古田武彦、自己を語る
聞き手 松崎健一郎
このインタビューは一九九〇年十二月十六日(日)東京都文京区のホテル「トップイン」の会議室で午前十時から午後五時まで行われました。正味五時間ほどでビデオにも収録してあります。
ーー 古代史への興味古代史への興味はいつごろからお持ちだったんですか。
それはずいぶん早くからありました。東北大学へ入って、そこで『古事記」の序文についての新しい理解を村岡さんに、話せ、と言われた、そういうときから関心はありました。その前に、旧制の高等学校時代に中島光風先生という方が国文学の先生で『古事記講』なんていう本なんかも出しておられまして、この方に学校で『古事記』を習ったんです。だから、その辺からもちろん関心はあった、と思います。その方はアララギの歌人だったんですが、アララギの影響も受けたと思います。
私、高等学校時代に斎藤茂吉の『柿本人麻呂」を図書館へ通って一生懸命写した記憶があります。そしたら、最近また人麻呂問題にぶつかりまして、私なりの解答が出まして、またそれを書くこともある、と思います。例の梅原猛さんの『水底の歌』とは別の角度で。それで、旧制高等学校のころ、斎藤茂吉のあの本に接した記憶が蘇ってきました。
ーー どなたかとの対談で、『万葉集』は全部一応頭に入っているつもりだ、というような一言い方をされていた、と思うんです。それは万葉仮名のかたちで、だいたい入っているんですか。
いやいや、そんなことはありません。要するに、一応入っている、というのは、読んで好きだ、というくらいでありまして、『万葉集』というのは、これから研究する余地がたいへんあるように思っています。最近、朝日カルチャーにきておられる富永長三さん(「市民の古代」関東所属)からお聞きして、はっ、としたんですが、大伴旅人の「梅花の宴」という、太宰府でなんですが、梅の花の宴に連なる人の歌がちるわけです。ところが、これは太宰府ですから、そこの下級官僚とか、みな歌を詠んでいるんです。これは読めばふつうに読める歌なんですが、ところが別な角度で読むと、どうも九州王朝の没落を歌っているような感じなんです。梅の花がもう落ちていって桜の花が咲くときになった、私は胸が痛む、とか書いてあるんです。自然の季節を詠んでいるように読めば読めるんだが、しかし、それにしては人げさだなあ、という感じがする。
ところが、歴史的な背景を考えて見ると、そう大げさではなく見えるんですね。そういう歌が次々とあるんですよ。「市民の古代」関東に出て、おられる方が、そういう発見をされまして、言われて、はっ、としたんです。こういう言い方をしで、もいいのではないでしょうか。もし九州王朝が実在したら、「梅花の宴」は八世紀半ばですから、八世紀半ばの太宰府の官人は当然、七世紀末まであった九州王朝のことを知っているわけではないですか。それが反映してなければ九州王朝はなかったことになるんですね。もし実在していたら、それが反映していて当たり前ですよね。そういうことで、万葉集をなんか全然違った角度で見直すことができるんではないでしょうか。
例の「あをによし奈良の都は咲く花の匂ふかごとくいま盛りなり」というのも太宰府で作っているんですね。私は子供のときから、あるいは教師として教えたときでも、何となく大和で、奈良で作ったように習った、教えた感じがするんですが、よく見ると、そうではなくて太宰府で作っているんですね。そうすると「あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとくいま盛りなり」というのは、結局こちらは花が散った、そして今は大和で花が盛りである、やがてその花も散るときがくるだろうというわけで、従来はただ奈良の都へのおべんちゃらというか、百パーセント賛美と理解していたんです。ところが、米田良三さんという建築関係の研究をしている方ですが、その人の本(『法隆寺は移築された』)を見たら、私の九州王朝論が引かれてあって、その歌は太宰府で作っているんだから、そうすると太宰府は花が散った、それにたいして今は大和では花盛りである、しかし、それがいつまでつづくか、という歌だ、という指摘がありまして、私は、ぎょっ、としたんですね。『万葉集』はどうせ七世紀から八世紀にかけての歌が多いですから、九州王朝が実在すれば影響があって当たり前ということです。
