『市民の古代』 第三集 へ
第4集 ひろば宮崎宇史君へ
(原文のまま)
宮崎宇史
謹啓 古田武彦先生
年賀状の御返事、ありがとうございました。御返事が届いたのは、一昨日でしたが、まさか先生が多忙な時間を割いて御返事を書いてくださるとは思ってもいなかったので驚くと同事に感激しました。この手紙の原文は、十二月三十一日に書いたのですが、先生の住所が間違っているとまずいと思い、もし間違っていたら、葉書が返つてくるはずだから七日ごろまで待とうと考えて出さないでいました。七日を過ぎて、そろそろお出ししようと思っていた矢先、先生の御返事が届いたのです。幸い中海道を中街道と誤っていただけで済んだようです。
さて ーーー
先生の三書「『邪馬台国』はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」のうち、一番最初に読み、又一番気に入ったのが「盗まれた神話」でした。
昨年の四月、東京の書店で、「盗まれた神話」「失われた九州王朝」「『邪馬台国』はなかった」の三冊が棚に収まっていたのを見た時、私はためらうことなく「盗まれた神話」を買って帰りました。実をいうと、私は「邪馬台国」論争にはあまり興味がなく、とくに大羽弘道氏の「邪馬台国は沈んだ」を読んでからは、「もう邪馬台国の位置は、永久にわからないのではないだろうか」という気がしてほとんど興味を失っていました。それよりも私は神武天皇の実在とか、応神天皇が仲哀天皇を破って近畿を併合したという説(三王朝交代説)とかあるいは記紀の億計尊と弘計尊の話とかのほうを調べるのに熱心でした。ですから「邪馬台国」や「九州王朝」よりも「盗まれた神話ー記・紀の秘密」のほうを選んだのです。しかも表紙に、「神々はどこから来て、どこを通ってどこまで行ったか、また天皇家の祖先は、どの地点からどのようにして来たか、その一つ一つの道順はハッキリとわたしの目に焼きついている。」と書いてあったのでなおさらでした。
読み終わってしばらくは呆然としていました。カバーの紹介史にあるようにまさに「衝撃の論証」で、読後数日間は「前つ君」や神武天皇の姿を思い浮かべたり、思わぬ所に埋もれていた大日本豊秋津州などの不思議(としかいいようがない)な光景に目を奪われていました。歴木(くぬぎ)の大木を乗りこえて九州統一から凱旋してきた前つ君の姿や、九州王朝統合下から新天地東へと攻めこみ、遂に近畿天皇家を創立した英雄神武天皇の姿が、或いは玄界灘の孤島にいた大照大神、天国からやってきて「朝日の直刺す」高祖山に登り、九州王朝の始祖となった瓊瓊杵尊、更には天照大神より古い出雲の神々。ぺージをめくるごとにそれらはるか古代の日本列島と、われわれの祖先の姿が蘇えり、あたかも映画の名場面集を見ているようでした。
読み終わってから第二書、第一書の「失われた九州王朝」「『邪馬台国』はなかった」も読みたいと思い、四か月ほど経ってから書店に「失われた九州王朝」があったのを見つけたので早速買ってきました。一ヶ月ほどして「『邪馬台国』はなかった」の方も手に入れ、十一月に印刷間もない「邪馬一国の証明」を買ってきました。(この本について年賀状に書き忘れたようでわざわざ紹介して下さったのに悪いと思っています)。第三書から第一書までは執筆順と逆に読んできたわけです。他にもいくつかの本を発行しておられるようですが、私は「ここに古代王朝ありき ー邪馬一国の考古学ー」を書店で見かけた(先生の住所はこの本を本屋で立ち読みしてわかりました)だけで、あとはあの四冊しか読んでおりません.「ここに古代王朝ありき ー邪馬一国の考古学ー」のほうは、室蘭の本屋で売っていたので、買ってしまうと帰りの交通費がなくなる(私の家は室蘭市のやや郊外にあります)ため買うことができませんでした。
古田先生の本を読み終わっていつも思うことは、読後に何かいい知れぬ興奮のようなものを感じて、それか三日間くらい体の中をぐるぐる回っているのです。「盗まれた神話」のときは、先に書いたように、青年神武天皇や前つ君の大遠征のことばかり考えていましたし、「失われた九州王朝」のときは「社稷の存亡」の詔をした継体天皇と九州王朝磐井の全面対決、倭国と日本国の使者の争い、九州にいた倭の五王など(歴史の名場面といっていい)のことを思い浮かべていました。まったく古田先生の筆には、遠い昔に起こったできごとを、ありありと再現して浮かび上がらせる魔力でもあるのか、すばらしい小説でも読んだあとのような心持ちでした。
もう一つ感心したことは、「古代史学をやるのにはこんな高潔な人格が必要なのだろうか」ということです。公平に史料を見、面倒がらずに裏づけを探し、自分の好みに合わせずあくまで厳正に立論していく。「古代史学をやるには、こんな立派な人でなければならないのだろうか」と「盗まれた神話」を読んだあとでそう思いました。
話は変わりますが、私は古田先生がもと高校の歴史の先生だったとばかり思っていました。「邪馬一国の証明」によると国語の先生だったそうで、最初は意外に思いましたが、後から先生の本を読み返しているうちに納得がいきました。文脈をどう読むか、語句の意味、この句はどの語にかかるかなど国語の試験問題を解くようにして書き進めていらっしゃいます。特に従来の「歴史の先生」の読み方に誤りのある箇所が多く(例えば高句麗好太王碑文の解釈)それら多数の誤りを正した古田先生はやっぱり国語の先生だなと思いました。
