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市民の古代・古田武彦とともに 第二集 1984年 6月12日 古田武彦を囲む会編集
古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編II 親鸞研究の方法

家永第三次訴訟と親鸞の奏状

古田武彦

はじめに

 去る一月十五日(昭和五十九年)、新聞に家永三郎氏の第三次提訴が報じられた。その中に“親鸞が流刑の弾圧を受けた際、朝廷に抗議した”というくだりを変更すべく(文部省の教科書調査官から)改善意見を付せられた旨があり、氏はこれに対し、わたし(古田)の論証をもって答えられたことが表示されている(朝日新聞 編集部注)。かって若き日、わたしの射た矢が大樹に突きささっているのを、今日にして見る幸いをえたのである。
 *   *
 わたしは古代研究に立ち向う前、親鸞への探究に没頭していた。三十歳代前後(一九五四〜六八)のことである。
 親鸞消息文の研究に端を発し、親鸞に関する原典の史料批判から、自筆本の史料科学的追跡(デンシトメーター等による筆跡研究をふくむ)へと探究をすすめていった。発端をなした消息文問題は、「朝家の御ため、国民のために、念仏もふしさふらはばめでたうたふらうべし」の一句をめぐって対立していた服部之総、赤松俊秀両氏の学説に対し、実証的な方法論をもって批判を加えようとしたのである。すなわち、たとえば「めでたし」という語句を全親鸞文献や同時代文献から検出して、服部氏の唱導されたような“おめでたい奴(やつ)だ”という用例の有無を調べる、またたとえば、全親鸞文献の中の対国家、権力者発言のすべてを検証し、赤松氏の説かれたような“上・下融和”や“権力者を師にたとえ、国民を弟子にたとえるような社会国家観”がそこに果して存在したかを確かめた。その結果、服部説・赤松説のいずれをも非とせざるをえなかった。それに代って、平安末から鎌倉期にかけて、古代末の大変動期に生き、生涯を流罪と弾圧下に生き抜いた、親鸞独自の思惟様式、表現様式の存在することを見出しえたのであった。
  (「親鸞『消息文』の解釈についてーー服部・赤松両説の再検討」史学雑誌64-11 」、昭和三十年十一月、参照)

 このような研究経験は、わたしをしてさらなる探究の分野に向うべき方法論に目を開かせることとなった。すなわち、種々のイデオロギーに依拠するのでなく、徹底的に実証的に原典に相対すること、いかなる結論をもあらかじめ想定せず、あるいは自己のおのずから抱いていた先入観への抵触を恐れることなく、あくまで実証的、帰納的に、客観的な検証のさししめすべき帰結に従う。この一事のみを指針とする、この研究法である。
 このような立場からわたしが当面せざるをえなかったテーマ、それが「今上」問題だった。親鸞の主著、ライフ・ワークをなす著述、それは教行信証である。その書には、三つの序文がある。総序、信巻序、後序だ。いずれにも、幾多の問題が存在したが、中でも殊に奇好な「矛盾」があったのは、後序中の「今上」の一語である。

号上御門院
 今上諱為仁聖暦承元卯歳仲春(下略)

 右で「今上」と呼ばれているのは、土御門天皇だ。在位期問は「一一九八(三月)〜一二一〇(十一月)」である。年号は、正治・建仁・元久・建永・承元と経緯している。最後の「承元」の場合、「承元元年(一二〇七)十月二十五日〜承元五年(一二二一)三月九日」の間である。従ってこの期間内であれは、右の「今上承元」の表現が成立しうるのである。
 ところが、これは親鸞三十五歳から三十九歳に当る。越後流罪中だ。だが、こんな時期に教行信証が撰述された、と考える論者は、先ずいない。江戸時代以来、元仁元年(一二二四)、親鸞五十二歳の成立とされてきた。(わたしも、これを再論証した)。その後、晩年(六ー七十歳)撰述説もかなり有力化したくらいだ。とても“承元年間の成立”というわけにはいかない。では、なぜか。
 実はこの点、大正十一・十二年の問に、熾(し)烈な論争が行われた。提起者は、のちに法隆寺再建論争で有名となった喜田貞吉。もし教行信証が本当に親鸞の著作なら、何代も前(「元仁」は後堀河天皇。土御門ーー順徳ーー仲恭ーー後堀河。晩年は、四条、後嵯峨、後深草、亀山の各天皇。)の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。従って教行信証は親鸞の真作に非ず、という、驚くべき帰結を提示したのであった。
 これに対して本願寺系等の各学者は怒り、こぞってこれを攻撃した。その烈しい論争の中で、喜田は“親鸞は無学。代作者に依頼して本書を書いてもらったのであろう。”とし、その代作候補者の名前まであげるに及んで、彼の立場は一種グロテスクな色合いさえ帯びたのであった。
 その後、親鸞の自筆本たる坂東本教行信証(東本願寺蔵)の研究も進み、喜田の臆説は葬り去られた。しかし、その立場の発起点たる「今上」問題そのものは、解決されたわけではない。以後、寛喜三年(一二三一、親鸞五十九歳)に没した土御門上皇生存中であった時期に本書は成立した(小川寛式、赤松俊秀氏等)、といった学説が登場したのであるけれども、果してそうか。
 この疑問をいだいたわたしは、親鸞以前、親鸞と同時代、親鸞以後、そして親鸞の全文献の中から、極力「今上」の話を渉猟した。六国史、皇代記類、史論類、歴史物語類である。そしてその結果は、単純な帰結をしめした。(歴史物語類の「歴史的現在」の事例を除き)、“「今上」とは、「執筆時の現任の天皇」を指す”という一事である。
 この明確な帰結を手にしたわたしは、この検証結果から、問題の後序の一文をふりかえってみた。すると、そこには後半部に、
本師聖人(法然を指す。古田)、今年七旬三御歳也。