ーー 古田古代史学の特徴というのは、それまでの古代史学は、社会はこうだ、当時の社会はたとえばクニだったとか豪族が支配していた、とかいうことまでしか論じていないと思うんです。ところが国家・政治というのを明確に出してくれた、このために鮮明に古代史像を思い浮べる、思い描くことができるようになった、それが特徴だ、と思うんです。いつでも、最初から今に至るまで一貫して、国家・政治というものを絶えず正面に置いて論じていらっしゃいますね。すると、その国家や政治に、今までの日本古代史と違って、光を当てる、という、そういう考え方はどこからきたんでしょうか。
それは青年時代の、国家の消滅というか、国家が壊れる、というようなのを目撃した、それまで強固だった、あんなに壊れそうにもなかった、大きな力を生活の隅々にまでふるっていた、その国家が壊れた、というふうなことを目撃した経験も大きいのか。また、古田さんの、ものの発想のしかたというか、資質というか、そういうこともきっと深く関係している、と思うんですが、ご自身のどういうところから国家・政冶という視点を古代史のなかに、おのずと導入してきた、というふうにお考えになりますか。
今言われましたとおり、私が敗戦後した経験、頭のうえにどうしようもなく存在して見えた国家が一夜にして壊滅する、また別のかたちの体制が生まれる、その体制にも疑問を持つ、というような経験をしたわけでして、不幸な経験とも言えますが、また社会や国家を認識する立場から言えば、得がたい経験でもあったと思うんですね。そういうことが、おのずから影響していることはありうる、と私も思っているんです。しかし、それと同時に、私の採った学問の方法が、先入観を持たずに史料の告げるところをそのままに受け取る、というやり方でしたので、中国側の同時代史料を、今のような視点から捉えてゆくと、従来の近畿一元史観では処理しきれない問題が次々と出てきたわけです。
そういう場合、国家というものを絶対化しない見地に、こちら側は立っていますので、絶対化してその枠のなかで考えなければいかん、というようなところから幸いに脱却できていましたので中国側の史料の示すところに従えば、複数の、多数の国家を日本列島のなかに前提にしなければ理解ができない、という見地に導かれていったわけです。そうしてくると、大和朝廷一つしかない、という場合は、それが絶対で、その国家の構造というものは、ある意味では見えなくなってしまうわけです。みんな一つ屋根の下の事件に過ぎませんから。ところが、それが相対化されて、別の場所や別の時間帯に権力中心があった、近畿天皇家もある時間帯、ある空間帯の存在に過ぎない、というかたちで相対化しなければ、中国側の同時代史料を理解できない。また、そういう立場に並った場合に出土物についても、その立場でなら理解できるんだが、従来の近畿中心の立場では理解できない、という問題が次々出てきましてね。
だから、私としては、時に国家に関心があるから国家問題を取り上げてやりましょうか、こういうふうな歴史像を描きたいから、そういうふうに見ましょう、ということは、全くないんです。仮にもし大和朝廷一つしかないという結論ならば、それはしょうがないわけです、そういう姿が客観的に調べてみて、そういうふうになるなら。
しかし、そうならなければ、やはりしようがないわけです。そして、実際ならないわけです、中国の同時代史料から正確に理解した場合は。そうすると、いやでも今まで絶対と思っていたものが相対的な位置を占めざるをえない、となってくるわけです。私は見ようとして、そう見たというよりも、客観的な史料が私の目にそう見えてきた。あえて私の側の問題があるとすれば、これは譲れない、という感じで今までの大和一元的な考えにしがみつかなくてもいい、自由な相対的な感じ方を敗戦の経験によって用意できていた、ということが言えるかもしれないですね。
ーー たとえば製鉄をする一族が、いろんなところに行く、というふうににいろんな学者が説を出しますね。常陸のほうだとオオ族というのが行った、というふうなことを言うんですが、そのとき常陸でも東国でも、その当時の常陸なり東国なりが、どんな状態になっていたか、というのはいっさい論じられていないんですよね。そこが物足りない。ただ豪族がいた、クニがあった、と言うだけなんですね。ところが古田さんだけは国家、それから政治形態まで何とか論じようとなさっている。そこがとても新鮮でした。立体的に見えてきた、というふうな感じがしました。
