(大阪府立桃谷高等学校・社会科担当)
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