といった文面も出現し、この一文が法然七十三歳の時点、つまり「元久二年、一二〇五、親鸞三十三歳」という。若き親鸞が吉永の法然門下にあった当時の執筆、そのように見なすとき、この「今年」の表現はもっとも的確かつ自然であることを見出したのであった。(この点は、喜田をふくめて各論者とも、後代 ーー中、晩年ーー の文章と見なしてきた。)
 以上の検証によって、後序は次のような構成をふくむもの、とわたしは結論せざるをえなかった。
1. 承元の秦状(密(ひそ)かに以(おもん)みるに・・・)
2. 法然入滅の賛文(皇帝諱為仁・・・)
3. 吉永入室の記録(建仁辛酉暦・・・)
4. 元久文書(元久乙丑歳・・・)

 右の1. は、親鸞三十代後半の承元年間執筆の文章、2. は、親鸞五十二歳(元仁元年、法然十三回忌)の法然追悼の賛文、3. は、建仁元年(一二〇一、親鸞二十九歳)に法然の門下に入ったときの感激の執筆、4. は、元久二年、親鸞、三十三歳の執筆、というように、それぞれ親鸞の生涯中、記念すべき各時点において執筆した文章を、後年(元仁元年)に至って集成し、これをいわゆる「後序」の主要部としたものだった、そのように見なしたのである。(「慶哉……(最本尾まで)」が、文字通りの後序執筆時点の文章。)
 右の1. について、これを「奏状」と命名したのは、他でもない。親鸞自筆の坂東本について見ると、この部分は、公式文書(上表文)において厳守すべき書式、「平出」(「太上天皇」「今上」等の語については、“行かえ”を行って、次行の行頭におく。)や「闕字」(「主上」などの語の上を一・二字文空ける)の用法が守られている。これは一般的叙述の文章には必要なく、「奏状」(上表文、申状ともいう)において不可欠の筆法、構文なのであった。これが「承元」中、つまり流罪中に書かれてあり、そのままこの後序中に抽出し、転載されていたのであった。「承元の奏状」と名づけたのは、これがためである。そして事実、原初親鸞関係文書(血脈文集、歎異抄流罪目安)には、流罪中の親鸞が朝廷へ「奏聞」のための「御申状」を呈出した旨、明記されていたのである。

 その奏状の中の出色の文言、それこそあの

主上臣下、法に背き、義に違し、・・・

の一句なのであった。この三十代末の激越の抗議の文言を、五十代初頭の親鸞は本書の「後序」に転載し、九十歳の死に至るまで、これを変えることがなかったのである。以上がわたしの論証であった。(親鸞の奏状と教行信証の成立ーー「今上」問題の究明」『真宗史の研究』昭和四十一年)

 その後、補訂すべき一論点の現われたことを付記しておきたい。先に「承元の奏状」とした、右の1. の末尾に次の文がある。

空師、并(なら)びに弟子等、諸方の辺州に坐(つみ)して五年の居諸を経(へ)たりき。

 右の論文では、この、文をも、「承元の奏状」の一節と見なしていた。しかし再思すると、この一文は、さに非ず、「承元五年」時点の別文であった。なぜなら、土御門天皇を文字通りの「今上」と見なす時点、それは先述のように、「承元四年十一月」までだった。従って「承元の奏状」は「承元元年(流罪開始)〜四年十一月」の四年間内に成立したのである。
 これに対し、「五年の居諸」の一句をふくむ、右の、文は、それ以後だ。「承元五年」にならなければ、書きえない文面だ。流罪最末年、おそらく赦免前後の一文だったのである。これに対し、「承元の奏状」の方は、「承元元年〜四年」の間であれば、たとえば流罪直後(承元元年、親鸞三十五歳)でも、いいわけである。
 この点、わたしの論文の意義を評価されつつも、右の「四〜五年」の齟齬間題に注目して疑義を提示して下さった三枝充悳氏(「歎きの抄」現代思想 vol.7 -7、一九七九・六)に深謝すると共に、それに答ええたことを喜びとしたいと思う。
 このような、いわば部分的な疑義の他に、わたしは絶えて右の分析に対する反証の立場を聞くことがなかった。聞くことのないまま、十八年の歳月を閲して今日に至ったのである。
 そしてこの昭和五十九年一月十五日、家永三郎氏による、今回の応答を知ることとなった。すでに氏は『親鸞』(日本思想大系、岩波書店、昭和四十六年)において、わたしの右の論証を的確に要的・紹介され(四六三ぺージ)、深い評価を与えられた。爾前、爾後、親鸞研究の全学界がたとえ内面では認めていたとしても、表面ではつとめてふれずにきていたかに見える中で、それは出色の襟度(きんど)であったといえよう。
 古代史、ことに記・紀に対しては、氏は津田左右吉の学説を継承する立場であるから、わたしの記・紀分析とは、その根本を異にしておられる。にもかかわらず、親鸞理解においては、敢然とわたしの新論証に依拠して親鸞に関する史的叙述を行われた。その確固たる学的良心に対して深い敬意を表したいと思う。
(一九八四、三月五日)

編集部注
 朝日新聞、一九八四年一月一五日付朝刊、一面及び三面によれば、「思想審査的な色彩が強く、検定の恋意性が明らかなケース」としで、家永三郎氏は四つに絞って第三次訴訟を行った。この一つが親鸞に関して古田説の論証によると新聞に表示されている。


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