言われるとおりで、従来の歴史観では王朝とか朝廷とかいうのは大和だけで、あとはみな豪族という図式ですから、最初から日本には中心は一軒しかありません、という前提でやっているわけです。さっきから言っているように結論としてそうなるなら、それはそれで、私が歴史を作るわけではないから、別にかまわないんですけど、しかし、客観的に見ていくと、とてもその枠では収まらない、ということです。ですから、ああいうなになに族というのは客観的に見みえながら、けっして客観的ではないんですよね。
ーーそうしたら、そういう製鉄をやってる一族が入ってくるとき、その社会はやっぱり大変だ、と思うんですよ、入れないとか入れるとか。ところが、そういうことがいっさいなしで、ただ入ってきました、と言うだけですからね。
だから、たとえば藤ノ木古墳なんか、すばらしい出土がありましたけれども、ところが、じっさいあの藤ノ木古墳と同じ時期、つまり六世紀の終わり、九州の宮地嶽古墳という、あの筑紫舞がなされた、という古墳ですが、あそこからは金の龍の冠が出てきているんですね。正確に言えば隣りのところに埋めてあったんですよ、古墳のなかから出てきたと覚しきものが。つまり、同じ時期に片方、藤ノ木古墳は象で、片方は金の龍なんです。すると、象が出てきた近畿のほうが権力中心で、金の龍の冠が出てきたほうが、地方豪族というようなことはありえないわけですよね。ところが、中心は大和だけだ、その他は豪族だ、という処理でいまだにつづけようとしているわけです。やはり、そういうものは長続きはできないんじゃないか、と思いますね。
もっとも、私も最近鋭い批判をしてもらったことがあるんです。「古田武彦と古代史を研究する会」というのが東京にありまして、私の読者が勝手に各地に、そういう会を作ってくださっているんですが、なかでも一番古い会なんです。そこの会長さんで山本真之助という、大きな製鉄会社にずっと勤めて部長だか専務だかしておられて、定年退職で、今会長をしてくださっているんですが、その方が、このあいだ南九州へ朝日トラベルの旅行で行きましたときにバスの中で感想を言述べるとき、「古田さんは、もう十年ぐらい前から九州王朝、九州王朝と言っているが全然進歩がない。おんなじことばかり言っている、もっとなんとか幕府とか朝廷じゃないけれど関係がわかるように言ってほしい」と言うんです。初め何を言っているのか、ちょっとぴんとこなかったんです。ところが、よく聞いてみるとよく話がわかるんですよ。
つまり、九州王朝と近畿天皇家というような言い方をしていますが、すると名前だけ聞いて両者の関係がわからないじゃないか、ということなんですね。だから、片方が朝廷であるなら片方が幕府であるとか、そういう類の言葉をはっきり言ってもらうとわかる、つまり、そういう言い方はされなかったけれど、あえて言えば「九州朝廷」に「近畿幕府」と言えば分かるわけですね。しかし、幕府なんて言葉は、あの時代にふさわしくない人ですが、両方の関係、位取りをしっかり明らかにした表現をしろ、というわけなんですね。素人というか一般社会で実務をやってこられた方であるだけに、適確に、ぴしゃっと言われるわけですね。私のほうは、近畿天皇家だけじゃなくて、九州にも王朝がありましたのです、という意味で、そういうことを言ったわけで、しかし初めはそれでいいかもしれないが、いつまでもそれで満足してちゃ駄目だよ、というのは鋭いですね。かえって、そういう一般の市民の方が鋭い批判をしてくださいますね。
ーー 古代史にお入りになったとき、こんなふうに古代史が人生の後半の、ご自分の最大の事業になる、というふうな予感というか予想というか、そういうことはあったんですか。
いや、なかったですね。
ーー ただ邪馬「壹」と邪馬「臺」と、それをはっきりさせたい、ということだったんですか。
東大の史学雑誌に「邪馬壹国」という論文を書きますときは、どうも古代史のほうで「邪馬臺国、邪馬臺国」と言っているが、『三国志』の原文のほうは「邪馬壹国」である、紹煕本、紹興本というなかでね。それを「邪馬臺国」と簡単に直していいんですか、と中世の分野から古代史の分野に、ご忠告申し上げるというような、そういう範囲のつもりだったんです。ところが、そこにその論文が出たあと、読売新聞の東京の社会部にいた近藤さんという、漫画家の近藤日出造さんの息子さんに当たる人がいたんですが、その方が洛陽工業高校に突然いらっしゃいましてね。夕方こられて、「もうお帰りですか」「はあ」「では一緒にお宅へ行きましょう」と言って、それからそのまま黙っていて家へ帰ったら、あの「邪馬壹国」の論文について聞かせてください、ということを言われて、それから何日かして記事にぱあっと出たんです。松本清張さんなんかのコメントがついていたりしましてね。