まだまだ書きたいことはいろいろありますが、それはさておき、先生の本を読んでいくつか気がついた所があるので書きそえておきます。
まず、第一に九州年号について
「失われた九州王朝」の九州年号比定表を見ていて気がついたのですか、普通、年号の改正は、一大変事かあった時に改元するものです。しかし、九州年号が改元した年を調べてみても、一大事変や吉事が史上あったという年はほとんどありません(ただ一つ発倒元年《五三一 磐井の滅亡》については、別の問題に発展するので、もう一回手紙を書いてお知らせします。)あの「日出づる処・・・」国書を送った年も、又白村江の敗戦かあった直後にも改元は行われておりません。
不審に思ってもう一回調べて見ると、奇妙な現象に気かつきました,史上の変事が起こる二年前に改元されることが多い(例外も少なからずあります〕のです。
そのようなケースは左表にある四件です。
六〇五光元と改元→六〇七 倭国「日出づる処」の国書
六二九聖徳と改元→六三一 倭国、唐に貢献
六五二白堆と改元→六五四 倭国、唐に貢献
六六一白鳳と改元→六六三 白村江の戦い
又、私が「九州王朝史上の変事」としたのは右の四件の他、左の六件です。(計十件)
六〇〇(従貴七)倭国献使。
六〇八(光元四)裴世清来使とイ妥国の献使。
六四八(常色二)倭国唐に貢献。
六六五(白鳳五)唐の国使が来使、倭人泰山に向かう。
六七一(白鳳十一)筑紫君薩夜麻の帰還。
六九〇(朱鳥五)博麻の帰国。
十件中四件だけとはいえ(いや四件も)改元後二年にして変事というのはどうも変です。特におかしいのは白村江の大敗戦後に改元しないこと。「善化」以来ほぼ五・六年ごとに頻繁に年号を変えてきた九州王朝が、白村江の戦いの後に改元しないことはどうも不思議です。
私が考えた解決は、九州年号の改元される年が、こちら側(つまり年表で現代近代側〕に、二年ズレているのではないか。つまり実際は六六三年に白村江の戦いの後で白鳳と改元、六五四年に白雉と改元、六三一年に聖徳と改元、そして六〇七年に国書を機会として光元と改元、(他の年号も二年ずつずれるというのではないでしょうか。私はこう判断しましたがどうでしょう。
第二に「邪馬一国の証明」にある卑弥呼の年齢について
先生は、「年己に長大」の一句をもって卑弥呼の年齢は三十代半はとされていますが、これには一つの見落しがあります。
それは、倭国の二倍年暦の問題です。
先生は男王の在位期間について「今、ここの『七・八十年』も倭国の歴史を倭人から聞いて書いているのだから、普通の年数計算に換算すれば、三十五〜四十年のことになる」(『失われた九州王朝』角川文庫版五十五・六ページ)と書いておられます。そうすると卑弥呼の年齢も倭人から聞いて書いている疑いが強いのです。現在でも外人の年齢というのはわかりにくいものですが、ましてや中国から見れば、未開の国の女王の年齢を中国の使者は、はっきり「三十代」と断定できたでしょうか。また、そのようなあやふやな目見当だけで、中国の朝廷の正式な史書にのせるでしょうか。やはリこの年齢は、倭人から聞いた疑いがますます強いのです。
当然、倭人は卑弥呼の年齢を二倍年暦で「三十代半ば」と答えます,つまリ卑弥呼の年齢は、二倍年齢で「三十代半ば」、一倍年暦では、「十七〜八歳」ということになるのではないでしょうか。
「十七〜八歳」という年齢は、古代においてはすでに、「少」女ではありません。例えば神功皇后の場合、十八歳で皇后になっています。
(この点次の手紙で、詳述します。)
以上生意気ながら述べさせてもらいました。
先生の研究の多少の御参考にでもなれば幸いです。
もう手紙も十枚を越えました。最後に古田史学の述べたいと思います。
今、私が使っている教科書には、「邪馬台国」(やまたい やまと)「委奴国王」(わのなのこくおう)「五二七年 九州の豪族反乱を起こす」などの語が平気で(古田史学を読んだ身にはそう惑じられる)用いられています。これらのこれらの用語の姿を消す日も近いでしょう。現に私は、「邪馬台国じゃなくて邪馬一国だ。あと十数年も経たらそうなるよ」とさかんに友だちに吹聴しています。古田先生の著書は未来の定説で満たされているといっても過言ではあリません。また古田武彦自身も、未来の定説を立てた民間の一大研究者として長くその名が記録されることでしょう。本居宣長や津田左右吉先生のよう、いやそれ以上に。私に言わせれば、先生は飛行機の歴史におけるライト兄弟、船の歴史におけるフルトン、海戦の歴史におけるネルソンのような位置を古代史研究史に占められることになるでしょう。これは美辞でも、大げさな私の妄想でもないことは、先生がいつも書かれているように未来の人(私たちをふくめて)が証明してくれるでしょう。
思わぬ方向に話が飛びましたが、今私はこの手紙が先生の目にとまることを嬉しく思います。景初二年、倭から魏に遺使を送った卑弥呼のように。
いつかどこかて対面することもあるでしょう。その時まで私の名前を記憶していただければ光栄です。
お体に気をつけて
昭和五十五年十二月三十一日 原文改正
昭和五十六年一月十一日〜十三日 一部追加
昭和五十六年一月十三日 清書 昨夜来の大雪を眺めつつ
宮崎宇史(たかし)
編集部注
古田武彦 先生
たいへん内容のある手紙が届きました。校正を済ませて、編集中でしたが、茨城教材社にご無理をお願いし、本人の了解を得て皆さんに公表します。
このような若い人の真剣な疑問や発想を大切にします。次号で古田先生にご返事をいただきます。