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第三集「中学生からの手紙」(北海道の宮崎君)


市民の古代・古田武彦とともに 第4集 1982年 古田武彦を囲む会発行
「市民の古代」編集委員会  ひろば

宮崎宇史君へ

古田武彦

 洛西、竹林にも寒気冴(さ)え、お忙しい毎日と思います。
 一月十三日清書のお便り、うれしく拝見しました。年賀状で予告していただいてより、心待ちにしていたところ、見事な長文のお便りに接し、心躍る思いです。わたしの本の“あとがき”などにも、しばしば書いていますように、学界や大人の読者だけでなく、若い方々と未来の読者に、わたしは深く期待しています。その人々の魂の中で、わたしの本が何ほどかの役に立ったら ーーーこれが最大の願いです。
 そのようなわたしですから、あなたのように若い読者がいらっしゃることが喜びであるのは当然ですが、それと共に、その内容に驚かされました。わたしの本をしっかりと読みこんでおられる上、新しいテーマまで発見しておられたのですから。

 (1) 九州王朝の重要な事件と九州年号の「改号」との間に、“二年のずれ”ある点の発見、すばらしい着眼ですね。もちろん速断はできませんが、新しい研究の出発点であることは確かです。この九州年号の問題について、学者・研究者からの反論がなく、従って論争もなく、ために“問題を深める”ことができにくいわけですが、新しいアイデア、ありがたくお聞きしました。ありがとう。あなた御自身も、もっともっと追求し、新しい局面を開いて下さい。(季刊「邪馬台国」4号に平野雅噴さんの「九州年号について」が載っています。)
 (2) 卑弥呼の年令「年巳(すでに)長大」について。これに「二倍年暦」の考え方をあてはめて「三十代半ば」でなく、半分の「十七〜八歳」というわけですね。これも鋭い着眼ですが、少し問題があるようです。

1. わたしが、この卑弥呼の年令問題に注目したのは、“魏使(帯方郡治からの使)が彼女に直接会っている”という問題からです。この点について、あなたは「現在でも外人の年齢というのはわかりにくいものですが、ましてや中国から見れば未開の国の女王の年齢を中国の使者ははっきり『三十代半ば』と断定できたでしょうか。」と書いておられます。しかし、「わかりにくい」といっても“二倍(あるいは二分の一)にまちがえる”などということがありましょうか。“三十代の人を二十代にまちがえる”ことはあっても、“十代の人を三十代にまちがえる”などというのは、ありにくいでしょう。またわたしたちが「外人の年齢はわかりにくい」という場合、それぱ白人種と日本人との間の場合が多いのではないでしょうか。中国人と日本人といった、同じ黄色人種の場合、右のケースよりずっと“誤差”は減るのではないでしょうか。
 その上、あなたは「そのようなあやふやな目検討だけで、中国の朝廷の正式な史書にのせるでしょうかと言っておられますが、卑弥呼の年令が正確に何才か、ということなど、別段重要な問題ではありません。“大体三十代半ばくらいの女性である”でいいわけで、それが三十代はじめでも、終りでも、国交上問題になりません。表現として、「已長大」のあとは、(年長大から)「年老」くらいになる、“大まかな”言い方なのですから。その点、あなたが、“はっきり「三十代半ば」と断定”と言っておられるのは、いささか、表現上の事実に反します。なぜなら“はっきり断定”なら、(〜歳)と書くべきなのですから。
 
2. この点も、もう一つの“証明”を提供します。“倭人から聞いた”のなら、ハッキリ「〜歳」と書けるはずです。事実、壱与の場合、ハッキリ「年十三」と書いてあります。これこそ“倭人から聞いて書いた”ものです。ですから、即位時の壱与の年令は、「七才(数え年)」だったわけです。まさに“シンボル”のみの存在、というわけですね。ところが、卑弥呼の場合、直接会っての“判断”だったから、ハッキリ「〜歳」と書かず、漠然たる、大体の表現、「年已に長大」となったわけです。

3. もう一つの“裏づけ”は、「夫婿(ふせい)無く」の一句です(倭人伝)。当時の結婚年令は早かったにしても、十七〜十八才の女性には、必ずしもピッタリの(必要な)表現とは言えません。“年已に長大であるにもかかわらず独身だ”という意味とした場合、文意もスッキリします。(もちろん魏使は十七〜八才の女王を、三十代半ばと「誤解」したため、と言えば、一応の話は通りますが、何となく不自然です。)

 以上ですが、何はともあれ、疑問を出して下さったことに深く感謝します。
 わたしの本の論証とその意義について、大きく評価して下さったこと、うれしく存じます。ですが、それ以上にうれしいのは、あなたのお手紙の中に、新しい時代の新しい探究者の息吹きが感じられることです。
 わたしの生あるときは、やがて過ぎ行くでしょう。そのあと、あなたのような方々が新しい歩みをはじめて下さる日々、それを予見すること、それほど心躍る思いはありません。心おきなく探究し、生ある限り、探究しつづけ、そして死んでゆくことができるからです。
 ありがとう。

   一九八一年二月十一日
                         古田武彦
 宮崎宇史様

〔編集部註〕これは第三集に掲載された「中学生からの手紙」(北海道の宮崎君)への、古田武彦氏からの返事です。


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