そのあと朝日新聞の米田保(たもつ)さんという大阪の出版局の方が私のところへこられまして、印象に残っているのは、「読売さんはいらっしゃいましたか」と言うんです。読売新聞から本にする話を持ってきたか、という意味なんですね。「読売さんが先にこられたなら私はご遠慮します」「いやいや別にきておりません」「それでは、ぜひ本にしてください」。私はそのときお断りしたんです。というのは、さっきのような趣旨だから、邪馬壹国なるものがどこにあるか、などは全然私にはわかりません、と。ところが、その方は諦められずに何回も私のところにきて、その後どうでしょうか、また電話で、何か発展はありませんか、一週間、二週間とあけずこられたり電話してこられたりされるんです。それで、こっちも気になってきまして、やっているうちに、「部分里程を足せば全里程」という問題にぶつかってきたんです。あとでお聞きしてみますと、米田さんという方には非常な人生があったんですね。
米田さんは最初、朝日新聞の社会部に入られた、ところが敗戦後のころ結核になられたんですね。それで病院に入って治して出る、また再発する、また出る、また再発する、というのを三回か四回くり返されたんです。そうしているうちに新聞社のほうから、「出版局のほうに移らないか」と言われた。私には全然分からないことですが、新聞社では社会部というのが陽の当たる場所で、出版局というと窓際というか、中心的な陽の当たらない場所らしいんですね。それで、「いやだ」と断った。何回か断ったんだけれども、三、四回再入院しているうちもうこれはだめだ。新しい若いひとが大学出て社会部に入ってきているし、ああいう人たちには、もうとても体力の面で太刀打ちできない、と思った。
一方、出版局の話を聞くと、年に全体の一割か多くて二割は自分の企画で本が出せる。ほと人どは新聞の連載などを本にするために新聞社というのは出版局を作っているわけです。これは全然面白くも何ともないんだそうです。右から左へ移すようなものですから。ところが、自分で企画して、自分で本を出すことが一割か二割可能である、ということを聞かされて、自分はこれだけがたがきた体だから、それに賭けよう、自分の一生のなかで一冊でも二冊でも、これは自分が出した本だ、というものができたら自分の人生は満足だ、と考えよう、こう思って出版局に移るのを承知した、と言われたらしいんですよ。
それで、晩年辞められて私に言われたのは、「私は幸せな一生でした。私の一生のなかで二つは、私が出した、という本があります。一冊は高山の、飛騨のほうの写真館の写真館主が飛騨あたりの写真をいっぱい撮っておられて、その一般には知られていなかったのを見出して朝日に本ににして、そういういう関係の写真というと、あの人、と写真界では名の知れた人になった。あれは自分が出した本だ、と思っている。もう一つはこの古田さんの本だ。これは私の企画があって、もちろん古田さんに書いていただいたんだが、出した本だ、こういう二つを私が持っている、ということは幸せです」と言っておられたんです。もう亡くなられましたけれども。
たしかに、そういえばわかるのは、私に対する勧め方が尋常でなかったんですね。私はあれを思い出しました、『生きる』という映画が黒沢明にありましたよね。あそこで癌で死期を知った人物が今までの態度を一変して児童公園を造るようになりますよね。あれを思わせるような、私に丁重でありながら何回私が断ってもたじろがない、といういい意味の執拗さ、気迫に押されて、こっちは書いてしまった。やはりああいう方にお会いした、ということはよかった。『「邪馬台国」はなかった」『失われた九州王朝』『盗まれた神話』というのは私の本でありながら、まさに「米田さんの本」だ、という感じを持つんですね。
ーー梅沢伊勢三さん、この方に私も大学のとき、ちょっと教わったんですけれども、この前『真実の東北王朝』を読んでいたら、亡くなられたとわかって、びっくりしました。あの方は『古事記』『日本書紀』ですよね。古田さんとは先輩、後輩に当たる・・・。
大変な先輩ですね。
それまで親鸞研究、学生のときは『五経正義』というようなことで『古事記』にも触れられていたんですが、
ーー 十代は親鸞研究をなさっていた古田さんが、自分と同じ古代史研究のなかに本格的にお入りになった、と知ったとき、お驚きになったんじゃないか、というふうに思ったんですが。
言われるとおりだと思うんです。私が聞いたお話では、梅沢さんは奥さんにいつも言っておられた、「古田君は学問にきっと帰ってくるよ」ということを、私が信州に行っていた時期にも絶えず言っておられたそうです。それで、私が親鸞を研究しだしたというときは、「ああ、やっぱり」ということだったらしいです。だから、古代史に入ったという場合は、今言われたような、お気持もあったと思うんですが、しかし、梅沢さんという方は学問ということを大事にされた方で、古代であろうと親鸞であろうと、学問をやるのが大事なんだ、ということでありましたから、そういう意味では連続的な受けとめ方でしょうが、しかし何と言っても、自分と同じ分野ですから、これは喜んでくださったし、私もまた新しい発見があるごとに梅沢さんに、だいたい仙台で学会があったときは、たいてい梅沢さんのお宅にお泊めいただいておりましたので、そこで新しい発見を話すのが楽しみでした。
梅沢さんは私の先輩で、私が学生のとき助手だったんです。ただし、その助手になるまえに小学校の先生を何年かやって、そのあと東北大学に再入学された方ですので、年は私よりずっと上だったわけです。そんなわけで、うんと年上の兄貴分、という感じで、可愛がっていただきました。村岡さんが亡くなられてからは、まさにそういう意味で親代りというような感じで私をいつも見ててくださった。ああいう大人たいじんの方ですから、こっちが言うと、「ほおう、ああそうかね」というような、こちらの言うことを吸い尽すみたいな感じで聞いてくださったですね。なくなられて本当にがっかりいたしました。
ーーエバンズさんのことで印象深かったのは、エバンズさんが亡くなったのを電話で聞いたとき、頭の中が壊れていくのかわかるような状態に陥った、それで三、四日意識不明だった、また徐々に意識が戻った。それがどうして戻ったのかわからない。というふうなことをお書きになっていたことです。それはどんな体験だったのか、もう少し聞かせていただけませんか。
直接の問題としては、西日本テレビの兼川晋さんという方がいらっしゃいまして、プロデューサーをしておられた方ですが、この方が私の本をよく読んでくださってる方で、この方が私のところへ、東京にきて間もなくのころですが、いらっしゃって西日本テレビで何十周年記念かに、来年が当たるので、そのための番組を作るのだ、それでみなアイデアを出しているのだが、自分は古田さんの『倭人も太平洋を渡った』という、あの問題を扱いたい。しかし、これは金も非常にかかることである。というのは、いわゆるご対面番組でワンントンからエベンズ夫妻を召いて、私を日本から連れて行って、現地バルディビアで対面させるという番組で、お金も大変かかるのでおそちく駄目になると思いますが、一応そういうかたちで出さしてもらってよろしいですか。結構ですよ。それから一、二か月して電話がきて、あの番組は通りました、これからエバンズさんのほうへ連絡してみます、と言うんです。私は非常に嬉しかったんです。
ところが、それからしばらくして、また電話がかかってきまして、エバンズさん、今年亡くなっていますよ、今年の一月に亡くなられました、ということを聞きまして、私はがっくりしたんですね。それまで、いよいよエバンズさんに会える、と思って、本当に天にも昇る心地だったんです。というのは、エバンズさんとの間柄というのは、私が『「邪馬台国」はなかった』を書くときに、さっき話に出た米田保さんが、こんな記事が出ていますよ、と言って見せてくれた「LIFE」がもとだったと思うんですが、それに、南米のバルディビアで日本の壷が出てきた、日本のさまよえる漁船が運んだものと思われる、というそんな長くない記事が出ていたんです。それを見つけて教えてくださったんです。私がそのことを聞こうとして、その記事を見ると、スミソニアン研究所のエバンズ夫妻と出てましたので、早速、手紙を出したわけです。
「私のほうは『倭人伝』の研究から同じ結論が出てきた、あなたのほうの資料を見たい」という手紙を出したんです。そうしたら、その手紙を出して、たしか五日目くらいに返事が着いたんです。だから、すごいスピードで、二日半ずつかかって、ものすごいタイミングで返事がきたんです。それに喜んで書いておられまして、あと資料を送った、と書いてある。それから二十日くらい経ってからだ、と思うんですが、でかーい論文、報告書、スミソニアン研究所から出したのが、どさっときました。そのスピード、タイミングや本の厚さにびっくりしまして、開けてみたら、なかに九州から行ったような図がちゃんと出ているわけですね。それもびっくりしました。それから手紙を交換し始めたんです。
そのエバンズさんの手紙が、じつによくわかるんです。私は英語はそんなに得意ではないんですが、すうっと読んだら、すうっとわかるんです。変なもので日本の学者と手紙を交換しても、よくわからない場合があるんですね。書いてある日本語はわかるんですが、この人はこう書いているが、どういうつもりでこの文章を書いているんだろうとか、どういう思惑があるんだろうか、何か屈折があって変だぞ、とかいうわからない手紙というほうが多いんですね。ところが、エバンズさんのは、読んだらすうっと全部わかるんですね。これは語学の問題というよりも、脳の考え方や感じ方の問題だろう、と思うんです。私が考えるのと同じようなタイミング、ぺースで、考えて反応してこられるんで、読んですうっとわかるんですよ。そういう面では、会ったことのない、遠くにいる人だけれど、まさに私の知己である、という感じを持っておったんです。
それで、会いたい、と思ったんです。そのときに、自分などは英語が、とくにしゃべるほうは駄目だから、もう少し英会話をやってから、という感じで、すぐ行こうとしなかったんですね。そうしていたところへ、さっきの話がきて、この場合はもちろん通訳がつきますから、ああ、これでエバンズさんと会える、というので天にも昇る気持ちだった。そしたら、今年亡くなっていました、というので、がっくりきまして、何かそのとき頭がぼうっとしまして、ぼうっとしただけでなくて頭が壊れていく、と言うんでしょうか、だんだ人頭が何と一言うか、能力が加速度的に減退していく、消えていくみたいな、そういう感じに襲われた人ですよ。
私はこのとき、よく「ロミオとジュリエット」とかああいうもので、恋人が死んで、片方か頭が狂いますよね、ジュリエットのほうが。ああいうのを見て、ウソ、作り話のような感じもあったんですけれど、ああ、あれは本当な人だ、今目分は頭が崩れて、ゼンマイが機能しなくなって、ああ、これで駄目になっていくんだなあ、という感じかずうっと四、五日つづいたんですね。ところが、それから幸いに、だんだん持ち直してなんとか頭が働くようになってきたんです。そういう後にも先にもない経験でした。会えるという自びが、あまりにもばあーんと落胆に変わった、落差の間題なんでしょうね。恋人に夫恋したりして頭が狂うというのも落差がものすごくあったためで、順が崩れかけて、ゼンマイがぱたっと切れなかったのはほんとうに何かの力、お蔭というか、自分の力ではない、という感じを持ちました。
今でも辛いですね、私がつまらない、英語がただという、くだらないことで行かなかったことが。そんなことを言わずに、行って手でも足でも何でも使って表現すればいいんですから、相手の書いた英語を見たら、さあっとわかるんだから、向うもおそらくわかった、と思うんですね。こちらはへたな英語を書いているんですが、だから、行って会えばよかった。今でもそう思います。
幸いに奥さんのエバンズ夫人がいらっしゃいまして、そのときエバンズ夫人とバルディビアでお会いできたんですね。また、あとで二、三年おいてですが、ワシントンヘ行って、スミソニアン博物館のエバンズさん夫妻の収蔵物を全部見せてもらった。これも不思議なことですが、南米バルディビアから持って帰った収蔵物が大量にあるんですが、それを見にきた日本人、日本の学者が一人もいない、と言うのです。ちょっと信じられないですね。
エバンズ夫人は子供がいないわけです。今一人だけでいて、お家へも案内していただいたんですが、かなりの広さのお家に一人でおられる。そして、ある部屋、旦那さんのエバンズさんの書斎は、生きていたときのそのままになっているんですよ。そこに白髪の夫人が一人だけ住んでおられる。しかも、私たちは子供をつくりませんでした、子供ができると二人で研究に行けなくなりますから、それで子供はつくりませんでした、だから今は私一人です、と言う。何か鬼気迫るような気がいたしました。
ーー古代史の始めのころから、死ぬ覚悟というか、いつ死んでもいいんだ、というふうな言葉を何回かお書きになっていると思うんです、あるいはそのような意味のことを。そういう気持ち、覚悟というのはいつごろから出てきたんでしょうか。
青年時代に、勉強してても、早くて一年、遅くとも二、三年しかないんだ、戦地へ出て征ったたいてい死ぬんだ、という前提でものを考えていましたから。また事実、出て征って死んだ友だち先輩がおるわけですけれど、そういうなかで自分が、私の同世代によくある感覚なんですが、自分が生き残ったのは本当にまぐれだ、じっさい隣りがぱっと空襲にあったりして死んで、こっちだけ偶然生き残った、何もこっちがうまく避けたからでも何でもなくて、偶然生き残るという経験を、われわれ世代は絶えずやっていますので、あいつが死んでこっちが生き残ったのは全く偶然だ、ということがよくわかっているわけです。そういう面でたまたま生き残っている、という感じがありまして、これが一つですね。
それから、さっき言いましたように、荒野のなかで、ひとり人間は生きているんだから、いつ倒れても当たり前なんだ、そうしたら荒野の一部にまた帰るだけなんだ、という感覚が絶えずあります。いつ死んだって、別に生まれた荒野に帰るだけのことですから、どうということはないんだ、ということがまた一つです。
それと、もう一つあるのは、私の書くものを、よく思ってくださる人もいるが、自分の思っている人生観や国家観と衝突してけしからん、という人も当然出てくるわけですから、するとそういう人がこいつ、こいつ、と思ってもしようがないわけです。それを恐れていたら、書くことが書けないのだ、ということで、いつこっちが、向うから命を奪いにきたって、そんなことで書いたことを消すわけにはいかんのだ。どうせ死ぬ人間なんだから嚇しても駄目だ、とそういう感じで書いているわけです。そういう意味では、実感であるわけです。
ーー 驚いたのは『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』という初期三部作が当時問題になっていた、邪馬台国でも『古事記』『日本書紀』でも、そのすべてに解答を与えてしまっで、いる、というような感じを持ったんです。しかも、それが最初からそういうふうに出てきた、これは奇蹟に近いようなことだ、というふうな感じを持ったんです、一回史料を読むと問題点がみんなわかって、この問題点に対して集中的に考え抜いてしまう、という、そういうことなんですか。
さっき言いました、「論理の導くところに従って行こうではないか、たとえ、それがいかなるところに至ろうとも」ということで当たりますので、中国側の文献から見たのが『「邪馬台国」はなかった』であり、『失われた九州王朝』なんですね。それを今度は国内の文献から見た場合に、同じ熊度で見たらどうなるのか、という私としたら一貫して論理の進展で追っているわけです。それが今言っていただいたようなかたちになったんだろう、と思いますが。
ふつうの人だったら、もしあのなかに千が詰まっているとすれば、最初だと二つか三つ新しい考え方として提出する、というところなのではないか、と思うんですが、それが初めから千が全部出ちゃった、というような感じなのでびっくりしましたね。『古事記』の読み方、あれも驚いたんです。天皇説話ですね、書かれている天皇の次代、あるいは次々代の天皇の時点で書かれている。だから次代、次々代の天皇の立場を正当化するような書き方をしているんだ、というふうな読まれ方をなされていて、これなんかも斬新と言えば斬新、当たり前と言えば当たり前なんですけれど、誰も気がつかなかった、誰も今まで言わなかった、と思うんです。そういうのはどこから出てくるんだろうな、といつも不思議でしかたがないんです。
言われたように変わっていると言えば変わっているんですが、大変、常識論でもあるわけですから、そういう面で今までの説明、従来の学者なり先輩が行なった説明にこだわらず、それと一致したっていいんですが、しかしそれに反してもいい、理性で判断できるものに従う、ということだけだろうと思いますがね。
ーー 神武がもう九州ではやっていられない、というので大和のほうに行った。やっていられない、九州ではもう目がない、もう終りだ、というふうに感じた、というのなんかも、私たちが読んではどうしても出てこないですよね。そういうのはどこから出てくるんだろうな、直観と言うしかないんですかね。
誰だって自分の故郷は捨てたくないわけですから、とくに権力に関わっていれば、なおさらそうなんですが、そこを出て行くわけですから、やっぱりそこで十分に採算が採れていなかった、うだつが上がっていれば出て行く必要はないわけですよね。そういうところから、そういう判断をしたわけなんです。これはまた考占学的にもいろいろ面白い問題がありそうで、このあいだ南州へ行きまして、だんだんまた醗酵してきているんです。
『市民の古代』第13集』 へ
すべての日本国民に捧ぐ 解説として
『まぼろしの祝詞誕生』(新泉社 東京古田会編)解説として